「足利尊氏軍勢催促状」(正平6年12月15日)に見える「うつぶさ」 |
河内路は甲斐から駿河へ至る主要街道の1つであるが、その役割はとても大きいものがあった。現在の富士宮市でいうと内房(旧庵原郡)が河内路に属しており、重要な中継地点であった。「駿甲同盟」の際の嶺松院(今川義元娘)の輿入れの様子が好例であるので、挙げることとする。
まず今川義元の正室であった定恵院(武田信玄姉)が、天文19年(1550)6月に死去した。同盟関係上新たな関係構築が求められ、信玄の嫡男である武田義信に義元の娘である嶺松院が嫁ぐことになった。そのため駿府・甲斐間で婚儀のためのやりとりがなされ、信玄家臣である駒井高白斎がその取次を行い、天文21年(1552)11月に嶺松院は輿入れした。その様子が『甲陽日記』に記されている。
駿府-興津-内房(富士宮市)-南部-下山-西郡-甲府というルートで移動している。これは河内路である。
またこの輿入れは大変華やかであったとされ、『勝山記』には以下のようにある。
(齋藤2010)には以下のようにある。
この史料については、(小和田2001;pp.365-366)や(柴辻2001;p.281)でも言及されている。また(齋藤2010)は以下の史料をあげ、次のような説明を加えている。
ちなみに当書状について『戦国遺文』では永禄10年(1567)とし、(齋藤;2010)は天正8年(1580)としている。永禄10年というと駿河侵攻の頃であるが、このとき富士山南麓に信玄の出馬はあっても勝頼の出馬は無かったため、永禄10年の可能性は大変少ない。
そして本栖側の街道は「中道往還」なのである。
現在の富士宮市というのは、この「本栖」と「河内」に隣接している。例えば本栖湖は富士宮市の目と鼻の先にある。富士郡の要衝であり大宮城が位置した「大宮」まで距離はあるものの、本栖や河内から武田軍が進行していた際は特に緊張した状態にあったことは言うまでもない。
十九日丁酉御輿ノ迎二出府、当国衆駿河へ行(中略)廿三日ウツフサ廿四日南部廿五日下山廿六日西郡廿七日乙巳酉戌ノ刻府中穴山宿へ御着
駿府-興津-内房(富士宮市)-南部-下山-西郡-甲府というルートで移動している。これは河内路である。
武田信玄 |
またこの輿入れは大変華やかであったとされ、『勝山記』には以下のようにある。
武田殿人数ニハ、サラニノシツケ八百五十腰シ、義元様ノ人数ニハ五十腰ノ御座候、コシハ十二丁、長持廿カカリ、女房衆ノ乗鞍馬百ヒキ御座候
武田側は850人、今川側は50人が随行し、輿は12、長持(衣類等を収納する箱)は20、女房衆の馬は100頭にも上ったという。特に武田側の850人は驚くところであり、その壮大さを感じるところである。もちろん内房の地も通過したのである。
しかし、「桶狭間の戦い」以後の今川家の凋落を好機とみた信玄は駿河侵攻を展開。現在の富士宮市域も武田氏が領するところとなった。
その過程で「内房口の戦い」も行われた。
そこで以下のような文書が残る。
その過程で「内房口の戦い」も行われた。
穴山信君 |
そこで以下のような文書が残る。
(齋藤2010)には以下のようにある。
この史料は勝頼段階の天正8年の史料であるが、河内路の要衝を書き連ねている。(中略)河内路の谷間の重要地点は万沢・南部・下山・岩間であったことがわかる。
この史料については、(小和田2001;pp.365-366)や(柴辻2001;p.281)でも言及されている。また(齋藤2010)は以下の史料をあげ、次のような説明を加えている。
年未詳 |
「爰駿州境目本栖・河内用心等、不可由断之由、申遣候」と富士南麓に出陣した武田勝頼が甲斐府中で留守居を務める跡部勝忠に報じていることが確認できる。具体的な年次が確定できないが、本栖および河内が北条氏に対する甲斐国境の拠点に位置付けられ、勝頼の代に至っても軍事的に重要な地点であることは不変であった
ちなみに当書状について『戦国遺文』では永禄10年(1567)とし、(齋藤;2010)は天正8年(1580)としている。永禄10年というと駿河侵攻の頃であるが、このとき富士山南麓に信玄の出馬はあっても勝頼の出馬は無かったため、永禄10年の可能性は大変少ない。
そして本栖側の街道は「中道往還」なのである。
武田勝頼 |
現在の富士宮市というのは、この「本栖」と「河内」に隣接している。例えば本栖湖は富士宮市の目と鼻の先にある。富士郡の要衝であり大宮城が位置した「大宮」まで距離はあるものの、本栖や河内から武田軍が進行していた際は特に緊張した状態にあったことは言うまでもない。
- 参考文献
- 齋藤慎一(2010)「武田信玄の境界認識」『中世東国の道と城館』,東京大学出版会
- 小和田哲男(2001)『武将たちと駿河・遠江』,清文堂出版
- 柴辻俊六(2001)『戦国期武田氏領の展開』 (中世史研究叢書),岩田書院
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