富士山麓の地域が分からない方へ

2012年11月8日木曜日

高橋虫麿の不尽山を詠める歌

高橋虫麿の「不尽山を詠める歌」は以下のようなものである。

なまよみの 甲斐の国 うち寄する 駿河の国と こちごちの 国のみ中ゆ 出で立てる 不尽の高嶺は 天雲も い行きはばかり とぶ鳥も とびも上らず 燃ゆる火を 雪もち消ち 降る雪を 火もち消ちつつ 言ひもえず 名づけも知らず 霊しくも います神かも せの海と 名づけてあるも その山の 包める海ぞ 不尽河と 人の渡るも その山の 水のたぎちぞ 日の本の やまとの国の 鎮めとも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 不尽の高嶺は 見れど飽かぬかも

原文は「万葉仮名」である。もちろん、「田子の浦に うち出でてみれば…」の歌も原文は万葉仮名ですね。意味は以下のようになる。

甲斐国と駿河国の真ん中に立っている富士山は、雲をも行く手を阻まれ、鳥も飛ぶのをはばかる。燃える火を雪が消し、降る雪を火が消している。言い表すのが難しい、名をつけることもできない程の霊験あらたかな山である。せの海と名付けられるのも、富士山に包まれているためである。人が渡るその富士川も、富士山から流れい出でている。日本の国を鎮める神とも宝とも言える山である。駿河の国の富士山はいつまで見ていても飽きないことだ。

「せの海」については「富士五湖とは」を参照。以下反歌。

(1)富士の嶺に降り置く雪は六月の十五日に消ゆればその夜降りけり
(2)富士の嶺を高みかしこみ天雲もい行きはばかりたなびくものを

の二首である。その後に「右の一首は高橋虫麿の歌の中に出づ。類を以ちてここに載す」の注釈がある。もしこれがただ純粋に「右」だとしたなら、(2)の短歌を指すことになるので、他のものは虫麿作とは言えない。しかし「類を以ちて」がこれら3つを指しているのだとして、この「不尽山を詠める歌」は虫麿作という風に一般には考えられている。

「なまよみ」の意味について諸説あるが、「半分、黄泉」という意味であり、「死者の国と、この世の堺の国」という意味である。「死」や「未開の国」というニュアンスである。この「なまよみ」は甲斐国の枕詞とされているが、このようなおどろおどろしい意味が枕詞であるということに懐疑的な見方もあり、齋藤芳弘氏が「枕詞ではなかった」と指摘している。

「黄泉」自体は「イザナギ・イザナミ」の神話などに出てくるが、当時の識者はこれら神話も知っていたのであろう。「古事記」が撰上されたのは711年とされ、高橋虫麿が富士山を詠める歌を作成したのが「719年-742年」辺りとされる。だから黄泉の説話を知っていてもおかしくはない。つまり「黄泉」が「死」に直結する意味を持つことを知っていたため、「よみ」という言葉を用いたことは想像できる。「なまよみ」が用いられている古代・中世の歌は、『万葉集』『夫木和歌抄』に限られるという。そして双方とも高橋虫麿作と推定されている。つまりこの時点では、単独の人物にのみによって用いられたとしか言えない。そうすると、たしかに枕詞とは断定できないかもしれない。

不尽河と 人の渡るも その山の 水のたぎちぞ」の部分は注目である。ここでは「人が渡るその富士川も、富士山から流れい出るのだ」としている。「人の渡るも」というのは、道の途中で富士川が通っているため人が富士川を渡っていく様を表しているのであり、その山というのは富士山を指している。そしてその後「駿河なる 不尽の高嶺は 見れど飽かぬかも」としていることから、駿河国の富士川付近から甲斐の国を見て歌ったものであるとされる。しかし当然ながら富士川は富士山から発生しているわけではない。つまりイメージで言っていることになる

この事実から、「たった一例しかなかった…(参考文献)」「富士川と五湖への虫麿の誤解…(参考文献)」などで「この人物は甲斐国にいったことは無かった」としている。これだけで甲斐国に行ったことがないとは断定できないかもしれない(実際せの海などを知ってはいるので)。ただ知見があまりないということは言えるし、だとしたら「未開の国」というニュアンスを含めたことも頷ける。この人物は東国・西国を行き来していた人物であり、それでも知見がないとなると、やはり甲斐の国は(他の国と比較して)未開の国として見られていたのかもしれない。その印象を先ず冒頭にもってきたのだろうか。

『古今和歌集』に小野貞樹の歌があるので、挙げてみる。

宮こ人いかにと問はば山高みはれぬ雲いにわぶと答へよ

この歌の詞書に「甲斐の守に侍りける時、京へまかりのぼりける人に遣はしける」とある。つまり、まとめるとこうなる。小野貞樹は甲斐守の任期を終え京へ戻る下僚に対しこう伝えた。もし都で「小野貞樹は甲斐でどのように暮らしているか」と聞かれたら、そのときは「山が高く、雲が多く陰鬱な国で心も晴れずに日々を送っている」と答えて欲しい、と。つまり「なまよみ」と歌われてもおかしくないような印象は、他の人物でも同様と言えるのである。

そしてこの「イメージで言っている」という事実は重要である。この歌は、ある事実からもよく知られている。それは「国のみ中ゆ出で立てる」ということから、例外的に「富士山は駿河国と甲斐国に跨る」と詠っている点である。他の歌では、まずこのように表現するものは見当たらない。つまり他の歌と比較して、かなり例外的なのである。他の歌では一貫して「駿河の国の富士山」としているのであり、この例外を普遍的であると考えてしまうと、富士山を巡る歴史の理解が進まない。先程のように印象で語っている部分が見られることを考えると、やはり「富士山は駿河国と甲斐国に跨る」という部分も、印象や根拠のない雑感から歌ったものであろう。ちなみに「せの海と名づけてあるもその山の包める海ぞ」という部分から「せの海」を「富士山に囲まれている」としている。しかしそれも誤りである。だから、例外的認識が出現した原因もこの事例で説明できてしまうのである。

さて、枕詞となった背景としては「国学者が用いたため」としている。先程「この時点では、単独の人物にのみによって用いられたとしか言えない」と書きましたが、大きな時期を隔て、かなり後世になって甲斐国の枕詞として用いられているのである。酒折宮にある、本居宣長撰文平田篤胤筆の石碑「酒折宮寿詞」には以下のようにある。

なまよみのこの甲斐の国のこの酒折の宮はもよ(書き出し部分の読み下し)

このように、枕詞として「なまよみ」を用いている。そして同じく国学者で本居宣長の弟子の「萩原元克」は、以下のような歌をうたっている。

なまよみの甲斐の国みすずかる信濃の国の二国の国のみ中にいや高く(読み下し)

その後も多く用例が見られ、二葉亭四迷の『浮雲』には「殊にはなまよみの甲斐なき婦人」などとあるという。この時代、かなり定着していることが伺える。甲斐の国の古典的表現が、江戸時代になって再び用いられたことが大きいと指摘されている。

  • 参考文献
  1. 斎藤芳弘,『たった一例しかなかった「なまよみの」-甲斐の枕詞を考証する』,甲斐路No.93,1999年
  2. 斎藤芳弘,『富士川と五湖への虫麿の誤解 枕詞でなかった「なまよみ」-万葉集「富士讃歌」解剖-』,甲斐No.122,2010年

0 件のコメント:

コメントを投稿