2020年1月20日月曜日

尹良親王と田貫次郎の伝説と田貫湖

ダイヤモンド富士のスポットとしても知られる「田貫湖」。そのほとりには「田貫神社」が位置し、「尹良親王」と「田貫次郎」が祀られている。

両者は「人神」として祀られているのであるが、このような事例は富士郡では稀有であり、今回はこの部分について考えていきたい。まず『浪合記』という史料に

駿河国冨士谷宇津野ニ移シ田貫カ館ニ入レ奉ル此田貫次郎ト申者ハ元ハ冨士浅間ノ神主ナリ神職ヲ嫡子左京亮ニ譲リ宇津野ニ閑居ス(中略)冨士十二郷ノ者ハ新田義助厚恩ノ者共ナリ

とある。内容としては一行が尹良親王を奉じて吉野から上野国に移動する過程で駿河国富士谷の宇津野(=現在の富士宮市内野、"うつの"と読む)に移り、そこで田貫次郎の館に入るという内容である。田貫次郎は「富士浅間の神職」であったといい、その神職は既に嫡子である「左京亮」に譲っており自身は内野にて隠居生活を送っているというものである。

富士宮市内野

まず同記録の信憑性についてであるが、多くで信憑性が疑われている。しかし地理的背景だけで言えば、意外にも整合性が取れている印象がある。まず実際現在の富士宮市内野に隣接する形で田貫湖が存在している(この伝説から田貫湖と名付けられたとも)。そして地理的には上野国の途中に位置している。

一方「富士浅間ノ神職」については、どの浅間神社を指しているかは不明である。また同じ内容が『東武談叢』にもあるといい、『駿国雑志』がこれを引用している。内容は両者ともほぼ同じである。『白糸をめぐる郷土研究』では「富士浅間ノ神職」について

或は甲斐の明日見浅間ともゆふ

としているが、その出典等は示されていない。ただこの記述を思うに、「富士十二郷」の記述の存在が関係していると思われるのである。偽書である『宮下文書』には「富士十二郷」についての記述が確認でき、また同書には「富士大宮司直時」の名も確認できる(現在はその箇所が不明です、教えて下さい)。偽書も全くの架空ではなく実在する人物を取り入れていることから「直時」の名が見えていると考えられる。そして『宮下文書』が発見されたのが何を隠そう「明日見」なのである。おそらく著者は『宮下文書』を念頭に置いて「或は甲斐の明日見浅間ともゆふ」としたのではないだろうか。とりあえず「富士浅間」だけでははっきりしないとは言えるが、仮に富士山本宮浅間大社だと仮定してしまうと、整合性は全く無い。

田貫湖

『浪合記』によると、尹良親王は元中3年(1386)8月8日に征夷大将軍となり源氏姓を給わったとある。そして従者は吉野から上野国に迎え奉るのであるが、その道中に寄っているのが内野なのである。そしてここで「(元)冨士浅間ノ神主」として田貫次郎が出てくるのである。ではこの時代の富士山本宮浅間大社の神職が誰かを考えた時、史料的にはまず「富士直時」と同子「弥一丸」の存在が挙げられる


直時は「譲状」にて子である弥一丸に「天万郷」「上小泉郷半分」「北山郷内上奴久間村の田二反」「黒田北山郷野知分」を譲る約束をしているのである。富士郡にて「直時」の名が見える史料は、この文書の他に「和邇氏系図」と「富士大宮司(和邇部臣)系図)」にしか見られないように思える。したがってここに見える「直時」とは、富士大宮司である富士直時であると考えるのが妥当である。そもそもこのような広大な領地を譲ることができる権力者自体が、大変に限られてくるのである。「和邇氏系図」と「富士大宮司(和邇部臣)系図)」にも「康永四年三月十日卒」とあり、予定通り弥一丸に譲渡されたのであろう。

そして「和邇氏系図」と「富士大宮司(和邇部臣)系図)」には田貫次郎なる人物が神職として存在していたことを示す箇所は無い。そしてそれは「左京亮」も同様である(江戸時代の三十三代富士大宮司である富士信公くらいである)。とりあえず『浪合記』の「冨士浅間ノ神主ナリ」の浅間神社は、何処に設定しているかは分からない。しかし史実としては富士山本宮浅間大社を指す可能性はとても低いということは言って良いのではないだろうか。

私は『宮下文書』と『浪合記』に「冨士十二郷」なる用語が共通して見えることを考えると、「或は甲斐の明日見浅間ともゆふ」という指摘は大いに傾聴に値するのではないかと考える。「富士十二郷」については『今川記』に「富士郡下方十二郷」なる言葉が確認できるので、「富士十二郷」という区分は実際に存在した可能性がある。しかし同史料の内容も疑問視されていることも事実であり(「戦国時代の吉原の歴史と吉原宿の成立」)、全く異なる方面から確認できるこの「富士十二郷」の真偽は不明である。

とりあえず「田貫次郎」の話は、あくまでも伝説の領域を出ない内容であるということを示しておきたいと思う。

  • 参考文献
  1. 渡辺兵定,『白糸をめぐる郷土研究 : 渡辺兵定翁遺稿』,1953年
  2. 『駿国雑志』

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