当ブログにおける富士宮市郷土史博物館事業(以下、「博物館構想」)に言及した記事は9つに及び、累計4,500アクセスを頂いている。これは判断材料の提供の意図を持ってのことであるが、いくらかは意見確立に影響を与えたものと考えている。勿論、それは賛成であったり反対であったりするのであろう。またこの事業を取り巻く動向として、反対の署名活動が行われるといったことも報道から確認される。
当ブログは歴史ブロクであるという性質上、本来は有無を言わず構想に対して賛成の立場を取りたいところではある。しかしそれを素直に許してくれない背景があり、それを説いたのが9つの記事とも言える。それらの多くは図説的なものであったが、今回は文章のみで構成される記事で総括してみようという試みである。
富士宮市は妙な地域である…これは一定の年月にわたり居住して分かった私なりの帰結である。それを事細かに言語化するのは難しい。しかしそれらがほんの少しばかり垣間見える資料がある。
それは「富士山ネットワーク会議」(以下富士山N会議)によるアンケート結果(「環富士山地域の広域連携等に関する住民アンケート調査」)である。静岡県側の環富士山地域の住民に無作為でアンケートが送られ、その結果をまとめたものになる。これによって市民性がそのまま反映されるだけでなく、自治体間の比較もできるわけである。過去にない規模で行われた、極めて貴重な調査である(以下度々引用)。
目を通して頂ければ直ぐ判明することであるが、富士宮市民の回答のみが明らかに浮いている。それも間違った方向で。この事実1つとってみても「妙な地域である」という証明には十分になっているように思われるのであるが、少し背景を考えてみたくもなるものである。私はこの悲惨な現実から目を背けないことが重要であると考えた。
まず富士宮市民は、何らかの指標があるときに“過小評価する”という傾向が極めて強く認められる。例えば実際は人口が減少していない時節であっても「富士宮市は人口が減少しているからねぇ…」というようなことを述べる人は多かった。私はその時節ではむしろ微増していたことを知り得ていたため、いつも不思議に思っていた。同じ地で同じ時間軸に生きているようにはとても思われなかった。私からすればその人の発言の信憑性などゼロに等しいのであるが、誤認するにせよ、多くの人は必ずマイナスの方面で見るという傾向は共通していた。
また「財政破綻寸前だからねぇ…」や「財政状況が悪いからねぇ…」という人も多かったし、アンケートの問15からもそのような認識が明確に読み取れる。実際は全国的に見ても特段悪い水準ではないため全くの的外れと言えるわけであるが(むしろ良好とさえ言える)、やはりマイナスで考えるという傾向は例に漏れずである。
「国立国会図書館調査及び立法考査局」に所属する研究員による報告に「地方自治体の経済活性化策に対する地方交付税制度の影響」がある。これは1975年から2005年における全国すべての自治体の地方交付税の交付状況を調べ、報告した資料である。この気が遠くなりそうな作業による成果物により、富士宮市は過去地方交付税不交付団体(=財政優良団体、財政力指数により判定)の時期を有していたことが分かる。と同時に、全国の殆どの自治体はそもそも地方交付税不交付団体になった経験すらない(財政力指数が1.0超えたことがない)ということも判明する。であるから、上のような財政論者は分かりやすく言えば「トンデモ論」の人々なのだ。私はトンデモ論に付き合うつもりは全く無い。
私はこのような自虐史観にも似た性格が普遍的となっている現状を不思議に思い、考えを巡らせることも多かった。しかし結論は出ていない。またここで普通は両立し得ない現象が発生していることも注目される。マイナス思考であるのは良いとして、それを”ひけらかす”という傾向があることである。換言すれば、マイナスと捉えている事柄を殊更持ち出そうとするという不可解極まりない現象が認められるのである。つまり上で言うところの「財政破綻寸前だかららねぇ…」といった言説を持ち出すのが好きなのである。私にはそれの何が楽しいのか理解できないし、普段どのような矜持を持っているのか疑わざるを得ない。それならば”無関心”である方がよっぽど良いだろう。このような普遍的精神性が博物館事業と極めて相性が悪いという言い方は、許される範囲であろう。
実を言うと、富士宮市民と会話が成立しないことが多々ある。今回はこの筆が博物館構想に端を発しているため、歴史の事柄で考えてみよう。例えば富士宮市民は、富士宮市の領主が「富士」さんであったことを知らない。また大宮城(富士城)が存在していたことも殆ど知らない。これらは限りなく歴史の入口に近いトピックであるから、平たく言えばもはや何も知らないと言っても過言ではない。したがって、少しでもこれらのワードを出すとまず話が通らない。ここまでのレベルの会話における脆弱性は、少し不思議である。
勿論この背景には富士宮市教育委員会の信じがたい失策が大いに関係していることは間違いない。「大宮城」という言葉をあえて避け「元富士大宮司館跡」という呼称を中心として用いたこと(日本語としてもおかしい)、氏族「富士」という概念に触れなかったことなどは、後世に遺恨を残す主要因と言えるだろう。
そして現在、人材が一新したとされる文化課の人員が過去の尻拭いをさせられているという言い方が適切だろう。歴史的には、行政側が率先してアイデンティティ形成の芽を潰してきたのは間違いない。ある意味見事である。ここで少し悪い言い方をしてみよう。富士宮市の職員は、別に富士宮市出身者で構成されているわけではないのだ。こういう事例を見ると、自虐史観の形成とまでは言わないまでも、図らずとも行政はそれを後押ししていたように思える。
富士山N会議の問11は、同会議に”余り”期待しない/期待しないとする人の考えを問うものであった。そして富士宮市のみが「既存の市町の枠を超えて市町が連携する必要はない」とする%が突出していた。富士宮市は会議に「期待する」という人が各自治体の中で最も多いという事実を踏まえると(問9)、少数派は反グローバリズム志向が強いことが分かる。それも極めて強力に。私はこの傾向は年々強まっているように感じる。
このベクトルは富士宮市内に対しても例外ではない。富士宮市は往古の富士山登山口を複数有する地である。それをそれぞれAとBとしたとき、BがAを殊更否定するといった動向も確認される。人間はここまで排他的になれるのか、と驚く程である。こういう人々が居るために、地域は衰退するのだと痛感させられる。
また先程も挙げた問15の結果は富士宮市民の妄想力が如実に現れていると言え、「財政基盤に不安がある」の%が突出している。つまり富士宮市民は市の本当の課題が全く見えていないわけである。問18の「合併の効果として何を期待するか」の質問に対し「財政的な基盤の強化が期待できる」の%が多い格好となっているが、人口比で市債が少ない富士宮市が他と合併して財政基盤が強化されるという思考は、通常であれば生まれないだろう。他の市町は各項目でそれほど差異が見られないが、富士宮市のみがズレている。
これらの背景も富士宮市の特殊性が絡んでいる。世の中には様々な資料が存在している。自治体の刊行物や論文、ジャーナル類など様々だ。それら資料を数点読んでもそれほど物事は明るみにならないが、これを数十、更に数百と広げていくと確かに見えてくるものがある。その結果言えるのは、信じられないくらいの”おめでたさ”である。例えばAさんが欲しいものがあるとする。そこで「声の増幅」のためにBさんに声を掛け一緒に誘致を行うようけしかける。しかしその欲しいものは、実際は二分できないものである。目論見通り、Aはそれを手にする。この繰り返しということに全く気づいていない。富士宮市がAとBどちらなのかは、言うまでもない。これを数十年ただやっているということが、様々な資料から見えてくる。良く言えば「お人好し」だが、悪く言えばどうなるだろうか。
皆さんは静岡県の二つ名をご存知であろうか。大分県の二つ名が「おんせん県」であるように、静岡県にも存在する。それは「ふじのくに」である。つまり富士山を指しているのであるが、富士山の静岡県側は大部分が富士宮市に属する形である。換言すれば、静岡県を「ふじのくに」たらしめているのは富士宮市の存在による所も明らかに大きいのだ。それは世界文化遺産富士山の構成資産の数としても如実に現れている。つまり「地理」としても「文化」としても、「ふじのくに」を支えているのだ。しかし各媒体等を見るに、現状それが反映されているようには思われない。つまり言っていることと実態が一致していないのである。
富士宮市からすれば、そんなことであるのならばいっそのこと「ふじのくに」などと言わないでくれという思いも生じ得よう。であれば、富士宮市はベクトルを外に向けなければならない。むしろ関東の方が適切に向き合ってくれるし、メディア媒体が来ても「あ、静岡県の媒体さんもいらっしゃったのですね」くらいで良いのである。例えば江戸文化との関係性をテーマに関東に向けて展開するのも良いだろう。富士宮市を舞台とした無数の浮世絵は、江戸を土壌として花開いていたものなのだから。ちなみにこの辺り(浮世絵・武者絵の類)も、富士宮市が取り上げてきた痕跡はあまり認められない。本当に不思議である。
他に一例を出せば「富士海苔」は枚挙に暇がないくらい多くの史料に確認されるが、これも殆ど展開が見られなかった。しかし先に挙げたように近年は劇的な改善が認められるので、新『市史』の自然環境編には項目が設けられているという変化も認められる。
私は普通に史料に多く見いだせる事柄を優先的に取り上げるべきだと考えるが(「博物館法」に「歴史、芸術、民俗、産業、自然科学等に関する資料を収集し…」とあるように芸術や民俗学も重要とも考える)、従来の様子を見る限り、どういう基準で考えているのか最早見当もつかない。もう本当に皆目見当がつかない。
ちなみに富士山N会議の資料には連携活動の事例としてUTMF/Mt.fuji100(ウルトラトレイル・マウントフジ)が紹介されている(P18)。このようなものですらも、富士山南麓の人々が潰そうとしている(「ウルトラトレイル・マウントフジ2023 全体説明会議事録」を参照)。これが偏西風のように常に富士宮市に流れている空気感であって、これが決定的な悪さをしている。何かを潰そうとするときにだけ躍起となって動くのだ。であるから富士山N会議の問11の結果は、この精神が要因と取ることもできなくもない。 もっと言えば昨今の動向もこれで説明がつくのかもしれない。
話を博物館構想に戻そう。そしてもう、私が考えている事を一文で片付けてしまおうかと思う。
アイデンティティ形成の芽を尽く潰しておきながら今「博物館を作りたい」というのはさすがに通らない
これまでの文化課の動向を見ると(近年を除く)、厳しい言い方をすればもはや”グロテスク”という評価へと繋がる。この状況を決定づけた成分が博物館構想にまで影響する余地があってはならないと、私は思っている。それは富士宮市にとっての不幸であると考えている。影響の余地がないという確証が持てるまで、素直に賛成するわけにはいかないという立場をここで明確にしておきたい。
私には隣の山梨県南巨摩郡南部町が眩しく映る。南部町は素晴らしい。町が「南部氏ゆかりの地」というページを用意し、「道の駅なんぶ」には「南部氏展示室」も設けられている。ページが設けられているからこそ人々が感知し情報を得られるわけであり、道の駅に関係施設が併設されているのは地域アイデンティティの表れだろう。これが「町」単位で出来るのだから、富士宮市の努力不足は甚だしい。つまり、南部町の方がよっぽど先進的なのである。
南部町がそうであるように、富士宮市は富士氏のページを設ける必要があったのである。こんなことは当たり前のことなのであるが、現時点でも存在していない。思えば当ブログの初投稿は2011年1月のことであったが、フラッグシップな内容とするために必然的に富士氏に言及したものとなった。そして当時より、頑なに富士氏を取り上げない富士宮市が不可解で仕方がなかった。本当に心底理解できなかった。まさか10年後も不変であるとは夢にも思わなかったが…。とは言っても現時点ではこの異常事態は解消されているし、この変化をもたらした存在・空気感こそが富士宮市にとっての宝であろう。
そもそも博物館構想を策定する段階の前の時点で、その土壌作りをしておこうという発想には至らないのだろうか?という疑問がある。普通であれば円滑に進められるよう、歴史コンテンツの充実化や、象徴的な存在くらいは世に知らしめておこうと考えるものではないのだろうか。子どもですら、ゲーム機を買ってもらいたい時、何らかの行動は取るものだと思う。遅く購入してもゲームの進行が相対的に遅くなるため、それすらも考慮して子どもは動いている。ある意味では強かなのだ。簡単にいえば「賛成の人が多くなるよう事前に手を打っておくという発想は少しばかりも生まれないのか?」ということである。
もっと言えば、その期間は十分過ぎるほどあった。しかしそれは成されなかった。富士宮市の歴史を巡る環境は、深刻な危機的状況に陥っている。私は強く悲観している。これは決して誇張した表現では無い。例えば曽我兄弟の敵討ちであるが、これは富士宮市の地「富士野」で起こったことである。絵図のタイトルにも多く採用されている地名である(射水市指定文化財の1683年「富士野巻狩之図」、寛政後期(1789~1801)の鳥高斎栄昌『和国景夕頼朝公富士野巻狩之図』、文化13年(1816)『松屋棟梁集』所収「富士野狩の図」「富士野假屋の図」、鳥居清峰の各「富士野御狩之図」など枚挙に暇がない)。富士宮市の地名において、歴史の中で最も現れるものであると断言できる。
しかしこの地名の認識も、日本人の中から既に消え失せてしまったように思う。富士氏についても、少なくとも当地においては十分に認識されていたものが、徐々に失われていったものと考える。”歴史を失ったという歴史”が、ここ数十年の富士宮市の哀れな姿だろう。各自治体のシティープロモーションを見ると、当該地を描いたとされる浮世絵等を以て高らかに喧伝する様子が認められる。富士宮市は浮世絵の題材となった絶対数で言えば日本屈指であり、そこから考えればもはや''かわいい程の事例''のようにも思えるが、そんなことは言ってはいられない。何故なら、我々はその種の表現自体を怠っているからである。やらなければ、一般からすれば無いことと同じなのだ。そもそもこの種のものを収集する試みがあったのかさえ疑わしい。
この背景には富士宮市の問題も大いにあるが、歴史家の問題もある。歴史家が地名を重要視せず、論文等で「富士野」を「富士の裾野で」等と表現を簡素化して換言してしまっている。いやもはや簡素化ですらないが、人文学系の劣化を感じるものである。これほど歴史の中で長きにわたって出現する地名も珍しいように思うが、それが消滅しようとしているのだから、異常事態に他ならない。
例えば「往来物」の一種に『富士野往来』があるが、史料名を聞いてももはや富士の巻狩りに関連する可能性を感知することすら難しくなってきている。本当に悲しいことであるし、本来富士宮市こそがこの事態を打開するためにずっと前から動いておく必要性があったのではないだろうか。当地の地名を冠した絵画作品・出版物が歴史の中で世に出され続け膾炙されていたという事実は、決して軽んじられるものではない。むしろ1・2位を争うほど、重要な事柄である。それすら表現できずに、何ができるというのだろうか。それすら表現してこなかった地域が作る博物館などに、私は微塵も期待しない。
しかし完全に不可逆的なものではないし、今からでも復元することは可能ではないだろうか。またここ数年(6・7年くらい)は歴史を巡る展開において目覚ましい進展が認められ、取り組みも多様性を併せ持つものであり、上のようなキーワードが市民の中で飛び交う未来も見えてきたように思う。少し希望は見えてきた。ただそれが余りにも遅すぎた。何の誇張でもなく、20年くらいは遅れてしまったと言えると思う。
説明会の質問では「お金」の観点による質問が多かった。従って、ここでお金に関する象徴的な事柄を話しておこうと思う。富士宮市は市外の施設に約5億円提供したという歴史がある。それは市外にある新富士駅のことであるが、5億円プレゼントしておきながら、一方で自身のための15億円~20億円の施設は絶対的に許されないという考えそのものが無理のある話だと思う。言ってしまえば、この額はその程度の話なのだ。
なぜ5億円プレゼントしたのかというと、新富士駅と身延線を接続するという約束があり、接続から起因される経済的利益の可能性を考慮してのことであった。これは見事に裏切られた格好であるが、このとき市民団体がその資金の返還を求めるくらいの動きをしていたら、今回の動きも少しばかりは説得力が出てくるかもしれない。何故なら彼らは資金面を問題視しているからだ。もっとも、今回署名活動している人々がその時に居住していたかどうかなど知られないわけではあるが。
接続が成されなかったことを悲観する富士市民は多い。その勘は当たっており「幹線駅の新設が市区町村の人口に与えた影響(竹林幹人,2024)」という論文によると、やはり新富士駅は効果が薄かったことが示唆されている。そこから更に距離を隔てている富士宮市など、期待された恩恵はなかったことは言うまでもない。逆に言えば、資金が多少かかろうとも、その時節で完成度が高いものを拵えることの重要性を示す事例とも言える。私はその時の10億円程度の差異など、将来に禍根を残すことに比べれば、取るに足らないことだと思っている。それはどのような施設においても同様だ。
昨年の話であるが、とある富士宮市の私立中学校・高校の文化祭にお邪魔した。巷でも教育を軸として語られることが多い学校ではあるが、実際目にすると凄まじい。一般来場者に対して中学生が自分の意思で実験を披露したりしていて、教育レベルの高さに驚かされる。勿論それに足る環境が用意されているからこそ成せると言えるのであり、それらを支持する大人側の姿勢があってのことだろう。
ではここでいう"大人側の姿勢"とは何だろうか。これは”文明的なものを低く見積もらない価値判断姿勢"ではないかと思う。皆さんは共産国家ではなぜ「サービス業」が国家統計の除外項目扱いまたは非公表である/あったのかをご存知だろうか?それは共産圏においては製造・生産による成果物としての物理的な「モノ」に価値はあるが、資本家や芸術家などは非生産的なものとして認識されてきたからである。実際に共産圏では、それらに携わる人々は追放されてきた歴史がある。実際はサービス業も富を生むし、もう歴史がそれを証明しているのであるが、それを認めない層も居る。そのような層が今回の件でどう動くのかというのは、想像に難くない。
また価値判断の相違が複雑化したものに「文化的ジェノサイド」がある。これは浄化思想からなるもので、ある特定のコミュニティに対するアイデンティティの破壊を目的とする行為であり、言語・宗教・偶像崇拝といった概念の規制や文化財等の破壊行為などが該当する。一般的には包括されるものの内側では文化圏の相違を有する地域間や、実行支配した組織が旧来の習俗を否定する場合などで起こることがある。非侵襲的ではあるが文化的な暴力性を持つ行為である。私は、さすがにここまでのレベルではないが、何か近しい思想がこの地で横行していた可能性を捨てきれていない。でなければ説明できないような現象(本投稿内で記している事象)が発生している。それが地域アイデンティティの欠如を生んだとも考えている。
富士山N会議の問16・17の結果は富士宮市民の地域アイデンティティの欠如を示唆するものであるが、このようなものの背景にはアカデミズム側の問題も関与すると私は考えている。文化庁選定「歴史の道百選」の「みのぶ道(93番)」に富士宮市が含まれていないのは由々しき事態であるが、こういうものもアカデミズム側の責任だろう。論稿で富士野を「富士の裾野で」等と換言するのも、アカデミズムの態度としての問題である。こういう積み重ねが、歴史の中で地域アイデンティティを失う要因となっているのだ。そしてその最たるものは、本稿で暗に示した通りである。このような姿勢は、博物館建設から遠ざける要因になっただろう。何故ここまで地域アイデンティティが欠如しているのかという点について、富士宮市は一度真剣に考える必要性があると思う。
であるから、私は専門家側の問題が存在しなかったとは全く思っていない。しかし皆さんも少し察しがついてきているかと思うが、今回の署名活動というのは、富士山N会議のアンケートに確認されるような富士宮市民の特有のズレ感が如何なく発揮されたという見方が結構しっくりくるのである。おそらく”正しく恐れる”ということが苦手な方たちなのだろう。この労力・エネルギーが生産性の方に向かえば最終的には豊かさに繋がるものだと考えるが、如何だろうか。
しかしながら、本稿で示した懸念から、私は富士宮市郷土史博物館事業を支持しない方向で定めた。つまり、"いいものは造れないだろうし明確な懸念もあるから、いっそのこと要らない"ということなのだ。寂しい考え方だが、そのような考え方にさせられてしまったという言い方が適切であると感じている。
以上。