新聞記事(WEB版)にそれらに関する興味深い記事があったので、引用させて頂きます。
富士山頂、県境決めず一緒に守る 山梨と静岡(朝日新聞デジタル 2020年1月6日)
国を代表する山である富士山は、その圧倒的な存在感と知名度ゆえに山梨、静岡両県の争いの要因にもなってきた。その最たるものが境界問題だ。静岡県裾野市の市立富士山資料館には、1779年、江戸幕府が出した裁許状が展示されている。富士山頂の土地をめぐり富士山本宮浅間大社(同県富士宮市)や上吉田村(山梨県富士吉田市)の有力者らが起こした争いへの判決だ。「8合目より上は大宮持たるべし」。この時、幕府は富士山本宮浅間大社にその所有権を認めた。第二次大戦後、全国の社寺に貸し付けられていた国有地が原則、無償譲与されることになり、大社は国に8合目以上の譲渡を求めた。しかし、国は一部しか認めず、大社は提訴。1974年に最高裁で勝訴し、2004年、ほとんどの土地が無償で譲渡された。(抜粋)
とあります。実はこの部分は、富士山を世界遺産に登録する際にユネスコに提出された『推薦書』にもはっきりと明記されているレベルの、識者にとっては周知の事実です。
世界遺産登録というのは、一筋縄にはいきません。ユネスコに『推薦書』を提出し、現地調査等を経て、その上で推薦書の内容が繰り返し吟味され認められた場合のみ登録がなされるのです。あまり知られてはいませんが、推薦書は「日本国」が提出する資料であり、富士山の世界遺産登録の根底をなすものです。
推薦書 |
『推薦書』には以下のように記されています。
①そのうち、八合目以上(標高約3,200~3,375m以上)の区域については、1779年以降、富士山本宮浅間大社の境内地であるとされてきた。それは、山頂に存在する噴火口(内院)の底部に浅間大神が鎮座するとの考え方に基づき、その底部とほぼ同じ標高に当たる八合目から山頂までの区域が最も神聖性の高い区域と考えられてきたからである。
②1609年には徳川幕府により山頂部における富士山本宮浅間大社の散銭取得権が優先的に認められた。これを足がかりとして、富士山本宮浅間大社は山頂部の管理・支配を行うようになり、1779年には幕府の裁許に基づき八合目以上の支配権が認められた。1877年頃には明治政府が八合目以上の土地をいったん国有地と定めたが、1974年の最高裁判所の判決に基づき、2004年には富士山本宮浅間大社に返還された。
とあります。これが推薦書に記されていることから、富士山本宮浅間大社の立場は国にもお墨付きを得ている形となっています。今回はこの部分について考えていきたいと思います。まず
1609年には徳川幕府により山頂部における富士山本宮浅間大社の散銭取得権が優先的に認められた
の箇所についてですが、これは以下の箇所が該当します。
幕府裁許状(安永8年) |
徳川氏により"山頂における権限に対して"富士山本宮浅間大社が特別な庇護を得ていた
ということが分かります。但しこの史料だけでは「富士山頂の支配」とは言い難いと言えます。しかし他に土地の帰属等が分かる史料も存在しているので、見ていきましょう。
この古文書について青柳(2002)は以下のように説明している。
富士浅間本宮に対する優遇政策は徳川忠長にも引き継がれたようで、この時期「みくりや・すはしりの者共嶽へ上り、大宮司しはいの所へ入籠み、むさと勧進仕るに付て、大宮司迷惑の由申され候」という文面の通達が、忠長の付家老である朝倉筑後守と鳥居土佐守から、地方奉行である村上三右衛門に宛てて出されている。つまり、ここにおいて富士山頂は、富士浅間本宮の「しはい(支配)」の土地と認められたのである。
とある。「大宮司しはい」の大宮司は本宮の「富士大宮司」のことであり、みくりやは「御厨」で「すはしり」は「須走」のことである。このように少なくとも寛永年間に富士山本宮浅間大社が支配していたことを示す古文書がしっかりと残っているのである。
青柳(2002)には以下のようにある。
富士山は八合目以上の大行合から山頂までは富士浅間本宮の4人の神職が支配している土地である、という認識を示しているのである。彼らに取って、そこは須走村でも小田原藩領でもない、寛永期に定められたままの「大宮しはい」の土地であった
としている。「行合より八葉」ということから、大行合(おおゆきあい、八合目)から八葉(はちよう、山頂)までを支配していたことになる。また「大宮町大宮司殿」・「宮内殿」・「民部殿」・「宝当院」(別当)はすべて富士山本宮浅間大社に関わる神職である。「大宮町大宮司殿」は富士大宮司であり、「宮内殿」・「民部殿」は公文・案主、「宝当院」は宝幢院であり別当である。
このような歴史を元に現在「富士山本宮浅間大社の土地」という扱いになっているのである。しかしこの長い歴史の中で、当然ながら土地帰属に関する衝突が皆無という訳にはいかなかった。実はその衝突から「より帰属を明確にする」必要性が出てきており、それらの成果物が現在のこの状況を作り出したと言っても良いのである。
青柳(2002)には以下のようにある。
とある。「元禄の争論」と言われるものである。須走村は富士山本宮浅間大社を相手取り訴訟を起こした。相手は富士大宮司、公文・案主、宝幢院である。これらの争いは内済で済まされ(和解のようなもの)、須走村に利のある内容で決着した。実はこの訴訟では結果的に土地帰属は明確でないまま終えているのである。
とある。これを見て「根拠も無しに自分の土地と言うとは何事だ」と思われるかもしれませんが、このときそのような余裕は無かったのである。
この"宝永5(1708)年になると"の部分が極めて重要であり、実はこの前年に富士山の宝永大噴火があったのである。そのため須走村としてはこれまでの序列や土地帰属観を無視してまでも"価値のある"富士山頂周辺の土地を得たいという思惑があったのである。これは、人間の心理を考えれば当然とも言えるだろう。
これら須走村側の変化が生じていく中で、「明和・安永の争論」というものが起こった。これは大争論であり、ここで曖昧な状態でなく土地帰属を明確にしようという動きが生じたのである。実はこの争論で出てくるのが、記事中に出ていた
とあるように、まさに土地帰属の問題が出てきたのである。ここに吉田村(現在の山梨県富士吉田市)も関与してくることとなり、三者で争われることになったのである。青柳(2002)に
とある。これをもっと分かりやすく言えば
とうことなのである。ここで決まったことは歴史の積み重ねによる事実上の最終決定であり、これが現在にも引き継がれているのである。
この争論に際して須走村は郡奉行に史料を提出したが、この中には土地所持について保証を受けたことを示すものは無かった。しかしこれは富士本宮も同様であり、土地所持の保証を示すような検地帳や朱印状は提出されていなかった。吉田村は言わずもがなである。
そして最終的に幕府は以下のような裁許を与えた。青柳(2002)に
とあるように、「富士山八合目より上は大宮持たるべし」と判断されたのである。しかし青柳氏が述べるように「=土地所持」というよりは「優位的立場にあることは明白である」という域を出ないようにも思える。「曖昧な状態でなく土地帰属を明確にしよう」という流れであったはずであったが、やはり曖昧な状態は続いていたと言える。ここは解釈が大きく分かれる所であり、難しい。
青柳(2002)には以下のようにある。
17世紀末から18世紀初頭にかけて、富士山頂の土地に対する須走村の認識は明らかに変化しているのであるが、そのさなかである元禄16(1703)年には、須走村は富士浅間本宮と富士山頂をめぐって衝突を起こしている
とある。「元禄の争論」と言われるものである。須走村は富士山本宮浅間大社を相手取り訴訟を起こした。相手は富士大宮司、公文・案主、宝幢院である。これらの争いは内済で済まされ(和解のようなもの)、須走村に利のある内容で決着した。実はこの訴訟では結果的に土地帰属は明確でないまま終えているのである。
青柳(2002)には以下のようにある。
とある。この古文書は『小山町史』等にも掲載されているが、確かにそのような形跡は見られない。またその後も認識の相違が度々生じていた。青柳(2002)には以下のようにある。
ところで、この元禄争論は「富士山頂の薬師嶽から御馬乗石までは須走村分の土地である」という須走村の主張は是か非かという、富士浅間本宮と須走村の間での境界争論(境論)としての性格を持っていたにもかかわらず、内済ではその点は一切触れられていない。どのように富士山頂付近に境界を確定するか、という問題は棚上げにされたのである
とある。この古文書は『小山町史』等にも掲載されているが、確かにそのような形跡は見られない。またその後も認識の相違が度々生じていた。青柳(2002)には以下のようにある。
しかし18世紀以降になると富士山頂付近もまた山麓村々の土地の一部として認識されはじめるようになる。須走村の場合、貞享3年段階に至っても依然として同所は富士浅間本宮に帰属する土地であると認識していたが、その22年後の宝永5(1708)年になると、村鑑の中で「惣じて大行合より御馬乗石と申す所までは駿東郡須走村の地内にて御座候」と、大行合から山頂の「御馬乗石(駒ケ嶽)」までは自分の村の土地だ、と主張するようになっている。
とある。これを見て「根拠も無しに自分の土地と言うとは何事だ」と思われるかもしれませんが、このときそのような余裕は無かったのである。
この"宝永5(1708)年になると"の部分が極めて重要であり、実はこの前年に富士山の宝永大噴火があったのである。そのため須走村としてはこれまでの序列や土地帰属観を無視してまでも"価値のある"富士山頂周辺の土地を得たいという思惑があったのである。これは、人間の心理を考えれば当然とも言えるだろう。
絹本著色富士曼荼羅図 |
これら須走村側の変化が生じていく中で、「明和・安永の争論」というものが起こった。これは大争論であり、ここで曖昧な状態でなく土地帰属を明確にしようという動きが生じたのである。実はこの争論で出てくるのが、記事中に出ていた
「8合目より上は大宮持たるべし」。この時、幕府は富士山本宮浅間大社にその所有権を認めた
の部分であり、『推薦書』にある
の部分なのである。ではその歴史の重大転換を見ていきたいと思う。
富士山本宮浅間大社は山頂部の管理・支配を行うようになり、1779年には幕府の裁許に基づき八合目以上の支配権が認められた。
の部分なのである。ではその歴史の重大転換を見ていきたいと思う。
この争論は富士山頂にて亡くなった登山者が発見されたことから始まり、この登山者を"どこが請け負うか"ということが問題となった。青柳(2002)に
ある土地で死骸処理を実施することは、その土地を誰が所持しているのかという問題と密接に関係している
とあるように、まさに土地帰属の問題が出てきたのである。ここに吉田村(現在の山梨県富士吉田市)も関与してくることとなり、三者で争われることになったのである。青柳(2002)に
明和・安永争論は富士浅間本宮・須走村・吉田村の三つ巴で争われることになった。そして互いが死骸処理を担当すべき地理的範囲はどこからどこまでかという争点を有していたため、今度は元禄争論と異なって、富士山八合目から山頂にかけての土地をめぐる境界の位置に争点の主眼が置かれるもである
とある。これをもっと分かりやすく言えば
富士山登山口を有する「大宮」(駿河)「須走」(駿河)「吉田」(甲斐)の三者の争いであり、駿河・甲斐双方の有力者が関与した山頂の土地帰属に関する最終的な争い
とうことなのである。ここで決まったことは歴史の積み重ねによる事実上の最終決定であり、これが現在にも引き継がれているのである。
この争論に際して須走村は郡奉行に史料を提出したが、この中には土地所持について保証を受けたことを示すものは無かった。しかしこれは富士本宮も同様であり、土地所持の保証を示すような検地帳や朱印状は提出されていなかった。吉田村は言わずもがなである。
そして最終的に幕府は以下のような裁許を与えた。青柳(2002)に
まず、山頂付近の土地については「冨士山八合目より上ハ大宮持たるへし」との判断が示された。富士浅間本宮の主張が認められるかたちとなったのである。(中略)ここでの「大宮持」とは、八合目より上では富士浅間本宮が諸経営活動および死骸処理について優越的な立場にあることを保証する、というくらいの意味であろう
とあるように、「富士山八合目より上は大宮持たるべし」と判断されたのである。しかし青柳氏が述べるように「=土地所持」というよりは「優位的立場にあることは明白である」という域を出ないようにも思える。「曖昧な状態でなく土地帰属を明確にしよう」という流れであったはずであったが、やはり曖昧な状態は続いていたと言える。ここは解釈が大きく分かれる所であり、難しい。
大宮持たるべし |
しかしながら徳川忠長支配時代の寛永年間(1624年-1645年)に「大宮司支配の所」という古文書が残り、また明和・安永の争論では1779年に「大宮持たるべし」という幕府の裁許を得た。これら長きに渡り富士本宮が優位的な位置に居続けたことは、指摘されてきた通りである。
山梨県知事と静岡県副知事が文化庁長官に推薦書を提出する様子 |
そしてそのまま現代に至り、現代の叡智を持って1974年に最高裁判所にて判決が出されたという流れなのである。実は驚くことに最高裁判所の判決でも江戸幕府の裁許が重視されている。これにより限りなく「完全かつ最終的に解決した」と言える状況となったのである。帰結としては妥当な着地点という印象を持つ人も多いだろう。
更に言えば、推薦書にこれらが明記されたことは「完全かつ最終的に解決した」状態を更に補完する結果となったと言える。何故なら、推薦書のその原案は静岡県と山梨県が共同で作成し文化庁へ提出した経緯があるためである。
- 参考文献
- 青柳周一,『富岳旅百景―観光地域史の試み』, 角川書店,2002年
- 高埜利彦,『近世の朝廷と宗教』,吉川弘文館,2014年
- 『推薦書』(日本国)
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