2022年3月20日日曜日

新富士宮市史編纂事業の意義と古史料の提供呼びかけ

静岡県富士宮市では「市史編さん事業」がスタートしています。広報等では度々告知がなされていますが、新しい『富士宮市史』(その自治体の歴史を記した本)を作る作業が進められていることを意味します。



それに伴い、市は古史料等を探しています(市外の人であっても、富士宮市に関わる古史料であれば必ず参考になるので、是非連絡してみて下さい)。

  • 市史の役割

編纂事業の方針として、市HPには以下のような説明がなされています。

今回の富士宮市史は、市民の皆様にとって分かりやすく、親しみやすいものとなるよう、写真や図を多く使用した、図説的なものを予定しています

図説というのは本来は市史本体に対する補助資料として作成する位置づけにあるものなので、一抹の不安を感じます。また

市史刊行後、開発に伴う埋蔵文化財の発掘調査や、古文書資料の調査などによる資料の蓄積、歴史学研究の進歩が見られました。

とあります。これだけの年月を経ていると新出史料も多くあります。例えば小和田哲男氏が"「史料紹介「佐野氏古文書写」」『地方史静岡 第24号』,1996"の中で


この「佐野氏古文書併甲斐国志」を、私はたまたま東京の古書店で買入した。佐野氏関係の古文書は、これまでに活字となったものを何通もみていたので、はじめのうちは、本書に所収されている古文書もすべて活字化されているものとばかり考えていた。ところが、調べていくうちに、ほとんどが未紹介のものであることが明らかになった。何と、文書総数22点のうち、15通までがこれまで未紹介、すなわち新発見のものであった。(中略)いずれにせよ、写しとはいえ、戦国期の古文書がこれだけ大量にみつかったのは稀で、武田信玄による駿河侵攻の過程、さらに、武田勝頼および穴山梅雪による駿河国富士郡支配の実像が浮き彫りになってくる文書群である。


と述べているように、これによっていままで分からなかった「佐野氏」の歴史がだいぶ分かるようになりました。"佐野さんだらけ"の富士宮市にとって大きな発見です。このような例が時代を経て重なっているのです。また


平成22年(2010)には芝川町との合併が行われ、平成25年(2013)には富士山が世界遺産に登録されるなど、富士宮市をめぐる状況は大きく変化してきました。


とあります。つまり旧芝川町域の歴史も今回含まれるということであり、大いに期待されます。旧芝川町域で注目されるのは「富士川との関わり」や「観応の擾乱における桜野の戦い」「駿州往還」でしょう。近世でいえば「富士橋」の革新性を指摘する声もあります(森ら2003)(森ら2004)。また現在の市域で最も早く近代的な製紙工場ができたのは実は芝川町域であるということを忘れてはならないように思います(四日市製紙芝川工場)。

時代と共に科学技術も進歩しています。例えば今まで不詳であった「墨書」の文字等も最先端技術で分かるようになっています。例えば「銅造 薬師如来像 懸仏」(大宮口登山道七合五勺で発見)は墨書の箇所が判別不能とされていましたが、こういうものもおそらく分かるようになっています。そのような「従来は判別不能であったもの」を調査する機会にもなると思います(この懸仏は既にやっているかもしれません)。このようなものを踏まえた上で完成された市史が期待されるところです。

「本のチカラ」は様々な可能性を秘めています。例えば大発見とされる「銅造 虚空蔵菩薩像 懸仏(1482年)」は富士山頂の三島ヶ岳で発見され、現在富士山本宮浅間大社に奉納されていますが、発見の経緯が面白いのです。遠藤秀男『富士宮歴史散歩』に

横浜の人が突然私のところを尋ねて来て「山頂でこんな物を拾ったが見て欲しい」という。見ると円盤型の青さびた掛仏である。(中略)そして左右に文字が刻まれていて、「文明十四年六月」「総州菅生庄木佐良津郷」とあり、(中略)千葉の人によって富士山頂に奉納されたものであることが判明した。(中略)発見のきっかけは、次のようだという。拙著『富士山の謎』で富士山中から古銭が多く発見されている話を読み、登山の折りに注意して歩き、(中略)砂中に埋まっているのが見つかったという。そこで私の所へ持ち込んだという次第であるが…

とあります。つまり「本」の存在がこのような大発見に繋がったのです。「本」は人を動かす力があります。市史は「(他の歴史系の刊行物に比べれば)手に取る確率が明らかに高い」のですが、必ずしもこのように文章といった形で功績が分かりやすく残らないにしても、結果的に市に貢献・還元することが期待できるものです。なので市は望まれるものは率先して行い、また十分に力を入れる必要性があります。もしそれを阻害してしまうと、それは未来への貢献の可能性を削ぐことに他ならないです。

また単純に「研究の蓄積」が重要になります。例えば世界文化遺産「富士山」の構成資産は、明らかに「研究の蓄積の有無」に左右されています。山梨県の構成資産が多いのは、富士吉田市歴史民俗博物館(現・富士山ミュージアム)の努力の賜物です。研究蓄積がなければ、「御師住宅」も構成資産に入らなかったと私は思います。このようなものは、後から急いで動いても間に合わないのです。誤魔化しが効きません。また同博物館は2000年に富士登山案内図をテーマとした企画展を行うなど、先見性もあったように思います。

市史編纂の周期はとても長いので、やはりその時に完成度の高いものを拵える必要性があると思います。なのであまり「図説的なもの」としてしまうと、このような「本のチカラ」を削ぐことにもなりかねません。

数年前の2018年に「国立歴史民俗博物館」という大きい博物館で「日本の中世文書―機能と形と国際比較―」という企画展が催されました。実はこの企画展では富士氏を受給者とする古文書が取り上げられました。企画展では「沙弥道朝書状」という呼称でしたが、その解説が実はかなりの不十分な内容でおざなりなことになっています。解説者は受給者の「富士右馬助」の方から探ることは一切しなかったのだと考えられますが、富士氏が"文書の残り方や歴史における存在感から考えると違和感を禁じえない程に認知度が低い"ということを表す一例のようにも思えます。単純に発給者の比定が明確でないとき、普通に受給者に「富士〇〇」とあるのだから富士氏の方にあたれば良いだけの話に思えますが、なぜかそうはならない位置に「富士氏」があるようです。こういう時に、参考文献・引用文献として新市史が登場する例が見られるようになっていくと思います。やはり市史は引用されることが多いと思うのですが、「図説」に偏り過ぎたらそれが望めないことは言うまでもありません。

以下では、従来の『市史』では不十分であったものの新『市史』では書き加えられると想定されるもの、また新たに書き加えられると思われるものについて書いてみようと思います。

自然環境編

「富士金山」の地質学的なアプローチや(これは難しいと思われる)、未だ謎に包まれている「三ッ池穴」等も詳細な情報が欲しいところです。三ッ池穴は実は凄いですが、一方で詳細な報告は(渡部ら1991)くらいではないかと思います。自然のダイナミズムを示す市史に必ずしもする必要性は無いのかもしれませんが、三ッ池穴はそれを容易に感じ取れる資産ではあります。

地理学として最近興味をそそられた論考類は"山田和芳(2020),「地理学者がみた富士宮のここがすごい-富士山の恩恵と禍害-」,『環境考古学と富士山』4"が挙げられますが、他方広く見てみると、例えば「富士山の湧水」については様々な学説があって結局のところよく分かりません。外野から見ると最大公約数的な位置がどこなのかを捉えることも難しい印象です。この分野は統一見解があるものかと考えていましたが、思った以上に捉え方が如何様にもあるように思えます。例えば私は富士五湖が湧水からなるとは全く思いませんし、青木ヶ原樹海も「原生林」とは言えないと思います。

意外にも「市内の川一覧」を流域と共に紹介する文献が無いように思います。実は富士宮市には「大沢川」が複数あったりしますね。当市の特徴的な地理として、南部には断層の他に星山の風隙群、北部には小田貫湿原等があります。個人的には星山が一番面白いですね。"超"ダイナミズムを感じますし、他の人も説明さえあればそう感じると思います。

また「龍厳淵」について解説されることを最も強い言葉で促したいです。龍厳淵は富士宮市と富士市に跨って位置していますが、周辺にはポットホールが沢山存在していますし、断層や火山流を考える上でも最適だと思います。

民俗編

民俗については、あまり考えたことがありませんでした。ただ『山と森のフォークロア』(1996年)や『中日本民俗論』(2006年)という本に富士宮市の伝承・風習等が多く記されており、とても興味深く読んだ記憶は残っています。人々に想起を強く促す力があるのは、実は民俗学ではないかと思うのです。そして、現在進行系のものはそこに入っていくことも出来ます。

「伝承」で言えば、個人的に好きなのは「白坊主」になります。現在でも影響を色濃く残しているという意味でも面白いです。他「田貫湖周辺の伝承」が特に注目されます。富士宮市で「民間伝承」と言えば、田貫湖周辺のものが先ず想起されると思います。また安養寺の伝承も面白いです。猫檀家・狸和尚系統の伝承が残りますが、このような「日本昔ばなし」的な伝承を有する寺院とそうでない寺院となぜ分かれるのかというところにも興味がそそられるものです。

また方言・アクセントについてはあまり言及されている例を見ません。方言については山中共古『吉居雑話』にて「大宮方言」を記録している例が最も良質と言えます。また古くは(前川1956)が富士郡北部のアクセントに着目しています。私はまさに北部地域で愛知県の名古屋市に近いアクセントを感じることがありますが、70頁辺りで解説があり興味深く読んだ記憶があります。一方(富山2006)に記されるような静岡県の方言特性が富士宮市にはあまり当てはまらないように思います。「ナヤシ方言」という感じもしませんし、東西方言対立の分岐点のような性質があるかと言われればないように思います。実際のところどうでしょうか。

また「鬼決め歌」の唱え文句は、富士宮市は「ぎったんばっこん」が主流だと思われる。(美濃部2006)の報告があるが、サンプルの地域に偏りがあることが惜しまれる。

日常生活文化という意味では、「駿河半紙」や「富士川舟運」も重要な位置にあると思います。駿河半紙は「現在の製紙業の隆盛」のルーツであると考えられます。白糸の滝辺りにある石碑(成田1962;pp.92-96)も、もっと注目される形に出来ないものか…と感じてしまいます。富士宮市こそ「紙」との関係が密接だったのですから


通史編:先史・古代~中世・近世

通史編は項目別で解説します。

  • 富士氏

多くのページを割き解説が加えられると先ず想定されるのが、富士氏です。富士宮市の富士氏関連のコンテンツ量は、当地に与えてきたその影響から考えるとあまりにも少ないと言えます。また「富士大宮司のみ」に着目するきらいがありました。これでは全く見えてこないのは言うまでもありません。「富士」という氏族全体として捉えられていなかったように思います。新出史料等もあるので、根本から編集姿勢を変える必要があると言えます

またこれまで「花押」の分析等もなされたことがありません。もし上記のように「写真や図を多く使用した、図説的なもの」を予定しているのであれば、文書の掲載は期待したいです。

近世は富士大宮の富士氏は社家としての側面に統一されていますが、この部分はあまりにも研究が進んでいません。つまり「神職としての側面」が全くもって日の目を見ることがない状況が続いているのです。近年「東日本大震災」の関係で災害関係の古史料にあたるケースが見られますが、それくらいでしか言及されるケースが無いです(服部・中西2018)(服部・中西2019)。正面から向き合ったものは、昭和初期の「富士の研究」シリーズから無いのではないかと思う程です。この辺りが市史で導入されるのか興味深いです。研究の少なさ故、難作業であると思われます。

  • 富士川との関わり

富士宮市の刊行物類を通しで見てみると、不思議に思うことがあります。それは「何故富士川との関わりについて言及されないのか」ということです。これが本当によく分からない。例えば「沼久保の川下し」(「富士山木引と沼久保の川下しに見る富士川舟運」)は公権力による富士川舟運の先駆的なものと評価できます。

富士宮市が富士郡芝川町と合併し、10年以上が経過しました。新『市史』には旧芝川町域も含まれることになりますが、同地域の「橋上(はしかみ)」の「森家」は特に注目されます。「森家文書」から富士川をめぐる当時の動向が見えてきますが、「船渡し」が行われていたことが分かる文書となっています(このうち『開館10周年記念特別展「武田二十四将―信玄を支えた家臣たちの姿」展示図録』に数点確認されます)。「殊昼夜河舟労功之条」「船役所中」「筏之奉行」「船方衆」といった文言は注目されます。こういうものも、あまり富士宮市側からは言及されていないように思います。

ちなみに森家は南部町に転出されているのですが、先祖ゆかりの地である富士郡(静岡県)ではなく、何故か山梨県に「森家文書」を依託されています。こういうこともあるので、古史料は市外にある可能性は十分にあると言えます(市史は地域史料をその地域に留める役割も果たすかもしれません。言及されていれば、やはりその地に寄贈される確率は高まると思います)。

近世についても、富士川舟運の問屋跡や「松井文書」以外にも素材はあるのではないかと思うところです。

  • 富士野

「富士野」は「富士の巻狩」の地でありまた「曽我兄弟の仇討ち」の地ですが、『富士野往来』といった史料の存在も考えると、1つのテーマとして十分に成立するし外してはいけないと思います。『曽我物語』や「曽我物」からも考えていく必要性があると思われます。例えば『小田原市史』には「特論 『曾我物語』の世界」という項目が別箇で導入されていますが、このようなものが存在して然るべきだと思います

  • 佐野氏

上記の通りです。

  • 観応の擾乱における桜野の戦い

観応の擾乱における薩埵山の戦い再考と桜野・内房の地理」で詳しく記しています。この部分が市史で解説されることを強い言葉で促したいです。「旧芝川町」の人にも感心してもらえる市史になると嬉しいです。

  • 吉野氏

葛山氏の家臣であった吉野氏。過去詳細を記したことがあります。あっても良さそうという印象です。

  • 富士海苔 

富士海苔に関しては別記事を投稿する予定ですが、これは「中世史」や「近世」に導入されるべき項目です。歴史にもたらした影響は明らかに大きい。史料に多く認められるのに等閑視する理由も無い。この部分の解説が掲載されることを促したいです。

  • 井出氏
井出氏も過去調べたことがありますが(記事化していません)、ここは系譜がかなり複雑で、よく分からない部分があります。まず、誰が当主なのかがよく分かりません。要職に就いている人物が当主で無かったりします。近世に代官家として影響力を持った家ですが、中世から既に力はあり、注目されるところです。

例えば武田信玄の駿河侵攻の際にはこれに抗し、富士城で抗戦したことを示す古文書も残っています。この「富士城」ですが、「大宮城」の別名にあたります(井出氏宛の発給文書には「富士城」とあります)。私は大宮城が「富士城」と呼称されていた事実そのものも重要であると考えています。この辺りはあまり注目されてはいませんが、"富士郡の代表的城郭"として位置づけられていたことを示すものと捉えられます。

  • 災害
災害は比較的研究が進んでいる分野だと思われます。「安政東海地震」の大宮町(おおみやまち)の被害も史料として残るようであるし(矢田・堀田2019 )、『浅間文書纂』にも多く史料が掲載されています。富士氏による記録(和邇部有信『公社日記』)が有名だと思います(篠原2013)。

近世は大宮でも大規模な米騒動が起こっているし(『図説 米騒動と民主主義の発展』243頁)、またコレラの流行も発生するなど(高橋2003)、全国的な動向との比較も興味深い。


通史編:近現代

当ブログは近現代について扱うことは基本的には無いので、今回は少しばかり参考文献を示しながら特筆されるすべきことを記していきたいと思います。

  • 生活
それぞれの建築の早例や当地における普遍的な建築は言及されるかもしれない。登録有形文化財に指定された「吉澤家住宅煉瓦蔵」は触れられるでしょう。住宅・民家様式については国土交通省都市局「歴史まちづくりネットワーク構築検討調査(公益社団法人静岡県建築士会)報告書」(2013)や「「生活文化を継承する建造物に関する研究」文献調査リスト」(2000)を筆頭とし、(清水2016)等の報告があり、より限局して茶工場についての報告等(防越ら2015)もある。他にもこの手のものを現在探しています。やはり四日市製紙芝川工場の建築は特筆すべきものがあると思うし、歴史的意義があると思う。将来的な文化財指定が期待されます。

  • 用途地域・土地開発等

個人的に関心があるのは「市街化区域の変移」と「地価の変移」です。地価については古い時代について言及しているものに(佐々木1975)があり、とても参考になります。現代の地価は国により公表されています。

富士宮市は全国に先駆けて「開発整備促進区」を導入するなど、意外に独自性があるように思います。当市における大店法による影響も言及されるでしょうか。

また境界未定の地域も関心があります(国土地理院「全国都道府県市町村別面積調」)。

  • 富士山との関係
富士山本宮浅間大社が富士山頂を社有地とする経緯については「富士山本宮浅間大社が富士山八合目以上を所有する理由を歴史から考える」や「富士山八合目以上を所有する浅間大社とその近現代史」で記している。

しかし折角の機会であるので、少しばかり言及しておこうと思います。山梨県は敗戦後の1945年にケーブルカーの建設を提言しており、1947年には別グループで富士登山鉄道が計画されています。しかし楔として「国立公園法」が存在するため、広く同意が必要でした。しかし話は意外にもトントンと進み、同意が概ね得られる状況となりました。意思決定機関である「富士箱根伊豆国立公園地方委員会」は定員30名で行わましたが、このうち28名が賛成、反対と留保が1人ずつでした。留保は「富士山本宮浅間大社」の宮司でした(村串2010)。私は富士山に鉄道やケーブルカーは必要ないという立場ですが、浅間大社が富士山の八合目以上を有する意味はこういう部分にもあると考えています。

富士山頂 山小屋境界線確定へ 二重課税 約30年ぶり解消(東京新聞Web版 2014年1月10日)
富士山頂付近の県境や市町境が画定していないため富士宮市と小山町の二市町から固定資産税を課税されている山頂の山小屋「銀明館」の所在地を小山町とするよう、両市町が調整していることが分かった。所在地が定まれば、両市町の境界が画定し、三十年に及ぶ二重課税が解消することになる。銀明館は、富士宮口登山道と御殿場口登山道を登り切った頂上付近にある。富士宮市側は、家屋台帳を根拠に住所を「富士宮市富士山頂」として一九四二年から課税。小山町も八一年に環境庁(当時)が銀明館の所在地を「小山町」と告示したことから住所を「小山町須走」とし、翌八二年から富士宮市と同額の年七千円を課税している。銀明館を所有する富士宮市の自営業宮崎善旦(よしかつ)さん(64)によると、納め先が定まらなくなったため、八二年度から税相当額を静岡地方法務局富士支局に供託している。関係者によると、富士宮市長と小山町長は課税権を町に一本化することで大筋合意し、既に宮崎さんにも方針を伝えた。宮崎さんは「ようやく一区切り付く。富士山が世界文化遺産になり、県内でもめているような状況は好ましくない」と一本化を歓迎する。ただ境界の画定には両議会の議決などが必要で、ハードルも高い。市行政課の担当者は「境界線画定には古文書や古地図など資料による高度な客観性が求められる」と指摘。「富士山頂は世界文化遺産の象徴であり、慎重な調整が求められる。富士宮市にとっては課税権の放棄にもなり、市民の理解も必要だ」と話す。「富士山学」が専門の渡辺豊博都留文科大教授(63)=三島市=は「境界線が定まらないと責任の所在が不明確になり、事故時の危機管理の面でも支障が出る。県内で話が進めば、頂上の県境画定への問題提起にもなる」と評価する。

これが、「歴史的転換」と言える程の大ニュースということが分かる人が増えれば良いなと思います。上の2つの記事(八合目以上の…)とこの記事は、実は直接的に結びつけられる関係にあるのです。

また天皇陛下が皇太子時代に、富士宮口から富士登山を行われています(宮内庁「皇太子同妃両殿下のご日程」)。宮内庁の報告では「ご昼食(富士宮口新五合目レストハウス)」とありますが、そのレストハウスが焼けてしまったことは心が痛く思います。

  • 産業
<第一次産業>

農業では養卵の生産量(採卵鶏の飼育数)が富士宮市は全国7位であり(「農産業サンセス(H27)」)、統計から見えてくる面白さがあります。農業統計を見ると、例えば隣接する富士市と大体同じような数値であるものも多いです。例えば水稲の収穫量もそうです(農林水産省「水稲の市町村別作付面積及び収穫量(静岡県)」)。

しかし統計等を見る限り、それなりに上位に食い込む領域があることは驚きである。富士宮市の農業産出額は220億円を超えますが、これは比較的多い方であるといいます。内訳は1位が養卵で2位が生乳で3位は野菜です。このうち養卵は100億近いです(最近「イセ食品」が倒れたが、この業界は大変なのか…)。ちなみに養卵の生産量(採卵鶏の飼育数)1位は茨城県の小美玉市であるが、ここにはイセ食品の工場があります。富士宮市はアキタフーズの工場がある関係で上位に食い込んでいます。

過去富士市における農地の変移について検討したことはありましたが、富士宮市はというと実はよく分からない。ただ様式は変化しているようであるし(太田・菊池(2015))、山本熊太郎『新日本地誌』に記されるようなもので現在は無いものもあると思われます。この本は一通り触れられていて、参考になります。個人的には(池谷・渡辺2016)にある財産区の扱いが大変面白いと思った。

<第二次産業>

工業化の歴史は(太田1962)や(太田1966)が詳細に記していますが、かなり多くの文献で取り上げられている部分になります。

富士宮市の「製造品出荷額等」は2020年度に939,155(百万円)ですから、1兆円が目前に迫っています(総務省統計局「統計でみる市町村区のすがた」)。新型コロナウイルスの影響で製造業が落ち込み数値は下がると思いますが、工業都市であることは間違いないです。

  • 商業
「静岡県の消費動向」(平成18年度)によると、「富士宮商圏」は他の商圏から吸引する力があり、また富士宮市は地元購買率が高いことが示されています。また実際は山梨県も商圏に入っていると推測され、おそらく南部町の調査等を参照すれば明記されているものと思われます。また古い報告ですが(塚原1969)が参考になります。ただ『静岡県統計年鑑』をみると、富士宮市は「年間商品販売額等」が少ないです。

  • 生活・文化
「岳南都市圏パーソントリップ調査」「国勢調査」といった調査から交通動態は十分に分かるものと考えます。文化については、富士宮市は世界的なイベントが多く催されてきた地域です。富士宮市は(佐々木2006)にあるようにフィルムコミッションの先鞭であるし、結構先進的な取り組みはあります。

『市史』編纂の良さは「市側が持っている資料の活用タイミングであること」という点もあると思います。例えば富士宮市は新富士駅建設時に約5億円の援助をしていますが、その詳細な内訳は従来の富士宮市側の刊行物では出てきません。おなじく自治体史にあたる山梨県南巨摩郡の『南部町史』には出てきます(しかし予算があまり再分配されたため、実際は少し数値が変わっています)。この辺りの内訳は「交通史」を説明する中で提示してもらいたいと思います。

市は大量の資料を持っていますが、刊行という形となれば有用なデータが「世に出る」ことになります。今のところ、普遍的に求められる富士宮市に関する情報は、刊行物・Web等で示されていないケースの方が多いと感じています。

  • 財政
富士宮市は都市伝説が多い地域であると言って相違ないと私は考えているのですが、その1つが「財政破綻論」です。富士宮市民は何故か"破綻寸前である"と思い込んでおり、もはや「This Man」の世界と言っても過言ではないです。私はむしろ「何故そのような勘違いが根を張っているのか」という方に関心があります。

(深澤2007)という「国立国会図書館調査及び立法考査局」の素晴らしい報告があります。同報告にあるように、そもそも1975年から2005年にかけて一貫して地方交付税不交付団体(=財政優良団体)であったのは全国で10市しかないです。熱海市がここに含まれます。言い方を変えれば、一度も不交付団体になったことがない自治体が殆どなのです。

そして富士宮市はこの期間で何度か不交付団体になっている都市であるので(例えば平成初期は断続的に不交付団体です)、まずこの事実だけとって見ても破綻寸前である"わけがない"のです(勿論、しっかり財政は考えていく必要性があります)。つまり上のような人たちは、数多の「一度も不交付団体になったことがない自治体」をかき分けていきなり財政破綻になると言っていることになるのですから、凄いことです。「健全化判断比率等」も問題のないラインであるので(総務省の各年度の「決算に基づく健全化判断比率・資金不足比率の概要」)、本当に奇想天外なことを言っているということになります。

こういう不思議なところが如実に現れた市民対象の公的調査(サンプル数多し)も存在していますが、ここでは伏せておこうと思います。市民の皆様もあまり憶測で物事を語らない方がよいと思います。その人の発言の信憑性に繋がりますし、それが永続的であれば尚更です。また「富士宮市にはイオンしか無い」みたいなコメントも多々聞きます。そもそも商業施設は

富士宮市>産業(数多くのカテゴリーの中の1つ)>第三次産業(第一・第二・第三のうち1つ)>商業(数多くの分類の中の1つ)>現代(各時代区分の中の1つ)>施設

という、細分化に細分化を重ねた中のカテゴリーの1つでしかないので、ここだけで語るのは見識の狭さを見せつけているに他なりません。なので、やめたほうが無難です。もっと言えば、産業別で見ていった場合、「商業」が最も特色が無いです。富士宮市は東部の自治体の中で比較しても「年間商品販売額等」が低いです。したがって、むしろ商業は弱い分野と言えるのです。

統計等をみると詳細が見えてきます。例えば金融で言えば富士信用金庫(富士市)は財政がとても悪いです(金融庁「都道府県別の中小・地域金融機関情報一覧」)。貸出金が富士宮信用金庫とあまり変わらないのに、自己資本比率が低く不良債権比率が高いのですから。結構異常な数値です。

  • おわりに
家に「これは古いだろうな…」と思うような史料があれば、市史編さん室に連絡してみて下さい。「これ、そんなに重要な史料じゃないんだろうな…」と思われるものでも、実は重要だったります。場合によっては学説を揺るがす可能性だってあるのです。

例えば何らかの史料に「Aにて合戦があった」とあるけど、実際はその地名が見当たらない…ということは多々あります。そんなときに「A」という地名が記された地域史料が見つかり、且つ合戦の記録と齟齬が無い時、とりあえずその合戦はその地が比定地とされます。そうなった場合、それは紛れもなくあなたの提供史料が変えたと言えるのです。

  • 参考文献

  1. 山本熊太郎(1941)『新日本地誌』中部地方編,古今書院
  2. 前川秀雄(1956)富士郡北部地帯のアクセント『文學部論叢』6号
  3. 成田潔英(1962)『紙碑』,製紙博物館
  4. 太田勇(1962)「岳南地方の工業化」『地理学評論』 第35巻9号
  5. 太田勇(1966)「岳南地方の工業化 (続報)」『地理評論文』第39巻1号
  6. 塚原美村(1969)「静岡県境のうごき」『甲斐路 : 山梨郷土研究会 創立三十周年記念論文集』,山梨郷土研究会
  7. 佐々木清治(1975)「明治前期における地方行政区画の変遷」『政治区画の歴史地理』,歴史地理学会
  8. 渡部景隆・本間久英・三輪洋次(1991),「富士山古熔岩流中の三ツ池穴産熔岩ストロー中に見られる 磁鉄鉱の形態とその解釈」『地学教育』第44巻
  9. 平成12年度静岡文化芸術大学特別研究「生活文化を継承する建造物に関する研究」文献調査リスト
  10. 森ら(2003)「四日市製紙専用鉄道の大型吊橋・富士橋」『土木史研究講演集 』23号
  11. 高橋敏(2003)「幕末民衆の恐怖と妄想--駿河国大宮町のコレラ騒動」『国立歴史民俗博物館研究報告』108巻
  12. 森ら(2004)「四日市製紙専用鉄道の吊橋-富士橋の再評価」『土木史研究講演集 』23号
  13. 歴史教育者協議会編(2004)『図説米騒動と民主主義の発展』
  14. 富山昭(2006)東西中間帯の方言特性『中日本民俗論』,静岡県民俗学会
  15. 美濃部京子(2006)わらべうたの変容-鬼決め歌の変容から静岡県の位置を考える-『中日本民俗論』,静岡県民俗学会
  16. 佐々木一彰(2006)「地域における映像制作支援環境の整備-映像制作の誘致・支援による地域づくり-」『NRIパブリックマネジメントレビュー』vol.35,野村総合研究所
  17. 深澤映司(2007)「地方自治体の経済活性化策に対する地方交付税制度の影響」,国立国会図書館
  18. 村串仁三郎(2010)「富士箱根国立公園内の戦後の観光開発計画と反対運動 : 戦後後期の国立公園制度の整備・拡充(10)」『経済志林』78巻2号
  19. 篠原武(2013),平成24年度やまなし再発見講座&埋蔵文化財センターシンポジウム 「自然災害と考古学~過去からの警告~」 第2回「富士山の災害~雪代(土石流)~」 
  20. 国土交通省都市局(2013)「歴史まちづくりネットワーク構築検討調査(公益社団法人静岡県建築士会)報告書」
  21. 防越ら(2015)静岡県富士宮市の旧櫻井製茶の荒茶工場について『日本建築学会大会学術講演梗概集』
  22. 太田 慧・菊地 俊夫(2015)富士山麓における農業的土地利用変化とその地域性,『日本地理学会発表要旨集』
  23. 清水擴(2016),近世東国民家の柱間寸法と畳割の分布(三)建築史学 66 (0), 39-52, 2016
  24. 池谷和信・渡辺和之(2016)富士山麓における茅場利用と財産区『日本地理学会発表要旨集』
  25. 服部健太郎・中西一郎(2018)「1707年宝永地震と富士山宝永噴火に関する一史料 (2):—『浅間文書纂』に掲載された「大地震富士山焼出之事」の底本—」『地震』第2輯 70
  26. 矢田 俊文・堀田 嵩洋(2019)「地震被害評価方法の再検討」『資料学研究』16号
  27. 服部健太郎・中西一郎(2019)「史料1707年宝永地震と富士山宝永噴火に関する史料」『地震』第2輯 71

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