2020年1月24日金曜日

富士家の富士弥五郎について考える

今回は富士家の人物である「富士弥五郎」について考えていきたい。

まずこの時代の富士氏を取り巻く状況は混沌としていたと言える。家の存続に直接関わる事象が重なっていたと言っても良いくらいである。まず「今川範忠」の駿河入国以来、富士氏は室町幕府と対立していた(「室町幕府と富士氏」)。

『満済准后日記』

しかし『満済准后日記』 永享5年(1433)12月8日条に

富士大宮司御免事、不可有子細由被仰出間…

とあるように、永享5年末には富士氏は足利義教により罷免されている。そしてその後富士大宮司は管領「細川持之」に「富士海苔」と「伊豆海苔」を進上するなどしている。富士海苔は芝川海苔ともいわれ、芝川水系の河川で採れる海苔のことである。つまり富士大宮司は幕府との関係改善に努めていたのである。

そこで、気になる記録が『満済准后日記』にはある。 同日記の永享6年(1434)4月28日条に

富士弥五郎十二歳云々来、対謁了、当富士大宮司能登守孫子也、去年以来在京

とあるのである。富士弥五郎12歳が満済に謁見したという内容であり、弥五郎が富士大宮司の孫子であり、去年から京都に在住しているということが記されている。「去年」とあることから永享5年(1433)から京に在住していたことになる。これは普通に考えれば人質として在京していたと考えられる。もちろん今川範忠に対する反発が原因と考えられる。

ここに「富士大宮司能登守孫子」とあるわけであるが、この「能登守」を官位とする富士大宮司は誰なのであろうか。ここで考えなければならない文書に、永享6年10月25日「今川範忠書下」がある。宛は「富士能登守殿」とある。『満済准后日記』永享6年(1434)4月28日条に「富士大宮司能登守」とあり、当文書は永享6年10月25日付で「富士能登守殿」とあるので、この「富士能登守殿」は富士大宮司であるということがまず分かるのである。

『浅間神社の歴史』では『満済准后日記』に頻出する富士大宮司について「年代より推すに、第二十四代氏時の頃であろう」としている。つまり永享年間の富士大宮司は富士氏時ではないかとしているのである。そして「永享6年10月25日今川範忠より富士大別当跡を預けられたる文書の宛名に、富士能登守とあるのも氏時でなければならぬ」ともしている。これが氏時であるかどうかは別として、『満済准后日記』の富士大宮司と「今川範忠書下」の人物が同一であるというこは間違いない。

そして以下に文書(「後花園天皇袖判口宣案」)を載せたいと思う。



この文書には右馬助であった富士忠時が寛正3年(1462)11月2日に能登守に任命されている(打診されている)ことが示されている。そして天正元年(1466)の 「足利義政御内書写」よりこのとき富士忠時が能登守となっていることが確認できるのである。そして能登守は富士親時に引き継がれていくのである。であるとすれば、永享6年(1434)時点で能登守であった富士大宮司は少なくとも忠時より以前の富士大宮司ということになる。

しかし忠時より以前で時代と符号する各富士大宮司の官位は「右馬助」が確認できるのみで、「能登守」は無いように思われるのである。氏時も系図では「能登守」であるとはしていない。しかし富士忠時の例で分かるように官位は「右馬助→能登守」と昇官しているので、同じように右馬助から能登守に昇官したパターンか、右馬助を経ず能登守となったパターンの富士大宮司が居たと考えられる。

また「後花園天皇袖判口宣案」以前で、富士忠時宛と推察される文書が残る。


享徳四年(1455)閏四月十五日の発給文書であり、宛は「富士右馬助」である。忠時は寛正3年(1462)11月2日に右馬助から能登守に昇官しているため、ここに見える「富士右馬助」は忠時であると考えられる。

また更に遡った永享6年(1434年)、以下の文書が知られる(年代は比定である)。


狩野氏・葛山氏・入江氏・興津氏・富士氏・庵原氏・由比氏(か)ら各氏族の名が見える。先程"「今川範忠」の駿河入国以来、富士氏は室町幕府と対立していた"と記したが、端的に言えばこの者たちはその面々である。そして各氏族に幕府への忠節を求めているのである。ここに富士氏として「富士大宮司」と「富士右馬助」が見える(実際は各々にそれぞれ発給されている)。この「富士右馬助」が忠時かどうかは時代がやや遡っているため判断は避けたいが、忠時ではないように思われる。

富士大宮司に関しては①『満済准后日記』永享6年(1434)4月28日条②永享6年10月25日「今川範忠書下」③「細川持之書状写」(当文書)は同一人物と言ってよいだろう。

またこの文書を引き合いに出す形で大石(2010)では

右馬助系の富士氏は嫡流ではないが、富士氏の嫡流に比肩するほどの有力一族であったと推察することができる

としているが、この考え方は些か妙である。つまり大石氏は富士大宮司(序列は一番上である)でない富士家一族の人間が「右馬助」を名乗っているので、右馬助系の富士氏は嫡流ではないとしているのである。

しかし富士大宮司が「右馬助」から「能登守」と官位を変化させている事実があるので、永享6年(1434年)に見える富士大宮司も以前「右馬助」であった可能性が十分にある。だから「右馬助系の富士氏は嫡流ではない」とすると整合性が保たれない。

大日如来像

またこの文明10年(1478)の大日如来像には胎内銘として「大宮司前能登守忠時 同子親時」とある。つまり文明10年時点で忠時は能登守ではなく、親時が能登守であったのである。『浅間神社の歴史』には「此時には能登守は離任したが、大宮司の職は依然として帯びて居たのである」としている。

管見の限りでは「富士弥五郎」なる人物は『満済准后日記』のみでしか確認できない。この人物を追求する難しさとして「弥五郎」は通称であるので官位等から検討できないということと、「孫子」自体の範囲が広くなるという問題がある。そもそも同日記でしか確認できないので、検証しようがない。どうしても「富士大宮司能登守孫子」から考えていくしかないのである。

大宮司富士氏系図

まず候補として『浅間神社の歴史』でも挙げられていた「氏時」、そして「直氏」「政時」の線を考えていきたい。「氏時」「直氏」は系図上では両者は兄弟であり両者共富士大宮司経験者である。直氏が継いでいるということは、氏時には男子が居なかったのであろうか。『浅間神社の歴史』では「年代より推すに、第二十四代氏時の頃であろう」としているが、兄弟という線を考えると必ずしもそうは言い難い。むしろ「政時」の線も見えてくるのである。

この点を考えていくと「祐本」の存在も考えていかなければならない。「富士家のお家騒動と足利将軍」にあるように、忠時は父である「祐本」と折り合いが合わずお家騒動に発展していた。『浅間神社の歴史』では

現存富士氏系図には祐本の名は無い。されど当時入道しているのを見れば、寛正3年に能登守に任ぜられた右馬助忠時は、その子と想像せられるから、二十五代直氏の入道名であり、また宮若丸は二十八代親時であらう

としている。この忠時の父(=入道名「祐本」とする)を直氏とする考えはひとまず同調したいが、そもそも忠時が「忠時」と名乗っている点が興味深い。もし父から継いでいるのであれば「時」の字でなく「氏」を名乗っているはずである。しかし「政時」「忠時」と兄弟で「時」を用いているのである。

『親元日記』

そもそも系図を信じてよいかという問題もあるが、以下にまとめたいと思う。


富士大宮司
二十四代氏時系図上では直氏とは兄弟
二十五代直氏系図上では政時・忠時の父であり、「祐本」の可能性。
二十六代政時系図上、忠時とは兄弟
二十七代忠時右馬助(少なくとも1455年時点では同官位)、能登守(1466年任官、1478年時点では能登守を退官)
二十八代親時宮若丸(幼名、可能性)、能登守(少なくとも1497年時点)

これを考えると、永享年間の富士大宮司が「直氏」であるという印象を持つ。史料としては残らないが「右馬助→能登守」という昇官があったのではないだろうか。そしてそのパターンを後の富士大宮司も踏襲しているのではないだろうか。この場合は「富士弥五郎」は親時である可能性が高いと思われる。永享年間の富士大宮司は「直氏」であり、この時期孫の親時は在京していた。直氏は富士大宮司を退いた後入道名として「祐本」と名乗っていたのではないかと考える。そして寛正年間に忠時と対立していたと考えたい。

また大石氏は親時の兄弟が「宮若丸」である可能性を示唆し、『浅間神社の歴史』では宮若丸が親時であるとしている。

  • 参考文献
  1. 『浅間神社の歴史』
  2. 大石泰史,「十五世紀後半の大宮司富士家」,『戦国史研究』第60号,2010年

2020年1月20日月曜日

尹良親王と田貫次郎の伝説と田貫湖

ダイヤモンド富士のスポットとしても知られる「田貫湖」。そのほとりには「田貫神社」が位置し、「尹良親王」と「田貫次郎」が祀られている。

両者は「人神」として祀られているのであるが、このような事例は富士郡では稀有であり、今回はこの部分について考えていきたい。まず『浪合記』という史料に

駿河国冨士谷宇津野ニ移シ田貫カ館ニ入レ奉ル此田貫次郎ト申者ハ元ハ冨士浅間ノ神主ナリ神職ヲ嫡子左京亮ニ譲リ宇津野ニ閑居ス(中略)冨士十二郷ノ者ハ新田義助厚恩ノ者共ナリ

とある。内容としては一行が尹良親王を奉じて吉野から上野国に移動する過程で駿河国富士谷の宇津野(=現在の富士宮市内野、"うつの"と読む)に移り、そこで田貫次郎の館に入るという内容である。田貫次郎は「富士浅間の神職」であったといい、その神職は既に嫡子である「左京亮」に譲っており自身は内野にて隠居生活を送っているというものである。

富士宮市内野

まず同記録の信憑性についてであるが、多くで信憑性が疑われている。しかし地理的背景だけで言えば、意外にも整合性が取れている印象がある。まず実際現在の富士宮市内野に隣接する形で田貫湖が存在している(この伝説から田貫湖と名付けられたとも)。そして地理的には上野国の途中に位置している。

一方「富士浅間ノ神職」については、どの浅間神社を指しているかは不明である。また同じ内容が『東武談叢』にもあるといい、『駿国雑志』がこれを引用している。内容は両者ともほぼ同じである。『白糸をめぐる郷土研究』では「富士浅間ノ神職」について

或は甲斐の明日見浅間ともゆふ

としているが、その出典等は示されていない。ただこの記述を思うに、「富士十二郷」の記述の存在が関係していると思われるのである。偽書である『宮下文書』には「富士十二郷」についての記述が確認でき、また同書には「富士大宮司直時」の名も確認できる(現在はその箇所が不明です、教えて下さい)。偽書も全くの架空ではなく実在する人物を取り入れていることから「直時」の名が見えていると考えられる。そして『宮下文書』が発見されたのが何を隠そう「明日見」なのである。おそらく著者は『宮下文書』を念頭に置いて「或は甲斐の明日見浅間ともゆふ」としたのではないだろうか。とりあえず「富士浅間」だけでははっきりしないとは言えるが、仮に富士山本宮浅間大社だと仮定してしまうと、整合性は全く無い。

田貫湖

『浪合記』によると、尹良親王は元中3年(1386)8月8日に征夷大将軍となり源氏姓を給わったとある。そして従者は吉野から上野国に迎え奉るのであるが、その道中に寄っているのが内野なのである。そしてここで「(元)冨士浅間ノ神主」として田貫次郎が出てくるのである。ではこの時代の富士山本宮浅間大社の神職が誰かを考えた時、史料的にはまず「富士直時」と同子「弥一丸」の存在が挙げられる


直時は「譲状」にて子である弥一丸に「天万郷」「上小泉郷半分」「北山郷内上奴久間村の田二反」「黒田北山郷野知分」を譲る約束をしているのである。富士郡にて「直時」の名が見える史料は、この文書の他に「和邇氏系図」と「富士大宮司(和邇部臣)系図)」にしか見られないように思える。したがってここに見える「直時」とは、富士大宮司である富士直時であると考えるのが妥当である。そもそもこのような広大な領地を譲ることができる権力者自体が、大変に限られてくるのである。「和邇氏系図」と「富士大宮司(和邇部臣)系図)」にも「康永四年三月十日卒」とあり、予定通り弥一丸に譲渡されたのであろう。

そして「和邇氏系図」と「富士大宮司(和邇部臣)系図)」には田貫次郎なる人物が神職として存在していたことを示す箇所は無い。そしてそれは「左京亮」も同様である(江戸時代の三十三代富士大宮司である富士信公くらいである)。とりあえず『浪合記』の「冨士浅間ノ神主ナリ」の浅間神社は、何処に設定しているかは分からない。しかし史実としては富士山本宮浅間大社を指す可能性はとても低いということは言って良いのではないだろうか。

私は『宮下文書』と『浪合記』に「冨士十二郷」なる用語が共通して見えることを考えると、「或は甲斐の明日見浅間ともゆふ」という指摘は大いに傾聴に値するのではないかと考える。「富士十二郷」については『今川記』に「富士郡下方十二郷」なる言葉が確認できるので、「富士十二郷」という区分は実際に存在した可能性がある。しかし同史料の内容も疑問視されていることも事実であり(「戦国時代の吉原の歴史と吉原宿の成立」)、全く異なる方面から確認できるこの「富士十二郷」の真偽は不明である。

とりあえず「田貫次郎」の話は、あくまでも伝説の領域を出ない内容であるということを示しておきたいと思う。

  • 参考文献
  1. 渡辺兵定,『白糸をめぐる郷土研究 : 渡辺兵定翁遺稿』,1953年
  2. 『駿国雑志』

2020年1月8日水曜日

富士山本宮浅間大社が富士山八合目以上を所有する理由を歴史から考える

全国には数多の山があります。『日本山名総覧』の説明によると、国土地理院発行の2.5万分図に記載されている山は「16667山」あるといいます。この中には社寺が所有しているものも多く含まれます。つまり「山」を社寺が所有していることは、何ら珍しいことではないのです。実は富士山もその例に漏れず、富士山の場合は神社が一部土地を所有しています(八合目以上)。その神社が「富士山本宮浅間大社」なのです。



新聞記事(WEB版)にそれらに関する興味深い記事があったので、引用させて頂きます。

富士山頂、県境決めず一緒に守る 山梨と静岡(朝日新聞デジタル 2020年1月6日)
国を代表する山である富士山は、その圧倒的な存在感と知名度ゆえに山梨、静岡両県の争いの要因にもなってきた。その最たるものが境界問題だ。静岡県裾野市の市立富士山資料館には、1779年、江戸幕府が出した裁許状が展示されている。富士山頂の土地をめぐり富士山本宮浅間大社(同県富士宮市)や上吉田村(山梨県富士吉田市)の有力者らが起こした争いへの判決だ。「8合目より上は大宮持たるべし」。この時、幕府は富士山本宮浅間大社にその所有権を認めた。第二次大戦後、全国の社寺に貸し付けられていた国有地が原則、無償譲与されることになり、大社は国に8合目以上の譲渡を求めた。しかし、国は一部しか認めず、大社は提訴。1974年に最高裁で勝訴し、2004年、ほとんどの土地が無償で譲渡された。(抜粋)

とあります。実はこの部分は、富士山を世界遺産に登録する際にユネスコに提出された『推薦書』にもはっきりと明記されているレベルの、識者にとっては周知の事実です。

世界遺産登録というのは、一筋縄にはいきません。ユネスコに『推薦書』を提出し、現地調査等を経て、その上で推薦書の内容が繰り返し吟味され認められた場合のみ登録がなされるのです。あまり知られてはいませんが、推薦書は「日本国」が提出する資料であり、富士山の世界遺産登録の根底をなすものです。

推薦書

『推薦書』には以下のように記されています。

①そのうち、八合目以上(標高約3,200~3,375m以上)の区域については、1779年以降、富士山本宮浅間大社の境内地であるとされてきた。それは、山頂に存在する噴火口(内院)の底部に浅間大神が鎮座するとの考え方に基づき、その底部とほぼ同じ標高に当たる八合目から山頂までの区域が最も神聖性の高い区域と考えられてきたからである。  
1609年には徳川幕府により山頂部における富士山本宮浅間大社の散銭取得権が優先的に認められた。これを足がかりとして、富士山本宮浅間大社は山頂部の管理・支配を行うようになり、1779年には幕府の裁許に基づき八合目以上の支配権が認められた。1877年頃には明治政府が八合目以上の土地をいったん国有地と定めたが、1974年の最高裁判所の判決に基づき、2004年には富士山本宮浅間大社に返還された。

とあります。これが推薦書に記されていることから、富士山本宮浅間大社の立場は国にもお墨付きを得ている形となっています。今回はこの部分について考えていきたいと思います。まず

1609年には徳川幕府により山頂部における富士山本宮浅間大社の散銭取得権が優先的に認められた

の箇所についてですが、これは以下の箇所が該当します。

幕府裁許状(安永8年)
安永8年の幕府裁許状には富士山本宮浅間大社が「関ヶ原の戦い」の際に戦勝を祈願し、見事それが成就したことから、幕府が本殿や末社などを残らず再建したということが記されています。また、内院散銭(富士山頂に投げ入れられたお金のこと)を修理代として寄進したことも記されています。まずここから

徳川氏により"山頂における権限に対して"富士山本宮浅間大社が特別な庇護を得ていた

ということが分かります。但しこの史料だけでは「富士山頂の支配」とは言い難いと言えます。しかし他に土地の帰属等が分かる史料も存在しているので、見ていきましょう。


この古文書について青柳(2002)は以下のように説明している。

富士浅間本宮に対する優遇政策は徳川忠長にも引き継がれたようで、この時期「みくりや・すはしりの者共嶽へ上り、大宮司しはいの所へ入籠み、むさと勧進仕るに付て、大宮司迷惑の由申され候」という文面の通達が、忠長の付家老である朝倉筑後守と鳥居土佐守から、地方奉行である村上三右衛門に宛てて出されている。つまり、ここにおいて富士山頂は、富士浅間本宮の「しはい(支配)」の土地と認められたのである

とある。「大宮司しはい」の大宮司は本宮の「富士大宮司」のことであり、みくりやは「御厨」で「すはしり」は「須走」のことである。このように少なくとも寛永年間に富士山本宮浅間大社が支配していたことを示す古文書がしっかりと残っているのである。

徳川忠長
また以下は貞享3年(1686)の古文書である。


青柳(2002)には以下のようにある。

富士山は八合目以上の大行合から山頂までは富士浅間本宮の4人の神職が支配している土地である、という認識を示しているのである。彼らに取って、そこは須走村でも小田原藩領でもない、寛永期に定められたままの「大宮しはい」の土地であった

としている。「行合より八葉」ということから、大行合(おおゆきあい、八合目)から八葉(はちよう、山頂)までを支配していたことになる。また「大宮町大宮司殿」・「宮内殿」・「民部殿」・「宝当院」(別当)はすべて富士山本宮浅間大社に関わる神職である。「大宮町大宮司殿」は富士大宮司であり、「宮内殿」・「民部殿」は公文・案主、「宝当院」は宝幢院であり別当である。

このような歴史を元に現在「富士山本宮浅間大社の土地」という扱いになっているのである。しかしこの長い歴史の中で、当然ながら土地帰属に関する衝突が皆無という訳にはいかなかった。実はその衝突から「より帰属を明確にする」必要性が出てきており、それらの成果物が現在のこの状況を作り出したと言っても良いのである。

青柳(2002)には以下のようにある。

17世紀末から18世紀初頭にかけて、富士山頂の土地に対する須走村の認識は明らかに変化しているのであるが、そのさなかである元禄16(1703)年には、須走村は富士浅間本宮と富士山頂をめぐって衝突を起こしている

とある。「元禄の争論」と言われるものである。須走村は富士山本宮浅間大社を相手取り訴訟を起こした。相手は富士大宮司、公文・案主、宝幢院である。これらの争いは内済で済まされ(和解のようなもの)、須走村に利のある内容で決着した。実はこの訴訟では結果的に土地帰属は明確でないまま終えているのである。

青柳(2002)には以下のようにある。

ところで、この元禄争論は「富士山頂の薬師嶽から御馬乗石までは須走村分の土地である」という須走村の主張は是か非かという、富士浅間本宮と須走村の間での境界争論(境論)としての性格を持っていたにもかかわらず、内済ではその点は一切触れられていない。どのように富士山頂付近に境界を確定するか、という問題は棚上げにされたのである

とある。この古文書は『小山町史』等にも掲載されているが、確かにそのような形跡は見られない。またその後も認識の相違が度々生じていた。青柳(2002)には以下のようにある。

しかし18世紀以降になると富士山頂付近もまた山麓村々の土地の一部として認識されはじめるようになる。須走村の場合、貞享3年段階に至っても依然として同所は富士浅間本宮に帰属する土地であると認識していたが、その22年後の宝永5(1708)年になると、村鑑の中で「惣じて大行合より御馬乗石と申す所までは駿東郡須走村の地内にて御座候」と、大行合から山頂の「御馬乗石(駒ケ嶽)」までは自分の村の土地だ、と主張するようになっている。

とある。これを見て「根拠も無しに自分の土地と言うとは何事だ」と思われるかもしれませんが、このときそのような余裕は無かったのである。

この"宝永5(1708)年になると"の部分が極めて重要であり、実はこの前年に富士山の宝永大噴火があったのである。そのため須走村としてはこれまでの序列や土地帰属観を無視してまでも"価値のある"富士山頂周辺の土地を得たいという思惑があったのである。これは、人間の心理を考えれば当然とも言えるだろう。

絹本著色富士曼荼羅図

これら須走村側の変化が生じていく中で、「明和・安永の争論」というものが起こった。これは大争論であり、ここで曖昧な状態でなく土地帰属を明確にしようという動きが生じたのである。実はこの争論で出てくるのが、記事中に出ていた

「8合目より上は大宮持たるべし」。この時、幕府は富士山本宮浅間大社にその所有権を認めた

の部分であり、『推薦書』にある

富士山本宮浅間大社は山頂部の管理・支配を行うようになり、1779年には幕府の裁許に基づき八合目以上の支配権が認められた。

の部分なのである。ではその歴史の重大転換を見ていきたいと思う。

この争論は富士山頂にて亡くなった登山者が発見されたことから始まり、この登山者を"どこが請け負うか"ということが問題となった。青柳(2002)に

ある土地で死骸処理を実施することは、その土地を誰が所持しているのかという問題と密接に関係している

とあるように、まさに土地帰属の問題が出てきたのである。ここに吉田村(現在の山梨県富士吉田市)も関与してくることとなり、三者で争われることになったのである。青柳(2002)に

明和・安永争論は富士浅間本宮・須走村・吉田村の三つ巴で争われることになった。そして互いが死骸処理を担当すべき地理的範囲はどこからどこまでかという争点を有していたため、今度は元禄争論と異なって、富士山八合目から山頂にかけての土地をめぐる境界の位置に争点の主眼が置かれるもである

とある。これをもっと分かりやすく言えば

富士山登山口を有する「大宮」(駿河)「須走」(駿河)「吉田」(甲斐)の三者の争いであり、駿河・甲斐双方の有力者が関与した山頂の土地帰属に関する最終的な争い

とうことなのである。ここで決まったことは歴史の積み重ねによる事実上の最終決定であり、これが現在にも引き継がれているのである。

この争論に際して須走村は郡奉行に史料を提出したが、この中には土地所持について保証を受けたことを示すものは無かった。しかしこれは富士本宮も同様であり、土地所持の保証を示すような検地帳や朱印状は提出されていなかった。吉田村は言わずもがなである。

そして最終的に幕府は以下のような裁許を与えた。青柳(2002)に

まず、山頂付近の土地については「冨士山八合目より上ハ大宮持たるへし」との判断が示された。富士浅間本宮の主張が認められるかたちとなったのである。(中略)ここでの「大宮持」とは、八合目より上では富士浅間本宮が諸経営活動および死骸処理について優越的な立場にあることを保証する、というくらいの意味であろう

とあるように、「富士山八合目より上は大宮持たるべし」と判断されたのである。しかし青柳氏が述べるように「=土地所持」というよりは「優位的立場にあることは明白である」という域を出ないようにも思える。「曖昧な状態でなく土地帰属を明確にしよう」という流れであったはずであったが、やはり曖昧な状態は続いていたと言える。ここは解釈が大きく分かれる所であり、難しい。

大宮持たるべし

しかしながら徳川忠長支配時代の寛永年間(1624年-1645年)に「大宮司支配の所」という古文書が残り、また明和・安永の争論では1779年に「大宮持たるべし」という幕府の裁許を得た。これら長きに渡り富士本宮が優位的な位置に居続けたことは、指摘されてきた通りである。

山梨県知事と静岡県副知事が文化庁長官に推薦書を提出する様子

そしてそのまま現代に至り、現代の叡智を持って1974年に最高裁判所にて判決が出されたという流れなのである。実は驚くことに最高裁判所の判決でも江戸幕府の裁許が重視されている。これにより限りなく「完全かつ最終的に解決した」と言える状況となったのである。帰結としては妥当な着地点という印象を持つ人も多いだろう。

更に言えば、推薦書にこれらが明記されたことは「完全かつ最終的に解決した」状態を更に補完する結果となったと言える。何故なら、推薦書のその原案は静岡県と山梨県が共同で作成し文化庁へ提出した経緯があるためである。

  • 参考文献 
  1. 青柳周一,『富岳旅百景―観光地域史の試み』, 角川書店,2002年
  2. 高埜利彦,『近世の朝廷と宗教』,吉川弘文館,2014年
  3. 『推薦書』(日本国)

2020年1月2日木曜日

日蓮の身延入山と富士宮市・富士市

まず以下に日蓮の身延入山までの過程を記した「富木殿御書」(鏡忍寺蔵)という古文書を示したい。

富木殿御書

「富木殿御書」(鏡忍寺蔵)について、千葉県教育委員会は以下のように説明している。

文永11年(1274)に、日蓮がはじめて身延山(山梨県)に入ったときの様子を伝えた消息文である。下総国中山(市川市中山)に住む日蓮の信者だった富木常忍にあてた書簡で、信仰の心構えなどを教え諭している。この文書が、かつては法華経寺(市川市)にあったことは、同寺の永仁7年(1299)および康永3年(1344)の古記録でも明らかであるが、その後、何らかの理由で鏡忍寺へ移っている。

富木殿御書によると、日蓮は相模国から駿河国に入り、そして身延が位置する甲斐国に至っていることが分かる。日蓮は

さかわ(酒匂、神奈川県小田原市、5月12日)
たけのした(竹之下、静岡県駿東郡小山町、13日)
くるまがへし(車返、静岡県沼津市、14日 ) 
ををみや(大宮、静岡県富士宮市、15日)
なんぶ(南部、山梨県南巨摩郡南部町、16日)


と移動しているのである。つまり「東海道」を経て「駿州往還」を用いている。ここで「大宮」と出てくるのであるが、これは大宮の記録としては古い部類に入るのではないかと考える。初見である可能性すらある(※ちなみに「吉原」の初見は長禄2年(1458)であるとされる。『鈴川の富士塚』50頁)。


大宮

身延は日蓮宗総本山である「身延山久遠寺」が位置し、日蓮に関する謂われが多く伝わる。一方富士宮市も日蓮宗が占める割合が多く、荻野氏の報告によると富士宮市内の日蓮宗が占める割合は77%であるという。隣接する富士市も45%であるという。

日蓮のルート(※車返は三枚橋城跡とした)

富士市神戸には「雨乞い曼荼羅」の伝説が伝わっているといい、それは日蓮との所以を強調するものであるが、荻野氏の報告によると実際は18世紀後半に生成された可能性が高いという。富士市には他に実相寺の経典閲覧の伝説などが残るが(双方とも身延入山時に関するものではない)、おそらくこちらも後世に生成されたものであろう。

  • 参考文献

  1. 荻野裕子,「甲斐駿河における日蓮曼荼羅授与伝説の生成」,『口承文藝研究 (27) 』 ,2004
  2. 青山靖,「駿州往還の今昔」『甲斐路』創立30周年記念論文集,1969