富士山麓の地域が分からない方へ

2011年8月24日水曜日

富士信忠

富士信忠は氏族は富士氏。第三十代当主にあたる(「富士大宮司系図」)。今川氏と富士氏との関係は範国の時より続いていたが、この頃は今川氏家臣としての立場として武家への転換志向が強く現れている。

  • 大宮城城主として
富士郡大宮には「大宮城」という城があった。大宮は富士氏の根拠地であり、いわば大宮の砦であった。今川氏真(今川氏当主)は永録4年7月に富士氏を城代に据え、信忠は大宮城城主となった。この大宮城は富士氏の武力として機能し、その後の武田氏の駿河侵攻の際は駿甲国境の押えの城として主要な役割を果たす。

  • 富士宮若・富士兵部小輔
信忠は(富士)宮若・(富士)兵部小輔と称されていた。例えば天文6年の義元よりの書状(後に説明)には「宮若殿」とある。また氏政から信忠の書状(後に説明)には富士兵部小輔とある。

  • 花倉の乱
「花倉の乱」は今川氏輝死後の今川家の家督相続のお家騒動である。「栴岳承芳」と「玄広恵探」で争われた。このときに富士信忠は栴岳承芳側についている。

  • 河東の乱
花倉の乱で勝利した栴岳承芳は還俗して義元と名乗る。それまでの北条氏・今川氏両家は良好な関係であった。早雲と今川氏との所以や、武田信虎との戦いの際は援軍を出すような結びつきの強い関係であったからである。しかし義元は武田信虎と手を結ぶという手段を講じた。これにより生じたのが「河東の乱」である。今川氏(今川義元)と北条氏(北条氏綱)との戦いである。「河東」とは富士川以東の富士郡・駿東郡(駿河郡)を指した言葉である。

この河東の乱では場所が場所だけに大石寺への制礼や北山本門寺への禁制など富士郡に関わる動きも多い。天文6年3月には富士信忠が小泉坊に立て篭もり反乱者を討ち取ったことを義元から賞されている。天文6年5月15日には義元が信忠に田中や羽鮒(両方とも現在の富士宮市、羽鮒は旧芝川)の名主の権利を与えている。
天文6年3月(義元から信忠へ)※左

  • 三国同盟破棄後の富士氏
今川義元が「桶狭間の戦い」で死すると、今川氏真が当主となった。しかし氏真はその状況を好転することができず、それを見た武田氏は三国同盟を破棄し、駿河侵攻を開始する。信忠は今川義元亡き後も今川氏に忠義を尽くし、やがて大宮城城主となり、永禄期には戦を繰り返した。永禄12年2月1日には穴山信君と葛山氏元の連合軍が大宮城を攻めるも、かえって撃退するなど善戦している。

大宮は駿甲国境の要衝であり、重視される場所であった。そしてこれまで大宮城は武田氏の攻撃を良く防いでいた。また氏康・氏政がこのとき繰り返し書状を送っているのが本当によく分かる。
北条氏康より(右)、しかし「富士殿」は信忠か信通か不明

北条氏政から信忠へ

しかし戦況は余談を許すところではなく、永録12年6月の武田信玄の本隊の襲来により、ついに降伏することとなる。富士信忠は武田氏家臣の攻撃を防いでいたために、武田信玄の本陣が出陣するまでの活躍をしていたのである。


後に富士氏は武田氏に属することとなり、武田氏側として元亀3年(1572年)4月に信忠は甲府に顔を出している。

元亀3年4月2日 ※右

その後は大宮司職を嫡男信通に譲り、天正11年8月8日に死没したという。

  • 参考文献
「静岡県史 通史編 中世」
「駿河・遠江・伊豆~日本を変えたしずおかの合戦」
「浅間神社の歴史 宮地直一」
「浅間文書纂」

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