2012年8月16日木曜日

富士市の吉原地区に残る富士山信仰跡

富士山東泉院の成り立ち」にて、富士市エリアへの富士信仰の広がりを説明しました。富士市の旧吉原地区、特に鈴川エリアというのはこれらが最も明確にみられるエリアであるように思える。つまり、富士信仰の広がりの痕跡が明確に認められるのである。

富士山本宮浅間大社の古来の祭祀に「浜下り」なるものがある。『浅間神社の歴史』にはこのようにある。
身禊の神事である。鈴川の海浜にて執行するための浜下りの名がある。神職一同身禊し畢って、大宮司・公文・案主は富士丘社に詣づ。正鎰取祓を修す。次にあぢ神に詣で式を終る

富士大宮司・公文・案主は浅間大社のTOP3であり、富士氏である。つまり富士家が自ら鈴川に赴き、鈴川の海浜にて禊を行なっていたわけである。自ら赴いていることから、優先度の高い重要な神事と考えて良い。またその後も「富士丘社」や「あぢ神」などの神社で神事を行なっているといい、そのような慣例があったと言える。

ここにある「あぢ神」というのは、「阿字神社」(富士市鈴川町)のことである。


阿字神社およびこの周辺は大変興味深い土地であり、不明な点は多いが「見附宿」があったと言われる地である。吉原宿(初期)の前身ともされ、長きにわたり宿場町としての様相を呈していた。

浅間大社と阿字神社とで関係が深いことは、『駿河志料』の記録でも分かる。鈴川の「阿字神社」の項には以下のようにある。

大宮浅間4月11日申日祭祀前海邉祓潔のとき、此社を拝する例なり

つまり、浅間大社の祭事に関わる社と言える。しかし何故鈴川にて神事を行う慣例があったのであろうか。これは当然の疑問である。なぜなら、わざわざ富士山信仰の中心地から離れ鈴川の地で神事を行う必要性が全く見当たらないからである。そして、鈴川との接点を見出すことが難しい。

これを野本寛一氏(民俗学者)はこう説明している。

富士山本宮浅間大社の神池である湧玉池の水が神田川を流れ、潤井川を経由し海に注ぐ。その地点が海岸であり砂山であって、浅間大社と関係が深いことが挙げられる。

この場合、富士山の湧水の流れが行き着く神聖な場所と見られていたという解釈となる。実際に水の流れが信仰となっている例はいくつもみられる。例えば有名な諏訪大社であるが、諏訪大社の御神体は守屋山であって、守屋山に降った雨の恵みが分かれい出る「水分信仰」でもあったとされる。つまり水の流れ・恵みが信仰を形成していたわけである。


富士山の絵画として名高い『絹本著色富士曼荼羅図』(重文)であるが、水の流れが明確に表現されていることが分かる。富士山信仰の絵において、水の流れは無視できない部分であったのかもしれない。


旧来の富士川というのは、現在よりも東側に流域を持っていたことは知られている。その時代の潤井川というのは現在の田子の浦港方面へと注ぐが、その直前で「和田川」「沼川」が合流していた。ここを「三股淵」という。つまり三股というのは「潤井川」「沼川」「和田川」のことを指す。この三股淵に関わる伝説がある。『駿河志料』に「又云、里人の傳へは、古へ此三股淵に毎年往来の女子を捕へ、生贄に奉れり、…」と続く。また『駿河記』にも同様の記述がみられる。いくつか分化はしているが、基本的には「三股淵に大蛇が住んでいて、生贄として女子が捧げられた。その中に阿字という女性がいた」と続く構成である。この伝説に「阿字」とあるため、これらの伝説に関わる神社であることは間違いない(「大高康正,富士山縁起と「浅間御本地」」に詳しい)。

そもそもこの鈴川の地というのは、古代よりこのような性質を持つ地であったのではないだろうか。「スルガ国造とスルガ国」には以下のようにある。

『日本書紀』安閑2年5月甲寅条には駿河国に「稚贄屯倉」を置いたことが見える。『地名辞典』は、富士市赤淵川を古くは生贄(イケニエ)川と称し、富士市大字鈴川付近を牲(イケニエ)淵と称したことから、この付近に比定する。

とある。他に『駿河志料』の鈴川の「富士塚」の項にはこのようにある。

石仏地蔵より南へ二町許、祓潔の場なり。上に云、大宮浅間神事祓潔のとき垢離の後、大宮司社人富士塚に参詣し、御祓正鎰取次第にあり、又富士登山の者汐垢離をとり、石一つ宛かつぎ上、此塚の上に置て祓をす、因て是を富士塚と称す

ここに記される富士塚とは、以下の富士塚(富士市鈴川西町所在)と同様であると思われる。このことから、浅間大社の大宮司(富士氏)はこの富士塚で神事を行なっていたと言える。この関係は重要である。

ここ鈴川一帯は、昔は「砂丘」であったといわれている。そしてそれら砂丘一帯が「香久山」と称されていたと言われる。これらの名残があるのは、鈴川に隣接する今井の「香久山妙法寺」である。以下の写真の石碑の銘にも見られる。



この妙法寺は別名「毘沙門天」と称され、当地ではその方が知られているかもしれない。そうすると、かなり広い範囲を「香久山」と呼んでいたと推測される。寺の山号や地理的な関係から、かなり古くから香久山と称されていたとみて良い気がする。「香久山」というのは、大和三山の香久山から由来する。また妙法寺境内に「香久山稲荷社」があると聞いており実際伺ってみたが、どれが香久山稲荷かはよく分からなかった。


『駿河国冨士山絵図』にみられる海岸沿いのいくつもの山は、砂丘か富士塚と考えられる。鈴川を探ることで、富士信仰の広がりが確認できる。

  • 参考文献
  1. 野本寛一,「富士の信仰と文学-その1-」『地方史静岡第6号』,静岡県立中央図書館 
  2. 『浅間神社の歴史』祭儀の頁
  3. 仁藤敦史,「スルガ国造とスルガ国」『裾野市史研究』,1992

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