2020年7月15日水曜日

富士市の地理考、富士山と富士川水害と農業の関係や積雪地点や浮島ヶ原低地

このページでは「富士市の地理」について考えていきたい。分かりやすいように、画像を多用しております。富士市教育委員会の刊行物(「鈴川の富士塚」より引用)には以下のようにある。

富士市は南に駿河湾を望み、北には富士山が位置しその山裾が市域に延びる。(中略)これらのことから、富士市の地形は南北の標高差が大きく、起伏に富んでいることが特徴といえる。市域の地形は大きく富士山、愛鷹山の火山系山地と、富士川河口付近のデルタ地帯、海岸平野の進んでいる浮島低湿地帯の平野部に大別される。

富士市の刊行物は「①富士山・愛鷹山の火山系山地」「②富士川河口付近のデルタ地帯」「③海岸平野の進んでいる浮島低湿地帯の平野部」と分けているが、これはとても理にかなった分け方である。以下ではこの3つについて、分かりやすく話を進めていきたいと思う。


  • 富士山・愛鷹山の火山系山地
<富士市の積雪>

富士市では毎年積雪しており、富士ニュースの報告によれば例年富士市桑崎辺りから降雪しているようである。

2011年

2013年

2014年

2016年


分かりやすくするために、今回は富士宮市(富士市に隣接する自治体)と比較して考えてみましょう。地図を素直に見てみれば分かるように、富士市と富士宮市で比較した際、富士市の方がより市街地近くで高標高地点が見出だせる。この時点で

富士市は富士宮市に比して相当下(北緯)で積雪しているのではないか?

という推論が成り立ちます。1度でも地図を見てみれば、それが分かるはずです。


北部でみた場合富士市の西に位置するのが富士宮市ですから、富士市の積雪地点である森林墓園から真西に移動していくと、地図上はちょうど富士宮北高等学校辺りに接触します。なので森林墓園と北高は北緯で言えばあまり相違はないはずです。しかし標高は大きく異なります。


一番東のが北高にあたります。このように

富士宮市北部から富士市北部に移動すると標高がこれでもかと上がっていく

というシステムなので、どう考えても"富士市は富士宮市より下で降雪"しているわけです。以下では厳密な各北緯を割り出してみたいと思います。まず富士市役所と富士宮市役所で考えてみます。この2つの市役所で見た場合、富士市役所の方が低地にあります。


北緯
富士市役所35度9分40.8秒
富士宮市役所35度13分19.6秒

このように見ると、両者ではかなりの差があるわけです。ちなみに富士山の剣ヶ峰は「35度21分38秒」だというので、 「9分」と「13分」は結構大きいと言えるわけです。そして森林墓園と富士宮北高を割り出してみます。


北緯
富士市森林墓園35度14分6秒
富士宮北高35度14分17秒

このように、大体同じです。そして富士地区に住まれている方はご存知のように

北高で積雪はせず、降雪すら無い

わけです。といいますより北高よりずっと上に行かないと降雪ポイントすら出てこない。つまり北緯の分析からも富士市は富士宮市よりも下で降っていると、確実に言うことが出来ます。ここではもう少し踏み込んで「何故このようなことが起こるか」ということを考えていきたいと思います。まずその理由の1つに

富士市が山岳に恵まれており、市街地近くに愛鷹山峰がある

ということが先ず挙げられると思います。富士宮市と比較すると、富士市はより市街地近くに高山があるという印象を持たざるを得ない。

国道139号


まず富士市は愛鷹山峰のうち、その最高峰の「越前岳」(1,504m)を有している。1500メートル級の山が市街地の比較的近くに在る…これは富士市の地理の大きな特徴と言って良いです。その越前岳の山腹の影響を受け、かなり下の方であるのにも関わらず、積雪しているのです。何故富士市域を北上する形で国道139号線が通っていないのかを考えると分かりやすいです。逆説的に言えば

富士宮市で雪の影響が少ないがために、ここを139号線が通過している

という言い方ができます。139号線は決して越前岳の横を抜く形で通されることはない。なぜなら、雪の影響が過大すぎるからです。

国道469号

国道469号線が富士市に行けば行くほど下がっていくのは、今度は富士山の山腹の影響も受けるためでしょう。

<愛鷹山>


国土地理院

富士市にとって、愛鷹山の存在は相当なインパクトをもたらしているといっても過言ではない。愛鷹山塊でも越前岳は1,504mを有し、富士市と裾野市に跨っている。愛鷹山鋸岳や愛鷹山鋸岳のキレットは特徴的な外見を有し、富士市の地理の1つの特徴である。

  • 富士川河口付近のデルタ地帯
<富士川河口付近の様子>

富士川河口付近は、基本的には人が殆ど住んでいなかった地域である。というのも本来富士川は「日本三大急流」の1つに数えられる程の暴れ川であり、河口付近は「富士川氾濫原」と呼ばれる地帯であった。とても生活を営むような場所ではなかったのである。

富士川氾濫原(富士山かぐや姫ミュージアムHP内資料)

それでも富士川治水の影響などもあってか、僅かながら人は住んでいたようである。例えば戦時中、富士川河口付近の約1.6平方キロメートルの区画には230戸という限られた戸数が存在していた

1.6平方キロメートルは「160ha」に該当し、東京ドーム約34個分以上にもなります。このとてつもない広大な範囲に家が230戸のみしか無かったのです。この1.6平方キロメートルというのは、戦時中に旧富士市域に富士飛行場の建設が決定され、押収された用地の面積です。


<轍>戦禍の果て―幻の富士飛行場(上) 「お国のため」転居のむ(2015年8月14日 静岡新聞WEB版)
富士市の南西部、富士川の東側に位置する富士南地区。この地の一角に太平洋戦争末期の1944(昭和19)年9月末、陸軍の「富士飛行場」が造られた。後に多くの住民が移転を迫られた飛行場建設の方針は突然、地元に告げられた。郷土誌「ききょうの里」には、建設地となった旧田子浦村で当時助役を務めていた男性の記述がある。移転対象は、旧田子浦村と旧富士町の計230戸。44年の2、3月に対象住民に伝えられた場面を、富士市史は、「陸軍の強硬な態度に反対できないと知った人々は、加島開拓(江戸時代)以来の土地を去り、移転することに決めた」と記している。旧富士町の住民はその後、「満場一致で承諾」した。ただ、承諾の代償は大きかった。郷土誌などには、男性の多くが軍隊や軍需工場に出ていたため、約2カ月という限られた期間の中で女性と子供だけで苦労して移転を完了させたなどの証言がいくつも残る。建設の段階でも中国人の強制労働者が犠牲になるなどの悲劇が生まれた。富士市史によると、陸軍に提供された飛行場用地は約1.6平方キロメートル。「陸士57期航空誌」によると、東西の幅30メートル、南北の長さ1キロの滑走路を備えていた。(抜粋)

以下に富士市の地図を示しますが、何故赤線の箇所のみ格子状になっていると思いますか?

富士市と富士川

それは、富士飛行場の跡地だからです。更に言えば戦前は更に少ないと考えられ、旧富士川氾濫原には人は殆ど住んでいなかったと言って間違いないわけである。

<大沢川と田子の浦港>

まず富士市の地理を考えていく上で理解しておきたいのは、「富士山(大沢川)-潤井川-田子の浦港」という流れである。

国土交通省中部整備局

国土交通省中部整備局の説明に


大沢川は静岡県富士宮市に位置し、富士山西斜面の大沢崩れを源頭域とし、流路延長約14km、流域面積約14km2、下流端の河床勾配1/22で、潤井川に流入し田子の浦港に流れる。これまでに下流域への土砂災害を度々引き起こし、現在でも年間約16万㎥の土砂が崩壊していると推測されている

とあるように、田子の浦を辿っていくと大沢川の存在にたどり着く。そして年間16万㎥というとてつもない量の土砂が毎年発生している。つまり下流域の生活は常に脅かされているのである。そこで砂防事業が行われているのである。

国土交通省中部整備局
説明にはこのようにある。

大沢崩れで崩落した土砂は、源頭部の谷底に堆積し、降雨や融雪により土石流となって流下し扇状地で氾濫堆積します。さらに洪水流は下流へと土砂を押し流し、生活域への土砂流入、市街域での河道閉塞による洪水氾濫、田子の浦港埋塞による船舶航行不能等の被害を与えます

つまり言い方を変えれば

田子の浦港を埋めることなんて、やろうと思えば至って簡単なこと

なのである。上流部でしっかり対策されていて、初めて富士市域の生活は保たれているのである。

<水質>

富士市の水の硬度は北部で50、市街地で60、旧富士川町周辺で80という数値であり、例えば隣接する富士宮市と比較すると高いと言える。また富士市の水は硫酸態窒素が高い。

小澤幸紀, 川口慶祐, 藤川格司(2017)

論文ではお茶の栽培との関係が指摘されている。

<富士川治水と加島平野>

雁堤に代表される富士川治水により、富士川の東側は氾濫を抑えることに成功した。それ以降も富士川は氾濫を続けていたが、加島の地はとりあえずの平定を得たと言って良い。

それにより農作物を育てることが可能になり、その様相は「加島五千石」とまで讃えられるようになった。富士市でも旧富士市域は一大農地として名を馳せた地帯である。「加島米」や「キャベツ」「富士梨」等が名産品として知られた。現在でも富士梨は栽培されている。


<工業都市化の中で>

富士市で特筆すべきは「急速な工業都市化」である。そこで気になるのは「工業都市としての変化の過程における農業の立場」である。そこで農林統計協会編『農林統計調査』(現在は休刊)という雑誌に「富士市の概略-甘らんを中心にして-」という論考があったのでそれらを参考にしていきたいと思う。まず、冒頭には以下のようにある。

調査部落Mは国鉄富士駅より徒歩20分の北方に位置する。富士市には本州製紙・大昭和製紙・大興製紙の各工場はじめ大きな工場があって、(中略)明治42年東海道線富士駅の開通、これに先だつ富士製紙工場(現本州製紙富士工場)の誘致成功などが商工都市へのスタートになるまでは平凡な農村であった。

とあり、その後富士梨とキャベツの生産について詳しく説明している。またその後の説明で「調査部落Mは幕藩時代から明治初期にかけてはこの辺の中心であったものが、富士駅を中心にした部分が市街地として発展してしまったので、いまでは町のはずれのような具合となっている」とあるので、調査部落Mとは「本市場」に違いないであろう

このような過程を見た上で考えることは「農業地帯から工業地帯へのシフトにおける色々」である。特に農家目線ではただならぬものもあったと推察される。まず時代が下るに連れ「兼業農家」が増えている事実がある。そしてそれを更に促進させる存在として「製紙工場」があった。また「製紙会社による農地の買収→その持ち主の製紙工場への就職」というパターンがあったことも指摘されている。これについて以下のようにある。

そこでまず戦後はこの本州製紙工場にはかぎらないが本州製紙に容易に就職できないという事実である。この辺の農家で男の子を本州製紙に入れられるのは、本州製紙が拡張のため農地を買収するさいの交換条件として受け入れられることぐらいしか機会がないのである。そして事実この6・8・10番農家はそれぞれ四反七畝、四反、三反五畝とこの4・5年の間に耕地を買収されているのである。

当時製紙工場への就職は「間違いのないルート」であった。つまり製紙工場の存在は、農業地帯からの転換を一気に推し進めた存在であった。工場の敷地の多くは旧農地であると思われるし(工場は誘致した)、その周辺もそうであると考えられる。

人々の交流がある一定数あり商店などを中心として成り立ってきた大宮町(=富士宮市)や吉原町(=旧吉原市)と異なり、富士町(=旧加島村)は農地からのよりダイレクトな用地転換があったと考えられる。

※ちなみに「本州製紙富士工場」は「大王製紙」および「王子板紙」を経て、現在の「王子マテリア富士第一工場」である。

また同様の報告は他所でもなされており、富士市の変移を考える上で重要な部分である。笠井(1964)には以下のようにある。

かつての富士市は「加島五千石」と言う名からもうかがわれるように往時から広大な沖積層と、豊富かつ良質な水を利用した農業と、田子浦海岸一帯の沿岸漁業を産業の主体としていた。とくに「富士梨」(明治25年頃から)の本場として有名なところで、かつては三百五十町歩に達する栽培がおこなわれたこともある。また最近まで近郊蔬菜としての富士早生カンランも相当の生産量をあげてきた地帯である。だが、明治39年を契機として、新しい発展、製紙工業の中心の時代を迎えた。(中略)この数年来の富士市は、全耕地千三百八十町歩(一戸当たり約六反歩)のうち、年々五十~六十町歩の農地が、工業用地や、宅地に転用されている 

とある。(旧)富士市は広大な農地で名を馳せ、近代化の波を見ると準速にためらいもなく工業用地に転用したという流れがある。

  • 海岸平野の進んでいる浮島低湿地帯の平野部

小松原(2007)

画像の緑の箇所が浮島低湿地帯である。また駿河トラフの終点は富士市に接する形となっている。これも富士市の大きな特徴と言ってよいだろう。

浮島低湿地帯であるが、小松原(2007)によると

浮島ヶ原は駿河湾の奥に位置する海岸平野で,6000~5000 年前以降浜堤によって内湾が閉塞されてできたとされている.(中略)約1500 年前に富士川河口断層帯が活動したのと同時期に,浮島ヶ原一帯の水位が上昇したことを示す証拠がいくつか見つかっている. 浮島ヶ原中央部の浜堤上には雌鹿塚遺跡および雄鹿塚遺跡と呼ばれる弥生時代~古墳時代の遺跡がある(第 1 図).松原(1992)および沼津市教育委員会 (1999)によれば,大淵スコリアを境に下位では遺物 が発見されるが,上位からは発見されない.これは大淵スコリア降下直後に両遺跡は放棄されたと解釈されている.松原(1992)はその原因のひとつとし て地殻変動により遺跡が沈降し生活の場に適さなくなったという可能性をあげた

とし、人の居住ができない程の変異があったとしている。今現在は干拓で浮島沼は消滅している。

国土地理院HPより

富士市は元来、湿地面積が非常に広大な地域であった。要約すると、元来富士市は

  • 富士川氾濫原
  • 湿地地帯
  • 山岳地帯

で構成され、その間隙に人々が居住した。その集約の最たるものが吉原宿である。富士市の刊行物で述べられているように、富士市の地形は南北の標高差が大きく、起伏に富んでいることが特徴であると言える。火山系山地やデルタ地帯・海岸等が位置し、地理の見本市のような市であると言えるだろう。この多様性は日本の中でも珍しいように思える。


  • 参考文献
  1. 富士市教育委員会,『鈴川の富士塚』,2018年
  2. 小澤幸紀, 川口慶祐, 藤川格司(2017),「水の静岡地図(その2)」,常葉大学社会環境学部研究(4)
  3. 小松原(2007),「静岡県浮島ヶ原低地の水位上昇履歴と富士川河口断層帯の活動」,活断層・古地震研究報告. 2007年(7)
  4. 農林統計協会編,『農林統計調査』,1958年4月号
  5. 笠井文保(1964),「新産業都市の建設と近郊農村の変貌一一東駿河湾地区・富士市の事例」,農村研究第19号

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