16世紀以降の庚申年一覧
年号 | 西暦 |
---|---|
明応9年 | 1500年 |
永禄3年 | 1560年 |
元和6年 | 1620年 |
延宝8年 | 1680年 |
元文5年 | 1740年 |
寛政12年 | 1800年 |
万延元年 | 1860年 |
大正9年 | 1920年 |
昭和55年 | 1980年 |
--- | 2040年 |
なぜ庚申が「縁年」と考えられているかについては、「六代考安天皇92年に富士山が出現した」または「考霊天皇5年に出現した」という伝承による。しかしそれは「庚申と富士山がどう関係するのか」という場合の話であって、背景には浅間神社の社人や御師などがその恩恵などを人々に示したためであろう。
庚申年は登山風俗上も大きな変化があり、例えば女人禁制が一時的に解除される。また縁年という有難味から、特に道者が多く訪れる。道者が多く訪れることから、奪い合いも激しさを増す。庚申縁年の状況を示すと思われる有名な史料は『妙法寺記』である。明応9年(1500)の条に
「此年六月富士導者参事無限、関東乱ニヨリ須走ヘ皆導者付也」
と記されている。これは関東の乱が影響して特に須走口に道者が集中したという、須走口の状況を示した記録である。「限りなし」は、明応9年の庚申の年ということもあって多くの道者が訪れたのだと解釈できる。
また歌川広重の浮世絵の詞書や、葛飾北斎の『富嶽百景』には「考霊天皇5年富士山出現」を示すとされる記載がみられる。
延年である延宝8年(1680)に作成された「富士山」と題する「庚申縁年縁起の木版」(正福寺蔵)がある。これは当時「庚申縁年」の認識があったことを明確に示している。また正福寺は吉田に位置し、富士山信仰と関わりがあったことが指摘されている。この当時富士講は未だ発生していなかったことを考えると、富士講発生以前にも吉田には庚申縁年の伝承は根付いていたと考えて良い。『妙法寺記』の記述では庚申との関係性は明確ではない。しかしこの木版から、いっそはっきりするのである。
また案主富士氏の記録である「富士本宮案主記録」の延宝8年(1680)の項には
とあり、六千人もの道者が訪れたと記されている。このことから、駿河国でも同様に庚申縁年の影響があったことが分かる。
また影響は広く、茨城県坂東市の大谷口香取神社の延宝8年の庚申塔には「奉祭礼富士大権見、衆望亦足攸」「右意趣者庚申待教養、善巧而巳、別当常光院」とある。また同じく延宝8年の「御公用諸事之留」(甲斐国・甲府)には「当年は庚申の年であるので富士山への道者が多くやってくる」という内容の記録がみられる。
これらの記録から「富士山信仰における庚申縁年の由緒について」では以下のように説明している。
とし、これらの解釈は大きく傾聴すべきである。また表口の道者数についてはいくつか年度別の記録が残されており、参考となる。
明らかに庚申年である元和6年(1620 )に道者数が増加している。また以下は「大鏡坊文書」の記録である。
「大宮」と「村山」の双方の道者についての記録であるが、双方とも明らかに庚申年で増加している。これは偶然ではない。やはり17世紀前半でも庚申縁年の考え方は広く伝播していたと考えるできであろう。
そしてやはり『妙法寺記』の明応9年(1500)の「富士導者参事無限」という記録も、庚申縁年による現象と考えるのが妥当と思える。これは「道者」の初見でもあり、大変重要な記録である。
またこのように、「庚申縁年=富士講」ではない。これを誤解している文献は多い。例えば今年刊行された富士山世界文化遺産登録推進両県合同会議編,『富士山百画 100 Portraits of Fujisan』のP60に「この年は富士講にとって特別な60年に1度の庚申の御縁年にあたる」とあるが、この類の記述も誤りである。また先ほど引用した公文富士氏の「導者付帳」には「先達」という記述がみられ、これが先達の初見とされるが(『富士の信仰』(古今書院版)P4)、一部の文献では「先達=富士講」としてしまっているものもある。先達も富士講に限局するものではない。
また案主富士氏の記録である「富士本宮案主記録」の延宝8年(1680)の項には
六月富士山参詣之導者面口六千人程有、…
とあり、六千人もの道者が訪れたと記されている。このことから、駿河国でも同様に庚申縁年の影響があったことが分かる。
また影響は広く、茨城県坂東市の大谷口香取神社の延宝8年の庚申塔には「奉祭礼富士大権見、衆望亦足攸」「右意趣者庚申待教養、善巧而巳、別当常光院」とある。また同じく延宝8年の「御公用諸事之留」(甲斐国・甲府)には「当年は庚申の年であるので富士山への道者が多くやってくる」という内容の記録がみられる。
これらの記録から「富士山信仰における庚申縁年の由緒について」では以下のように説明している。
これらのことから、延宝8年(近世前期)にはすでに庚申縁年の考え方が相当広範囲に広まっていた、と考えられる。この年に多くの道者が富士山を目指して各信仰登山道集落にやってくることは、事前に予測されていた。しかもこのことは延宝八年に初めておこったのではなく、それ以前にも庚申年に信仰登山道集落に多くの道者が押し寄せた経験があったからこそ、その再現が期待されていたものと思われる。
とし、これらの解釈は大きく傾聴すべきである。また表口の道者数についてはいくつか年度別の記録が残されており、参考となる。
公文富士氏「導者付帳」(慶長17年)による
年代 | 西暦 | 人数 |
---|---|---|
元和元年 | 1615 | 20 |
元和2年 | 1616 | 217 |
元和3年 | 1617 | 412 |
元和4年 | 1618 | 438 |
元和5年 | 1619 | 119 |
元和6年 | 1620 | 746 |
元和7年 | 1621 | 348 |
元和8年 | 1622 | 207 |
元和9年 | 1623 | 52 |
明らかに庚申年である元和6年(1620 )に道者数が増加している。また以下は「大鏡坊文書」の記録である。
大鏡坊文書
年代 | 西暦 | 人数 |
---|---|---|
享保13年 | 1728 | 311 |
天文5年 | 1740 | 1440 |
寛政5年 | 1793 | 400/500 |
寛政6年 | 1794 | 600 |
寛政7年 | 1795 | 500 |
寛政8年 | 1796 | 400/500 |
寛政10年 | 1798 | 400/500 |
寛政12年 | 1800 | 2000 |
享和元年 | 1801 | 200 |
「大宮」と「村山」の双方の道者についての記録であるが、双方とも明らかに庚申年で増加している。これは偶然ではない。やはり17世紀前半でも庚申縁年の考え方は広く伝播していたと考えるできであろう。
そしてやはり『妙法寺記』の明応9年(1500)の「富士導者参事無限」という記録も、庚申縁年による現象と考えるのが妥当と思える。これは「道者」の初見でもあり、大変重要な記録である。
またこのように、「庚申縁年=富士講」ではない。これを誤解している文献は多い。例えば今年刊行された富士山世界文化遺産登録推進両県合同会議編,『富士山百画 100 Portraits of Fujisan』のP60に「この年は富士講にとって特別な60年に1度の庚申の御縁年にあたる」とあるが、この類の記述も誤りである。また先ほど引用した公文富士氏の「導者付帳」には「先達」という記述がみられ、これが先達の初見とされるが(『富士の信仰』(古今書院版)P4)、一部の文献では「先達=富士講」としてしまっているものもある。先達も富士講に限局するものではない。
- 参考文献
- 菊池邦彦,「富士山信仰における庚申縁年の由緒について」『国立歴史民俗博物館研究報告第142集』,国立歴史民俗博物館,2008