2011年1月22日土曜日

富士氏 富士大宮司家

今回は、富士大宮(富士宮市)の氏族「富士氏」についてです。富士宮市の歴史といったときまず挙げられるのがこの富士氏で、代名詞といっても過言ではありません。長きにわたり影響力を保持してきたこの氏族の性格について追求していこうと思います。

当ブログの初記事として「富士大宮楽市令」をとりあげましたが、その朱印状の解説に附す形で久保田昌希氏が富士氏の説明を行なっている(『日本の都市と町-その歴史と現状』)。その説明がシンプルで伝わりやすいので以下に記す。

文書の宛所である富士氏は南北朝期からの文書を伝えており、代々富士浅間本宮の宮司をつとめ、戦国期には国人領主として周辺地域をその支配下におさめ、また今川氏の有力武将として富士大宮城に在城しつつ、今川権力の一端を構成した存在であった。なお同地域は隣国甲斐に接し、つねに武田氏との政治的緊張を有したところでもあった。

これが富士氏である。以下ではこの概要を項目にわけて説明していきたいと思います。

  • 発祥

家紋は棕櫚または「棕櫚の丸」である。浅間神社の富士大宮司職を代々継承していた。

後醍醐天皇綸旨(1333年)、宛に「富士大宮司館」とある

つまり、典型的な社家である。孝昭天皇の後裔である和邇部一族が富士郡の地にやってくる(理由不明、一説では坂上田村麻呂と共に、当地の従わない部族を従わせるために同行していた豪族が和邇部一族であったとも)。その和邇部一族の十七代目「和邇部豊麿」が朝廷より富士郡大領(郡長)に任命される。そのため富士大宮が根拠地となり、また浅間神社の神主となる。これが富士氏の始まりとされる。が、富士郡大領以外の部分を史料的に示すのは難しい。

  • 富士大宮司・公文富士氏・案主富士氏


富士氏は浅間神社の神職を司っており、例えば「富士大宮司」「公文」「案主」といった神職は富士氏が勤めた。従って「富士大宮司」といったとき、それは比較的限定的な言い方である。同時代に各富士姓の人物による活躍が確認でき、先ず「富士大宮司は富士氏の筆頭が名乗る神職名であり、富士家の中の1人である」という理解が必要となります。

がしかし序列は明確であり、富士大宮司(別格)の次に「公文」または「案主」という順である。古来は「富士宮内案主」「富士式部公文」といい、その名残だともいう。富士大宮司は社領を掌握し、公文は文書を掌り、案主は文書を立案するというように役割が明確に分かれていたと考えられている。永享6年(1434年)に比定されている、駿河国国人に今川氏への忠誠を求める旨の文書(『足利将軍御内書并奉書留』の内の細川持之書状)がある。当文書は「富士大宮司殿」「富士右馬助殿」の二者に宛てているので、富士大宮司・公文・案主の三頭体制では必ずしもなかったかもしれない。ここは注意が必要である。

  • 中央とのつながり

以下は寛正3年(1462年)の「後花園天皇口宣案」である。


これは足利義政が富士忠時を「能登守」に推挙することを提案し、後花園天皇が許可を与えたものである。それを富士忠時が受給したというものである。つまり富士氏がこのとき既に中央に知られていたということである。直々に天皇より「能登守」の任に就かれているという事実は、あまりに重要である(参考:富士忠時)。

ただこの時期富士家の中でお家騒動があり、家督相続の件を巡り大きく揺れていた時期でもある(富士家のお家騒動と足利将軍)。

  • 武家としての側面

少なくとも南北朝時代には武力を保持・行使していることが、明確に確認できる。

上杉憲将奉書(1351年)
この「上杉憲将奉書」であるが、富士大宮司が甲斐国の通路の警備を命じられる内容の文書である。これは観応の擾乱に際する直義側による要請である。国境の警備を任されている事実から、武力を保持していたことは明白である。

またその後、関東における戦国の世の幕開けともいえる「享徳の乱」においては、富士氏は幕府の要請により古河公方勢力と対峙している(享徳の乱と富士氏)。ここで富士氏が、いわゆる戦国時代以前より武力を保持していたという事実は把握しておくべきである。

その後駿河国守護の今川氏とも関係を深くしていく。今川氏と関係が蜜となることは、必然的であろう。以下は今川氏輝の判物である。

今川氏輝判物(1532年)、信忠宛
この判物に対して小和田哲男氏は以下のように説明している(『今川義元―自分の力量を以て国の法度を申付く』)。

星山代官職を安堵する代わりに馬廻としての奉行を求めている。(中略)すなわち氏輝は、有力武将の子ども世代の若者を親衛隊に組織しようとしていたことが分かる。(中略)こうした馬廻衆の創設は、今川氏当主としての氏輝の権力強化につながっていたわけで、それが氏輝のときにはじまっているという点は注目しておく必要があろう。

同じく興津氏当主の子が馬廻として登用されており、今川氏が国人領主の次期当主と考えられる人物を掌握しようとしていたことが分かる。

このように16世紀になると、今川家家臣としての色が濃い。この時代は「富士信忠」が当主の時代である(参考:富士信忠)。以下は今川義元による戦功への感状である。

今川義元感状(1537年)、信忠宛
これら文書がある中で、戦国大名(今川氏)により武家として重要な役割を託されていたことが明確に確認できるのは、以下の文書ではないかと思う。


これは「富士信忠」にて解説しているが、富士信忠が大宮城の城代に任命されている文書である。また、代官職も葛山氏に変わり任命されている。つまり富士氏は国主により城主を任命される位置づけにあった。大宮は駿府への入り口として非常に重要な位置であり、砦として重要な地と考えられていた。

また以下の文書も極めて重要である。今川氏真独自の、特色ある政策の実行が富士氏に託されている。また富士大宮の性格を分析する上で重要である(参考:富士大宮楽市令)。


また以下の文書は、永禄11年の後北条氏当主である「北条氏政」による文書である。このとき今川氏の統治能力は極度に低下しており、後北条氏が今川氏に代わって処務の対応を行なっていた。富士信忠の働き次第で、領地の安堵と恩賞の約束をする内容である。このとき富士氏と後北条氏の関係は蜜であった。

永禄11年12月19日

以下は永禄12年の後北条氏による文書であるが、北条氏康によるものである。北条氏康存命中は氏政・氏康体制であったため、氏康が文書を出すこともあったのである。緊張状態を労う内容と、敵情(武田氏)を探らせる内容である。

永禄12年2月25日
以下は氏政が富士信忠に敵の使者をからめ捕るよう命じた文書である。

永禄12年5月28日
以下は閏5月3日の文書であるが、忠節に対して必ず引き立てる約束をしたものである。

永禄12年5月3日
永禄12年12月17日には領地を安堵する約束をしている。この文書は富士上方の地名が多く見えるので、興味深い(画像は収集中)。淀師、小泉、山本、若宮、北山、星山、村山、大宮、稲子、杉田、上野、野中などが記されており、現在もある地名が戦国時代から存在することが分かる。このように後北条氏は、永禄11年から永禄12年にかけて文書を繰り返し送っている。

以下は今川氏真感状である。信忠の嫡子「富士信通」宛である(参考:富士信通)。忠義に対する感謝と富士氏が今川氏から離脱することを許容する内容である。この文書の説明は「駿河大宮城」にて行なっている。

元亀2年10月26日
この後武田氏に帰属している。

  • 系図
富士氏の系図を示すものは2例あり、①【和邇氏系図】と②【富士大宮司(和邇部臣)系図】がある。この部分については「富士氏の系図から珠流河国と和邇部について考える」にてまとめた。

上記の「後花園天皇口宣案」によると「和邇部姓」を使用している事実があるため、当時の富士氏は和邇部氏から由来すると認識していたことは間違いない。また系図中に「頼尊」の名が記されている点も興味深い。村山修験の村山三坊は頼尊という人物によって開かれたとされ、『駿河国新風土記』に「正別当頼尊といえるあり、此頼尊は村山三坊山伏、中里村八幡宮別当大門坊も此人の子孫なりと云」とある。『中世後期の富士山表口村山と修験道』には以下のようにある。

頼尊の事跡は伝説的な部分も多いが、「別本大宮司富士氏系図」に本宮の大宮司富士直時のいとこに頼尊の名を挙げ、富士正別当村山三坊の祖と記されている。直時は康永4年(1345)二月没とあるので、文保年間(1317~19)に頼尊が存在したというのは首肯できる。

この相関性は大変興味深いといえ、系図を考える上で一つの材料となるといえる。

  • 支流

富士氏系図に米津姓が見え、米津氏は富士氏の分かれとされる。「富士」の由来または変化したものとされる「福士」を冠する「福士氏」がおり、ここにも富士氏との関係性を伺わせる。また福士氏は南部氏と同じく甲斐源氏の一族とされ、福士氏は南部氏の重臣ともいう。南部氏は駿河国富士郡に隣接する地である現在の南巨摩郡南部町が本拠とされているが、この関係性は興味深い。

南部町役場(山梨県南巨摩郡南部町福士)

そして特に興味深いのは、南部町に「福士」という地名が見られることである。丁度町役場の所在地がそれであるが、この事実は富士郡から甲斐に流れ「福士氏」を名乗ったという推測を沸き立たせるものである。そして南部氏の家臣となった、という推測ができる。この部分については「史跡盛岡城跡Ⅱ 第2期保存整備事業報告書」の「盛岡南部氏と盛岡築城」が詳しい。

  • 家紋
家紋は「棕櫚の丸」である。シュロの葉を家紋にしたもので、シュロは昔から神霊の宿る葉として尊ばれたそう。『長倉追罰記』にはこのようにある。
…同六郷モ是ヲ打、シユロノ丸ハ富士ノ大宮司、キホタンハ杉カモン…
「富士曼荼羅図」に見える棕櫚
  • まとめ
非常に長い歴史を持つ上、二重体制の独自性は興味深い。今川・北条・武田と関わりがあったため(それも内容は戦関係)、到底社家だけに収まっていたとはいえない。同じく社家である諏訪氏ほど武家の色はないが、それでも本来もっと注目されるべき氏族である。武家としての富士氏と神職としての富士氏の双方に着目する必要性がある。

  • 参考文献
  1. 宮地直一、『浅間神社の歴史』、名著出版、1973年(富士氏を知る基本文献)
  2. 久保田昌希、「戦国大名今川氏の町支配をめぐって−駿河富士大宮と遠江見付附の場合−」『日本の都市と町-その歴史と現状』、雄山閣出版、1982年
  3. 大久保俊昭、『戦国期今川氏の領域と支配』P177-185、岩田書院、2008年(南北朝時代以降から触れ、富士氏像についてまとめる、お勧め)
  4. 小和田哲男、『今川義元―自分の力量を以て国の法度を申付く』P83-84、ミネルヴァ書房、2004年
  5. 丸島和洋、『戦国大名武田氏の権力構造』P250-267、思文閣出版、2011年(武田氏による富士氏への関与について触れる)
  6. 前田利久、「戦国大名武田氏の富士大宮支配」『地方史静岡』第20号、1992年(大宮城の戦い-武田氏への帰順あたりが詳しい)
  7. 浅間神社社務所編、『浅間文書纂』、名著刊行会、1973(富士氏関連の文書を掲載)
  8. 盛岡市教育委員会,「盛岡南部氏と盛岡築城」『史跡盛岡城跡Ⅱ 第2期保存整備事業報告書』,2008(富士氏と福士氏との関係性など)

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