富士山麓の地域が分からない方へ

2011年8月21日日曜日

富士山の大宮・須走・吉田の争いと元禄と安永の争論

富士山を巡るの争いは「環富士山地域」で行われていたが、その歴史の中でも大論争だったのは「大宮」と「須走」間の争いだと言える。「富士山を巡る争い」と言ったら普通はこれを指すくらいの有名な論争である。それは「元禄の争論」と「安永の争論」である。

まずその前に用語について確認する必要性があります。


  • 富士本宮…現在の浅間大社
  • 大宮…現在の静岡県富士宮市大宮
  • 村山…現在の静岡県富士宮市村山
  • 須走…現在の静岡県駿東郡小山町
  • 吉田…現在の山梨県富士吉田市
  • 内院散銭…内院は火口を意味する。その火口に道者がお金を投げ入れることを言う。山頂が神聖な場所とされたので、儀式的な意味合いがあったと思われる
  • 薬師堂…現在の山頂久須志神社
  • 1番拾い…内院散銭のお金をまずはじめに得る権利のこと
  • 2番拾い…1番拾いにて残ったお金を得る権利


富士山頂の様子(『富士山道しるべ』より)

【元禄の争論】

元禄16年(1703年)に散銭や山小屋の経営などを巡り須走村が富士本宮を訴えた論争が「元禄の論争」である。

  • 須走の訴え
  1. 「富士本宮が新たに吉田村(甲斐国)の者に薬師嶽の小屋掛けを認めたが、そのような権利はない」
  2. 「薬師富嶽の薬師堂を富士本宮が造営したが、本尊の薬師仏の入仏は須走が入仏拝していたにも関わらず、富士本宮が入仏を進めると裏書したのは既得権を侵害している」
  3. 「内院の散銭取得において、従来の慣例を無視し、富士本宮が2番拾いの散銭まで取得したのはおかしい」というもの。

  • 争論の結果
  1. 「小屋掛けは他の者にはさせないこと」
  2. 「薬師堂入仏は須走が勤めることとする」
  3. 「内院散銭の1番拾いの分を大宮と須走で6:4とする。また2番拾いはこれまでと同様に須走のものとする」

と決まった。

つまり須走の全面的な勝訴と言える。特に3はかなり大きな権利を得たことを意味する。というのは、大宮は1番拾いの権利を得ていたが須走は2番拾いの権利に留まっていた。つまりほぼ大宮の独占だったのである。しかしこの争論により1番拾いの権利を一部得たばかりか、2番拾いの権利はそのまま継続されたので大きな躍進だったわけである

【安永の争論】

安永元年(1772年)に須走村は富士山の8合目以上は同村の支配にあるとして徳川幕府に訴えた。またこのとき「支配境界の論争」が大宮と吉田間でもあった。このことにより富士本宮の当時の富士大宮司である「富士民済」も幕府に訴える動きに出たため、三奉行が関わる争論となった。そして安永8年(1779年)まで裁判は持ち越されることとなった。

『浅間神社の歴史 宮地直一著』に
安永元年7月駿東郡須走村、甲斐都留郡吉田村を相手として富士山頂の地境を論じ、同八年終に三奉行より富士山八合目以上は大宮の支配たるべき旨裁許を蒙った
とある。このように三奉行により8合目以上は富士本宮の管理地であることが決定されました。

このように1779年に富士山の8合目以上は浅間大社の支配となることとなった(今般衆議之上定趣者富士山八合目より上者大宮持たるべし)。つまり大宮の全面的な勝訴と言える。これが現在に至っている。しかし内院散銭については1880年の内務省の通達により廃止されることとなった。

大宮と吉田間の「支配境界の論争」を「8合目を巡る争い」と勘違いしてしまうケースがあるように見受けられます。歴史的には、駿河と甲斐間で実質的に山頂部を争ったということはありませんでした。逆に駿河の地域間ではありました。そしてやはり「富士山を巡る争い」という意味では「大宮と須走」を指すのが良識と言えます。

  • 参考文献
  1. 宮地直一,『浅間神社の歴史』,名著出版
  2. 『小山町史』第7巻近世通史編,P469-488
  3. 小山真人,『富士を知る』,集英社,P94-100
  4. 『富士山推薦書原案』
など。

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