富木殿御書 |
「富木殿御書」(鏡忍寺蔵)について、千葉県教育委員会は以下のように説明している。
文永11年(1274)に、日蓮がはじめて身延山(山梨県)に入ったときの様子を伝えた消息文である。下総国中山(市川市中山)に住む日蓮の信者だった富木常忍にあてた書簡で、信仰の心構えなどを教え諭している。この文書が、かつては法華経寺(市川市)にあったことは、同寺の永仁7年(1299)および康永3年(1344)の古記録でも明らかであるが、その後、何らかの理由で鏡忍寺へ移っている。
富木殿御書によると、日蓮は相模国から駿河国に入り、そして身延が位置する甲斐国に至っていることが分かる。日蓮は
さかわ(酒匂、神奈川県小田原市、5月12日)
↓
たけのした(竹之下、静岡県駿東郡小山町、13日)
↓
くるまがへし(車返、静岡県沼津市、14日 )
↓
ををみや(大宮、静岡県富士宮市、15日)
↓
なんぶ(南部、山梨県南巨摩郡南部町、16日)
と移動しているのである。つまり「東海道」を経て「駿州往還」を用いている。ここで「大宮」と出てくるのであるが、これは大宮の記録としては古い部類に入るのではないかと考える。初見である可能性すらある(※ちなみに「吉原」の初見は長禄2年(1458)であるとされる。『鈴川の富士塚』50頁)。
大宮 |
身延は日蓮宗総本山である「身延山久遠寺」が位置し、日蓮に関する謂われが多く伝わる。一方富士宮市も日蓮宗が占める割合が多く、荻野氏の報告によると富士宮市内の日蓮宗が占める割合は77%であるという。隣接する富士市も45%であるという。
日蓮のルート(※車返は三枚橋城跡とした) |
富士市神戸には「雨乞い曼荼羅」の伝説が伝わっているといい、それは日蓮との所以を強調するものであるが、荻野氏の報告によると実際は18世紀後半に生成された可能性が高いという。富士市には他に実相寺の経典閲覧の伝説などが残るが(双方とも身延入山時に関するものではない)、おそらくこちらも後世に生成されたものであろう。
- 参考文献
- 荻野裕子,「甲斐駿河における日蓮曼荼羅授与伝説の生成」,『口承文藝研究 (27) 』 ,2004
- 青山靖,「駿州往還の今昔」『甲斐路』創立30周年記念論文集,1969
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