富士山麓の地域が分からない方へ

2011年6月29日水曜日

祭神としてのコノハナノサクヤビメ

各地の浅間神社で祀られている祭神として「コノハナノサクヤヒメ」がいる。例えば『冨嶽之記』には、浅間大社についてこのような記述がある。
是冨士山根本の浅間也、木花開耶姫を祭る、(中略)境内桜多し…
このように浅間大社もコノハナノサクヤビメを主祭神としてきた。現在も境内には桜が多く植えられているが、昔からそうであったようである。

しかし、コノハナノサクヤビメが主祭神とされるようになるのはより後期のことであるといわれている。
コノハナノサクヤビメ

  • 浅間神社の祭神が木花之開耶姫とされるのは江戸時代以降
先ほどの『冨嶽之記』は享保7年(1733年)に著されたものであるが、江戸時代以前の資料にはこのような記述(コノハナノサクヤビメを主祭神とする)は見られないという。中世での富士山の神は「富士権現」「浅間台菩薩」と呼ばれるもの(神仏習合からなる神像)と、大日如来、または一部でかぐや姫などである。例えば武田信玄の浅間大社への願書には「南無富士浅間大菩薩」とあるという。


北口二合目の御室浅間神社には尊像(1740年)がある。 女神像で、その上部に大日如来像をあしらってあるという。厨子には年紀とともに「仙元大菩薩」の尊名が刻まれている。「浅間」を「仙元」と書くのはたいてい角行系のものだという。鎌倉時代には「青衣の天女が浅間大明神を称した」との記述や、有名な都良香の『富士山記』には「白衣をまとった2人の美女が舞い踊る」というような描写をしている。このような女神像が重なって、江戸時代以降に主祭神として祀られるようになったのかもしれない。

  • 木花之佐久夜毘売命を富士山の神とする記述
古い例として『集雲和尚遺稿』には新宮(静岡の浅間神社) についての記述でコノハナノサクヤビメ=浅間説とするものがあるという。また、鹿島神宮の大宮司家所有の元和4年(1618年)の神名帳には「駿河の浅間=コノハナノサクヤビメ」とする記述があるという。

  • 火の神なのか水の神なのか
木花之佐久夜毘売命を「火神」とみるか「水の神」とみるかで分かれる。木花之佐久夜毘売命は火中出産をしたと伝わるが、それを火の神と捉える場合と、そうではなく火中でも絶えて出産した「水の神」として捉えるかということである。

2011年6月6日月曜日

今川赤鳥と富士浅間宮

  • 今川赤鳥とは
「今川赤鳥」は今川家において軍旗/馬印として使用された印。
今川赤鳥
  • 『難太平記』にみる赤鳥
『難太平記』は今川了俊によって著された書物。そのなかで「今川赤鳥の由来」が記されている。
『難太平記』
記されている内容は概ねこのような感じらしい。

今川範国は富士浅間宮の巫女から「青野原の戦いの際に笠験として赤鳥を授けたのは私だ」という神のお告げを聞く。実際に合戦中に赤鳥を思い浮かべていた範国は驚き、その後今川氏の旗印とすることとなった。

というように由来が神社の巫女から来ているのです。今川範国は今川氏の初代当主です。この「富士浅間宮」がどこかというと、現・富士山本宮浅間大社であると考えられます。しかし「富士浅間宮」と呼称する例は他に存在するため、曖昧な部分もあります。

文中で「富士浅間宮」と「赤鳥」という言葉が出ているのが見て取れます。
富士浅間宮

赤鳥
この時代に「富士浅間宮」と呼称されていたものが何であるかで判明すると思います。ここでいう「富士浅間宮」が現在の静岡浅間神社を指す可能性は、かなり低いように思える。

  • 参考文献
宮地直一,『浅間神社の歴史』(1973年版)P44-46,名著出版

2011年6月3日金曜日

富士山の短歌たち

富士山は古来から霊峰として信仰の対象となり、また美術面でも対象となってきました。そんな中で古来から短歌などが詠われてきました。今回はそれらを掲載します。
  • 山部赤人(『万葉集』)
田児の浦うち出でてみれば真白にそ不二の高嶺に雪は降りける
山部赤人

当短歌についてはこちらもどうぞ→(田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ不二の高嶺に雪は降りける)。

  • 柿本人麻呂(『柿本集』)
富士のねの絶えぬ思ひをするからに常盤に燃ゆる身とぞなりぬる
柿本人麻呂
  • 高橋虫麻呂(『万葉集』)
富士の嶺に降り置く雪は六月の十五日に消ぬればその夜降りけり

  • 在原業平(『新古今和歌集』)
時しらぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらに雪の降るらむ

「業平東下り図」(俵屋宗達)
  • 紀貫之(『新古今和歌集』)
験なき煙を雲にまがへつつ世をへて富士の山と燃えなむ
紀貫之

  • 伊勢(『伊勢集』)
人しれず思ひするがのふじのねはわがごとやかく絶えず燃ゆらむ
伊勢

  • 西行(『新古今和歌集』)
風になびく富士の煙の空にきえてゆくへも知らぬ我が思ひかな
西行

  • 源頼朝(『新古今和歌集』)
道すがら富士の煙もわかざりきはるるまもなき空のけしきに

  • 藤原定家(『拾遺愚草』)
富士の嶺にぬなれの雪のつもり来ておのれ時しる浮島がはら
藤原定家

  • 源実朝(『金塊和歌集』)
見わたせば雲居はるかに雪白し富士の高嶺のあけぼのの空
源実朝

  • 後鳥羽天皇(『続古今和歌集』)
富士の嶺の月に嵐や拂ふらむ神だに消たぬ煙なれども
後鳥羽天皇

最後には、個人的にすきな歌を1つ。

  • 道興准后(『廻国雑記』)
詞書:富士のむら山とて、大嶽の麓に侍り、所々に紅葉の残れるをながめて

高嶺には秋なき雪の色冴えて 紅葉ぞ深きふじのむら山

これは、現在の富士宮市村山から富士山を眺めて詠ったものである。道興は同じ富士山麓の「須山」(現在の小山町)と「鳴沢」(山梨県南都留郡鳴沢村)および「吉田」(山梨県富士吉田市)でも歌を詠んでいるが、これらもすばらしい。須山-村山-鳴沢と駿河国から甲斐国に移動する中で歌を詠み、次いで相模国に入り武蔵国を経た後甲斐国に再び入り、吉田でも歌を詠んでいる。

村山から見た富士山の「雪で覆われた深冬を感じさせる姿」と、現在自らが居る場所の「紅葉に覆われる風景」とを対比させ、季節感の差異を感じさせる見事な歌である。「色冴えて」という表現が「雪の白」と「紅葉」をはっきりと連想させている。

2011年6月2日木曜日

富士講

今回は江戸時代に繁栄した富士講についてです。

  • 富士講とは何なのか
富士講を一言で表すことは、実は非常に難しい。定義が無いと言えるし、何を富士講とするかということ自体が難しい。一般に「富士講の開祖は角行である」と言われるが、角行自身は富士講を組織しているわけではない。よって富士講の起源が角行にあるわけではない。このことから、近年は「角行によって創設された」と説明されることはあまりなくなってきている。

また「富士講により富士塚が築かれた」とは言えないということは、多くで指摘されてきている。19世紀の記録である『新編常陸国誌』には「富士塚 中世以後関東の風俗にて、塚を築き富士権現を勧請するもの所々にあり」とあるという。また蜷川家の年代記(天正年間に成立)に「文明13年辛丑、諸郷に富士塚を置」とあるという。これが事実だとすると、文明13年(1481年)には富士塚を築くという文化が成立していたということになる。また記録自体が天正期なので、少なくとも中世には富士塚は存在していたことになる。そのときに果たして「講」という形態が成立していただろうか。

  • 角行
富士講の起源に関わる人物が角行を崇めていたとすると、「角行に対する崇拝」と「富士講の出現」がつながることとなり、ある意味「由来」として角行の名がでてくるということなのである。しかし「角行が富士講を作ったわけではない」というのは変わらないのである。

人穴で修行する角行
  • 富士講考
このようによく分からない富士講であるが、富士講を知る上で懐疑的にならなければならないポイントはいくつかある。その例を示すために坂本徳一氏の「富士山ご縁年(庚申)の推移」という論考を引用する。この論考の主は『山梨日日新聞』連載の「富士山信仰」の筆者である。私はこの連載の記事をいくつか拝見したが、かなり多くで懐疑的な内容であると感じた。昭和という時代背景を考慮したとしても、これはあまりお勧めできたものではない。以下、「富士山ご縁年(庚申)の推移」より引用。

富士山信仰のこ縁年として六十一年目にめぐってくる庚申の年に登拝すれば在来、来世も必ず善い事にめぐり合えるという言い伝えが富士講信徒にひろがったのは江戸期に入って、富士山信仰が民間に流布してからである。

この文は、懐疑的にならなければならない典型例のように思える。この短い文章の中でも、以下のことは言える。

  • そもそも富士講は江戸時代に隆盛したものなので、「言い伝えが富士講信徒にひろがったのは江戸期に入って」という表現はおかしい
  • 庚申の年の伝承は江戸時代以前から存在しているので、「江戸期に入って」というのはおかしい
  • 富士山信仰は昔から流布されていたので、「富士山信仰が民間に流布してからである」というのはおかしい

これは富士講関連の文献を読んでいて、いつも思うことである。なぜか「江戸時代から富士山信仰が民衆に広まった」としてしまうのである。もっと酷いと「富士講から富士山信仰が広まった」としてしまっている。例えば最後であるが、たしかに民間に最も流布されたのは江戸期であるが、まるで江戸期より前は流布されていないかのような書き方である(実際そう考えている)。この考え方は、私は根本的におかしいと思っている。富士山信仰はそんな歴史の浅いものではない。なので資料は選ばなければならない。その慎重さが富士講を追求する上では特に求められるように思える。

そもそも、江戸期以前に民衆による富士山信仰は明確に認められるというのに、それらをなぜ省いて考えるのだろうか。その延長線上に富士講はあるはずなのである。そういう意味で、先の論考は懐疑的と思える典型的な論考である。だから「江戸時代に富士山信仰が民衆に広まった」「富士講により富士山信仰が成立した」という説明には、特に注意しなければならない。そういう姿勢で富士講の歴史にあたらないと、混同してしまうのである。

  • 富士講の起源について
富士山信仰の総合的な学術研究は『富士の研究』シリーズより始まる。富士山研究の金字塔であり、ここから始まったようなものである。いわば、スタート地点である。そのシリーズにおける井野辺茂雄氏の『富士の信仰』では、富士講について以下のように指摘している(P306、古今書院版)。

按ずるに富士講の盛んになったのは、身禄・光清などといへる著名の行者の出でたる以後の事にかゝる

つまりこの時代の研究で既に、富士講の発祥がかなり後退する可能性を示唆している。しかしながら、その指摘を後の研究の中では汲み取れず、富士講の理解が忠実から離れた部分へと行ってしまったように思えてならない。根本的な部分から、再検討する必要性がある。

  • 禁制

江戸幕府により禁制が出されていることも、富士講の特徴である。つまりそれほど隆盛を極めていたわけであり、その集団性が幕府にとって必ずしも良いものではなかったのである。寛保(1742年)から嘉永(1850年)の間で10回も出されているといい、繰り返し出されていることから、禁制でも制限することができなかったことが推察される。

  • 角行の弟子と伝わる人物
「富士講の起源」というと「富士講とは何なのか」で述べたような感じになってしまうので「富士講を組織したのは誰か」という視点が重要である。富士講を組織したのは「食行身禄を支持する一派」とされる。しかし身禄に事実上の弟子は存在していなかったとされる(ここも非常に分かれる)。したがって富士講は、「食行身禄を支持した(信仰する)者たちが集団化し、構という形態を媒介として拡大したその広まり」とも考えられる。

食行身禄とは
食行身禄(1671〜1733)は月行系の信仰を踏襲する人物で、63歳の時に富士山中で宗教的自殺を遂げたとされる

ですから富士講の歴史は18世紀中盤からである。早くても17世紀後半以後であろう。

  • 富士講の隆盛
「食行身禄を支持・信仰する集団」は食行身禄の死後から「富士門弟」「富士御同行」を名乗る。これが形をかえたものが「富士講」である。この集団の中に「田辺十郎右衛門」という人物がいる。この田辺十郎右衛門は吉田(現在の富士吉田市)で信仰を広めようとするが村上光清などと対立することとなる。しかし田辺十郎右衛門は「吉田の御師」との関係を強くし、影響力強くする。やがて御師と共に先達(富士講の中の格の高い行者)に対し行名を与える行為などを行うようになる。

  • 富士講の行事や形式

江戸まで広まった富士講は枝講が別講をたてながら増加していく。講はそれぞれ「笠印」とよばれるマークを持って講の中の数名が代参に出かけたとされる。修行の基本は富士登山であるが「御中道巡り」や水行である「八湖修行」などがあった。八湖修行は角行が水行をしたといわれる湖で修行することを言い、富士五湖を中心とした「内八湖」、琵琶湖・諏訪湖など広範囲にわたる「外八湖」があった。 こうした先達の修行はすべて師匠からの口伝からなり、「お伝え」という「浅間様への拝み方を記す経典」を伝書として与えられた。ほかに海水に入る潮垢離や断食行などさまざまな形態があった。

  • 先達の服装
富士講の先達は山伏の姿に似ている。 腹掛けの上に白い行衣を着て、白の手甲・脚半をつけ、金剛杖を持つ。杖につけた小旗を「マネキ」といい、これは講中の目印である。頭に巻いたさらしの布は「宝冠」とよばれる。腰に鈴をつけ、大きな玉がついた数珠をかけて、御三幅の入った札箱を背負う。数珠は、富士山に行くたびに少しずつ玉を買い足して大きくしていく。また小物入れとして「下箱げばこ」を肩からかける。富士講の法会で本尊にする御三幅は、登拝の時にも祭壇代わりにするので、富士山に持参する。このため御三幅には頂上の印や小御嶽様の印が登頂した数だけ押されているという。よくこのような白い服装を見て「富士講だ」というような見方をされる事があるが、決してそうではないし、むしろ「村山修験の修験者と共通するものがある」という見方が正しいであろう。先達の持物は独特である。オフセギとよぶ「参」の字がぎっしり書かれた紙切れや呪文が並ぶ「虫歯守」、家相や相性を占う本などである。

  • 商業的成功
先ほど「御師と共に先達に対し行名を与える行為などを行うようになる」と述べましたが、このような行為は商業的成功を収めるようになる。その他にも宗教的行為としてさまざまなサービスを行い収入源とした。富士講は「信者たちのグループ」となっていき江戸までに流行が広まった。江戸までに流行が広まるとさらに拡大に拡大を続ける。諏訪神社(現在の北口本宮富士浅間神社)の境内社である浅間神社の影響力が強くなり「諏訪大明神富士浅間宮」などと言われるようになる(最終的には社号が浅間神社となる)。

  • 富士講の聖地
富士講は「食行身禄を支持する集団が自ら弟子を名乗り、身禄の信仰を独自の解釈で成立させ広まったものとその集団」であるが、食行身禄は月行系である。月行系は「旺心」の弟子から派生したものである。この大元の「旺心」は角行からみて三代目の富士行者である。このような頂に位置する「角行」は富士講信者にとっては「行の開祖」として拝められる存在であった。その角行は人穴で修行されたとされるので、人穴は富士講信者からみて聖地であった。そのため富士講信者が中道往還を利用し人穴を訪れたりしていた。碑塔などが建てられ、現在約230基確認されており「人穴富士講遺跡」として知られている。

しかしこれらすべてが富士講信者によるものかと言えばそうではない。現に建立年代が判明している碑塔の中で1664年(寛文4年)のものが確認されており、おそらく「(我々は)講の1つである」という認識すらなかった時代と言える。実は角行からの分かれは他にもあり、「角行の流れを汲む富士信仰の一派」とも言える。「村上光清」などもそれらである。また人穴に「法家」と名乗る一派がいたと言い、赤池家(人穴草子の版行などで知られる)との関連付けがされている。

当ブログは「〜中世までの富士山信仰」を中心としています。富士講を取り上げる上では「中世までの富士山信仰と比較する形」で関われればいいなと思っています。そうすることである事象が富士講由来なのかそうでないのかが見えてきますし、そこを明確とすることで富士講も見えてくるはずです。

  • 参考文献
  1. 坂本徳一,「富士山ご縁年(庚申)の推移」,『甲斐路』76,1993年
  2. 堀内真,「富士山内の信仰世界-吉田口登山道を中心として-」『甲斐の成立と地方的展開』,角川書店,1989年
  3. 堀内真,「富士参詣の道者道と富士道」,『甲斐路』76号,1993年