- 市史の役割
今回の富士宮市史は、市民の皆様にとって分かりやすく、親しみやすいものとなるよう、写真や図を多く使用した、図説的なものを予定しています。
市史刊行後、開発に伴う埋蔵文化財の発掘調査や、古文書資料の調査などによる資料の蓄積、歴史学研究の進歩が見られました。
とあります。これだけの年月を経ていると新出史料も多くあります。例えば小和田哲男氏が"「史料紹介「佐野氏古文書写」」『地方史静岡 第24号』,1996"の中で
この「佐野氏古文書併甲斐国志」を、私はたまたま東京の古書店で買入した。佐野氏関係の古文書は、これまでに活字となったものを何通もみていたので、はじめのうちは、本書に所収されている古文書もすべて活字化されているものとばかり考えていた。ところが、調べていくうちに、ほとんどが未紹介のものであることが明らかになった。何と、文書総数22点のうち、15通までがこれまで未紹介、すなわち新発見のものであった。(中略)いずれにせよ、写しとはいえ、戦国期の古文書がこれだけ大量にみつかったのは稀で、武田信玄による駿河侵攻の過程、さらに、武田勝頼および穴山梅雪による駿河国富士郡支配の実像が浮き彫りになってくる文書群である。
と述べているように、これによっていままで分からなかった「佐野氏」の歴史がだいぶ分かるようになりました。"佐野さんだらけ"の富士宮市にとって大きな発見です。このような例が時代を経て重なっているのです。また
平成22年(2010)には芝川町との合併が行われ、平成25年(2013)には富士山が世界遺産に登録されるなど、富士宮市をめぐる状況は大きく変化してきました。
とあります。つまり旧芝川町域の歴史も今回含まれるということであり、大いに期待されます。旧芝川町域で注目されるのは「富士川との関わり」や「観応の擾乱における桜野の戦い」「駿州往還」でしょう。近世でいえば「富士橋」の革新性を指摘する声もあります(森ら2003)(森ら2004)。また現在の市域で最も早く近代的な製紙工場ができたのは実は芝川町域であるということを忘れてはならないように思います(四日市製紙芝川工場)。
時代と共に科学技術も進歩しています。例えば今まで不詳であった「墨書」の文字等も最先端技術で分かるようになっています。例えば「銅造 薬師如来像 懸仏」(大宮口登山道七合五勺で発見)は墨書の箇所が判別不能とされていましたが、こういうものもおそらく分かるようになっています。そのような「従来は判別不能であったもの」を調査する機会にもなると思います(この懸仏は既にやっているかもしれません)。このようなものを踏まえた上で完成された市史が期待されるところです。
「本のチカラ」は様々な可能性を秘めています。例えば大発見とされる「銅造 虚空蔵菩薩像 懸仏(1482年)」は富士山頂の三島ヶ岳で発見され、現在富士山本宮浅間大社に奉納されていますが、発見の経緯が面白いのです。遠藤秀男『富士宮歴史散歩』に横浜の人が突然私のところを尋ねて来て「山頂でこんな物を拾ったが見て欲しい」という。見ると円盤型の青さびた掛仏である。(中略)そして左右に文字が刻まれていて、「文明十四年六月」「総州菅生庄木佐良津郷」とあり、(中略)千葉の人によって富士山頂に奉納されたものであることが判明した。(中略)発見のきっかけは、次のようだという。拙著『富士山の謎』で富士山中から古銭が多く発見されている話を読み、登山の折りに注意して歩き、(中略)砂中に埋まっているのが見つかったという。そこで私の所へ持ち込んだという次第であるが…
とあります。つまり「本」の存在がこのような大発見に繋がったのです。「本」は人を動かす力があります。市史は「(他の歴史系の刊行物に比べれば)手に取る確率が明らかに高い」のですが、必ずしもこのように文章といった形で功績が分かりやすく残らないにしても、結果的に市に貢献・還元することが期待できるものです。なので市は望まれるものは率先して行い、また十分に力を入れる必要性があります。もしそれを阻害してしまうと、それは未来への貢献の可能性を削ぐことに他ならないです。
また単純に「研究の蓄積」が重要になります。例えば世界文化遺産「富士山」の構成資産は、明らかに「研究の蓄積の有無」に左右されています。山梨県の構成資産が多いのは、富士吉田市歴史民俗博物館(現・富士山ミュージアム)の努力の賜物です。研究蓄積がなければ、「御師住宅」も構成資産に入らなかったと私は思います。このようなものは、後から急いで動いても間に合わないのです。誤魔化しが効きません。また同博物館は2000年に富士登山案内図をテーマとした企画展を行うなど、先見性もあったように思います。
市史編纂の周期はとても長いので、やはりその時に完成度の高いものを拵える必要性があると思います。なのであまり「図説的なもの」としてしまうと、このような「本のチカラ」を削ぐことにもなりかねません。
数年前の2018年に「国立歴史民俗博物館」という大きい博物館で「日本の中世文書―機能と形と国際比較―」という企画展が催されました。実はこの企画展では富士氏を受給者とする古文書が取り上げられました。企画展では「沙弥道朝書状」という呼称でしたが、その解説が実はかなりの不十分な内容でおざなりなことになっています。解説者は受給者の「富士右馬助」の方から探ることは一切しなかったのだと考えられますが、富士氏が"文書の残り方や歴史における存在感から考えると違和感を禁じえない程に認知度が低い"ということを表す一例のようにも思えます。単純に発給者の比定が明確でないとき、普通に受給者に「富士〇〇」とあるのだから富士氏の方にあたれば良いだけの話に思えますが、なぜかそうはならない位置に「富士氏」があるようです。こういう時に、参考文献・引用文献として新市史が登場する例が見られるようになっていくと思います。やはり市史は引用されることが多いと思うのですが、「図説」に偏り過ぎたらそれが望めないことは言うまでもありません。以下では、従来の『市史』では不十分であったものの新『市史』では書き加えられると想定されるもの、また新たに書き加えられると思われるものについて書いてみようと思います。
【民俗編】
民俗については、あまり考えたことがありませんでした。ただ『山と森のフォークロア』(1996年)や『中日本民俗論』(2006年)という本に富士宮市の伝承・風習等が多く記されており、とても興味深く読んだ記憶は残っています。人々に想起を強く促す力があるのは、実は民俗学ではないかと思うのです。そして、現在進行系のものはそこに入っていくことも出来ます。
「伝承」で言えば、個人的に好きなのは「白坊主」になります。現在でも影響を色濃く残しているという意味でも面白いです。他「田貫湖周辺の伝承」が特に注目されます。富士宮市で「民間伝承」と言えば、田貫湖周辺のものが先ず想起されると思います。また安養寺の伝承も面白いです。猫檀家・狸和尚系統の伝承が残りますが、このような「日本昔ばなし」的な伝承を有する寺院とそうでない寺院となぜ分かれるのかというところにも興味がそそられるものです。
また方言・アクセントについてはあまり言及されている例を見ません。方言については山中共古『吉居雑話』にて「大宮方言」を記録している例が最も良質と言えます。また古くは(前川1956)が富士郡北部のアクセントに着目しています。私はまさに北部地域で愛知県の名古屋市に近いアクセントを感じることがありますが、70頁辺りで解説があり興味深く読んだ記憶があります。一方(富山2006)に記されるような静岡県の方言特性が富士宮市にはあまり当てはまらないように思います。「ナヤシ方言」という感じもしませんし、東西方言対立の分岐点のような性質があるかと言われればないように思います。実際のところどうでしょうか。
また「鬼決め歌」の唱え文句は、富士宮市は「ぎったんばっこん」が主流だと思われる。(美濃部2006)の報告があるが、サンプルの地域に偏りがあることが惜しまれる。
日常生活文化という意味では、「駿河半紙」や「富士川舟運」も重要な位置にあると思います。駿河半紙は「現在の製紙業の隆盛」のルーツであると考えられます。白糸の滝辺りにある石碑(成田1962;pp.92-96)も、もっと注目される形に出来ないものか…と感じてしまいます。富士宮市こそ「紙」との関係が密接だったのですから。
- 富士氏
- 富士川との関わり
- 富士野
- 佐野氏
- 観応の擾乱における桜野の戦い
- 吉野氏
- 富士海苔
- 井出氏
- 災害
- 他
- 生活
- 用途地域・土地開発等
- 富士山との関係
富士山頂 山小屋境界線確定へ 二重課税 約30年ぶり解消(東京新聞Web版 2014年1月10日)
富士山頂付近の県境や市町境が画定していないため富士宮市と小山町の二市町から固定資産税を課税されている山頂の山小屋「銀明館」の所在地を小山町とするよう、両市町が調整していることが分かった。所在地が定まれば、両市町の境界が画定し、三十年に及ぶ二重課税が解消することになる。銀明館は、富士宮口登山道と御殿場口登山道を登り切った頂上付近にある。富士宮市側は、家屋台帳を根拠に住所を「富士宮市富士山頂」として一九四二年から課税。小山町も八一年に環境庁(当時)が銀明館の所在地を「小山町」と告示したことから住所を「小山町須走」とし、翌八二年から富士宮市と同額の年七千円を課税している。銀明館を所有する富士宮市の自営業宮崎善旦(よしかつ)さん(64)によると、納め先が定まらなくなったため、八二年度から税相当額を静岡地方法務局富士支局に供託している。関係者によると、富士宮市長と小山町長は課税権を町に一本化することで大筋合意し、既に宮崎さんにも方針を伝えた。宮崎さんは「ようやく一区切り付く。富士山が世界文化遺産になり、県内でもめているような状況は好ましくない」と一本化を歓迎する。ただ境界の画定には両議会の議決などが必要で、ハードルも高い。市行政課の担当者は「境界線画定には古文書や古地図など資料による高度な客観性が求められる」と指摘。「富士山頂は世界文化遺産の象徴であり、慎重な調整が求められる。富士宮市にとっては課税権の放棄にもなり、市民の理解も必要だ」と話す。「富士山学」が専門の渡辺豊博都留文科大教授(63)=三島市=は「境界線が定まらないと責任の所在が不明確になり、事故時の危機管理の面でも支障が出る。県内で話が進めば、頂上の県境画定への問題提起にもなる」と評価する。
- 産業
- 商業
- 生活・文化
- 財政
富士宮市>産業(数多くのカテゴリーの中の1つ)>第三次産業(第一・第二・第三のうち1つ)>商業(数多くの分類の中の1つ)>現代(各時代区分の中の1つ)>施設
- おわりに
- 参考文献
- 山本熊太郎(1941)『新日本地誌』中部地方編,古今書院
- 前川秀雄(1956)富士郡北部地帯のアクセント『文學部論叢』6号
- 成田潔英(1962)『紙碑』,製紙博物館
- 太田勇(1962)「岳南地方の工業化」『地理学評論』 第35巻9号
- 太田勇(1966)「岳南地方の工業化 (続報)」『地理評論文』第39巻1号
- 塚原美村(1969)「静岡県境のうごき」『甲斐路 : 山梨郷土研究会 創立三十周年記念論文集』,山梨郷土研究会
- 佐々木清治(1975)「明治前期における地方行政区画の変遷」『政治区画の歴史地理』,歴史地理学会
- 渡部景隆・本間久英・三輪洋次(1991),「富士山古熔岩流中の三ツ池穴産熔岩ストロー中に見られる 磁鉄鉱の形態とその解釈」『地学教育』第44巻
- 平成12年度静岡文化芸術大学特別研究「生活文化を継承する建造物に関する研究」文献調査リスト
- 森ら(2003)「四日市製紙専用鉄道の大型吊橋・富士橋」『土木史研究講演集 』23号
- 高橋敏(2003)「幕末民衆の恐怖と妄想--駿河国大宮町のコレラ騒動」『国立歴史民俗博物館研究報告』108巻
- 森ら(2004)「四日市製紙専用鉄道の吊橋-富士橋の再評価」『土木史研究講演集 』23号
- 歴史教育者協議会編(2004)『図説米騒動と民主主義の発展』
- 富山昭(2006)東西中間帯の方言特性『中日本民俗論』,静岡県民俗学会
- 美濃部京子(2006)わらべうたの変容-鬼決め歌の変容から静岡県の位置を考える-『中日本民俗論』,静岡県民俗学会
- 佐々木一彰(2006)「地域における映像制作支援環境の整備-映像制作の誘致・支援による地域づくり-」『NRIパブリックマネジメントレビュー』vol.35,野村総合研究所
- 深澤映司(2007)「地方自治体の経済活性化策に対する地方交付税制度の影響」,国立国会図書館
- 村串仁三郎(2010)「富士箱根国立公園内の戦後の観光開発計画と反対運動 : 戦後後期の国立公園制度の整備・拡充(10)」『経済志林』78巻2号
- 篠原武(2013),平成24年度やまなし再発見講座&埋蔵文化財センターシンポジウム 「自然災害と考古学~過去からの警告~」 第2回「富士山の災害~雪代(土石流)~」
- 国土交通省都市局(2013)「歴史まちづくりネットワーク構築検討調査(公益社団法人静岡県建築士会)報告書」
- 防越ら(2015)静岡県富士宮市の旧櫻井製茶の荒茶工場について『日本建築学会大会学術講演梗概集』
- 太田 慧・菊地 俊夫(2015)富士山麓における農業的土地利用変化とその地域性,『日本地理学会発表要旨集』
- 清水擴(2016),近世東国民家の柱間寸法と畳割の分布(三)建築史学 66 (0), 39-52, 2016
- 池谷和信・渡辺和之(2016)富士山麓における茅場利用と財産区『日本地理学会発表要旨集』
- 服部健太郎・中西一郎(2018)「1707年宝永地震と富士山宝永噴火に関する一史料 (2):—『浅間文書纂』に掲載された「大地震富士山焼出之事」の底本—」『地震』第2輯 70
- 矢田 俊文・堀田 嵩洋(2019)「地震被害評価方法の再検討」『資料学研究』16号
- 服部健太郎・中西一郎(2019)「史料1707年宝永地震と富士山宝永噴火に関する史料」『地震』第2輯 71
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