富士山麓の地域が分からない方へ

2012年11月16日金曜日

富士家のお家騒動と足利将軍

まず、以下の文書を紹介したい。

「足利義政御内書(写)」、『戦国遺文今川氏編』二十八号文書
これは文正元年(1466年)の「足利義政御内書(写)」であり、「足利正知」宛である。内容は、富士忠時が右馬助から能登守への昇官することを承諾した上で、大宮司職を又次郎親時(忠時の子)に譲るという内容である。つまり、大宮司職が富士忠時から親時に移行することを意味する内容である。

富士忠時」にありますように、富士忠時は富士氏の大宮司職であり、当初官途名は「右馬助」であった。「静岡県の富士山の神仏像」に村山浅間神社蔵の大日如来像を掲載しているが、その仏像の銘に「大宮司前能登守忠時」とある。富士忠時が右馬助から能登守に昇官していることの裏付けである。

今回はこの「大宮司職を又次郎親時に譲る」という部分に関連する事柄について着目したい。系図上大宮司職は、富士忠時の次代が富士親時となっている。


つまり、「足利義政御内書」と辻褄があう。この富士忠時であるが、父「兵部少輔入道祐本」と人事を巡り確執があったとされている。つまり家督相続を巡るお家騒動である。このお家騒動があったことは、様々な資料で確認できる。『臥雲日件録』には以下のようにある。

寛政六年六月十八日、本寺長老來、茶話之次、問駿州国人富士父子闘争之事

とある。寛正六年(1465年)の記録であるが、つまりこの富士家のお家騒動の事は世に知れ渡っていたのである。「富士父子」は富士忠時(子)と兵部少輔入道祐本(父)のことである。また『親元日記』にもお家騒動の事が記されている。『親元日記』の寛政6年(1465年)7月の記録には以下のようにある。

就富士兵部大輔入道親子確執之儀父子確執事候間

とある。また同年12月17日条には以下のようにある。

富士兵部大輔入道祐本方江御状、孫宮若丸就二安堵之儀二千疋、同為御判頂戴御禮千疋…

とある。これは祐本が孫宮若丸における「安堵之儀」及び「御判頂戴御礼」として計3000疋を京都に送ったという内容である。ここで一回整理しますが、富士兵部大輔入道祐本からみて息子が「忠時」であり、孫(つまり忠時の子)が宮若丸と親時である。「安堵之儀」などの文面から、祐本は忠時から宮若丸へ家督を譲ることを推していたわけである。

『戦国遺文今川氏編』第十四号文書、「伊勢貞親書状写」

そうすると矛盾がでてくる。なぜなら、足利義政御内書では「親時に譲る」とあるからである。宮若丸は富士忠時の子であるが、嫡子はあくまでも親時である。おそらく、当時の富士大宮司であった富士忠時は、家督相続は嫡子である親時が筋であると考えていた(普通は嫡子に優先的に家督相続させるものである)。しかし忠時の父祐本は嫡子ではない宮若丸への家督相続を望んだため、ここで祐本と忠時との間で深い亀裂が生まれたのである。そのようなお家騒動の中、「足利義政御内書」にて分かるように、将軍(権力者)からは「親時を大宮司とせよ」という帰結が望まれていたわけである。つまり足利義政の方針は、祐本にとっては意中にそぐわないものであった。

「十五世紀後半の大宮司富士家」によると以下のようにある。

義政の御内書写には、祐本に使節を遣わして「相宥」めたところ、祐本は納得せず、館を出て社頭を放火したという。つまり、祐本による宮若丸への家督譲渡に納得しない将軍義政に対し、祐本は反発して社頭の放火を行った、さらにこの事態に憤慨した義政が、御内書で親時への大宮司職の移動を伝えた、という経緯を知ることができよう。

とあり、祐本が権力者である足利将軍の意向に反発する動きが見られるのである。ただこの前文に「祐本の孫宮若丸は、忠時の子息と考えられるが、祐本は子息の忠時ではなく、孫宮若丸への家督譲渡を考えていたのである」ともある。この部分の記述は、「祐本の孫宮若丸は忠時の嫡子ではないが、祐本は嫡子の親時ではなく宮若丸への家督相続を考えていた」と理解している。仏像の銘に「大宮司前能登守忠時」とあることから、富士忠時が大宮司であることは間違いないし、このお家騒動の時は忠時が大宮司であったということで良いと思う。

『親元日記』三

『親元日記』三

そして親時が大宮司となることとなり、実際に明応六年(1497)に富士親時が「富士浅間宮物忌令」を発しているのである。

『戦国遺文今川氏編』一〇六号文書 ※≈の部分は省略箇所
つまりこのお家騒動は、父であり先代の大宮司と考えられる祐本が家督相続に介入したために起こった騒動と言えそうである。ちなみに「兵部少輔入道祐本」は富士直氏とされている。

『浅間神社の歴史』によると以下のようにある。

現存富士氏系図には祐本の名は無い。されど当時入道しているのを見れば、寛正3年に能登守に任ぜられた右馬介忠時は、その子と想像せられるから、二十五代直氏の入道名であり、また宮若丸は二十八代親時であろう。

とある。実際「兵部少輔入道祐本」が富士直氏かどうかは、正確には分かっていない。しかし、家督相続に異を唱えることができたのは父くらいであろうから、忠時の父と言って良いと思う。尚『元富士大宮司館跡』では「富士祐本が孫宮若丸への家督相続安堵を得て決着したようである」と記しているが、足利義政御内書を見る限りそうではなく、やはり「祐本の意図とは異なり、親時を家督相続することで決着したようである」とした方がよさそうである。ただここまではあくまでも「大宮司職を務めた流れが嫡流である」という前提で書いている。例外があるとすると、理解はもっと複雑になるかもしれない。「富士氏」という考え方と「富士大宮司」という考え方を整理する必要はある。

  • 参考文献
  1. 大石泰史,「十五世紀後半の大宮司富士家」,『戦国史研究』第60号,2010年
  2. 官幣大社浅間神社社務所編,『浅間神社史料』P8・P167,名著出版,1974年
  3. 宮地直一,『浅間神社の歴史』(名著出版 1973年)P573-575
  4. 富士宮市教育委員会、『元富士大宮司館跡』、2000年
  5. 久保田 昌希 ・ 大石 泰史編,『戰國遺文 今川氏編第1巻』,東京堂出版,2010年

0 件のコメント:

コメントを投稿