静岡県富士宮市は交通の要衝ということもあり、多くの武将がこの地を訪れている。富士宮市に来ることをしばしば「来宮」と言ったりしますが(※歴史用語では決してないです)、以下来宮歴のある歴史的人物を取り上げていきたいと思います。
しかし対象に制限がないと膨大な人数となってしまいますので、今回は「大河ドラマ主人公」に絞って考えていきたいと思います(一部伝承的な部分も含みます)。
- 北条義時
北条義時 |
作品:2022年「鎌倉殿の13人」
北条氏に関しては来宮歴がある人物がかなり多いです。義時の父「北条時政」も来ていますし、義時の長男「北条泰時」も富士宮市に来ています。時政と義時は「富士の巻狩」の際に、泰時は「駿河守」在任時に富士山本宮浅間大社を参拝している記録からも確実視されます。
出典:『吾妻鏡』
建久4年(1193年)5月8日条将軍家、富士野藍澤の夏狩を覧んがために駿河国に赴かしめたまふ 江間殿(北条義時)・上総介…同16日条江間殿(義時)餅を獻ぜしめたまふ。この餅三色なり。(中略)上総介・江間殿・三浦介以下、多くもって參候す
以下、現代語訳。
建久4年(1193年)5月8日条源頼朝が富士野・藍澤の夏狩をご覧になるために駿河国に赴かれた。北条義時・足利義兼(以下御家人が羅列される)…同16日条北条義時は餅を献上された。この餅は三色であった。(中略)足利義兼・北条義時・三浦義澄以下多くの人物が参じた
参考ですが、以下は義時の嫡子である「北条泰時」の和歌です。
詞書:
和歌:
駿河国に神拝し侍けるに、ふじの宮によみてたてまつりける
和歌:
ちはやぶる神世のつきのさえぬればみたらしがはもにごらざりけり
「みたらしがは」は「御手洗川」で、現在の「湧玉池」のことです。以下のような意味になります。
詞書(訳):
「駿河の国に神社を参拝して回りましたときに、富士の宮に詠んで奉納した」
和歌(訳):
「神世の月が冴え冴えと澄んだので、御手洗川も濁らないのであったよ」
詞書に「富士の宮」とありますが、これは富士山本宮浅間大社のことであり、富士宮市の市名の由来となっています。『今昔物語集』にも「富士宮」は出てきます。
辛酉 駿州かの国に下著したまふ。これ富士浅間宮以下の神拝のためなり。
とあります。この記録は、北条泰時が富士山本宮浅間大社に参拝したことを示しています。上の和歌はこのとき詠んだものと推測されます。そしてそれが勅撰和歌集のうち『新勅撰和歌集』に収録されるに至っています。
勅撰和歌集ともなると知名度が高いようであり、小山田与清『松屋棟梁集』でも言及されています。ちなみに与清は同作の中で広義の意味での「富士」に対する考察を行っていますが、大変参考になるものとなっています。
ふじの宮 |
「ふじの…」の部分は分からないかもしれませんが、「宮」は一見してもわかりやすいと思います。詳細は「歌集や説話集にみられる富士宮」にて。
また参考として挙げますが、飛鳥井雅有の『春の深山路』に
潤川、これは浅間大明神宝殿の下より出でたる御手洗の末とや
とあります。まさに湧玉池のことでありますが、かなり正確な記述となっています。浅間大社境内の湧玉池から水が出て潤井川へ繋がっているということが記されており、実際に則したものとなっています。
足利尊氏に関しては、少なくとも"かなり近接していた"と確実に言えるという意味でここに含めた。「観応の擾乱」の過程の「桜野・内房の戦い」にて足利直義軍は内房(富士宮市内房)に布陣しており、尊氏は南側の桜野に布陣していた。
また、尊氏直筆とされる正平6年(1351)12月15日「軍勢催促状」(小笠原政長宛)のなぐり書きの文書が印象的である。
正平6年(1351)12月15日、足利尊氏「軍勢催促状」 |
その文書にも「うつぶさ」と見える。詳細は「観応の擾乱における薩埵山の戦い再考と桜野・内房の地理」にて。
北条義時の頁で「足利義兼」が出てきましたが、義兼は足利氏2代目で尊氏は8代目にあたります。足利家、本当に大出世しましたね。
出典:『信長公記』『家忠日記』『武徳編年集成』等
家康の来宮の記録は数多くあります。
天正10年(1582年)8月7日条「家康は大宮金宮迄着候」(『家忠日記』)
天正17年(1589)8月28日条「殿様昨日大宮迄御成候」(『家忠日記』)---
富士のねかた かみのが原 井出野にて御小姓衆 何れもみだりに御馬をせめさせられ 御くるいなされ 富士山御覧じ御ところ、高山に雪積りて白雲の如くなり。誠に希有の名山なり、同、根かたの人穴御見物。爰に御茶屋立ておき、一献進上申さるる。大宮の社人、杜僧罷り出で、道の掃除申しつけ、御礼申し上げらる。昔、頼朝かりくらの屋形立てられし、かみ井出の丸山あり、西の山に白糸の滝名所あり。此の表くはしく御尋ねなされ、うき島ヶ原にて御馬暫くめさられ、大宮に至りて御座を移され侯ひキ。今度、北条氏政御手合わせとして、出勢候て、高国寺かちやうめんに、北条馬を立て、後走の人数を出だし、中道を通り、駿河路を相働き、身方地、大宮の諸伽藍を初めとして、もとすまで悉く放火候。大宮は要害然るべきにつきて、社内に御座所、一夜の御陣宿として、金銀を鏤め、それぞれの御普請美々しく仰せつけられ、四方に諸陣の木屋木屋懸けおき、御馳走、斜ならず。爰にて、一、御脇指、作吉光。一、御長刀、作一文字。一、御馬、黒駮。以上。家康卿へ進めらる。何れも御秘蔵の御道具なり。四月十三日、大宮を払暁に立たせられ…
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極めて興味深い内容である。おそらく駿河国に入って気が緩んだのであろう、小姓たちの自由な行動が記される。織田信長は人穴を見物し、ここに休憩所を設け休んでいる。その後浅間大社の社人たちが信長の元を訪れている。また源頼朝が狩倉の屋形を立てた「かみ井出の丸山」があるとも述べている。「白糸の滝名所あり」とも記し、白糸の滝がこの時代も名所として知られていたことが分かる。
また「大宮の社人」の「大宮」は「富士山本宮浅間大社」を指す。「大宮は要害然るべきにつきて」は人によって解釈が分かれそうなところではあるが、"要害の地に浅間大社があるので防衛上問題がない"ということを示していると思われる。
また浅間大社の社内に豪華絢爛な宿を設けたことが記され、徳川家康に秘蔵の道具類を授けたことが記されている。これは家康にとっても忘れられぬことであっただろう。織田信長から徳川家康に与えられたものであるので相当の名品であると思われるが、これらの品が現存するのかどうかまでは分からなかった。
「曽我兄弟の仇討と富士宮市・富士市、鎌倉殿の意図考」でも一部引用して検討しています。
- 徳川慶喜
作品:1998年 「徳川慶喜」
調査中。「狩宿の下馬桜」で和歌を詠んだ伝承あり。詳細不明。
出典:『甲斐国志』。「来宮」というよりは、出生地として記されている。
- その他
井伊直政 |
- 源頼朝以下「富士の巻狩」の面々
- 平兼盛
- 三条西実枝
- 松平家忠
- 井伊直政
井伊直政については「富士山木引と沼久保の川下しに見る富士川舟運」にて説明しています。「富士川舟運は近世に入ってから」というあまりにも意味が分からない前提の下で注目されてはいないが、紛れもなく富士川舟運の早例であり注目される。
意外と思われるかも知れませんが、今川義元・今川氏真・北条氏康・北条氏政は来宮歴が無いと思われる。
- おわりに
富士上方(≒静岡県富士宮市)は多くの名の知れた武将が来ています。例えば「三英傑」で来宮歴が無いのは「豊臣秀吉」のみです。秀吉は当地との関与が無いわけではありません。例えば秀吉は天正18年(1590)12月28日に、富士上方の各社寺の所領安堵を一気にまとめて行っていることが知られています。しかし「来宮」かというと、そうではないです。
しかしながら多くの人物が当地に来ています。この背景として富士大宮が「交通の要衝であった」ことが先ず挙げられます。例えば足利直義軍は何故内房付近に布陣したのでしょうか?内房は駿州往還の通過地であり進軍しやすく、敗した際は逆に退路としても早期に退却できるからなのです。大軍は街道を経てでないと撤退できません。
織田信長は何故富士宮市を通ったのか?それは中道往還という大道が通っているからです。信長一行は大軍ですし、大道でなければ通過などできません。大河ドラマの登場人物で「この人物は自分の住んでいる地域に来たことがあるのか」という視点で考えるのも面白いです。
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