- はじめに
皆さんは、歴史学という学術分野において富士宮市が極めて深刻とも言える危機的状況に立たされていたことをご存知でしょうか?20世紀後半頃、富士宮市は外部からの猛烈な作用に晒されていたのです。しかもそれは、歴史学だけに留まる性質のものでは無かったのです。
上野公民館 |
このように富士宮市には博物館がありませんから、あまり研究報告がありませんでした。一方で他県の博物館の学芸員により富士宮市の歴史について言及されるケースはありました。やはりそれは富士山に関わることであり、特に「大宮・村山口登山道」について言及されるケースが目立ちました。
では他県の博物館、その中でも富士山に特化した「富士吉田市歴史民俗博物館」(現・ふじさんミュージアム)所属の学芸員が大宮・村山口登山道についてどのような評価をしてきたのかを見ていきましょう。以下に一例を示してみます。すべて「原文のまま」です。
「表口登山道はもともと信仰場が少ない後発の道ではなかったか」「それぞれの登山道ごとに富士禅定の道・登山道は整備されていくが、相対的に北口が古い道筋ではなかったかと考えられる」((堀内1989;pp.583-592),原文ママ)
端的に言えば「吉田口が一番古い」と主張されているわけですが、その論拠はかなり強引です。表口登山道の後発説については、大宮口における比較的正確な合目区分を見て「新しいから機械的に正確に分けられていたのだ」としています。これもかなり無理な言い分です。
また「北口が古い道筋」という主張については、江戸時代の編纂物である『甲斐国志』の記述などを論拠としており、その遺物自体は現存しないというのに主たる根拠としています。また吉田口登山道に出土物が多いことを根拠ともしていますが、それぞれの年代から考察しているわけではないのです。しかも金石資料の多さだけで断定しています。それに加え、都合が悪い須走口における古い発掘物に関しては「詳細は不明である」で終えているのです。
こんなものではありません。実はどんどんエスカレートしていきます。
村山大鏡坊の所蔵する慶長期の文書の記述に注目したい。それは道者の登拝路は吉田口と須走口だと記すものである。つまり、富士道者の登山は吉田口と須走口に限られていたことになる。((堀内1993;p.33),原文ママ)
つまりこれは「大宮・村山口は登山道としては利用されていなかった」と言っています。いくらでも表口における道者の記録は存在しているのですが、作為的抽出である上に解釈が強引なものとなっています。
また以下は、それ以後の論考になります。
それ以前の登拝の道程はどうであっただろうか。岩本から直接村山へ赴き、そこから登山するのとは別の道程も考えられる。(中略)つまり、上井出や本栖を経、富士の西麓を巡って甲斐側に迂回して御山へ登拝する道者が存在したわけである。(中略)この記録の書かれた慶長以前は、富士道者の登山道は吉田口と須走口だとするものである。今川氏を端緒としてその後の徳川氏が通行整理のために、富士川以西の道者の登拝を村山口に限定したのは、他国へ通過する道者を領国内に誘致する政策によるものだったのである((堀内1995;pp.138-140),原文ママ)
著者の解釈では「右之内吉田・須走両口は、東西の道者登山致候」という記録は「登山道は吉田口と須走口のみであった」ということを指すとし、大名による政策で一時的に大宮・村山口が利用されたこともあったに過ぎないとしているのである。なぜこのような強引な解釈に落ち着いてしまうのかと言えば、結論ありきであり、また学芸員による強かな意図があるからなのです。
このような論考が1980年代という時点で既に出されてきている中、富士宮市側はそれを検証するような機会すら設けることもできないまま時を過ごしてきました。山梨県側の学芸員は様々な媒体を通して報告を繰り返し出すに至るという状況なのに、富士宮市側はノータッチでした。
つまり大宮・村山口登山道についてあまりにも不当な評価を繰り返され、いわば一方的なサンドバック状態だったのです。富士山に特化した博物館の学芸員が言うことですから、影響は大きいです。あわや、慶長期以前は大宮・村山口登山道は利用されて居なかったという考えが定説になってしまう危険性もあったのである。
しかし労作、大高康正『富士山信仰と修験道』に所収されるような論考類の報告や他県の博物館の研究(一例を出せば館山市立博物館企画展「富士をめざした安房の人たち」も解明に一役買っている)も重ねられ、大宮・村山口登山道が見直されていきました。しかしこの領域を研究する人物は大変少なかったのです。このような研究者が現れていなかったら、富士宮市は大変なことになっていたでしょう(氏は郷土史博物館構想の委員でもあります)。しかも何も打つ手もないまま富士山が世界文化遺産に登録されていたら、富士宮市の資産は構成資産から除外され、無惨な状況となっていたことでしょう。「歴史学だけに留まる性質のものでは無い」というのは、そういうことなのです。
例えば文化課が何か調査をするとして、予算を申請したとします。仮にそれを判断するのが、議会ではなく今回の地域説明会の来場者の方々だったとします。その場合「何になるのか」とか「価値が分からない」「成果が出るか確証がない」といった文言を並び立て、物事は進捗しないばかりか全く通らないかもしれない。そして富士宮市側からの検証は何も出来ず、構成資産も富士宮市のものは数が制限され、悲しい結末を迎えたことでしょう。
しかも恐ろしいのは、そのような方々というのは「良かれ」と思ってやっている節があることです。本来得られたはずの成果や失った時は戻らない。質疑応答では決定の主体が「議会」であることに質問者が意義を唱えるようなものが何例かありましたが、私はそれ以外の場合の方がよっぽど怖いです。なので私としては、そのような主張をされた方々はそれを撤回するという英断を迫りたい気持ちもあるわけです。
富丘公民館 |
ここにあるように、古文書類は1万点程存在するようです。富士宮市がもう少し史料を広く公開できる状況にあったら、状況は違っていたかもしれません。これも、博物館が無いと難しい。「世界の富士山」であるのに、富士宮市はこの状況を等閑視していました。これは静岡県の問題と言ってもよいかもしれません。
もうお分かりのことでしょう。皆さんは、博物館の機能を狭く捉え過ぎているのです。そして学芸員の役割の大きさを甘く見ています。「富士宮市立郷土史博物館の地域説明会における質疑応答に対する意見」で確認されるような"疑問を持つ人々"というのは、その意見に鑑みるに、このサンドバック状態を間接的に支持し得る存在と言っても間違いではないはずです。身内に敵が居るじゃないですけど、そんな感じです。
富士宮市に研究を促進させる体制がなく、不当な評価を許す状態が長らく続いていたことは否定できない事実です。これは富士宮市にとっての損失であり、市民としてそれを残念がるのが普通ではないでしょうか。それに民俗博物館が位置する富士吉田市は、富士宮市より遥かに経済規模が小さい自治体です。そのような点も考えた方が良いと思います。
以下、意見になります。
【西公民館】
初めから観光で良いと思います。「富士宮がどういう所なのか、自分たちがどのような資源を持っているのか」なんてものは、既にやっておいて然るべしなのです。戦後何年経っていると思っているんですか。そもそも観光客の方が富士宮市の歴史に詳しいのだけれども、それでも何とも思わない富士宮市民を律するのは大変でしょう。これは、これまでの文化課の姿勢そのものの問題でもある。
廃校を利用するということは、「廃校させる」ということでもある。今現在廃校は無いし、この意見が多い事自体が不思議としか言いようがない。また廃校の維持コストが本当に見合うものなのか、よくよく考える必要がある。
維持・管理のために必要だと思います。
富士市の富士市立博物館・歴史民俗資料館は補助金が出ています(富士市1986;p.818)。内訳は以下の通りです。
施設 | 国庫補助金 | 県費 |
---|---|---|
博物館 | 5,500万円 | 3,000万円 |
歴史民俗資料館 | 700万円 | 350万円 |
先ほど一億円が独り歩きしちゃうって話ですけど、議会でも答弁しましたが、 富士山かぐや姫ミュージアム、ここは広大な面積がありますが、旧家の建物も全部管理していて、それで一億超えている状況でかなり人件費もかかっています。
実際にどのような建物群があるのか、また建設コストはどうだったのかを見ていきましょう。以下、展示室の建物および資料館以外の「旧家等の建物」を一覧化してみる(建設当時のもの)。
施設 | 建設費 |
---|---|
長屋門・原泉舎 | 29,884,000円 |
松永家住宅 | 39,000,000円 |
横沢古墳 | 10,897,000円 |
眺峰館 | 17,700,000円 |
東平遺跡高床倉庫 | 15,700,000円 |
これらの維持コストがとんでもないことになっているわけである。補助金は沢山捻出させることに成功したけれども、その維持コストが過大ではあまり意味がないのである。またその後も同じ轍を踏み、追加で「杉浦医院」その他施設を設けているので、コストがとてつもなく膨らんでいると思われる。開業当初には無かったものがいくつも追加されている。
富士宮市は、富士市のような構成(建造物を何箇所も建設する)にはしない方が良いことは言うまでもない。
- 参考文献
- 富士市(1986),『富士市二十年史』
- 堀内真(1989)「富士山内の信仰世界-吉田口登山道を中心として-」『甲斐の成立と地方的展開』,角川書店
- 堀内真(1993)「富士参詣の道者道と富士道」『甲斐路No.76』
- 堀内真(1995)「富士に集う心 : 表口と北口の富士信仰」『境界と鄙に生きる人々』,新人物往来社
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