2022年6月4日土曜日

富士の巻狩での源頼家の初鹿獲りと曽我兄弟の仇討ち、富士の狩倉と人穴の奇特

源頼家は、父「源頼朝」が行った「富士の巻狩」に参加している。 そして自身が二代将軍になった際も「富士の狩倉」に出かけており、再び同じ地(静岡県富士宮市)に降り立っているのである

それらは『吾妻鏡』に見えるので、具体的に記してみる。

  1. 建久4年(1193)5月8日 - 6月7日  源頼朝、「富士の巻狩」を行う(曽我兄弟の仇討ちが発生)
  2. 建仁3年(1203)6月3日 源頼家、富士の狩倉に出かける。仁田忠常に人穴を検分させる。同4日に忠常は人穴から戻り、報告を行う。


以下では『吾妻鏡』の該当箇所を引用し、解説を附す。


【1】

八日癸酉 将軍家、為覧富士野藍澤夏狩、令赴駿河国給。

十五日 庚辰 藍澤御狩事終、入御富士野御旅舘。


このことから、5月8日に富士野・藍沢での夏狩を覧るため源頼朝は駿河国に入った。同15日には藍沢での狩りを終え、富士野の御旅館に入ったことが分かる。

ちなみに、静岡県御殿場市の広報等が誤って富士野藍沢の箇所を「富士山麓藍沢」と訳している例がある。

『広報ごてんば』No.1412


これは明確な誤りで、「富士野」「藍沢」はそれぞれ異なる富士山麓の地名となる。「藍沢御狩事終、入御富士野御旅館」とあることからも明らかで、『曽我物語』においても「富士野」と「藍沢」は明確に区別されている。例えば現代語訳等で「富士野・藍沢での…」ではなく「富士山麓藍沢での…」と訳すものも無いと思う。

「富士の巻狩」が行われたのは約1ヶ月間である(5月8日から6月7日)。しかし『吾妻鏡』によると、藍澤に居たのは5月15日までと短期であることが分かる。つまりそこから先は「藍沢」から舞台を移し「富士野」となる。御殿場市的にはこれが面白くない。なのでこんなに苦しい解釈を、編集者は(おそらく)理解しつつも意図的にしているわけである。しかしあくまでも広報であり、「文化課」等クレジットされているものではない。

実は「曽我兄弟の仇討と富士宮市・富士市、鎌倉殿の意図考」にあるように富士市が「弟五郎は捕縛されて鎌倉へ護送される途中、鷹ヶ岡で首を刎ねられました」とか「仇討ち後の鎌倉への護送中に討ち取る」としているのも、同じ性質のものである。図(「曽我兄弟をめぐる人間関係図」)は明らかに『曽我物語』に沿った解説であるが、ただ1つ「五郎の処刑」の部分に限っては曽我物語にそのような展開は一切無いわけである。

実際は『曽我物語』だけでスマートに説明を完結できますが(処刑部分も『曽我物語』は記しています)、そうすると富士市は出て来ないことになってしまう。これがやはり富士市的には面白くない。なのでここだけは『吾妻鏡』や『曽我物語』に拠らず、ひっそりと置き換えるわけです。そんなちっぽけな感情で、本来あるべき記述を変えてしまっているのが実情です。読んでいる人はそんなことは分かりません。広報等は分かりやすいように感じられるものの、実際には理解を複雑にしているだけなのです。「富士の巻狩」に話を戻します。

十六日 辛巳 富士野御狩之間、 将軍家督若君始令射鹿給(中略)属晩於其所被祭山神矢口等。江間殿令献餅給、此餅三色也。(中略)将軍家并若公敷御行騰於篠上令座給(中略)。可然射手三人被召出之賜二矢口餅。所謂一口工藤庄司景光、二口愛甲三郎季隆、三口曽我太郎祐信等也(中略)。次召出祐信、仰云、 一・二口撰殊射手賜之。三口事可為何様哉者。 祐信不能申是非、 則食三口。 其所作如以前式。 於三口者、将軍可被聞召之趣、一旦定答申歟。就其礼有興之様、 可有御計之旨、依思食儲、被仰含之処、無左右令二自由之条、頗無念之由被仰云々。

『吾妻鏡』によると、16日に源頼家が初めて鹿を射止めたという。またこれは愛甲季隆の補助によるものであったともある。この後はひたすら神事について記しているので、以下の表にまめておこうと思う。(坂井2014;p.57)にあるように、この箇所の記述は異様に詳細である。この一見退屈とも思える記述に、隠された意図があると指摘されることは多い。

儀式の手順人物内容
北条義時三色の餅(黒・赤・白)献上
狩野宗茂勢子餅を進める
梶原景季・工藤祐経海野幸氏矢口餅を陪膳(矢口餅を賜るのは工藤景光・愛甲季隆・曾我祐信で先に頼朝に呼ばれている)
工藤景光矢口餅の一の口。山神に供する儀式(餅を入れ替えた上で重ねる)をし、それを食し矢叫びを発する
愛甲季隆矢口餅の二の口。作法は景光と同様。餅は入れ替えず。
曾我祐信矢口餅の三の口。作法はまた同様。
工藤景光・愛甲季隆曾我祐信馬や直垂を賜る。返礼として三人は頼家に海・弓・野矢・行騰・沓を献上

流れはこのような感じである。まず一見した特徴として「曽我兄弟の仇討ち」に関係する者が多いということが挙げられる(黒字)。(坂井2014;p.83)で指摘されるように、真名本『曽我物語』の登場人物と重なっているという言い方も出来るだろう。坂井氏はここに、物語的・説話的な文献の存在を見出している。一見退屈にも思えるこの一連の記述には、暗に示すものがあると思うのである。

【曽我兄弟の仇討ちで死去・負傷した人物(『吾妻鏡』、同場面の登場順)】
  • 工藤祐経
  • 王藤内
  • 平子有長
  • 愛甲季隆
  • 吉川友兼
  • 加藤光員
  • 海野幸氏
  • 岡辺弥三郎
  • 原清益
  • 堀藤太
  • 臼杵八郎
  • 宇田五郎

しかも頼朝は④⑤と儀式が進む中、突如⑥で「三口事可為何様哉者」と述べる。つまり「さて三の口はどのようにするのか」と曽我祐信を試すような物言いをするのである。一方祐信は「祐信不能申是非、 則食三口。 其所作如以前式」と、何も申さずそのまま先の二名と同様の作法で食した。これに頼朝は"「三の口は将軍が召し上がって下さい」と答えると思っていたのにそのまま食べたことは残念である"という旨の言葉を述べた。何となく、後味が悪いのである。 

この儀式に参加した者は討ち取られたり負傷したりした人物が多い。しかも上記のように頼朝にとって不満が残る結果となった。源頼家の初猟りにおける「ハレ」としての神事であるのに、実は「いわくつき」であったのである

廿二日 丁亥 若公令獲鹿給事、将軍家御自愛余、被差進梶原平二左衛門尉景高於鎌倉、令賀申御台所御方給。景高馳参、以女房申入之処、敢不及御感。御使還失面目。為武将之嫡嗣、獲原野之鹿鳥、強不足為希有。楚忽専使、頗有其煩歟者、景高帰参富士野、今日申此趣云々。

源頼朝は頼家の初鹿獲りを、梶原景高を鎌倉へ差し向けて北条政子に知らせた。しかし政子は「敢不及御感」と特に思うところはなかったとある。また「武将の嫡嗣が獲物を狩ったことは特に珍しいことでもない。そのようなことで使いを出すのは煩わしいことである」と呆れた様子を示している(坂井2014;p.56)。

もちろん初狩りの意義が政子には分からなかったとか、武士と御台所としての感覚の違いは挙げられるだろう。しかしここでは、使いが「梶原景高」であったことに着目したい。兄の梶原景季は矢口餅の陪膳役を務め、初鹿狩りの伝令役は弟の景高であったということになる。また(坂井2014;p.122)にあるように、真名本では景季は兄弟を殺すように命じられている。しかしこの両者は「梶原景時の変」であえなく死するのである。しかもそれだけではない。このうち「工藤景光」は5月27日に発病しているのである。そしてその翌日に「曾我兄弟の仇討ち」が起こるのである

であれば、この「源頼家の初鹿獲り」に関与した人物はかなりの確率で不幸な目に遭っているということになる。これでは「(不幸にならず残った)泰時が将来鎌倉を統べるべきである」と言っているかのようである。


源頼家


【2】

話を源頼家の「富士の狩倉」に移したい。同じく『吾妻鏡』の記述を見ていきたい。


三日 己亥 晴 将軍家、渡御于駿河国富士狩倉。彼山麓又有大谷〈号之人穴〉。為令究見其所、被入仁田四郎忠常主従六人。忠常賜御剱〈重宝〉入人穴。今日不帰出、幕下畢。

建仁3年(1203)6月3日に源頼家は駿河国の富士の狩倉に出かけた(=簡易版「富士の巻狩」のようなもの)。その山麓には大谷があり、「人穴」と呼ばれていた。頼家は人穴を調べるため仁田忠常と主従6人を向かわせた。忠常は頼家より剣を賜り人穴に向かったが、今日は帰ってこなかった。翌日については、以下のように記される。


四日 庚子 陰 巳尅 新田四郎忠常、出人穴帰参。往還経一日一夜也。此洞狭兮不能廻踵。不意進行、又暗兮令痛心神。主従各取松明。路次始中終、水流浸足、蝙蝠遮飛于顔不知幾千萬。其先途大河也。逆浪漲流、失拠于欲渡、只迷惑之外無他。爰当火光、河向見奇特之間、郎従四人忽死亡。而忠常、依彼霊之訓投入恩賜御剱於件河、全命帰參云云。古老云、是浅間大菩薩御在所、往昔以降敢不得見其所云々。今次第尤可恐乎云々。

意訳:4日になると忠常が人穴より帰ってきた。往復に一夜かかったという。忠常は人穴について述べる。「穴は狭く戻ることも出来なかったため前に進むことにしました。また暗く、精神的にも辛く、松明を持って進みました。水が流れ足を浸し、蝙蝠が飛んできて顔に当たり、それは幾千万とも知れず。その先に大河があり、激しく流れており、渡ることができませんでした。困り果てていたところ、火光が当たり大河の先に奇妙なものが見えた途端、郎党4人が突然死亡しました。忠常はその霊に従うことにし、賜った剣を投げ入れました。こうして命を全うして帰ってきました」と。古老が言うところによると、ここは浅間大菩薩の御在所であり、昔より誰もこの場所をみることができなかったという。今後はまことに恐ろしいことです。(意訳終)

『文武ニ道万石通』より


まず「是浅間大菩薩御在所」とある箇所が重要であり、富士山信仰の一端を示すものとなっている。これが「古老」により語られたという記述が『吾妻鏡』に認められるということは、信仰が民衆に広まっていたと解釈しても問題ないものと考えられる。もちろん郎党が急死したという記述は真としては受け入れられないものの、編纂時の意識として違和感なく迎えられるものであったのである。

またここで「人穴」が登場することから、冒頭で述べたように「再び同じ地(静岡県富士宮市)に降り立っているのである」と明確に言えるのである。この「富士の狩倉」では藍沢に向かったかどうかは不明である。

(会田2008)は以下のように説明する。

「奇特」とはつまり富士浅間に他ならず、3日前に人穴に入った和田平太胤長(註:『吾妻鏡によると』頼家は富士の狩倉の前に「伊豆奥狩倉」に出かけ当地にあった「大洞」を和田胤長に調査させている。人穴とあるわけではない)の前には「大蛇」として化現し、新田に対しては「大河」としてその本体を現したのである。この人穴譚がもとになって、後世『富士の人穴草子』という室町物語が成立する。

伊豆奥狩倉の「大洞」に対する「大蛇」が、富士狩倉の「人穴」に対する「浅間大菩薩」であることは間違いないと思われる。この"穴(洞)に神が示現する"という特異な現象が『吾妻鏡』には立て続けに記されているのである。

しかし古老が言うように"見てはいけない"所を見てしまったという意味で、新田忠常も、それを指示した源頼家もタブーを犯してしまったのである。それ故に「今次第尤可恐乎」と締めくくられているのである。そして実際に頼家は翌年に亡くなっているのである。

また仁田忠常も和田胤長もあまり良い最期とは言い難い結果となっている。『富士の人穴草子』では両者が富士の人穴を調査する構成となっており、まず最初に向かった胤長は途中で引き返し、次に調査に向かった忠常は奥まで進む。その後は『吾妻鏡』と似たような展開となり、最終的に中の様子を口外したことで死する展開となる。富士浅間大菩薩との契約を破ったわけである。諸本により展開にやや異なりを見せ、忠常の命が助かるパターンもある。江戸時代の滑稽本『文武ニ道万石通』にも題材として用いられている。

これらをまとめて考えると【1】の時点で頼家は将来に不穏な要素を既に感じさせつつ【2】で決定的な過ちを犯してしまったと言うことが出来るのである。「北条泰時が鎌倉を統べるべきであり、実際そうなった」という流れを、『吾妻鏡』の中に入れ込んでいるわけである。


  • 参考文献
  1. 會田実(2008)「曽我物語にみる源頼朝の王権確立をめぐる象徴表現について」『公家と武家〈4〉官僚制と封建制の比較文明史的考察』,思文閣出版
  2. 坂井孝一(2014)『曽我物語の史的研究』,吉川弘文館
  3. 御殿場市,『広報ごてんば』No.1412(2022年3月5日号)
  4. 富士市(2017)『富士市の歴史文化探訪 曽我伝説』

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