松平家忠 |
天正10年(1582)4月に武田氏を滅亡させた織田信長は中道往還を用いて富士大宮(富士宮市)へと至っている。そしてこのとき家康も出向いていたため、『信長公記』と『家忠日記』の記録は一致してくるはずである。以下で実際に確認していきたいと思う。
織田信長 |
上様とは織田信長のことであり、帰陣したのは松平家忠であると考えられる。家忠日記は織田信長が4月12日に大宮に着いたとしている。
一方『信長公記』は天正10年4月12日の動向を
四月十二日…(中略)大宮の社人、杜僧罷り出で、道の掃除申しつけ、御礼申し上げらる。(中略)大宮に至りて御座を移され侯ひキ。(中略)大宮は要害然るべきにつきて、社内に御座所、一夜の御陣宿として、金銀を鏤め、それぞれの御普請美々しく仰せつけられ、四方に諸陣の木屋木屋懸けおき、御馳走、斜ならず。爰にて、一、御脇指、作吉光。一、御長刀、作一文字。一、御馬、黒駮。以上。家康卿へ進めらる。何れも御秘蔵の御道具なり。四月十三日、大宮を払暁に立たせられ…
この「金宮」であるが、これは淀師の金宮のことである。
永禄12年(1569)12月17日に北条氏政は、本意を遂げた際には富士信忠に富士上方一円を知行すると約束している。その知行地の中に「金宮」があり、これが該当する。この古文書は良く知られ、当時の富士上方の地名が多く確認できる重要なものである。ちなみに「淀師」「金宮」「外神」はそれぞれ隣接しており、富士宮市でも西部の旧富丘村に該当する。
北条氏政 |
また天正17年(1589)8月28日に「殿様昨日大宮迄御成候」とあるため、8月27日に家康は大宮に居たようである。
このように記録を見ていくと、富士大宮に家康が来るようになるのは武田氏滅亡後に多いということが言える。これは武田氏滅亡で家康が駿河国を領したことに関係する。また富士大宮は交通の要衝であるためである。
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