※やや難しい内容がありますので、下部の「曽我荘」の箇所まで飛ばして読まれても良いかも知れません。「曽我荘」の箇所は分かりやすいです。
「曽我兄弟の仇討ち」を考える際、「史実性」は大きな壁として立ちふさがる。
時代考証を担当する坂井氏が著書『曽我物語の史的研究』で
「真名本」のエピソードを鵜呑みにしてその歴史像を描くことには問題があるとしなければならない。とは言うものの、「真名本」の叙述がすべて唱導のための虚構、単なる説話であるとみなすこともまた危険である。何かしらの史実が反映されている可能性もあるからである。(坂井2014;pp.257-258)
と述べているように、古態を示すとされる真名本『曽我物語』(以下、真名本)であっても、その記述をそのまま「真」として受け入れることは出来ないのである。「五郎尋問」の場面については以下のように説明する。
「敵討ちの物語」のクライマックスを締めくくるにふさわしい見事な叙述である。とは言え、細部にはあえて感動を盛り上げるため、あるいは作品の構想を強調しようとする余りに生じた不自然さ・論理的矛盾を指摘することもできる。たとえば、九歳になる祐経の遺児犬房の登場である。(中略)わずか九歳の少年がこうした大事件の尋問の場に伺候を許されたとは考えにくい。(坂井2014;p.45)
そもそも、巻狩の場に9歳の少年が居ること自体が不自然かもしれない。9歳の少年にいったい何が出来るというのであろうか。また『曽我物語』には、兄弟以外に童は殆ど出て来ないのである。ましてや、巻狩の描写の中で童が出てくるのは犬房丸ただ1人である。おそらく、本当は犬房丸は居なかったのであろう。ただ真名本は、死罪の決定自体は犬房丸によるものとはせず、あくまでも梶原景時の諫言によるとしている。
城前寺境内にある曽我兄弟像 |
仮名本『曽我物語』(以下、仮名本)に至っては、犬房丸が懇願したことで死罪となったとするなど、物語性は更に増している。仮名本はあまりに劇的展開に拠っており、更に「真」とは言い難い。その仮名本を典拠とする「幸若舞」であれば尚更である。
一方で以下のように言及する場面も見られる。
無論、「真名本」は文学作品であり、その叙述には虚構や誇張などが含まれている。しかし、解釈の仕方によっては文書類・記録類が欠如した時期の歴史像を考察するための貴重な史料となり得ることを、本章によって示すことができたと考える。(坂井2014;p.224)
このような「史実性」の部分については、曽我兄弟の仇討ちの地である富士宮市や、曾我荘が位置した小田原市も承知しているところであり、例えば『小田原市史』は以下のような文言が見られる。
たとえば曽我谷津の宗我神社の八幡神が曽我祐信の勧請したものであるとか、谷津から六本松に至る「曽我往還」の大きな宝篋印塔が曽我祐信の墓であるというのは、曽我兄弟の養父として『曾我物語』に出てくる曽我祐信に仮託された中世遺跡である。(中略)このように大事件や著名な人物に仮託しながら大切に中世遺跡を保存してきた先人の知恵を、そのままストレートに解釈するのは、かえって伝承を取るに足らない虚構にしてしまう危険がある。(中略)曽我兄弟の墓や曽我の傘焼祭などで有名な城前寺は、曽我地区ではもっとも多く曽我兄弟に関する遺跡や遺品を有する寺として有名である。しかしそれらの多くは江戸時代以降の「曽我物」の流行によって形成されてきたものと思われ、かえって城前寺の本来の姿を分かりにくいものにしている。
このような小田原市史の毅然とした態度を見ると「富士の巻狩での源頼家の初鹿獲りと曽我兄弟の仇討ち、富士の狩倉と人穴の奇特」で挙げたような事例が恥ずかしくも思えて来る。「曲学阿世」という言葉は、まさにこのような時に用いるのだろう。この姿勢から学ぶべき部分は多いように思う。
曽我祐信宝篋印塔 |
ただ、すべてが仮託され形成されたものというわけでもないと思うのである。例えば坂井氏は曽我荘について以下のように述べる。
実際、事件後の共通記事には客観的に見て事実だったであろうと判断できそうな内容のものが多い。たとえば、頼朝が曽我荘の年貢を免除したという記事である。(中略)とすれば、この記事の史実としての蓋然性は高いといえよう。(中略)要するに、事件後の共通記事は人々が実際に目にし耳にし得た出来事であり、その内容も事実と極端な相違があったとは考えにくいのである。(坂井2014;p.133)
私も「曽我荘」の部分は史実であると考えている。また小田原市に現在残る伝承も、事件後のものは信憑性が高いように感じる。小田原市は史実性を多分に感じることが出来る地域ではないかと、私は強く思うのである。それは小田原市が、「曽我荘」が位置した地であるからに他ならない。
瑞雲寺境内 |
曽我荘は「曽我祐信」の所領であり、その祐信の元に「曽我兄弟の母」が後妻として迎えられている。そこで兄弟と曽我荘の関係が始まるわけである。その曽我祐信についてであるが、坂井氏は以下のように説明する。
まず『吾妻鏡』であるが、曽我祐信の名が見える記事は全部で16例ある。(中略)その初出から終出に至る15年間にほぼ4,5年おきの間隔で均等に分布している。(中略)祐信についてはそうした作品よりも、むしろ合戦や儀式の際の「合戦記」「随兵記」といった『吾妻鏡』編纂者が通常用いる原史料をそのまま活用したことによるものと考えられる。(坂井2014;pp.243-244)
では「何を史実性があると判断するか」という部分についてであるが、実は坂井氏の先の著作は、多くの紙面・エネルギーをその部分に割いているのである。なのでこの記事ではその部分について考えていきたい。同氏の「曽我兄弟の仇討ち」に関する解釈・仮説は(坂井2014;pp.160-164)に集約されているため、そちらも一読を勧めたい。
- 坂井氏の分析方法
例として、いわゆる「十番切」の場面を引き合いに出してみる。
吾妻鏡 | 真名本『曽我物語』 | |
---|---|---|
1 | 平子野平右馬允 | 大楽弥平馬允 |
2 | 愛甲三郎 | 愛敬三郎 |
3 | 吉香小次郎 | 岡部五郎 |
4 | 加藤太 | 原三郎 |
5 | 海野小太郎 | 御所黒矢五 |
6 | 岡邉弥三郎 | 海野小太郎行氏 |
7 | 原三郎 | 加藤太郎 |
8 | 堀藤太 | 橘河小次郎 |
9 | 臼杵八郎 | 宇田五郎 |
10 | 宇田五郎 | 臼杵八郎 |
このように、十番切の場面は『吾妻鏡』と真名本『曽我物語』とで類似することが多くで指摘される。(坂井2014;p.61)でも指摘しているように、海野行氏を例外として実名を記していない点も共通する。叙述方法も似通っているのである。また東国の御家人が主体であった「富士の巻狩」に、鎮西(九州)の人物と思しき「臼杵八郎」が十番切に確認される特異性も指摘される(坂井2014;pp.134-136)。
これを見ると『吾妻鏡』と『曽我物語』は全体的に近しいものがあるようにも思えてくる。しかし坂井氏によれば、類似するのは十番切の場面を含めあくまで一部でしかないとする(坂井2014;p.128-131)。描写の志向性は十番切から五郎捕縛の場面が類似しているとしているが(坂井2014;pp.123-125・136)、この種の一致はむしろ例外的という解釈なのである。
まず曽我兄弟の仇討ちを記す史料は『吾妻鏡』と『曽我物語』があり、これらはそれぞれ「原史料」の存在が想定される。『吾妻鏡』は『曽我物語』のように全容を示すものではないが、だからといって『曽我物語』を要約したものでもない。むしろ富士野の狩りまで両者共通する記事は殆ど無いとする(坂井2014;p.120)。しかし富士野の狩り以降は、十番切がそうであったように共通性が認められる(坂井2014;pp.127-128)。坂井氏はここに"史料の取捨選択"を見ているのである。
次に矢口祭を例に出してみる。実はこの部分の記述が不自然に長い。
とくに〈山神・矢口祭〉の記事が長い。敵討ち当日の記事よりも長く、詳細なのである。これが『吾妻鏡』独自の記事であることを考えると、このあたりに『吾妻鏡』の原史料の一面を解明する鍵が潜んでいるようにも思われる。(坂井2014;p.57)
「富士の裾野の狩りと源頼家・北条泰時らの矢口祭、曽我祐信の作法と源頼朝の無念」でも引用しているが、曾我祐信の三の口に対する頼朝の言葉として記される「於三口者、将軍可被聞召之趣、一旦定答申歟」の「将軍」という用例に坂井氏は注目している。
氏によると『吾妻鏡』ではそもそも「将軍」の用例が極めて少なく(坂井2014;p.81)、またこれら儀式の記述は真名本『曽我物語』にも確認されないため、この箇所は独立した別の史料(「曽我記」と仮称している)から引用したものではないかと推測している(坂井2014;pp.83-85)。また同場面の頼朝は人間的な描写であり、『吾妻鏡』の所謂「工藤景光の怪異」の場面では恐れから狩りの中止を提言するなど、やはり人間的な描写が見られる。これらの箇所も「曽我記」と言えるものを元としているのではないかとする(坂井2014;pp.86-87)。そして「曽我記」が重視するのは、「狩猟者」の「山神」に対する感謝・畏敬の念にあるとしている(坂井2014;p.90)。なので人間的な描写となっていると言っているのである。
一方で例えば『吾妻鏡』と『曽我物語』に見える「五郎元服」の記事は双方で類似性が認められるため、これらは共通した史料(「原初的な「曽我」の物語」と仮称している)が元であるとしている(坂井2014;pp.75-76)。これと同じ理論で、『吾妻鏡』と『曽我物語』に確認される「曽我の雨」の箇所が双方で類似性が認められるため、この箇所も「原初的な「曽我」の物語」を元としているとしている(坂井2014;pp.72-73・145)。
また真名本『曽我物語』に確認されず且つ実録的な記録(Aは〇〇をしたといった単調なもの)は、幕府に公式記録として残っていたものとしている(部類記と仮称している)。例えば『吾妻鏡』に見える、仇討ち後に十郎の検死を和田義盛と梶原景時が行ったと記す箇や(坂井2014;pp.60-63)、源頼家の初鹿狩りが該当するとしている(坂井2014;p.82)。
つまり坂井氏は下線で記した三種の史料の存在を想定しているのである。まとめると、以下のようになる。
- 幕府の実録的記録
- 真名本の原典となった「原初的な「曽我」の物語」
- 「曽我記」(真名本にみられず、且つ幕府の実録的記録とも思われないもの)
坂井氏はこの三点が『吾妻鏡』編纂時に"存在"し、取捨選択して『吾妻鏡』の記事を作成したと言っているのである。『吾妻鏡』は「原初的な「曽我」の物語」を用いることに積極的ではなかったが(坂井2014;p.131)、仇討ち事件は意図的に隠されたために、真名本の原典となった「原初的な「曽我」の物語」に拠らざるを得なかったのではないかとしている(坂井2014;pp.161-162)。この文章からも分かるように、坂井氏は「2」を史実性という意味では低く見積もっている。
しかし、史料としての価値、すなわち史実をどれほど正確に伝えているかという史料的価値については、あまり高い表かを与えることはできないということである。(中略)原初的な「曽我」の物語をもとに記されたと考えられる『吾妻鏡』の記事には、常に同様の疑いをもって接しなければならないということでもある(坂井2014;p.80)
このように、『吾妻鏡』編纂時における史料の取捨選択の中、"真名本の原典となった「原初的な「曽我」の物語」"に拠ると想定される箇所は注意が必要であると述べている。一方で以
下のようにも述べる。
とすれば、そのような地頭御家人たちによって生み出され伝承されたと考えられる「曽我記」は、敵討ち事件の現場となった富士野の狩りについても、その本質的部分を思いのほか正確に伝えていると言えるのかも知れない。これこそ「曽我記」の史料的価値に他ならない。無論、そこに描かれたことが必ずしも史実であるとは限らない。創作・伝承の過程において、脚色や増補も行われたことであろう。しかし真名本の原史料となった「曽我」の物語に比べれば、武士社会の本質を伝えるものとして評価しべき点があるということである(坂井2014;pp.91-92)
つまり「曽我記」にはある程度の史実性を見ているのである。
また「富士野の狩りまで両者共通する記事は殆ど無い」と上述したが、事件発生前は幕府の実録的記録や「曽我記」を用いたとしている。つまり富士野前は「原初的な「曽我」の物語」はあまり関与しないとしている(坂井2014;p.136)。そして事件当日は「原初的な「曽我」の物語」を用い、事件後の部分は事件発生前のように幕府の実録的記録や「曽我記」を用いたとしている。
特徴 | |
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幕府の実録的記録 | 『吾妻鏡』編纂の基本史料 |
「原初的な「曽我」の物語」 | 真名本『曽我物語』の原典となったと想定。頼朝を「鎌倉殿」と称する |
「曽我記」 | 真名本にみられず、且つ幕府の実録的記録とも思われないもの。頼朝を「将軍」と称する |
- 曽我荘
曽我兄弟は、母が曾我祐信と再婚したため曽我荘に移り住む。真名本では巻四・五が該当する。曽我荘で過ごした幼少期の話として「雁を見て兄弟が嘆く描写」がよく知られる(坂井2014;pp.33-34)。そして兄弟の死後も曾我荘に言及される場面は多い。
どのような背景があったにせよ、一応の身分がある人物が死した際に、その人物は埋葬される。しかも今回は源頼朝により「菩提を弔う」よう命令されている(坂井2014;pp.127-128)。丁重に葬られたことは間違いないと考えられる。そのため、「曽我荘」が位置した小田原市の伝承は、他とは一線を画すと思われる。"墓所"や"史跡"が無い方がおかしいのである。また真名本巻十には
知行の処も広からねば、当時は分けて取らする事もなし
とある。(坂井2014;p.284)にあるように、知行が狭く、継子である曽我兄弟に所領を与えることが出来なかったという意味となる。しかもこれは「曽我兄弟の仇討ち」後の祐信の言葉である。坂井氏は「史実の本質的な一面」と捉えている。
兄弟が他に拠り所とする場所がなかったことから、仇討ち後に兄弟を弔う"施設"なり"供養の場"が新たに曾我荘に設けられたと考えるのが妥当であろう。そのようなものは曾我荘には無いのだろうか。いや、存在するのである。
お花畑 |
お花畑と城前寺 |
赤のピンは「城前寺」であり、黒のピンが「お花畑」であるが、その地から骨壷が発掘されている。『小田原市史』から引用する。
館址を挟んで城前寺の反対側に「お花畑」と呼ばれている場所がある。『曾我物語』に宇佐美禅師が兄弟の首級を曽我の地に持参し、兄弟が幼い頃に遊んだ「花園」にそれを埋葬したという話が書かれていることから、地元ではこの「花園」がその場所ではないかといわれている。この場所は昔から入ってはいけないといい伝えがある。実際にこの場所から昭和の初めに骨壷が発掘され、曽我兄弟のものではないかと話題になり、現在では兄弟の墓に埋葬されているそうである。やたらに踏みれてはならないといういい伝えといい、骨壷の発見といい、かつてこの場所に何か宗教施設が存在したことを連想させる。
ところで城前寺という「城」は、城址の南側に「城横」という地名が残っているように、明らかに曽我館を指し、その前方に建つ寺ということである。その由来は、寺のいい伝えによれば稲荷山祐信院と称し、その成立は、曽我祐信が館の後方に建立したもので、兄弟の死後に宇佐美禅師が兄弟の菩提を弔うために、城前寺の境内に祐信院を引いて、庵を結んだというものである。この伝承は曽我祐信が館の後方に稲荷山祐信院を建立したことと、『曾我物語』のなかで宇佐美禅師が兄弟の首級を曽我の里に持参して手厚く葬ったという話にちなんでつくられた伝承であると思われる。
ここに宇佐美禅師とて、駿河の国平沢の山寺にぞありける、本は久能法師なり。この人共のためには従父なり。急ぎ富士野に尋ね入り、二人の死屍を葬送しつつ、骨をば頸に懸けて、6月3日には曽我の里へ入る
鎌倉殿富士野を出で給ひて、伊豆の国の住人に尾河三郎を召して、「汝はこの者共に縁ありと聞し食す。これらが首どもをば汝に預くるぞ。足高に入れて曽我の里へ送て葬送せさせよ」と仰せされければ、
他にも曽我荘に関する地名が真名本には登場する。巻六の「十郎と虎の別れ」の場面では、富士野で巻狩を行うことを知った十郎がいよいよ覚悟を決め、虎との別れを決意する。曽我荘にて虎と一夜を共にし、虎が最後まで見送ったその場所は山彦山(六本松峠)であった(坂井2014;p.37)。地名に詳しい真名本の性質を感じ取れる部分である。
※ちなみに「富士野」という地名であるが、『吾妻鏡』には「富士の巻狩」以外の箇所(治承4年(1180)10月13日・14日条)でも確認されるため、当時存在した地名である。
六本松跡 |
- 参考文献
- 坂井孝一(2014)『曽我物語の史的研究』,吉川弘文館
- 小田原市(1998),『小田原市史』通史編 原始 古代 中世