源頼家は、父「源頼朝」が行った「富士の巻狩」に参加している。 そして自身が二代将軍になった際も「富士の狩倉」に出かけており、再び同じ地(静岡県富士宮市)に降り立っているのである。
それらは『吾妻鏡』に見えるので、具体的に記してみる。- 建久4年(1193)5月8日 - 6月7日 源頼朝、「富士の巻狩」を行う(曽我兄弟の仇討ちが発生)
- 建仁3年(1203)6月3日 源頼家、富士の狩倉に出かける。仁田忠常に人穴を検分させる。同4日に忠常は人穴から戻り、報告を行う。
以下では『吾妻鏡』の該当箇所を引用し、解説を附す。
【1】
八日癸酉 将軍家、為覧富士野藍澤夏狩、令赴駿河国給。
十五日 庚辰 藍澤御狩事終、入御富士野御旅舘。
このことから、5月8日に富士野・藍沢での夏狩を覧るため源頼朝は駿河国に入った。同15日には藍沢での狩りを終え、富士野の御旅館に入ったことが分かる。
ちなみに、静岡県御殿場市の広報等が誤って富士野藍沢の箇所を「富士山麓藍沢」と訳している例がある。
『広報ごてんば』No.1412 |
これは明確な誤りで、「富士野」「藍沢」はそれぞれ異なる富士山麓の地名となる。「藍沢御狩事終、入御富士野御旅館」とあることからも明らかで、『曽我物語』においても「富士野」と「藍沢」は明確に区別されている。例えば現代語訳等で「富士野・藍沢での…」ではなく「富士山麓藍沢での…」と訳すものも無いと思う。
「富士の巻狩」が行われたのは約1ヶ月間である(5月8日から6月7日)。しかし『吾妻鏡』によると、藍澤に居たのは5月15日までと短期であることが分かる。つまりそこから先は「藍沢」から舞台を移し「富士野」となる。御殿場市的にはこれが面白くない。なのでこんなに苦しい解釈を、編集者は(おそらく)理解しつつも意図的にしているわけである。しかしあくまでも広報であり、「文化課」等クレジットされているものではない。十六日 辛巳 富士野御狩之間、 将軍家督若君始令射鹿給(中略)属晩於其所被祭山神矢口等。江間殿令献餅給、此餅三色也。(中略)将軍家并若公敷御行騰於篠上令座給(中略)。可然射手三人被召出之賜二矢口餅。所謂一口工藤庄司景光、二口愛甲三郎季隆、三口曽我太郎祐信等也(中略)。次召出祐信、仰云、 一・二口撰殊射手賜之。三口事可為何様哉者。 祐信不能申是非、 則食三口。 其所作如以前式。 於三口者、将軍可被聞召之趣、一旦定答申歟。就其礼有興之様、 可有御計之旨、依思食儲、被仰含之処、無左右令二自由之条、頗無念之由被仰云々。
儀式の手順 | 人物 | 内容 |
---|---|---|
① | 北条義時 | 三色の餅(黒・赤・白)献上 |
② | 狩野宗茂 | 勢子餅を進める |
③ | 梶原景季・工藤祐経・海野幸氏 | 矢口餅を陪膳(矢口餅を賜るのは工藤景光・愛甲季隆・曾我祐信で先に頼朝に呼ばれている) |
④ | 工藤景光 | 矢口餅の一の口。山神に供する儀式(餅を入れ替えた上で重ねる)をし、それを食し矢叫びを発する |
⑤ | 愛甲季隆 | 矢口餅の二の口。作法は景光と同様。餅は入れ替えず。 |
⑥ | 曾我祐信 | 矢口餅の三の口。作法はまた同様。 |
⑦ | 工藤景光・愛甲季隆・曾我祐信 | 馬や直垂を賜る。返礼として三人は頼家に海・弓・野矢・行騰・沓を献上 |
- 工藤祐経
- 王藤内
- 平子有長
- 愛甲季隆
- 吉川友兼
- 加藤光員
- 海野幸氏
- 岡辺弥三郎
- 原清益
- 堀藤太
- 臼杵八郎
- 宇田五郎
廿二日 丁亥 若公令獲鹿給事、将軍家御自愛余、被差進梶原平二左衛門尉景高於鎌倉、令賀申御台所御方給。景高馳参、以女房申入之処、敢不及御感。御使還失面目。為武将之嫡嗣、獲原野之鹿鳥、強不足為希有。楚忽専使、頗有其煩歟者、景高帰参富士野、今日申此趣云々。
話を源頼家の「富士の狩倉」に移したい。同じく『吾妻鏡』の記述を見ていきたい。
三日 己亥 晴 将軍家、渡御于駿河国富士狩倉。彼山麓又有大谷〈号之人穴〉。為令究見其所、被入仁田四郎忠常主従六人。忠常賜御剱〈重宝〉入人穴。今日不帰出、幕下畢。
建仁3年(1203)6月3日に源頼家は駿河国の富士の狩倉に出かけた(=簡易版「富士の巻狩」のようなもの)。その山麓には大谷があり、「人穴」と呼ばれていた。頼家は人穴を調べるため仁田忠常と主従6人を向かわせた。忠常は頼家より剣を賜り人穴に向かったが、今日は帰ってこなかった。翌日については、以下のように記される。
四日 庚子 陰 巳尅 新田四郎忠常、出人穴帰参。往還経一日一夜也。此洞狭兮不能廻踵。不意進行、又暗兮令痛心神。主従各取松明。路次始中終、水流浸足、蝙蝠遮飛于顔不知幾千萬。其先途大河也。逆浪漲流、失拠于欲渡、只迷惑之外無他。爰当火光、河向見奇特之間、郎従四人忽死亡。而忠常、依彼霊之訓投入恩賜御剱於件河、全命帰參云云。古老云、是浅間大菩薩御在所、往昔以降敢不得見其所云々。今次第尤可恐乎云々。
意訳:4日になると忠常が人穴より帰ってきた。往復に一夜かかったという。忠常は人穴について述べる。「穴は狭く戻ることも出来なかったため前に進むことにしました。また暗く、精神的にも辛く、松明を持って進みました。水が流れ足を浸し、蝙蝠が飛んできて顔に当たり、それは幾千万とも知れず。その先に大河があり、激しく流れており、渡ることができませんでした。困り果てていたところ、火光が当たり大河の先に奇妙なものが見えた途端、郎党4人が突然死亡しました。忠常はその霊に従うことにし、賜った剣を投げ入れました。こうして命を全うして帰ってきました」と。古老が言うところによると、ここは浅間大菩薩の御在所であり、昔より誰もこの場所をみることができなかったという。今後はまことに恐ろしいことです。(意訳終)
『文武ニ道万石通』より |
「奇特」とはつまり富士浅間に他ならず、3日前に人穴に入った和田平太胤長(註:『吾妻鏡によると』頼家は富士の狩倉の前に「伊豆奥狩倉」に出かけ当地にあった「大洞」を和田胤長に調査させている。人穴とあるわけではない)の前には「大蛇」として化現し、新田に対しては「大河」としてその本体を現したのである。この人穴譚がもとになって、後世『富士の人穴草子』という室町物語が成立する。
しかし古老が言うように"見てはいけない"所を見てしまったという意味で、新田忠常も、それを指示した源頼家もタブーを犯してしまったのである。それ故に「今次第尤可恐乎」と締めくくられているのである。そして実際に頼家は翌年に亡くなっているのである。
また仁田忠常も和田胤長もあまり良い最期とは言い難い結果となっている。『富士の人穴草子』では両者が富士の人穴を調査する構成となっており、まず最初に向かった胤長は途中で引き返し、次に調査に向かった忠常は奥まで進む。その後は『吾妻鏡』と似たような展開となり、最終的に中の様子を口外したことで死する展開となる。富士浅間大菩薩との契約を破ったわけである。諸本により展開にやや異なりを見せ、忠常の命が助かるパターンもある。江戸時代の滑稽本『文武ニ道万石通』にも題材として用いられている。
これらをまとめて考えると【1】の時点で頼家は将来に不穏な要素を既に感じさせつつ【2】で決定的な過ちを犯してしまったと言うことが出来るのである。「北条泰時が鎌倉を統べるべきであり、実際そうなった」という流れを、『吾妻鏡』の中に入れ込んでいるわけである。
- 参考文献
- 會田実(2008)「曽我物語にみる源頼朝の王権確立をめぐる象徴表現について」『公家と武家〈4〉官僚制と封建制の比較文明史的考察』,思文閣出版
- 坂井孝一(2014)『曽我物語の史的研究』,吉川弘文館
- 御殿場市,『広報ごてんば』No.1412(2022年3月5日号)
- 富士市(2017)『富士市の歴史文化探訪 曽我伝説』
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