富士山麓の地域が分からない方へ

2026年9月14日月曜日

須藤秀忠富士宮市長と富士市、富士登山規制とメガソーラーと博物館

今回は番外編として、今期での引退を表明した須藤秀忠富士宮市長のこれまでの取り組み及び富士市との関係について考えていきたい。本稿では主に就任から2期目までを取り上げていきたい。


  • 富士市との合併拒否

まず富士市との関係についてであるが、これはやはり以下の事柄が象徴的であろう。


富士市と富士宮市の合併を拒否したこと


富士市からの富士宮市に対する合併要請の歴史を振り返る」にあるように、当時の富士市は富士宮市との合併を強く推進していた。須藤市長は就任して直ぐ、これを退いた形である。須藤市長と富士市との関係という意味では、他にそれほどトピックは無いように思われる。


  • メガソーラー規制

以下では富士宮市長の事跡について見てみよう。須藤市長独自の取り組みとしては、以下の事柄が象徴的であろう。


メガソーラー規制を全国の自治体に先駆けて訴えたこと


私の中では"須藤市長=メガソーラー規制の人"というイメージすらある。ではそれらを見ていこう。


富士山、景観優先です 大規模発電自粛要請へ(2012/08/30 共同通信)
メガソーラーより富士山の景観が優先です―。世界文化遺産登録を目指す富士山の景観を守るため、静岡県富士宮市は30日、太陽光や風力発電の大規模設備の新設を自粛するよう、9月1日から事業者に要請していくことを明らかにした。富士山の登録をめぐっては、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の諮問機関による調査が始まったばかり。須藤秀忠市長は「世界文化遺産としてふさわしい富士山の景観を後世に伝えていく責務がある」としている。

この時代、メガソーラー規制を訴える自治体は比較的珍しく、かなり先駆的な取り組みであったと言えるだろう

メガソーラーの自粛要請=世界遺産で富士山景観保護-静岡・富士宮市(2012/08/30 時事通信)
静岡県富士宮市は30日、世界文化遺産登録を目指している富士山周辺の景観を守るため、大規模太陽光発電所(メガソーラー)や風力発電設備の新設を自粛するよう事業者らに要請すると発表した。9月1日から市域の約75%を「抑止地域」と定め、協力を求める。同市によると、既にメガソーラー新設の問い合わせが20件近くあるという。太陽光発電設備は法律上建築物と見なされず設置が容易なため、市は「このまま手をこまねいていれば富士山の眺望が阻害される」(須藤秀忠市長)と懸念。ただし、条例による規制は検討していない。(抜粋)

明確に、須藤市長は"メガソーラー規制の人"なんですよね。

メガソーラー施設:規制対策、国に要請へ 富士宮市、富士山の景観保全で /静岡(毎日新聞WEB版 2013年05月23日 地方版)
富士山の世界文化遺産の登録を控え、山麓(さんろく)の景観を保護するため、富士宮市は22日、設置要望が相次ぐ大規模太陽光発電(メガソーラー)などを規制する対策を国に求めることを明らかにした。須藤秀忠市長が23日、経済産業省などを訪れて陳情する。市内には朝霧高原など広大な草原が広がり、日照時間も長いためメガソーラー設置の適地とされていた。しかし、発電施設が増えると世界遺産にふさわしい景観や眺望が阻害されるとして、同市は昨年9月、市域の75%に当たる計約290平方キロを「抑止地域」に定めた。太陽光パネルが1000平方メートルを超える発電施設と、高さ10メートルを超える風力発電施設を設置しないよう求めている。現在、市内に大規模な発電施設は建設されていないが、この1年間、市に寄せられた設置の問い合わせは135件に上った。(抜粋)

また須藤市長は経済産業省を訪問し、要望書を提出するなどしている。

「大規模発電」新設抑制 富士宮市が国に要望(中日新聞WEB版 2013年5月24日)
富士山の世界文化遺産登録に向けて、富士宮市は二十三日、太陽光や風力などの大規模発電施設の増加は山麓の景観を悪化させるとして、新設を抑制する対策を国に求めた。今後乱立する可能性があり、より踏み込んだ対策を訴えた。須藤秀忠市長が、経済産業省や環境省を訪問し、要望書を提出。再生可能エネルギーの必要性は認めつつ、太陽光パネルや風車の無秩序な設置を防ぐため、事業者に対して、地元自治体からの同意を義務づける制度の構築などを要望した。大規模発電施設の新設をめぐり、市は昨年九月、富士山の構成資産周辺や牧草地が広がる朝霧高原を含め市域の75%に当たる二百九十平方キロメートルを対象として、新設の自粛を呼び掛け始めた。再生可能エネルギーの創出以上に、一帯の景観や自然を守る姿勢を鮮明にする狙いだった。現状では太陽光パネルや風車の設置を制限する法律の規定はないといい、今回の要望が実現すれば、実質的に市が新設の“拒否権”を持つことになる。(抜粋) 

経済産業省や環境省を訪問しているということですから、相当の熱意が伺われる。

メガソーラー暗雲 売電申請の7割、門前払いも(MSN産経ニュース 2013.5.26)
買い取り制度が始まったのは昨年7月。再生エネの普及に向けて大型投資を呼び込もうと、事業者がもうかる仕組みにした。中でも割高の価格設定となった太陽光では、用地が確保できれば、建設期間が比較的短くて済むため、メガソーラーへの参入が急増した。エネルギー政策に詳しい21世紀政策研究所の沢昭裕研究主幹は「北海道の問題は買い取り価格を決めて、量をコントロールしない制度の限界を露呈した。まずは各地域で必要な量を決めて、安く発電する事業者から電力を買う仕組みに見直すべきだ」と指摘している。太陽光発電は天候次第で出力が変わる。電力の需要と供給の均衡が崩れると停電が発生する恐れもあるため、電力会社は火力発電の出力を増減させて需給バランスをとっている。資源エネルギー庁によると、昨年12月末現在のメガソーラーの認定状況を都道府県別でみると北海道がトップで、全体の25.9%を占める。広い土地が安く手に入りやすいためだ。(抜粋)

"「大規模発電」新設抑制 富士宮市が国に要望(中日新聞 2013年5月24日)"の記事にあるように、市が完全な拒否権を発動するのは当時の法的環境では難しい。須藤市長は法的根拠を獲得したかったのであろう。

富士山閉山期の規制を提唱しただけでも一般(実際は一部登山愛好家)における拒否反応が強いことからも分かるように、自治体が何らかの規制をしようとすると対抗勢力は必ず出てくる。勿論、メガソーラー賛成という人の声も聞く必要性はあるが、個人的には規制には反対しない。

富士登山規制関連で言えば「法的根拠が無い」という批判はあまり意味がない。これは「〇〇についての定義が無いので〇〇といったような形の定義を作ろう」と言っている人に「定義がない」と批判しているのと同じであるからだ。本質的に重要なのは、冬期登山で発生する課題との折り合いをどうつけるのかという点にある。

つまり課題がそこにあるのだから、表立って批判する場合「代替案」くらいは提示すべきなのだ。それが無いのなら、無関心である方がよっぽど良い。無ければそこに来るべき人ではないのだ。少なくとも話し合う相手としての優先順位は相当低くなるだろう。ちなみに私は、冬期に富士登山したい派である。


  • 博物館構想

次に取り上げたいのは「博物館構想」である。須藤市長は2015年の時点で既に「歴史館」の建設を模索していた。しかしそれは任期中に成就していない。

博物館構想の障壁となったのは①市民性の問題(ここに市議会議員も含まれる)従来の文化課の問題の大きく2つが関係すると考えられる。③として「巷の意見」も挙げておこうと思う。それらは既存の記事において詳細に記しているので、御参照頂きたく思う。

私はYouTubeが好きで様々な動画を観ているのであるが、この数日の間で衝撃的な動画に出くわした。それが以下の動画である(2026/09/02公開)。



内容は聞くに耐えないものとなっているのであるが、それは良いとして、動画内の男女のうち男性の方は富士宮市出身であるという。そして実際に動画を視聴したところ、衝撃的な事実が判明した。


富士宮市出身で且つ歴史好きであるのに、「富士氏」を知らないらしい


そんなことが有り得るのだろうか…とも思ってしまうのであるが、事実なのだ。富士宮市の歴史の1丁目1番地が富士氏であろうから、なかなか衝撃的である。どうやら男性が富士宮市出身であることを知り得ていた女性側が、気を利かせて富士氏をテーマに選んだという経緯のようだ。

動画の流れをみるに女性側は、男性側が当然富士氏を知っているものだと考えていたように見受けられる。私は富士宮市出身で富士氏を知らない人はモグリだと思っているのであるが、むしろそちらの方が大多数という実情は富士宮市の悲劇と言える。それを許した、またはその状況を形成したのは何処の誰だろうか。

ちなみにこれまた最近の別動画で、富士氏が取り上げられていた(2026/09/04公開)。作成者に富士氏が認知されたプロセスは、ネットそのものにあると思う。そしてそこに行政・自治体の媒体は関与していない可能性が高い。

しかし新『市史』の刊行および公開はこの状況を変えていく可能性がある。公開したことにより、AIに拾われていく可能性も高い。これまではネット展開がほぼ皆無であったから、大きく進展したと言える。AIはPDFの情報等も食べているように見受けられる。

ちなみに③「巷の意見」であるが、当ブログの10の博物館構想関連記事の総アクセス数は「6158アクセス」(9月14日現在)となっている。これ程の特定の内容の記事となると、最初から博物館構想に関心があって辿り着いた形だろう。

6158アクセス=6158人が訪問とはならないが、それでもかなりの人数が目を通したことは間違いない。うち意見確立に影響を与えた数も相当数だろう。それらが「賛成」「反対」どちらの帰結となったのかは分からない。

相当厳しく見積もって総アクセス数のうち10%としても600人以上に上るから、それなりの影響を与えられたものであると考えている。


  • おわりに

現在、富士市の市制施行60周年を記念し、シリーズとして記事の投稿を進めている。30記事くらいを予定していたが、他の記事群と比較してアクセス数が限られているため、アクセス数に応じて投稿を進める形式で進めようと考えている。

23:「須藤秀忠富士宮市長と富士市、富士登山規制とメガソーラーと博物館」

2026年9月8日火曜日

身延線西回り化等が招いた公共交通分担率低下、後の大失策の前兆

今年は吉原市・旧富士市・鷹岡町の合併から60周年にあたる。うち旧富士市および鷹岡町を運行エリアとする鉄道に「身延線」がある。富士地区において身延線は、学生御用達の鉄道線というイメージが強いだろう。

  • 富士駅の最寄り学校:私立富士見高校
  • 竪堀駅の最寄り学校:県立富士高等学校
  • 源道寺駅の最寄り学校:県立富岳館高校、県立富士宮東高等学校

本稿ではこの身延線について考えていきたい。時を遡ること1960年代後半の富士市。この時代、富士市の公共交通機関に極めて大きな変化が生じたことを御存知だろうか?

それは"身延線の西回り化"である。

『広報ふじ』平成28年9月20日 1132号より

以下では、その西回り化事業とその後の身延線が辿った運命を取り上げていきたい。

  • 西回り化

元々身延線の富士市区間(現在の富士市域に該当する駅)は、以下の駅を有していた。

富士駅 本市場駅 竪堀 入山瀬 富士根 

この状況を変えたのが、西回り化である。この不可解な西回り化については、『富士市二十年史』に詳しい。(富士市1986;p.258)より引用する。


この身延線は一日の運転本数も多く、国道1号線と本市場で平面交差をしていたから、国道の交通量増加とともに、身延線の遮断器は交通渋滞の原因となった。また、単線運転であったから、通勤・通学の身延線利用や、加えて創価学会員の上野大石寺登山者の激増など、身延線の改良はこの地区住民の切望するところであった。


計画は以下のようなものであった。

  1. 本市場駅の廃止
  2. 柚木駅新設
  3. 竪堀駅を移転新設(旧竪堀駅は現在の「緑道公園」辺り)
  4. 富士駅を出て西へ向かい橋下で北にカーブ、松本地先で旧線と結ばれる
  5. 工事区間はほぼ全区間を高架化

つまり西回り化事業により、富士市区間は以下のようになった。


富士駅 柚木駅(新設) 竪堀(移転) 入山瀬 富士根


松本地先は竪堀駅の少し先に位置する。西回り化自体は昭和44年(1969)に完了した。その後昭和46年(1671)に富士宮駅-富士根駅間が複線化され、翌47年(1972)に入山瀬駅-富士根駅間も複線化された。


  • 公共交通機関の地位低下

上の計画を読むと分かるように、西回り化以降、明らかに人口が少ない地域を鉄道が走行する形となってしまっている。つまり駅の所在地も、人口が少ないエリアへと変更されたことになる。特に、本市場駅の廃止は悪手としか言いようがない。であるから、不可解な計画と言わざるを得ない。(富士市1986;p.260-261)には以下のようにある。


こうして待望の複線化、西廻りによる合理化は完成したのであったが、前にも触れたように鉄道の交通にしめる地位は、他の公共交通機関に比して相対的に揺ぎ始めるのであった。その一例として、身延線各駅の乗車人員の推移を、次の表によってみよう。

各年次とも1月から12月までの人数である。柚木駅では1日平均約304人から204人へ、竪堀駅は,887人から826人に、入山瀬駅は2,339人から1,190人へ、また富士根駅では、1,425人が722にというように減少しているのである。


つまり身延線の利用者が減少し始めているのである。以降、その流れに歯止めがかからなかったことは言わずもがなである。

勿論この現象がすべて西回り化に由来するとは言わない。(富士市1986;p.261-262)ではこの原因をモータリゼーションのみで説明しようとしている。しかしその説明に説得力は感じられない。その内容の一部を見てみよう。


なぜこのような鉄道ネットワークの敗北現象が現れたのか。それは自動車交通のもつ最大のメリットとして、出発地の戸口から目的地の戸口までを直結することが比較的容易であるのに対して、鉄道交通は駅というターミナルの存在が、移動(旅行者)の連続性の障害となり、移動の連続性を保証しなかった付け、あるいはそれについての努力を欠いた決算書として、利用者の徹底的減少ということにつながったと思われるのである。


何度読んでも意味がよく分からないのであるが、理由は本来以下のようなものが挙げられるべきであろう。


  1. 集積地に所在した駅を移転したこと
  2. 歴史的にみても、鉄道路線と鉄道路線の接続を成してこなかった

この2つがあまりにも大きすぎる。つまり上述したように、普通であれば集積地に所在する駅を移転する事自体が論外であるのに、それをしてしまったこと。また「吉原市の急転と衰退、富士市と鷹岡町により決定された新市名と吉原のプレゼンス」にあるように、岳南鉄道が富士地区間の周遊を念頭に置いて鉄道路線を敷かなかったことが大きな理由であろう。

つまり岳南鉄道が身延線と接続ないし近接していれば、もっと鉄道を介した移動が根付いていたわけである。公共交通機関は「駅 to 駅」が原則なのである。東海道本線の駅というのは沿岸部に所在するから、そこから南に人口密集地は成立しにくい。現在の様相がその証左と言えるのであるが、つまり下の□のエリアの周遊を生むことが肝要なのだ。それが全く出来ていない。


例えば岳南鉄道が吉原本町駅から青葉通りを横断して竪堀駅(旧線、現在の緑道公園辺り)に接続されていたとする(普通はこのようなルートを選択する)。その間に1駅は設けられるだろう。

そういう場合、青葉通り一帯の人々は吉原などに電車で買い物に行くことが容易になったであろうし、富士宮市の人々も富士宮→竪堀→吉原というアクセスが可能となるから心理的にも近くなっていたことだろう。集積地から、ないし集積地より鉄道だけで様々な場所に移動できないから、鉄道が利用されないのである。なぜそれに気が付けないのか。

このような歴史からも分かるように、富士市の鉄道軽視傾向が感じられ、そのような風土が後の新富士駅と富士駅未接続という状況を生んだのではないだろうか。また公共交通分担率の低下を招いたと言うことも出来る。

結局公共交通機関の問題を直視してこなかった地域は、新幹線を誘致できたとしても、その先の未来は描けないのである。これは富士宮市の問題でもある。なぜ富士宮市は叱咤しなかったのか。自分たちの税収から約5億円も建設費を捻出しているというのに、危機感が足りないのである。しっかり尻を叩いてやる必要性があったのである。


  • これからの身延線

私はむしろこの10年くらいは、身延線を利用する機会が増えている。理由は、東京に行く際に在来線で三島駅まで行き、そこから新幹線に乗車しているからである。今は完全にその形態に移行している。

では平日のダイヤにて、新幹線三島駅乗車パターンを見てみよう。今回は富士市内の駅からより遠い富士宮駅を最寄り駅(スタート地点)に設定してみる。


富士宮駅発(9:02)

三島駅着(9:49、680円)

新幹線三島駅発、品川駅着(9:58発 10:35着、計4070円、ひかり乗車)


以下、同じく平日のダイヤで新幹線新富士駅乗車パターンを見てみよう。

車で新富士駅着

新幹線新富士駅発、三島駅着(9:41発 9:49着、ひかり乗車)

品川駅着(10:35着、計5170円)

新富士駅周辺は車が混雑するため、駐車場に停める時間も考慮すると30分前には出たい。場所にもよるが、富士市・富士宮市問わずそういう人も多いだろう。そうなると9:00過ぎには出ないといけない。つまり行きだけで考えれば在来線の例と大して変わらないのである。それでいて駐車料金(大体1,000円くらい)も不要であるから、あまり新富士駅に拘る必要性は無いのである。また急遽東京に残ることになった場合も、柔軟に対応できる。

将来的には、リニア山梨県駅を用いるパターンも想定される。リニア山梨県駅であるが、実は富士宮市からそこまで遠くはない。


富士宮市中心部からリニア山梨県駅まで約1時間。そこから大阪や東京に行くことも可能である。私は東京に行く場合は東海道新幹線、大阪に行く場合はリニア中央新幹線も選択肢に含めるという方向で考えている。

観光客の場合、リニア山梨県駅で降り、レンタカー等で富士五湖や朝霧高原を観光するといった遊び方がまず想定されるであろう

しかし身延線の利用者は減少の一途を辿っている。身延線は、このままでは将来的な廃線もやむ無しとすら思える。JR東海は、頑張って維持してくれているのである。岳南鉄道が廃線となったその時は、いよいよ将来的にあり得ると考えたほうが良い。こうなったのは、ひとえに選択の誤りによる。潜在的に有りえなかった需要を求めているのではない。その時その時に実際にあったその選択を尽く間違えた、ということなのである。

ちなみに『富士市二十年史』刊行の2年後に開業したのが、新富士駅である。市全体で20年を振り返る中で、将来への教訓は活かされなかった。いや、"同じ様な轍を踏まない"という空気自体が全く醸成されていなかったと言ったほうが良いだろうか。この警告は、リニア山梨県駅にもそのまま当てはまるわけであるが…。

  • おわりに

現在、富士市の市制施行60周年を記念し、シリーズとして記事の投稿を進めている。30記事くらいを予定していたが、他の記事群と比較してアクセス数が限られているため、アクセス数に応じて投稿を進める形式で進めようと考えている。

22:「身延線西回り化等が招いた公共交通分担率低下、後の大失策の前兆」

  • 参考文献

  1. 富士市(1986)『富士市二十年史』

2026年8月24日月曜日

吉原市と鷹岡町により選定された富士市役所の位置、当時の青葉通りの様子

まず、新富士市の市庁舎の位置選定の経緯は(富士市1967;52)に記されており、以下のようにある。


新市の事務所の位置
 新市の事務所の位置については総務委員会において審議することとなっており、委員会としては選定資料として航空写真をとることとなった。その後委員会、協議会において慎重審議がなされたが、ただ意見交換のみに終止した。委員会としては各市町毎に希望する候補地及び選定の理由を持ち寄って検討し、又、或る程度煮詰めた上で現地踏査等も行なうことに決定され、各市町において独自に選定した候補地の提示が図面によりなされ、選定理由の説明がなされた。各市町の提示した候補地は

吉原市 吉原市津田地先国道1号線沿、現吉原市営球場敷地
富士市 吉原市永田県道御殿場-富士線沿、潤井川左岸、岳南総合運動場計画予定地附近
鷹岡町 吉原市片宿、鷹岡町との境界2級国道139号線(大月-吉原線)沿、東名高速道路北側

であるが、この提案理由の説明に対する質疑があり、引き続き審議に入ったが結論は出ず、再び各市町において各々提示した候補地に対して更に十分なる検討を加えることとなった。

ここで注目されるのは、三自治体すべてが吉原市域を選定していることである。やはり町の中心は吉原市であるという共通認識があったらではないだろうか。「旧富士市・旧吉原市・旧鷹岡町の合併直前の人口と令和7年国勢調査の結果」にもあるように、吉原市の方が人口は多かった。

 その後開かれた委員会においても具体的な歩みよりが見られず、最終的には各市町の首長及び副議長等の首脳会議により検討することとされた。この首脳会議において事務所の位置は吉原市伝法地内約40万坪の円内に求めることに意見の一致をみた。更にこの40万坪をいかにして集約を計るかについて討議されたが、その結果約20万坪に集約すべきだとの極めて積極的な意見の一致をみるとともに尚慎重審議を要するとして継続審議に付されることとなった。更にこの20万坪をいかにして選定するかについては円内の弥生線以南においてなるべく地価の安いところを出来るだけ広く求められるよ様な場所ということに決定された。尚この20万坪の圧縮、用地取得の方法として庁舎用特別委員会の設置についての意見の一致をみ、41年7月17日開催された第13回促進協議会において正式に承認され、具体的審議に入ることになった。

この種の話でいつも思うのであるが、正直、都市開発の知見の無いおじさん達で選定するというリスク自体は当事者たちは感じないのだろうか。

デベロッパーであれば、開発失敗で場合生じた不利益はそのまま自分たちに降りかかる。こういう緊張感が全く発生し得ない状態で選定すること自体がリクスと思うのであるが、如何であろうか。また以下のように続く。

 この特別委員会において集約の方法として各市町で適当と考えられる地点を2案ずつ提出し、その第1案を中心に市名の問題も含めて協議することとなったが、協議の過程において吉原市、富士市の意見の一致が見られない為鷹岡町が調停役になり、調整が図られたが結論が得られず結局しばらく冷却期間をおくこととなった。その後鷹岡町より

①庁舎の位置については図面に示す範囲において吉原市と鷹岡町が意見の一致する位置を尊重する
②名称については富士市と鷹岡町の意見の一致する名称を尊重する。

という超提案が出されたが調整が得られず、結局各市町とも同一歩調で全員協議会に諮ったうえ、継続審議に付すこととなった。その結果、新市の事務所の位置は吉原市側と話し合い、意見の一致をみた吉原市提案の第1案即ち吉原市大字永田地先と決定されるとともに総務委員会に諮り、更に41年9月8日開催された第14回促進協議会において正式に承認され決定された。

この文献における文章は時系列等が示されず分かりづらいのであるが、つまり吉原市と鷹岡町とで市庁舎の位置が検討され、新市名の決定と同時に正式決定に至ったということであろう。

そして建設中および完成当時の市庁舎の写真が残っているので掲載する。




このように緑地がふんだんに残る地に市庁舎は建てられた。写真の左手下に現在の青葉通りがみえる。実は青葉通り一帯は、富士市の中でも田舎の場所で、建物1つないような場所だったのである。とはいっても、当時の富士市はかなりの面積が緑地であったわけであるが。

この青葉通り沿いの「青葉町」が、現在富士市において地価最高点となっている。この事実そのものが大問題で、富士市の問題点を如実に表すものとなっているわけであるが、この部分については余裕があれば記事化したく思う。

  • おわりに
現在、富士市の市制施行60周年を記念し、シリーズとして記事の投稿を進めている。30記事くらいを予定していたが、他の記事群と比較してアクセス数が限られているため、アクセス数に応じて投稿を進める形式で進めようと考えている。

21:「吉原市と鷹岡町により選定された富士市役所の位置、当時の青葉通りの様子」

  • 参考文献
  1. 富士市市長公室企画課(1967)『岳南2市1町合併の記録』

2026年8月21日金曜日

吉原市の急転と衰退、富士市と鷹岡町により決定された新市名と吉原のプレゼンス

『吉居雑話』から吉原の歴史・民俗を考える、富士市の精神的変化」にて吉原衰退の要因を以下のように表現した。


吉原の衰退の主要因は、近世を通して脇往還(つまり主要路)であった中道往還を軸とする富士郡の交通形態を、時代が進むに連れ無視していったことにあると考えている。


本稿ではこの部分を深堀りしていきたい。まずは吉原の核とも言える「吉原宿」から考えてみよう。吉原宿の歴史は、"大宮方面に近づいていった歴史"とも言える。


「冨士三十六景 廿五 東海堂左り不二」(歌川広重)

享保6年(1721)の『吾嬬路記』には以下のようにある。


吉原の町、延宝八年八月六日、海水あふれ、民屋ことごとく崩る。是世俗に津波といふ也。町の人は、富士のすそ野のかたへにげて、命をのがれぬ。其後天和二年もとの町ありし所地ひきくして、かさねて水災あらん事を恐て、十町斗北へよりて、今の町を立てしなり。其ゆへに、原の方へは十町斗遠くなり、神原へは十町斗ちかくなるといふ

十町斗北に移り、神原(蒲原、吉原から見て西方面)に十町斗近くなったとあるように、つまりは北西の大宮(富士宮市)に大きく近づいたわけである。しかしこれは新吉原宿のみの話であり、吉原宿は過去に移転歴がある(吉原宿の前身を含めればもっと多いとも言えるが)。それを含めると、以下のようになる。

  1. 寛永16年(1639年)の高潮で移転→中吉原宿の誕生で、大宮に近づく
  2. 延宝8年(1680年)閏8月6日の高潮で移転→新吉原宿の誕生で、更に大宮に近づく

つまり、どんどん大宮に近づいているわけである。元々中道往還の間柄、関係が深かったことは言うまでもないが、更に強固となったのは間違いないだろう。実際吉原宿は大宮との関係性の上で語られることが多かった。

「宿の内右に富士参詣大宮口への道あり」宝暦2年(1752)『東海道五十三次図』
「宿の内右に富士参詣大宮口への道有」明和2年(1765)『東海木曽両道中懐宝図鑑』
「此宿に富士参詣大宮へ道あり」寛政7年(1795)高力猿猴庵『東街便覧図略』


ここで言う「宿」とは吉原宿のことであるから、吉原宿は富士参詣における経由地として認識されていたわけである。

東海道五拾三次之内 吉原 左富士(歌川広重)

これは、以下のようにも言い表せることができる。


吉原は単なる東海道の通過地点としてではなく、脇往還の起点であり、むしろそちらの方面で重要な意味を持った宿であった。

吉原宿の素晴らしさは、街道の起点であったことにあると言える。そしてこの関係が明治-大正と継続されていく中で、吉原に異変が起こった。


  • 吉原の玄関口および交通結節点の地位消失

(青木2010;p.117)には以下のようにある。

さらに、特筆されるのは、富士駅の開業及び富士製紙第八工場の操業にともない、明治42年10月に富士駅から長沢(鷹岡町)への富士馬車鉄道の支線が敷設されたことである。この馬車鉄道に変わる蒸気鉄道としての富士身延鉄道(現JR身延線)が建設され、富士町と大宮町(現富士宮市)間が大正3年(1914年)に(註:同論稿で他箇所に大正2年とあり、そちらが正と思われる)、さらに甲府への延伸が昭和3年(1928年)に完成した。これにより、富士町は、甲州への玄関口として、交通の結節点という地位を獲得し、更なる発展の鍵を手に入れたことになる(A)。

富士町が先の時代を見据え動いていたその時、吉原はあまり動けていなかった。本来甲州への玄関口は、吉原であったのである。そして交通の結節点も、吉原であった。その地位は他の地に譲ることになったのである。

以下に、旧加島村が町制施行して「富士町」となった年である1929年に出版された日本地図を掲載する。

『新地図』日本之部、文学社、1929年

○で記される地が主要地であるが、吉原が交通結節点であったことは疑いようがない。そしてまだ「富士(加島)」は記されていない。しかしこの時、徐々に台頭してきていたのである。

以後吉原は交通結節点としての地位は諦め、異なる方面を模索したようである。しかしそれでも鉄道の必要性に駆られ、1949年(昭和24年)という遅きに岳南鉄道の鈴川駅 - 吉原本町駅間が開業した。

吉原に鉄道を敷設する場合、旧往還のルート再構築を目指すべきであることは言うまでもない。実際、身延線に接続することを模索したようであるが、資金難で頓挫したようである。

  • 吉原の精神的衰退

吉原の"精神的な衰退"の強力な要因の1つとして"港の命名における「吉原」除外"がある。昭和36年(1961)に開港した「田子の浦港」であるが、往古は「吉原湊」と呼称されていた港(湊)であった。ちなみに(青木2001;p.119)には山部赤人の歌が掲載されているが、誤っている上に、富士市は当歌の詠地ではないとされているので注意されたい。

歌川広重・歌川国貞「双筆五十三次 吉原 左り不二縄手」


つまり歴史的に言えば「吉原港」と命名されるのが筋なのである。しかし(旧)富士市民と吉原市はこれを採らなかった。(青木2001;p.118)には以下のようにある。

田子の浦港の区域が吉原市と旧富士市にまたがることもあり、鷹岡町を含む2市1町の広域都市計画を制定し、両市域にわたる122haを臨港区域に指定している(昭和34年)。

これは、「吉原」という名を消滅させていくという意味では十分であった。これが決定打となったと言っても良いだろう。

吉原という名のプレゼンスが大きく弱まっていく中で、1965年頃から市名論争が勃発した。そもそもこの合併は「吉原市・富士市・鷹岡町」による新設合併であるから、鷹岡町の立場についても言及しておこう。

  • 鷹岡町の立場

まず鷹岡町は、「富士」と「吉原」とで言えば、「富士」との関係の方が強い。明治23年(1890)に富士馬車鉄道鈴川-大宮間が営業を開始したが、これは「鈴川-吉原-伝法-入山瀬-大宮町」というルートであった(≒中道往還)。ここだけ見れば吉原と関係が深いと言えるだろう。

しかしその後、大正2年に富士身延鉄道の富士駅-大宮町駅間が操業開業し、馬車鉄道は廃止された。これにより完全に南北との関係性が強くなっていったのである。それ以降も、南北の道路が優先的に開発された。(青木2010;p.117)から引用する。

(Aに続いて)また、道路の整備も進み、東海道、鈴川蒲原往還、岩松鷹岡往還の道路網により、大正工業第二工場、富士繊維工業が誘致され、富士町、田子浦村、岩松村が一つの生活圏となる一因にもなったとされる。

このような歴史と、現在でいう「富鷹線」といった存在から、鷹岡は「富士」と生活圏を近くしていったという歴史がある。この先鞭となったのが、上でいう富士町の交通結節点という地位確立にあることは言うまでもない。

  • 市名論争

まず吉原市と(旧)富士市の経緯を以下にまとめる(主な合併のみ)。

「末広五十三次 吉原」(二代目広重)


【吉原市】
1889年(明治22年)4月1日:町村制施行で吉原町誕生。
1942年(昭和17年)6月14日:吉原町と今泉村が合併。名称は吉原町。
1948年(昭和23年)4月1日:吉原町が市制施行し吉原市となる。

【富士市】
1929年(昭和4年)8月1日:加島村の町制施行で富士町となる。
1954年(昭和29年)3月31日:富士町・田子浦村・岩松村が合併。富士市となる。

1961年(昭和36年)には田子の浦港が開港、そして1966年(昭和41年)11月1日に吉原市と富士市と鷹岡町が合併し、新富士市が発足した。この過程で市名論争が発生したことはよく知られている。(富士市1967;p.51)には以下のようにある。

新市名の決定
 合併後の新市名は昭和40年7月28日に開催された総務委員会において公募の方法によることなく、2市1町の協議によって定め、具体的には2市1町の代表者(市町長、議長)により話し合うことになり、その結果について協議会に報告することとなったが、各市町とも旧市町名を主張してまとまらず、継続審議となった。
 その後総務委員会について鷹岡町から大局的立場にたって考えるならば霊峰「富士」もあり、又、昔の行政区画の「富士郡」からお互い市に発展して来た。合併ということによって消滅していく「富士郡」の名称を永久に残すためにも「富士」という名称が一番当を得ているのではなかろうか、という意見が出されたが、結論は保留にされた。

この鷹岡町のスタンスを見れば分かるように、明確に「富士市」を推していたことがわかる。しかし一読すれば直ぐ分かることであるが、鷹岡町の主張はかなり無理がある



まず「霊峰「富士」もあり」とあるが、実は旧富士市や鷹岡町には富士山は所在していない。富士山が所在するのは、実は吉原市だけなのである。その吉原市は「吉原市」を推している。それが分かった上での面前での発言であるから凄まじい。


しかも「富士郡の名称を永久に残す」とあるが、富士宮市が存在する他、富士郡としては芝川町も残っているため、実は全く説得力の無い言い分なのである。

つまり富士山が所在する吉原市に向かって、それを有さない地が「富士山もあるし富士が良いよね」と述べた構図である。これは皮肉としか言いようがない(そもそも「富士市」という名称の由来も一癖ある)。しかしよくよく考えてみると、吉原市には手立てがあった。

吉原市には強力な助っ人が存在した。それは富士宮市である。富士宮市からすれば意図せずの助っ人の形であるが、つまりは「富士宮市」が隣接し、「富士市」では名称が一部重複するので、これを避けんとする論調も可能であったわけである。



つまり「富士山を有する我々が吉原市を推している」とか「富士宮市や富士郡芝川町が存在するから「富士」の消滅は考えづらい」とか「むしろ市名の重複ではないだろうか」等の主張は十分可能であった。これらは、かなり筋の通った言い分と言えるだろう。

しかし吉原市はこのような論調をとることはせず(内々ではあったのかもしれないが)、むしろ富士市と心理的に近い鷹岡町へ仲介を願い出ることになる。以下に(富士市1967;p.51)の続きを記す。

 その後の委員会においても吉原市、富士市の意見の一致が見られず、再び継続審議に付されたが、その後の委員会において鷹岡町から前述の発言は当時と時点のずれもあるのでこれを取り消して、白紙の状態に戻し、改めて審議したい旨の発言がなされた
 吉原市側からは今後の進展を図るための道を講ずるよう鷹岡町議会議長並びに鷹岡町長にその仲介の労を願いたいとの意見があり、富士市側もこの提案を了承した。この問題については委員会とその関係筋においても庁舎の位置と関連して協議することが好ましいとする空気が極めて強いと推量されることから、鷹岡町側の最終的な調整案が次のように示された。

鷹岡町の急転は、上記の総務委員会での主張が破綻していることを察してのものであろうか。そしてこの時点で吉原市は新市名「吉原市」の線は捨てていたと私には見えてしまうが、どうだろうか。また以下のように続く。

①新市の名称
 2市1町は新市の名称を決定するにあたっては富士市と鷹岡町において意見の一致する名称を尊重するものとする
②新市の事務所の位置
 2市1町は新市の事務所の位置を決定するにあたっては、合併促進協議会において決定されている図面に示す区域内において吉原市と鷹岡町の意見の一致する位置を尊重するものとする。

(中略)その後開かれた総務委員会において調整案は2市1町の全員協議会において承認された旨の報告があり、更に慎重審議した結果、新市の名称は「富士市」とすることを総務委員会にの決定事項とすることで了承が得られ、次回の促進協議会に報告し了承を得ることとなった。ここに愈々大詰を迎えた当問題も9月8日鷹岡町公民館において開催された第14回促進協議会に総務委員会の決定事項となっている新市の名称は「富士市」とすることが諮られ、正式に新市の名称が「富士市」と決定した。

市名は「富士市と鷹岡町で決定する」という方針を取った。逆に新市の事務所、つまり市庁舎の位置は「吉原市と鷹岡町」とで決定するという方針をとっているから、折衷案のような意味合いが強い。しかし圧倒的に影響力があるのは市名の方であることは言うまでもない。現に今、市庁舎が旧富士市・吉原市のどちらに位置するのか分からない人の方が多いのだから。



この市名決定の経緯は(富士市1978;p.757-760)にも同様の内容が記されている。また『昭和41年10月31日合併特集号(吉原市の広報よしわら)』には以下のようにある。


新市名は新市が永遠に飛躍発展する姿にふさわしく、しかも郷土的な色彩を反映し、地域住民はもとより広く国際間においても親しまれている「富士」を新市の名称としました。


これは「第14回促進協議会」においての文言である。ここで少し考えてみよう。田子の浦港の名称が歴史に則って「吉原港」であったらどうであっただろうか。少なくともその象徴性は無視はされなかったであろう。

そしてやはり吉原市側からは反発もあったようである。『広報ふじ』平成8年10月5日673号の元富士市助役のコメントから引用する。

特に問題となったのが、新しい市の名称と、市庁舎の場所、新市施行後の事業計画などでした。まず、市の名称は、それぞれが現行の市名を主張する中、旧富士市は、世界の名峰富士山の「富士」、旧富士都の「富士」を最良とし、旧吉原市は、歴史ある「吉原」という名は捨てられないと、特に商店街の皆さんは「富士市」に大反対でした。そこで、いろいろな面で対等の立場にあった旧富士、旧吉原の2市の間に立って旧鷹岡町が仲介役となり、新市名と市庁舎の場所を抱き合わせた調停案が示されました。それは、新市の名称は旧富士市と旧鷹岡町とで協議、新しい市庁舎の場所は旧吉原市と旧鷹岡町とで協議した結果を、それぞれ尊重するというものでした。

商店街の方々は富士市に大反対であったとあるが、正直名を残そうとしていたようには思われない。"吉原港"運動と言えるような痕跡も見当たらない。

今日では、吉原が街道の起点であったことすらも忘れ去られている。岳南鉄道を敷く際、普通の感性であれば旧街道ルート(中道往還)の再構築に勤しむべきであるのに、それが第一義的なものとして設定されていない。


吉原に歴史の記憶が存在していたのであれば(また当時の世相を鑑みれば)、近世を通して脇往還であった中道往還を軸とする富士地区の交通形態を、鉄道にて再現することを推し進めていたはずである。

勿論、駿豆鉄道との関係で異なる引力が発生したということはあるだろう。しかし普通に経済性を鑑みれば、それは修正されていたのではないだろうか。今日まで私は、須戸方面に敷設したことを支持する人に出会ったことが無い。これが答えではないだろうか。

合併後の都市開発方針によって衰退した面もあるが、むしろそれまでの動向の方が圧倒的に関係していると考える方が普通である。

  • おわりに

本稿では吉原の基本的な性質と新市名決定の経緯を主に記した。吉原の変遷を探るにおいては、もう少しデータから考えていくことも可能である。富士市は都市開発関連の論文が豊富なのだ。余裕があれば、今後記事の作成も考えたい。

  1. 吉原の、玄関口および交通結節点の地位消失
  2. 吉原市と旧富士市を跨る港(往古の「吉原湊」)の命名において「吉原港」を採用しなかったこと

この2つが致命傷となり、プレゼンスが大きく低下し、後の市名論争でもリード出来なかったものと思われる。もっと言えば②の時点で地名論争の前哨があったと見るべきであろう。

現在、富士市の市制施行60周年を記念し、シリーズとして記事の投稿を進めている。30記事くらいを予定していたが、他の記事群と比較してアクセス数が限られているため、アクセス数に応じて投稿を進める形式で進めようと考えている。

20:「吉原市の急転と衰退、富士市と鷹岡町により決定された新市名と吉原のプレゼンス」

  • 参考文献
  1. 富士市市長公室企画課(1967)『岳南2市1町合併の記録』
  2. 富士市史編纂委員会(1978)『吉原市史 下巻』
  3. 青木敏隆(2010)「市町村合併と都市構造の課題(その6)」『経済調査研究レビュー』、経済調査会

2026年7月31日金曜日

『吉居雑話』から吉原の歴史・民俗を考える、富士市の精神的変化

本稿では、「富士市60周年シリーズ」でも度々言及している山中共古『吉居雑話』について取り上げていく。以下に、その内容と(山中1984)に応じた頁数を一覧化する。

また「吉原」だけでなく「大宮」についても多く取り上げられているので、冒頭に「大宮」が登場するページの頁数を示しておく。


「大宮」が登場するページ7,9,13,22-23,28-29,68,73,81-82,88,91-93,96-97,102,104,107,120,123,124


以下に、印象的な内容とその頁数を一覧化する。


内容
阿字神社5-6
富士塚12
天子ヶ嶽の瓔珞ツツジ13
花一匁のような遊び14
木之元神社21
浅間大社・村山口登山道・村山三坊22-24
イナゴ食27
大宮方言28-29
富士郡の旧暦文化29
見世物小屋29
石坂の石ノ穴33
かぐや姫49-50
天子ヶ嶽59-60
比奈の浅間社67-68
浅間大社68
鏡石68
米之宮と米72
磔八幡72-73
小泉久遠寺73
鈴木香峰77-78
犬食文化78-79
沼久保の狂人塚・サトリ塚・摩利支天塚81-82
悪王子神社(吉原)87
三股淵・田子の古道89
保寿寺(三股淵)89
富士川舟運90
大宮の羽掛松の古址91
大宮の蔵屋敷稲荷92
福石子育神社92
虎石93
北山の浅間神社96
かぐや姫(大宮・村山・比奈)97
吉原の方言101
浅間大社の湧玉池の石碑(山宮御神幸)102
飯森浅間神社103
玉渡神社・曽我祠・角田一家103-104
御菊田の伝承105-106
死人川106
比奈の名称106
葛山氏107
永明寺・龍ヶ淵107-108
富知六所浅間神社と富知神社114
一比奈、二香貫、三加嶋115
子袋神社と奇祭117-118
日野屋119
鈴木香峰121
曽我八幡宮124
富士の巻狩り由縁の地名124
カケスバタ124
妙法寺125-126
富士道者127,130

  • 『吉居雑話』の分析

同史料は、富士郡の民俗学を考える上で必須の史料と言える。吉原だけでなく大宮の民俗も多く記されている。これは、吉原という地が大宮と関係が深かったからに他ならない

山中共古の興味は、特に「コトバ」「風習・習俗」「石碑の刻文」にあったと見える。土民から聞いたことに加え、自らが確認したものも豊富に認められる。

ここから当時の地域性を掴むことができるわけであるが、吉原は必然的に「三股淵/生贄」関係の内容は多くなっている。そして富士郡全体として、「浅間神社」「曽我」「かぐや姫」に関する内容が多い。これも必然であろう。

そして、大宮と村山は互いにギクシャクしているような印象を受けなくもない。例えば97頁に、コノシロ(魚)に関連して「此話ヲ大宮ノ人ニ聞クニ村山ノ神官ハカクセリトノ事」とあったり、107頁に「富士浅間ハ村山ガ元ナリシヲ、後ニ大宮ヘトラレシトイフ」とある。

今でも村山の人間はこの調子なのであるが、それはこの時代からの延長線上と見ても良いかもしれない。村山の異様な排他性は不思議である。

そして現代と比較したとき、富士郡において明確に失われた精神性を認めることができる。浅間神社に関しては未だ精神的支柱であるかもしれないが、やはり三股淵の伝承は語り継がれなくなってきていると見える。また近世の道中記等で鷹岡の曽我関連のものは多く見いだせるわけであるが、『吉居雑話』も同様であった。これらも存在感が失われているように思える。

吉原の重要な歴史的性質として、中道往還による人々の往来を指摘できる。それは明治・大正にもそのまま引き継がれた(主要ルート)。しかしこの感覚は現代では大きく削がれているように見える。これこそが、富士郡における最も大きな変化ではないだろうか。それ故に、鷹岡の曽我関連史跡も着目されなくなったのかもしれない(吉原-大宮間に位置する)。

天子ヶ岳も、昔はもう少し意識されていた存在であったようだ(13頁、59-60頁)。実際他の史料でも天子ヶ岳関連の習俗は認められるため、大宮にとって天子ヶ岳は"ホームマウンテン"のような感覚があったと推察される。次第に水に困ることが少なくなったため、雨乞いの必要性がなくなり、人々の意識の中では希薄になっていったと思われる。

  • おわりに

『吉居雑話』から、吉原と大宮の関係性の深さを見ることができた。私は吉原の衰退の主要因は、近世を通して脇往還(つまり主要路)であった中道往還を軸とする富士郡の交通形態を、時代が進むに連れ無視していったことにあると考えている。

普通に考えれば、そのまま開発していけば良い話なのだ。言い方を変えれば、富士郡として経済圏を形成することを捨てたがために、迷走していったように見える。結果としてこれは大失敗であった。

東海道本線からより内陸部に鉄道が敷かれる際に吉原は手を挙げるべきであったし、また遅れて岳南鉄道を敷く際も沼津方面に繋げようとすること自体が誤りだったわけである

吉原宿の素晴らしさは中道往還の起点であることにあるわけであるが、これが完全に忘れ去られているところを見ると、旧来の感覚は完全に失われたと見て良い。これが、富士郡における最も大きな精神的変化であると考える。

  • おわりに
現在、富士市の市制施行60周年を記念し、シリーズとして記事の投稿を進めている。30記事くらいを予定していたが、他の記事群と比較してアクセス数が限られているため、アクセス数に応じて投稿を進める形式で進めようと考えている。

19:「『吉居雑話』から吉原の歴史・民俗を考える、富士市の精神的変化」

  • 参考文献
  1. 山中共古 (1984)「吉居雑話」『諸国叢書』(No.1)、成城大学民俗学研究所

2026年7月30日木曜日

富士市と富士山との接点を見出してみる、富士市の特筆すべき歴史材料とは

以前「富士市のWikipediaを添削してみる、〼で表せる富士地区を見て思う」にて、富士市民が富士山を馴染みのあるものとは捉えていないことを示唆する事象について取り上げた。本稿ではこの点を深堀りしていきたい。

例えば西富士道路であるが、勿論富士市から見て西方面に走っている。流石に真北に向かっていると誤認する程の方向音痴さんは居ないと思われるので、"西方面に富士宮市がある"くらいのことは分かっていると思われる。それにも関わらず「富士宮市=北」と言う人が一定数居るということは、富士市と富士山が全くリンクしていないのだろう。そう理解する他ない。

この背景について考えてみた所、実際に富士市はそれほど接点が無いのではないか、という視点が浮上してくる。それ故にあまり印象に無いのではないだろうか。

以下は「世界文化遺産の範囲」「史跡富士山」「特別名勝」「国立公園の特別保護地区」といった項目において、どの自治体が関与しているのかということを示した表である。

富士宮市御殿場市裾野市小山町富士市沼津市三島市清水町長泉町静岡市富士吉田市身延町西桂町忍野村山中湖村鳴沢村富士河口湖町
富士山―信仰の対象と芸術の源泉(世界遺産
富士山(史跡
富士山(特別名勝
富士箱根伊豆国立公園「富士山地域」の「特別保護地区」(国立公園

まずこれら「4つ」が満たされている地域というのは、かなり関係が深いと言える。やはり「富士宮市」「小山町」「富士吉田市」「鳴沢村」「富士河口湖町」は別格という感じがする。

一見すると富士市も関係が深いと言えるのであるが、実は世界文化遺産富士山において、富士市は単独の構成資産を有していない。だから関係を持って語られることも少ない。

明らかに、環富士山地域の中において富士市は、富士山との接点がより限局されたものとなっている。これは誰の目からみても明らかであろう。

しかし私はここで、歴史の方から富士山との接点を見出すことをしていきたいと考える。富士市と富士山の接点を述べる上でまず引き合いに出されるべきものは「能〈生贄〉」(以下〈生贄〉)である。

〈生贄〉は、静岡県富士山世界遺産センターの展示にも含まれている。実は富士市の歴史も世界遺産センターにてしっかりと取り上げられているのだ


何故〈生贄〉が富士市と富士山との接点を示すものと言えるのだろうか。それはその詞章に富士山に関連するワードが散りばめられているからである。しかもその年代が重要で、室町時代以前であることが確実である。私は相当遡ることが出来ると考えている。(佐藤2021)には以下のようにある。

(一)室町時代後期観世流謡本 観世元頼章句本(元頼本)と観世元忠(宗節)章句本の書誌情報の集成・分類を行った。詞章の筆跡についての分類作業を行う中で、元頼本全体の題簽および『生贄』詞章本文の筆者が戦国期聖護院門跡の道増(1508~1571)であることを明らかにした。道増は足利義輝(1536~1565)の近臣としても知られており、義輝周辺で元頼本が成立した可能性を示唆するものと考える。

先行研究によると、現存する謡本のうち「観世元頼本」は、「道増」による筆であることが明らかとなっている。これは書写であるから、更に遡ることが出来る。詞章の中で富士山に関わる用語としては、以下のようなものがある。

  • 富士権現
  • 日の御子の神
  • 内院
  • 富士の嶽

であるから、富士市にとって〈生贄〉は特別なものである。私は富士山に関わる神事が下敷きとしてあり、それが能となったものではないかとも考えている。

(諏訪1988;p.121)は、〈生贄〉のあらすじを説明している。

「生贄」は4・5番目物の夢幻能で作者未詳とされているが、『自家伝抄』には宮増作とある。『言継卿記』によると、天文14年(1545)3月7日に観世座が上演した記録があるので、これ以前の成立であることは確実である。

都から東へ下る旅人(シテ)と妻(ツレ)、娘(子方)の三人が、駿河の吉原までやってきて宿をかり、富士の生贄の神事に行きあたった。宿の主人(ツレ)はひそかに逃がそうとしたが、神主(ワキ)と従者(トモ)に止められ、数百人の候補者たちの中から旅人の娘がくじに当った。娘は富士の御池の大蛇へ生贄にそなえられることになった。

しかし、娘を乗せた小船が沖へ出て行こうとしたとき、富士権現の御使の火の御子(後シテ)が現われ、富士権現の神徳によって大蛇が退治されたことを告げ、今後、生贄は廃止になるとの神託を伝えて娘の命を助けた。

詞章には、以下のような箇所もある。


招けば招く風情はさながら。松浦佐用姫かくやらんと。汀にひれ臥し泣き居たり


このように「松浦さよ姫」の言及があることで、その方面から言及している論稿もある。柳田國男の論稿「人柱と松浦佐用姫」には以下のようにある。

例えば謡の「生贄」という一曲には、父と娘と二人の旅人、東海道を旅して駿州の吉原に泊った日に、富士の御池の贄に娘を取られて、父ひとり歎き悲しむことを叙してある。其文句の中に殆と何のつきも無しに、
姫も互ひに名残を惜み、
招けば招く風情はさながら、
松浦佐用姫かくやらんと、
汀にひれ臥し泣き居たり。
とあるなどは、単に上代の肥前の女が、つま恋いの船の影を見送るというだけの、連想でなかったことを意味するかと思われる。

またこの辺りは(近藤2010;p.103-104)に詳しい。

〈生贄〉はその広がりも着目されるべきであり、アーサー・ウェイリーによる翻訳およびそれを収めた書物の刊行(1921年)は知られている。他にヴィルヘルム・グンデルトの研究でも取り上げられるなどしている(兼岡2022;p.39)。

結論、富士市が富士山との関わりを示す上で強く引き合いに出されるべきものが〈生贄〉なのである。これ以上の素材は無いと考える。それ故に、全く着目されないことが不思議に思われるのである。

  • おわりに
18:「富士市と富士山との接点を見出してみる、富士市の特筆すべき歴史材料とは」

  • 参考文献
  1. 諏訪春雄(1988)『聖と俗のドラマツルギー―御霊・供犠・異界』、学芸書林
  2. 近藤直也(2010)『松浦さよ姫伝説の基礎的研究【古代・中世・近世編】』、岩田書院
  3. 佐藤嘉惟(2021)『2019年度実績報告書(能の詞章の文字化に伴う作品・作者概念の成立の研究―世阿弥自筆能本の文字表記から)』、KAKEN
  4. 兼岡理恵(2022)「W.グンデルトの日本学―キリスト教から神道、そして日本学―」『比較日本学教育研究部門研究年報 18』、38-44

2026年7月23日木曜日

富士市のWikipediaを添削してみる、〼で表せる富士地区を見て思う

本稿ではWikipediaにおける「富士市」のページを添削していきたいと思う。「・」は原文を引用した。



  • 日本最高峰の富士山南麓に位置し
日本語の誤り。これでは「富士山南麓」が日本最高峰という意味となってしまう。"日本最高峰富士山の南麓に位置し"が正しい。

  • 市域の北端は山頂直下に及ぶ
富士市の最高地点は3,680m。高さ3,776mに対し3,680mは、普通の感覚では山頂直下とは言わないだろう。

  • 海岸線から富士山までを市域とする唯一の自治体となっている
富士山は、厳密に言えば沼津市・三島市も含まれるとされる。疑義のある内容。半分正しくて、半分誤っている。

  • 東は沼津市、西は静岡市に接する
東は沼津市以外にも接している自治体があるし、西は静岡市以外にも接している自治体があるので、正しくはない表現である。

  • 和紙の産地として知られ
ここはやや難しい。「吉原」を産地として記す論稿も確かに存在するが、庵原郡吉原村と混同している節あり。少なくとも富士地区においては、富士市を特筆すべき産地と評価するのは難しい。

  • 現代においても主要産業は、富士山の伏流水や富士川などの豊富な水源を利用した製紙である

これはグラフ等を見れば分かるが、既に主要産業は他に移っているのは明白である。むしろ時代の変化に柔軟に対応できているところが、富士市の強みなのであるが。


  • また、2001年(平成13年)には、施行時特例市に指定された
2001年に「施行時特例市」に指定されたわけではない。当時は「特例市」と呼称されていた。従って"特例市に指定された(現在の施行時特例市)"が正しい。

  • 海岸線に東側に隣接する沼津市から田子の浦港まで千本松原が続き、富士川の最下流域の西側に静岡市清水区が隣接し、北側に富士宮市が隣接する

「田子の浦港」は範囲が定義されているが、そこまで千本松原が続いていると言えるのかは吟味する必要性がある。沼津市HPは「沼津市の中央を流れる狩野川河口より北西の片浜、原方面にかけての松原を呼称する」としている。

また仮に富士宮市を1つの方角で表すのなら、富士市から見て「西」である。


普通の感覚であれば、どう見ても「西」だと思う。簡単に言えば両者は「〼」で表すことが出来るのだから。富士市の北に富士宮市が位置するのであれば、富士市は富士山に接していないことになってしまうが、大丈夫だろうか(本当にこういう方が多くて驚かされています)

【番外編】

  • マキヤ本社(市内に本社を置く主な企業)

Wikipediaの編集履歴を振り返るとかなりの以前より株式会社マキヤの本社が富士市に置かれていたことにされてしまっているのであるが、これは誤りである。

まず「国税庁法人番号公表サイト」にてR2年度の「株式会社マキヤ」の「本店又は主たる事務所の所在地」を見てみる。



ここから、明確に本社が沼津市であることが分かる。以下では株式会社マキヤの「定時株主総会招待ご通知」を見ていきたい。これはマキヤ側の資料である。




つまりマキヤの本社は沼津市で、マキヤ側の資料にもあるように、本部機能自体は富士市ということになる。本社所在地が富士市でないからこその注記である

法人税法第16条にて納税地は「その法人の本店または主たる事務所の所在地とする」と定められている。つまり株式会社マキヤの法人税は、沼津市に納められていたのである。

長らく本社は沼津市に置かれていたが、昨年その状況に変化が訪れた。


つまり、本社が富士市に移転したのである。逆に言えば、これまで誤って記していたことになる。ネットの情報というのは、あまり鵜呑みにしないほうが良い。

  • おわりに

富士市民が富士宮市を「北」としてしまう背景を考えてみたい。これは「富士市民にとって富士山は大して馴染みのあるものではないから」ではないだろうか。でなければ、説明できない現象である。

現在、富士市の市制施行60周年を記念し、シリーズとして記事の投稿を進めている。30記事くらいを予定しているため、是非ご覧いただきたく思う。

17:「富士市のWikipediaを添削してみる、〼で表せる富士地区を見て思う」

2026年7月21日火曜日

富士市とAIの相性は最悪である、情報収集論

「シリーズ富士市60周年」として、当ブログでは現在断続的に記事を投稿している。そのための材料集めは既に完了しているが、基本的には学術誌・論文 ・公式資料などが主たる物である。誰でも原典を参照できるということが、重要であると考える。

つまり世に出ている膨大な資料から富士市について言及するものを炙り出す作業が必要なわけであるが、特に富士市の場合はこれが難しい。私は「ボトムアップ」形式であるため、特に難儀する。

何故かと言うと、「富士」という用語が普遍的なものであるから、"炙り出す作業"の質をかなり高めないと漏れてしまう情報が発生するからだ。また逆に余計な情報も紛れ込みやすい。実はこれはそのままAIにも当てはまる。

AIの方も「富士」という意味の解釈に難義している。簡単に言えば「富士市」と入力すればそれなりの精度になるが、「富士」と入力すると精度がかなり落ちる。つまり、以下のように言える。


口語的な入力では、富士市に関するAIの回答はあまり期待できない(現時点では)


なので「富士地区の「富士」を巡る会話はなぜカオスなのかを考える」にて"その「富士」が富士市を指すのなら、はっきり富士市と言ってもらいたいものである"と記したのである。もちろんこれはAIに限った話ではない。

ではAIに対する質問に「富士市」と明確に入力すれば問題は解消されるのかと言われれば、そういうわけでもない。AIは情報の海から抽出しているのであるが、そちら側が「富士市」と明確に書いていなければAIの方も難義するだろう。

つまり情報元が、本来はその中で「富士市」と記していなければならないのである。しかしなされていないことも多い。もしその人に特別な拘りがあるのであれば、せめて"富士市(以下「富士」)"という箇所を設けてもらいたい。

勿論AIの質が更に高まれば、「富士」としか記されていなくとも、「富士市」についてのものだろうという理解は可能だろう。しかし当の富士地区の人間が会話していても理解が難しいものを、果たしてAIが理解出来る時は来るのだろうかという疑問もある。むしろAIも判断しかねるという状況の方が、正しいのではないだろうか。それが実世界に近いからだ。

  • 現時点のAIのレベル(一般向けAI)

例えば「富士市において歴史学は何故敗北したのか、お菊田伝承や富士市刊行物から紐解く」でも取り上げた「天子ヶ岳の名称の由来」について、AIで調べてみる。


「天守閣説」であるが、鎌倉時代の日蓮の文書に既に「天子ヶ嶽」等と見えるから(「新尼御前御返事」「九郎太郎殿御返事」等)、天守閣が由来のはずがない。つまりAIは、互いの材料から選択肢の消去を行う能力を平均的に有する段階にまでは至っていない。つまり、まだまだである。

他に「富士市とオウム真理教、富士市におけるサリン散布実験について」でも取り上げた、富士市におけるサリン散布実験について聞いてみる。



こちらも全然駄目である。「公的な記録や事実」が確認されているのだから、話にならない。AIはこれから多くの情報を食べていく必要性がある。現段階では、第一義的に特定の情報を得る対象として、AIは選択肢に入ってこない。まだ圧倒的に質が足りないからである。

ちなみにこの「シリーズ富士市60周年」の記事群は、AIを一切用いていない。AIを用いると、誤った解釈になるからである。AIを用いていないという事実が、このシリーズを意味のあるものに引き上げるとすら考えている。


  • シリーズ富士市60周年の記事群のソース


例えば私は「富士市がえんとつ町となるまでの軌跡、加島五千石からの大転換」にて"関英二(1958)「兼業と農家の機械化」"という論稿を引用した。この論稿は、以前はヒットしたが、現在はGoogleの完全一致検索でも引っかからない。正確に言えば、私の記事しか引っかからない。しかしこの論稿は存在する。ネットの海の中で、消えていったものも確かにあるのだ。

何故このようなものを認識しているかというと、AIに頼れない時代に既に情報収集していたからである。特にタイトルに「富士市」等と入っていないものは、抽出が極めて難しい。AIが無いからこそ、地道な作業で抽出作業をした結果、それが私の眼の前に現れたのである。この時間が極めて重要であった

言い換えれば、AIだけでは、質が高い認知には至らないのである。もっと言えば、当時、上記の論稿はダウンロード/印刷が可能であった。今はそもそも引っかからないから、不可能である。意外と思われるかのしれないが、そういう類のものが案外に多い。

AIに頼れないからこそ、物理的な検索攻勢をかけたために、面白い論稿が手に入っているのだ。私はこれからAIを主体とするかもしれない。しかし現時点で私は、そのAIの回答を精査できる立場にある。だからAIがファーストタッチの場合とは全く異なると考えている。ただ、今から物理的な検索攻勢をかけることが是とは言い難い。時間も貴重であるからだ。


  • AI世界に対応するために


私が「私は富士宮市郷土史博物館事業を支持しないことにしました」「富士宮市立郷土史博物館基本構想を独自に模索してみる」「私が富士宮市郷土史博物館構想に賛成する条件」等で、ネット上で歴史に関する専用ページを設けることを口を酸っぱくして述べていたのは、何を隠そうAI世界を見据えてのことである。勿論現代の慣習から考えてのことでもあるが。

簡単にいえば、スマートフォンといったデバイスで人類がAI検索し、それを基に行動/価値判断する現在において、そもそもネット上に情報が無ければ全く勝負にならないからである。

しかしもう遅い。遅すぎる。富士宮市はもう全くの時代遅れである。私はこの10年くらいは、本の中の世界に留まっていたものをネットの世界に解放するという作業を熱心に行ってきた。何故なら、将来AIが普及するのは目に見えていたからである。


  • 原典にあたろう

以下に、備忘録として情報収集に有益なサイト(公)や良質なサイト(民)を一覧化する(少しづつ追記予定)。

  1. わがマチ・わがムラ(農林水産省)
  2. 類似団体別職員数の状況(総務省)


  • おわりに

何らかの争論があるとき、AIの情報だけで勝負するのは未だ勝ち目がないと思う。論理武装した相手にはまだまだ分が悪い。正直、理論武装した相手からすれば、AIだけで勝負してきた人など容易いのだ。本稿はそういう警告でもあるが、有効活用すること自体は否定しない。

現在、富士市の市制施行60周年を記念し、シリーズとして記事の投稿を進めている。30記事くらいを予定しているため、是非ご覧いただきたく思う。

16:「富士市とAIの相性は最悪である、情報収集論」

2026年7月20日月曜日

富士市による民俗学展開への期待と課題、新『富士宮市史』の成果

今年刊行されたばかりの新『富士宮市史』に、富士市も関係する興味深い記述が確認される(富士宮市2026;p.191)。


今回の市史編さん事業の調査で、新出の富士山縁起を確認した。表5−2に「浅間大社(公文富士家)」系統としているものである。本書では、『富士山大縁起本社末社之次第』について紹介したい(表5−2③、写真5− 19)。

奥書の部分に「維時天正廿 年壬辰二月十七日戊申日前永平保寿現住之源凛乎写之」とあるが、以前に曹洞宗本山の永平寺におり、当時は保寿寺(富士市伝法)僧であった之源凛乎が書写したものと記されている

保寿寺は文亀3年(1503)8月に曹洞宗に改宗し、天正14年(1586)に之源(芝源)凛乎が第二世住職になったとされる(駿河郷土史研究会 1989)。奥書には、さらにこの縁起のほか一一巻があり、天正9年(1581)全てを之源が書写し、大宮寺の士雲に渡したとある。大宮寺とは浅間大社の別当宝幢院のことであろうか。

「之源」なる住持は実在したのだろうけれど、何となく伝説感も否めないという状況が、この史料によって一気に空気感が変わったという感覚である。

さて之源凛乎といえば、三股淵の大蛇の調伏伝説であろう。しかしこの辺りの伝承は、「富士市において歴史学は何故敗北したのか、お菊田伝承や富士市刊行物から紐解く」にあるように郷土史家によって荒れに荒らされたため、本来のものと逸脱した解釈が世に溢れてしまっている。



問題の1つである『広報ふじ』昭和42年(1967)5月15日号「いけにえ淵」から、郷土史家オリジナル脚本の部分を抽出してみよう。


  • 保寿寺伝承と阿字の伝承の融合
  • 三島宿の登場
  • 毘沙門天の登場
  • 吉原宿東木戸の登場
  • 茶屋のおかみさんの登場
  • 問屋場の登場
  • 沼津宿・根方街道の登場(これは物語の解像度を良くするための範疇とも言えるが、仮にそうであっても原宿が妥当)
  • 宿場役人の登場と同人によるクジの強制
  • 七曲がりの登場


この辺りはすべてオリジナル脚本である。もう完全に、別物といって良い。特に太字の部分が悪質である。しかし「阿字の伝承」と「保寿寺の伝承」は本来切り離されていたものである。例えば『田子の古道』には以下のようにある。


(阿字の伝承を記述)…「えきろの鈴」には説を乗せたり。(中略)この寺所替して伝法村の地へ上る。(『田子の古道』「野口脇本陣本」)

(阿字の伝承を記述)…「是駅路の鈴といふ書物に祝のを乗りたり(中略)蛇の鱗ハ厚原村保寿寺の什物となりて…」(『田子の古道』「森家蔵本」)


このように、明らかに阿字の伝承と保寿寺のものは切り離されている。「野口脇本陣本」は唐突に「この寺」とあるが、これは書写の中で保寿寺の箇所が抜け落ちたためである。従って「この寺」とは保寿寺のことである(「野口脇本陣本」は後に発見されたもので『広報ふじ』連載当時は認識されていない)。

また他の地誌においても明確に棲み分けされている。端的に言えば、もうこの郷土史家による著書類は参考にしないほうが良い。

こういう過去の産物の検分も必要であるが、富士市には既に材料があるため、それらを活用するのも良いことだろう。(辻本2026;p.37)は柳田國男の旅路に関連して、以下のように記している。


そして、最後は富士市の吉原で先ほどの山中共古さん、すなわち文通をしていた人に会っています。ということで、即東京に帰らずに沼津に戻ってきたのは、おそらく文通で情報交換をしていた山中さんに会うためだったということです。

柳田國男と山中共古は直接会っていたわけであるが、この山中共古の『吉居雑話』が大変面白い。この辺りを富士市はもっと掘り起こす必要性があると思う。

  • 新『富士宮市史』の現時点での評価

新『富士宮市史』はこれから刊行されていく分もあるので、評価は難しい。ただ以下の項目は、今後の刊行分に求められる。

  1. 富士宮市を舞台とする芸能(詞章等を分析)
  2. 『曽我物語』特論(『小田原市史』がそうであったように)
  3. 富士宮市を題材とした大和絵の分析
  4. 人穴について(伝承の変移、題材とした大和絵)

個人的には、『曽我物語』『富士野往来』「曽我物」といった「曽我群」だけで一冊でも良いとすら思っている。「曽我群」+「大和絵」で一冊でも全くおかしくはない

また「井出氏」に関する記述がないのも不思議な感じがする。「かぐや姫説話」については、従来は何故か富士市と富士宮市が切り離されてしまうという傾向があったが、新『市史』はその点が完全に改善されていた。

そして「富士氏」に関しては、十分言及されたと考える。最大の懸念点と富士宮市の従来よりの課題は、解消されたとも言える。

  • おわりに

現在、富士市の市制施行60周年を記念し、シリーズとして記事の投稿を進めている。30記事くらいを予定しているため、是非ご覧いただきたく思う。

15:「富士市による民俗学展開への期待と課題、新『富士宮市史』の成果」

  • 参考文献
  1. 富士市(1967)『広報ふじ』昭和42年(1967)5月15日号
  2. 辻本侑生(2026)「現代民俗学から考える静岡県東部の日常と文化」『静岡の言語と民俗~県東部にスポットをあてて考える~』(静岡大学公開講座ブックレット16) 、静岡大学地域創造教育センター、27-53
  3. 富士宮市(2026)『富士宮の歴史 通史編Ⅰ』

2026年7月19日日曜日

旧富士市・旧吉原市・旧鷹岡町の合併直前の人口と令和7年国勢調査の結果

 まず令和7年国勢調査速報集計のうち、「人口速報集計 (男女別人口及び世帯総数)」を見てみよう。

総数
静岡県3,468,8451,707,440 1,761,405
静岡市659,620320,015339,605
静岡市葵区238,244114,321123,923
静岡市駿河区205,146100,630104,516
静岡市清水区216,230105,064111,166
浜松市765,750379,632386,118
浜松市中央区591,381293,632297,749
浜松市浜名区150,70774,47376,234
浜松市天竜区23,66211,52712,135
沼津市179,43888,23391,205
熱海市31,43314,23617,197
三島市103,08550,04053,045
富士宮市119,18559,07660,109
伊東市61,19228,66532,527
島田市91,26644,50246,764
富士市237,793117,407120,386
磐田市160,54880,81479,734
焼津市130,93564,03466,901
掛川市111,66256,08655,576
藤枝市134,51365,21669,297
御殿場市81,14241,22539,917
袋井市86,59743,63442,963
下田市17,9248,6249,300
裾野市47,34123,63523,706
湖西市55,21128,57426,637
伊豆市25,74612,22513,521
御前崎市28,46414,48913,975
菊川市45,53522,90822,627
伊豆の国市44,15421,26622,888
牧之原市40,34319,87220,471
東伊豆町10,2254,8155,410
河津町6,1403,0133,127
南伊豆町7,0053,3333,672
松崎町5,2312,4612,770
西伊豆町6,0862,8973,189
函南町34,76816,78617,982
清水町31,09415,05216,042
長泉町43,25721,30621,951
小山町17,1469,0038,143
吉田町27,75313,75214,001
川根本町5,3182,6432,675
森町15,9457,9717,974

そして以下の記事を見て頂きたい。

静岡県人口、45年ぶり350万人割れ 減少数・減少率とも戦後最大(日本経済新聞WEB版 2026年5月29日 )
総務省が29日発表した2025年国勢調査(速報値)によると、静岡県内の人口は同年10月1日時点で346万8845人と、前回20年調査から4.5%(16万4357人)減少した。県内人口が350万人を下回るのは1980年以来45年ぶりとなる。(中略)市町別では県内の35市町全てで人口が減少した。(以下略)

何と、すべての市町で人口が減少したという。ここで、富士市と富士宮市の人口を見ていこう。実は富士市と富士宮市とでは、減少に転じたのは富士市の方が早い。しかし減少のスピード自体は富士宮市の方が早く、富士市は比較的維持していると言える。

巷では、富士市は富士宮市の人口の2倍以上を有すると述べる人が居る。それは全くのウソなのであるが、それが現実になる日が来ても全くおかしくはない。このままのスピードでは、その日も遠くないと言える。

ちなみに、旧富士市・旧吉原市・旧鷹岡町の合併の前年に国勢調査が行われているため、合併直前の人口が分かる。それを以下に示す(国勢調査は1965年、合併は1966年)。



実は旧吉原市の方が旧富士市より圧倒的に人口は多かったのである。つまり、このように言い表せる事もできる。


①旧富士市に対する旧吉原市の人口(1965年):1.694倍
②富士宮市に対する富士市の人口(2025年):1.995倍


この10年の人口推移を見てみると、富士宮市の人口に対する富士市の人口は1.8倍台に迫る場面もあった。それを踏まえると、差が開いてきていることが分かる。

これを"富士市が粘っている"と捉えるか、"富士宮市の減少率が高い"と見るか、はたまた両方と見るのかは人によって分かれるだろう。詳細に分析しているわけではないが、富士市が粘っているのは間違いない。

そもそも、他の自治体においては人口減少が早期に確認される中で、富士市や富士宮市は微増ないし横ばいで耐えてきた優秀組であった。そこすら崩れているところを見ると、地方は相当厳しくなっていくだろう。

インフラの維持など到底できないし、水道普及率をむやみに高める必要などもないだろう。公園なども、むやみに整備するのは考えものである。トイレなどは、公民館や大きい都市公園に限局すべきだろう。何だか高齢の方が声高に公園整備などを要求するが、後の世代のことも考えて欲しいものである。フリーライドを推進する必要性などないのだから。

  • おわりに

旧富士市に対する旧吉原市の人口(1965年)が「1.694倍」と約1.7倍であったのにも関わらず、名称(市名)は少ない方で決定したという歴史がある。この事実は、仮に将来合併議論が発生した際、参考材料になることだろう。

現在、富士市の市制施行60周年を記念し、シリーズとして記事の投稿を進めている。30記事くらいを予定しているため、是非ご覧いただきたく思う。

14:「旧富士市・旧吉原市・旧鷹岡町の合併直前の人口と令和7年国勢調査の結果

2026年7月15日水曜日

富士市の事例から都会と田舎のスケール感の違いを考える

本稿では都会/田舎論争について考えてみたい。とはいっても、真正面から取り扱うものではない。まず「都会」と「田舎」という定義そのものが難しいのであるが、単純に「東京」から見れば静岡県の各地域はすべて田舎に該当すると言えるかもしれない。

しかしこんな感覚的な話ではなく、あえて定量的なもので言えば、1つの指標を挙げることが出来る。それは交通分担率のうち「公共交通分担率」である。やはり"公共交通機関の充実さ"が都会と田舎の大きな相違点だろう。


富士市特例市平均最大値
9.56%30.13%64.55%(宝塚市)

これは2013年のデータである(富士市2013;p.15)。この数値が10を下回る地域は、少なくとも「都会」からは大きく離れた所にあると見るべきだろう。

そして地域の事象から、都会と田舎のスケール感の違いを感じることができる。ここでは富士市長のインタビューを引用する形で考えていきたい。


この記事は、富士地区で最も手広く展開している新聞社である「岳南朝日新聞」による富士市長に対するインタビュー記事である。しかも新年一発目の目玉記事であり、市長からすれば自らの成果を示す重要な機会となるものである。従って、必然的に成果を全面に打ち出した内容となってくる。では富士市長は何を前年の成果として挙げただろうか?

  1. 中核市移行検討
  2. 新素材CNFの関連産業推進構想策定
  3. タリーズコーヒー誘致
  4. 新富士駅ステーションプラザFUJIへのアスティ新富士の整備

ここで3番目として「タリーズコーヒー誘致」が挙げられている。東京の人からすれば信じられないかもしれないが、これが地方のスケール感である。テーマパークでもなく、大型商業施設でもなく、コーヒーチェーン店なのだ。地方からすれば、市内未出店のコーヒーチェーン店の進出でも、十分に象徴的事象になり得るのである。

  • 田舎者とは何だろうか

高層ビルやタワマンがあるのか無いのかといった、物理的な「モノ」の有無で「都会」とか「田舎」を分けることは簡単だろう。

しかしそれは人間に焦点が当たっていない物差しである。人間に焦点を当てた時、以下のように言えるのではないだろうか。

プロトコールを認知/行使できるのか否か

世の中には「プロトコールの(五大)原則」というものがある。私はこの部分に配慮できるか否かで、田舎的かどうかを決めるべきであると考える。つまり、タワマンに住んでいようが、プロトコールが出来ていなければ田舎者と言えるのだ。

プロトコールは社交的な場で求められるものであるから、場合によっては何も感知しなくてもやり過ごせるかもしれない。しかしそこを感知できるということそのものが「都会的」であって、何処に住んでいる云々というのは意味のない議論なのだ。

以前「静岡県富士宮市の市制施行80周年記念、富士郡大宮町時代から振り返る」にてクレジット(表記)の違和感について触れたことがある。富士地区はこの辺りの儀礼が特に出来ていないように感じる。これらは食事マナーに類するものなのだ。

  • おわりに
現在、富士市の市制施行60周年を記念し、シリーズとして記事の投稿を進めている。30記事くらいを予定しているため、是非ご覧いただきたく思う。

13:「富士市の事例から都会と田舎のスケール感の違いを考える」

  • 参考文献
  1. 富士市総務部企画課(2013)『富士市都市活力再生ビジョン』

2026年7月10日金曜日

富士市は本当に落ち目なのか、裏ワザから見る富士市の姿とコストコ進出のデマ

富士市民の方々の話を聞くと「富士市は落ち目だ、もう駄目だ」という話が多く聞かれる。この部分について考えていくというのが、本稿の指向である。

確かに、富士市の人口は減り続けている。それを一番初めに指摘したのはおそらく私であり、「フジブログ」さんの「富士市の人口は減少に転じた!」においても紹介されている。当時、そのようなことを述べている人間は居なかった。ここで「秘密基地なブログ」とあるのが、私が以前運営していたメインブログである。

私は新年度の4月を基準として年単位で追って証明したが(4月1日現在で比較するのが慣例)、フジブログさんは「各前年同月比」を示す形で詳細に示し、また地区別でも追っている。10点満点の内容である。ちなみに当時の富士市職員が作成したスライド・資料には「増加している」とあり、市の現状が全く把握できていないことが垣間見えた。10点中大体3.5点くらいの資料が多い。

ちなみにこの次の年くらいから富士宮市も減少に転じている。実は富士市の方が減少に転じたのは早いのだ。そして富士市には映画館が無い。大きな商業施設も無い。大学も消えた。コメリはある。しかしそれを以って他の自治体と比較した際、相対的に富士市が衰退しているとは言えないのではないだろうか。

というのも、富士市の各指標を他の自治体のものと比較した際、特筆すべき下落はないと思われるからである。世の中には様々な指標が存在している。それらに通じている人ならば、工業であれば「製造品出荷額等」、商業であれば年間商品販売額等」が代表的指標であることは既知のことだろう。

そういう指標を並べて比較してもよいのであるが、それではつまらない。実はもう少し面白い方法があるので、ご紹介したいと思う。


  • 建築物環境配慮計画書から考える

静岡県は平成19年に「静岡県建築物環境配慮制度」を施行した。この制度は、一定規模以上の建築物(工場や商業施設など全部)を建築する場合、面積や環境負荷などを示した「建築物環境配慮計画書」の提出を義務付けたものである。そしてこれは一般に公表され、審査される。


富士市HP


簡単に言えば、大きな建物を建てる場合、届け出が必要なのである。ということは、その地に需要があれば、計画書がどんどん提出されるはずなのである。これを確認するという方法が「裏ワザ」である。ちなみに、商業施設の規模なども早期に公表されているので、ここを確認すれば誰よりも早く商業施設面積等の規模が把握できるといった裏ワザでもある。重ねて言えば、コストコ進出がデマであることも、ここを見れば一目瞭然であった。

そしてそれらを見るに、富士市はそれなりに需要があると判断するのが普通である。ここでは富士市と富士宮市を比較してみよう。


富士宮市HP



…と思ったが、富士宮市が全く仕事をしておらず、もはや「令和7年度届出分」の項目すらない(皆無とは考え難い)。富士市は「令和8年度届出分」すら存在するというのに。また富士宮市の「令和6年度届出分」は以前は見ることができたが、今は「Not Found」である。これでは届出の有無すらよく分からないし、内容も分からず、比較も難しい。本当に呆れるばかりである。

比較は諦めるとするが、富士市の例で考えた時、同じような規模で企業進出・新築が見られる自治体の方が少ないのではないだろうか。もっと言えば、計画書の提出が義務付けられる程の建築物は、ここ5年新規で無いという地域も全国ザラにあるのではないだろうか。

例えば近年も富士市には工場が多く建設されているし、富士宮市も「アクロスプラザ富士宮」が新規開業するなどした。こういうようなものが、もう10年くらい無いなんて地域の方が多いはずである。だから相対的にみて、衰退しているとは言えないはずである。もはや富士市は、相対的に見れば元気といっても過言ではない。むしろ危惧すべきは、文化レベルの方である。

  • 人口減少のペース

富士市の人口減少を問題視する先鞭となった私が言うのも何であるが、そのペース自体は思ったより緩やかと言えるのではないだろうか。


富士市HPより


私は今年くらいの段階では人口は23万人を切っていると考えていたし、もっと下回っていてもおかしくないと考えていた。おそらく転入も一定数有しているため、ここまでに留まっていると考えられる。

ちなみに、世帯数の増加より、人口が増加していることの方がよっぽど重要である。詳細な分析は、他にお願いしたい。


  • おわりに

本投稿の本質に直接関係はないが、富士宮市の姿勢がよくわからない。もう令和7年は終わった。なのに項目が無い。仮に新規に無かったとしても、項目は設けるべきだろう(皆無ということは考えづらい)。富士市は令和8年度の項目すらあるというのに。こういうところなのだ、としか言いようがない。

結論、落ち目は皆同じで、特段富士市が目立つというようなものでは無いということなのである。ちなみに富士市も富士宮市も、明らかに「年間商品販売額等」が弱い。簡単に言えば、消費が少ないのである。これが富士地区の弱点であったりもする。もし富士市に嘆くのであれば、消費をいっぱいして、「年間商品販売額等」に貢献するというやり方もあるのだ。

現在、富士市の市制施行60周年を記念し、シリーズとして記事の投稿を進めている。20記事くらいを予定しているため、是非ご覧いただきたく思う。

12:「富士市は本当に落ち目なのか、裏ワザから見る富士市の姿とコストコ進出のデマ」