2025年8月17日日曜日

富士山本宮浅間大社の和歌と湧玉池

最近近世の和歌に接する機会に恵まれたので、本稿では中世の和歌を数首取り上げ、検討していきたいと思う。対象は富士山本宮浅間大社(以下、浅間大社)としたいと思う。

まず浅間大社を題材とした和歌は、潜在的にはかなりの数が認められる。しかし和歌の性質上、断定できないものが多い。以下では確実性が高いものに絞り、内容を検討していきたい。



平兼盛『兼盛集』より。

詞書:
駿河に富士とふ所の池には、色々なる玉なむ湧くと云。それに臨時の祭しける日、よみて歌はする
和歌:
仕ふべき 数に劣らん 浅間なる みたらし川の そこに湧く玉

詞書から感じとれるのは、浅間大社の賑やかさである。臨時の祭りが催される程、人々にとって重要な存在であったのだろう。古い時代の富士大宮の様相を示す一史料と言える。

みたらし川は、現在の湧玉池である。歴史的には上池のみが湧玉池で、下池を御手洗川と呼称されたが、(髙橋2025;p.71)にあるように当初から上池を湧玉池と呼んでいたのかは分からない。

『新勅撰和歌集』の北条泰時の歌には以下のようにある。

詞書:
駿河国に神拝し侍けるに、ふじの宮によみてたてまつりける
和歌:
ちはやぶる 神世のつきの さえぬれば みたらしがはも にごらざりけり

「ふじの宮」は浅間大社のことであり、市名の由来である。(中川2025;p.28-29)によると、「神世のつき」は九条良経の『新古今和歌集』収録歌に拠ったものと推察されている。またその特徴を述べている(中川2025;p.117)。

御手洗川については、紀行文にも確認される。飛鳥井雅有『春の深山路』には以下のようにある。

富士河も袖つくばかり浅くて、心を砕く波もなし(中略)宿の端に河あり。潤川、これは浅間大明神宝殿の下より出でたる御手洗の末とかや。

浅間大明神宝殿、つまり浅間大社の御手洗川の末を潤井川としている。これは現代においても相違ないのであるが、この解像度の高さには驚きを隠せない。

以下は『続後撰和歌集』に収録される、隆弁の和歌である。

詞書:
四月廿日あまりのころ、するがのふじの社にこもりて侍りけるに、さくらの花さかりに見えければ、よみ侍りける 

和歌:
ふじのねは さきける花の ならひまで 猶時しらぬ 山ざくらかな 

(中川1984;p.22)では同集に収録されるもう一首を含め、以下のように論じている。

前者は典型的釈教歌、後者も詠作機会が寓土浅間神社参籠の折である。これよりして、この時期の隆弁は、歌人としてよりも、法印にして鶴岡若宮社別当の法力豊かな僧侶としての側面から人々に認識されていたのではないかと推測され、より直接的には、先述の後嵯峨天皇中宮御産の加持などが、同集への入集を果す機縁の1つとなっているのではないかとも憶断される。

また「時しらぬ」の成語から当歌を取り上げ背景を論じたものに(石田2011)があり、重要な視点である。このように『勅撰集』に浅間大社を題材としたものが複数首確認されるわけであるが、この事実1つとってしてみても、浅間大社の位置づけの高さが垣間見えると言える。

このように相当に認知度が高く、そして特別に神聖視され、この地にて拝することに重要な意味があったのである。湧玉池・御手洗川は「水垢離」を行う場でもあった。慶長13年(1608)の『寺辺明鏡集』には以下のようにある。

同六月九日ヨリ、駿河ヲ立テ、フヂ山上スルナリ。(中略)大宮ト言処ニトマルナリ。先ソコニテコリヲトル。コリノ代六文出シテ大宮殿ヘ参也

『春の深山路』でも「殿」とあったが、「大宮殿」は浅間大社のことである。この「コリ」は湧玉池での垢離であるが、富士登山開始時において垢離をとる風習が明確に示されている。「先」とあることから、本殿に向かう前に垢離を行うことが慣例であった可能性がある。

というのも、同じく近世初期の作とされる御物絵巻『をくり』には以下のようにあるのである。

吉原の、富士の裾野を、まんのぼり、はや富士川で、垢離を取り、大宮浅間、富士浅間、心しずかに、伏し拝み

「富士川で垢離を取る」とあるが、吉原から大宮へ移る/移った場面における内容であることを考えると、これは御手洗川を指しているのではないだろうか(潤井川という可能性もある)。

であれば「垢離→伏し拝み」という手順が確認され、『寺辺明鏡集』と同様の流れと見ることもできる。この一帯での垢離を示す古い部類の史料と言える。

天保10年(1839)『東海道中山道道中記』(諸国道中袖鏡)には以下のようにある。

高しま出口にうるい川かち渡り、冬は橋あり。此川大宮浅間のみたらしより流る。

潤井川が御手洗川より始まるとする記録はかなり多く見られ、またその流れを指して「凡夫川」とするものもある。であるから、上の「富士川で垢離を取り」は凡夫川である可能性もある。

  • 参考文献
  1. 荒木繁・山本吉左右編注『説経節』、平凡社、1973
  2. 中川博夫「大僧正隆弁 : その伝と和歌」『藝文研究 46 』、1984、1-32
  3. 石田 千尋「富士山像の形成と展開ー上代から中世までの文学作品を通してー」『山梨英和大学紀要 10』、2011、1-32頁
  4. 中川博夫「北条泰時の和歌を読む」「北条泰時の和歌の様相」『鶴見大学紀要 62』、2025、25-81・83-131頁
  5. 髙橋菜月「特別天然記念物「湧玉池」の歴史」『富士山学 第5号』、2025、71-79

2025年8月13日水曜日

近世近代移行期の富士氏とその文化環境について

『徳川実紀』のうち「昭徳院殿御実紀」に、富士氏として以下の名が見える。

駿州富士本宮浅間太神大宮司 富士又八郎 

内容は、富士本宮浅間惣社(富士山本宮浅間大社)の修理費捻出のための勧進(三カ国)を富士又八郎に許可するものである。時は安政6年(1859)8月のことである。

この富士又八郎とは、「富士重本」のことである。つまり重本は浅間大社の大宮司であった。富士重本と言えば、駿州赤心隊の隊長であったことでも知られる。(小野1995;p.189)から引用する。

2月(註:慶応4年(1868))に入ると、東海道において戦略的に官軍の重要な一翼を占める尾張藩が、「勤王誘引係」を遠江に送り込んで政治工作を行い、その結果浜松藩の帰順を確定的なものにしたが、この誘引係は浜松の諏訪大祝杉浦大学・宇布見付神主中村源左衛門貞則・桑原真清らにも面会し、神職の協力をも取り付けることに成功した。桑原・大久保・鈴木および日坂宿神主朝比奈内蔵之進は、この尾張藩誘引係に随行して駿河神職の説得工作に従事し、このとき説得に応じた神職を中心として、報国隊と強調して活動する駿河赤心隊が結成されることになる

そして同文献から赤心隊に関係するものを引用し、以下に一覧化する。あくまでも同文献は報国隊に連動したもののみ掲載しているため、赤心隊自体の事跡は別途調べる必要性があることは留意する必要性がある。

出来事
慶応4年(1868)4.25赤心隊と一同に吹上・紅葉山警衛を務める。
          4.29報国隊より27人・赤心隊より10人、御守衛大炮隊=御親兵に抜擢される。
            6.2城中大広間にて招魂祭執行。(中略)報国・赤心両隊神供役を務める。
             6.27 富士亦八郎(赤心隊長)・朝比奈内蔵進等、天朝のため終身奉公を願い出る。
          7.29 大炮隊員,報国隊・赤心隊への復隊を命じられる。
明治元年(1868)9.22 赤心隊員駿河草薙神社神主森斎宮,襲撃され負傷。
明治2年(1869) 6.29 東京九段に招魂社創建

東京招魂社については、以下のようにある(小野1995;p.190)。

6月2日には、戦没者の慰霊を目的として招魂祭が城中大広間で行われているが、この祭祀は、主として駿遠の神職たちが担っており、軍事面以外にも隊員は起用されていたといえよう。このことが、後の東京招魂社創建の前提をなしている


また同文献を読むと分かるように、報国隊の面々は歌会等を通してネットワークを形成していたことが分かる。また古典の口釈などが頻繁に行われていることから、それが国学を背景とするネットワークであったように思われる。

実はこのような国学ネットワークというのは、富士本宮においても脈々と受け継がれてきたものではないのかとするのが、私の見解である。

(小野1995;p.161)に吉田家遠江国執奏社家として「浜松五社大明神」の「森家」が記される。この森家であるが、富士本宮と縁が深い。『浅間神社の歴史』より引用する。

第三十七代信章は遠江浜松五社明神神主森民部少輔の弟で数馬という。正徳5年10月選ばれて信時の第三女に配し、大宮司の職を継いだ。

つまり富士信章は森家の人間なのである。そして妻は富士信時の娘である。ちなみに富士大宮の富士氏は、途中で血脈を維持できていない。一方で関東の富士家は富士信忠以来の血脈は維持している。

この信章であるが、国学者の荷田春満の門人であったことでも知られる。そしてやはり歌を通してネットワークが形成されていたようである。それが分かる史料に『かのこまだら』がある。

『かのこまだら』は享保8年(1723)の奉納歌集であり、北風村盈の発案で沼津の住吉社/沼津浅間宮へ奉納したものである。その冒頭は信章のものとなっているため(上野1985;p.603)、信章は中心的存在であったと考えられる。ここに国学ネットワークを見出すことはできないだろうか。

というのも、北風家にそのような傾向を認めることができるのである。村盈がそうであったのかは分からない。しかながら、国学としての繋がりは見いだせるのではないだろうか。それが前提となったネットワークであったように思われるのである。

以下に信章の和歌を掲載する(上野1985;p.603)(上野1985;p.607)。

さまさまの 山はあれとも 雪白き ふしの姿に くらへむはなし/富士浅間大宮司中務少輔和邇部宿祢信章

白雪の かのこまたらの ふる言も 残るかひある けふのふしのね/富士浅間大宮司中務少輔和邇部宿祢信章

そして信章の国学エッセンスは後の大宮司にも受け継がれた。例えば後代の富士民濟は『荷田御風五十算詩歌』に名が見える。つまり民濟は荷田派に属していたように見受けられるのである。それが更に後代の富士重本にも受け継がれていったと見るのは、やや飛躍しているだろうか。いや、むしろ大きくなっていったと見てもよいかもしれない。

  • まとめ

荷田春満門人であった富士信章は国学を推奨し、それは数代後の大宮司にも受け継がれ、その証左として民濟は荷田派であった。更に数代後には重本の代となるが、駿州赤心隊長を務めた背景として、国学的思想または従来よりのネットワークの関与が想定された。

  • 参考文献
  1. 宮地直一・広野三郎『浅間神社の歴史』
  2. 上野洋三編『近世和歌撰集集成第1巻地下篇』、1985、603-611頁
  3. 黒板勝美編『新訂増補国史大系 続徳川実紀 第三篇』、1991、618頁
  4. 小野将「幕末期の在地神職集団と「草奔隊」運動」『近世の社会集団―由緒と言説』、山川出版社、1995、153-208頁