- 富士講とは何なのか
また「富士講により富士塚が築かれた」とは言えないということは、多くで指摘されてきている。19世紀の記録である『新編常陸国誌』には「富士塚 中世以後関東の風俗にて、塚を築き富士権現を勧請するもの所々にあり」とあるという。また蜷川家の年代記(天正年間に成立)に「文明13年辛丑、諸郷に富士塚を置」とあるという。これが事実だとすると、文明13年(1481年)には富士塚を築くという文化が成立していたということになる。また記録自体が天正期なので、少なくとも中世には富士塚は存在していたことになる。そのときに果たして「講」という形態が成立していただろうか。
- 角行
人穴で修行する角行 |
- 富士講考
このようによく分からない富士講であるが、富士講を知る上で懐疑的にならなければならないポイントはいくつかある。その例を示すために坂本徳一氏の「富士山ご縁年(庚申)の推移」という論考を引用する。この論考の主は『山梨日日新聞』連載の「富士山信仰」の筆者である。私はこの連載の記事をいくつか拝見したが、かなり多くで懐疑的な内容であると感じた。昭和という時代背景を考慮したとしても、これはあまりお勧めできたものではない。以下、「富士山ご縁年(庚申)の推移」より引用。
この文は、懐疑的にならなければならない典型例のように思える。この短い文章の中でも、以下のことは言える。
これは富士講関連の文献を読んでいて、いつも思うことである。なぜか「江戸時代から富士山信仰が民衆に広まった」としてしまうのである。もっと酷いと「富士講から富士山信仰が広まった」としてしまっている。例えば最後であるが、たしかに民間に最も流布されたのは江戸期であるが、まるで江戸期より前は流布されていないかのような書き方である(実際そう考えている)。この考え方は、私は根本的におかしいと思っている。富士山信仰はそんな歴史の浅いものではない。なので資料は選ばなければならない。その慎重さが富士講を追求する上では特に求められるように思える。
そもそも、江戸期以前に民衆による富士山信仰は明確に認められるというのに、それらをなぜ省いて考えるのだろうか。その延長線上に富士講はあるはずなのである。そういう意味で、先の論考は懐疑的と思える典型的な論考である。だから「江戸時代に富士山信仰が民衆に広まった」「富士講により富士山信仰が成立した」という説明には、特に注意しなければならない。そういう姿勢で富士講の歴史にあたらないと、混同してしまうのである。
つまりこの時代の研究で既に、富士講の発祥がかなり後退する可能性を示唆している。しかしながら、その指摘を後の研究の中では汲み取れず、富士講の理解が忠実から離れた部分へと行ってしまったように思えてならない。根本的な部分から、再検討する必要性がある。
江戸幕府により禁制が出されていることも、富士講の特徴である。つまりそれほど隆盛を極めていたわけであり、その集団性が幕府にとって必ずしも良いものではなかったのである。寛保(1742年)から嘉永(1850年)の間で10回も出されているといい、繰り返し出されていることから、禁制でも制限することができなかったことが推察される。
ですから富士講の歴史は18世紀中盤からである。早くても17世紀後半以後であろう。
江戸まで広まった富士講は枝講が別講をたてながら増加していく。講はそれぞれ「笠印」とよばれるマークを持って講の中の数名が代参に出かけたとされる。修行の基本は富士登山であるが「御中道巡り」や水行である「八湖修行」などがあった。八湖修行は角行が水行をしたといわれる湖で修行することを言い、富士五湖を中心とした「内八湖」、琵琶湖・諏訪湖など広範囲にわたる「外八湖」があった。 こうした先達の修行はすべて師匠からの口伝からなり、「お伝え」という「浅間様への拝み方を記す経典」を伝書として与えられた。ほかに海水に入る潮垢離や断食行などさまざまな形態があった。
しかしこれらすべてが富士講信者によるものかと言えばそうではない。現に建立年代が判明している碑塔の中で1664年(寛文4年)のものが確認されており、おそらく「(我々は)講の1つである」という認識すらなかった時代と言える。実は角行からの分かれは他にもあり、「角行の流れを汲む富士信仰の一派」とも言える。「村上光清」などもそれらである。また人穴に「法家」と名乗る一派がいたと言い、赤池家(人穴草子の版行などで知られる)との関連付けがされている。
当ブログは「〜中世までの富士山信仰」を中心としています。富士講を取り上げる上では「中世までの富士山信仰と比較する形」で関われればいいなと思っています。そうすることである事象が富士講由来なのかそうでないのかが見えてきますし、そこを明確とすることで富士講も見えてくるはずです。
富士山信仰のこ縁年として六十一年目にめぐってくる庚申の年に登拝すれば在来、来世も必ず善い事にめぐり合えるという言い伝えが富士講信徒にひろがったのは江戸期に入って、富士山信仰が民間に流布してからである。
この文は、懐疑的にならなければならない典型例のように思える。この短い文章の中でも、以下のことは言える。
- そもそも富士講は江戸時代に隆盛したものなので、「言い伝えが富士講信徒にひろがったのは江戸期に入って」という表現はおかしい
- 庚申の年の伝承は江戸時代以前から存在しているので、「江戸期に入って」というのはおかしい
- 富士山信仰は昔から流布されていたので、「富士山信仰が民間に流布してからである」というのはおかしい
これは富士講関連の文献を読んでいて、いつも思うことである。なぜか「江戸時代から富士山信仰が民衆に広まった」としてしまうのである。もっと酷いと「富士講から富士山信仰が広まった」としてしまっている。例えば最後であるが、たしかに民間に最も流布されたのは江戸期であるが、まるで江戸期より前は流布されていないかのような書き方である(実際そう考えている)。この考え方は、私は根本的におかしいと思っている。富士山信仰はそんな歴史の浅いものではない。なので資料は選ばなければならない。その慎重さが富士講を追求する上では特に求められるように思える。
そもそも、江戸期以前に民衆による富士山信仰は明確に認められるというのに、それらをなぜ省いて考えるのだろうか。その延長線上に富士講はあるはずなのである。そういう意味で、先の論考は懐疑的と思える典型的な論考である。だから「江戸時代に富士山信仰が民衆に広まった」「富士講により富士山信仰が成立した」という説明には、特に注意しなければならない。そういう姿勢で富士講の歴史にあたらないと、混同してしまうのである。
- 富士講の起源について
富士山信仰の総合的な学術研究は『富士の研究』シリーズより始まる。富士山研究の金字塔であり、ここから始まったようなものである。いわば、スタート地点である。そのシリーズにおける井野辺茂雄氏の『富士の信仰』では、富士講について以下のように指摘している(P306、古今書院版)。
按ずるに富士講の盛んになったのは、身禄・光清などといへる著名の行者の出でたる以後の事にかゝる
つまりこの時代の研究で既に、富士講の発祥がかなり後退する可能性を示唆している。しかしながら、その指摘を後の研究の中では汲み取れず、富士講の理解が忠実から離れた部分へと行ってしまったように思えてならない。根本的な部分から、再検討する必要性がある。
- 禁制
江戸幕府により禁制が出されていることも、富士講の特徴である。つまりそれほど隆盛を極めていたわけであり、その集団性が幕府にとって必ずしも良いものではなかったのである。寛保(1742年)から嘉永(1850年)の間で10回も出されているといい、繰り返し出されていることから、禁制でも制限することができなかったことが推察される。
- 角行の弟子と伝わる人物
「富士講の起源」というと「富士講とは何なのか」で述べたような感じになってしまうので「富士講を組織したのは誰か」という視点が重要である。富士講を組織したのは「食行身禄を支持する一派」とされる。しかし身禄に事実上の弟子は存在していなかったとされる(ここも非常に分かれる)。したがって富士講は、「食行身禄を支持した(信仰する)者たちが集団化し、構という形態を媒介として拡大したその広まり」とも考えられる。
食行身禄とは
食行身禄(1671〜1733)は月行系の信仰を踏襲する人物で、63歳の時に富士山中で宗教的自殺を遂げたとされる
ですから富士講の歴史は18世紀中盤からである。早くても17世紀後半以後であろう。
- 富士講の隆盛
- 富士講の行事や形式
江戸まで広まった富士講は枝講が別講をたてながら増加していく。講はそれぞれ「笠印」とよばれるマークを持って講の中の数名が代参に出かけたとされる。修行の基本は富士登山であるが「御中道巡り」や水行である「八湖修行」などがあった。八湖修行は角行が水行をしたといわれる湖で修行することを言い、富士五湖を中心とした「内八湖」、琵琶湖・諏訪湖など広範囲にわたる「外八湖」があった。 こうした先達の修行はすべて師匠からの口伝からなり、「お伝え」という「浅間様への拝み方を記す経典」を伝書として与えられた。ほかに海水に入る潮垢離や断食行などさまざまな形態があった。
- 先達の服装
- 商業的成功
- 富士講の聖地
しかしこれらすべてが富士講信者によるものかと言えばそうではない。現に建立年代が判明している碑塔の中で1664年(寛文4年)のものが確認されており、おそらく「(我々は)講の1つである」という認識すらなかった時代と言える。実は角行からの分かれは他にもあり、「角行の流れを汲む富士信仰の一派」とも言える。「村上光清」などもそれらである。また人穴に「法家」と名乗る一派がいたと言い、赤池家(人穴草子の版行などで知られる)との関連付けがされている。
当ブログは「〜中世までの富士山信仰」を中心としています。富士講を取り上げる上では「中世までの富士山信仰と比較する形」で関われればいいなと思っています。そうすることである事象が富士講由来なのかそうでないのかが見えてきますし、そこを明確とすることで富士講も見えてくるはずです。
- 参考文献
- 坂本徳一,「富士山ご縁年(庚申)の推移」,『甲斐路』76,1993年
- 堀内真,「富士山内の信仰世界-吉田口登山道を中心として-」『甲斐の成立と地方的展開』,角川書店,1989年
- 堀内真,「富士参詣の道者道と富士道」,『甲斐路』76号,1993年
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