富士山麓の地域が分からない方へ

2024年12月9日月曜日

西村屋与八や須原屋茂兵衛らも出版した富士野往来、富士山登山絵図の系譜考

来年の大河ドラマは「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」であり、和本の版元の人物である「蔦屋重三郎」が主人公である。そして同時代を生きた代表的な版元の人物に「西村屋与八」や「鶴屋喜右衛門」らが居た。

そこで考えていきたいのがここに当地(富士宮市)の要素は無いのかということであるが、富士宮市の地名を冠した史料に『富士野往来』があり、江戸時代においても繰り返し出版されてきたことが挙げられる。例えば大河ドラマにも登場する西村屋与八も『富士野往来』を出版している。つまり、要素は大いにあると言える。

『富士野往来』自体を論じるとテーマが大きくなってしまうため、本稿では西村屋与八が関与する天明4年版の『富士野往来』を中心に考えていきたいと思う。また天明4年版は富士山史を考える上でも重要な意味を持つので、その意義もあると思われる。

  • 『富士野往来』とは
『富士野往来』の「富士野」とは、富士宮市の地名である(「曽我兄弟の仇討ち舞台の地である富士宮市の富士野について」を参照)。まずこれは大前提として把握しておきたい。富士宮市の事象が歴史の中にもたらした影響は計り知れないものがあるが、これはその一端と言える。

『富士野往来』はいわゆる「往来物」というジャンルの史料の1つである。(村上2006;pp107-108)は往来物を以下のように説明する。

書名にある「往来」とは、書翰の「往復」の意で、広義には人々の往還、書信の往復に始まる。(中略)古くは、成人や童子の初歩教育用として使用されていたようであるが、室町時代辺りから、こうした往来物は、寺院における稚児教育の格好の教科書として弘く用いられるようになっていく。

『富士野往来』の場合、(遠藤1986;pp.392-394)にあるように数十例が確認されている。その中でも古例は文明18年(1486)のものである。しかしこれも書写であって、成立時期は更に遡る。

成立時期は諸家によって様々提唱されているが、明の元号である成化5年(1471)『経国大典』に存在が記されていることから、少なくとも15世紀以前で且つそれを大幅に遡る潜在性があるという考えが支配的である。南北朝時代の終わり頃には成立していたとみる向きもある(村上2006;p.119)。(村上2006;pp109-110)には以下のようにある。

『富士野往来』は、基本的には、「廻文」・「副文」・「着到」・「配分」・「執達令状」・「陳情書」・「問い合わせ状」等の公用文体を踏襲するもので、残りは公用を兼ねた消息文的なものとなっている

以下にその詳細を記す((村上2006;p110)より)。

通し番号内容
1状 廻文状 源頼朝より梶原平三へ 卯月十一日附(宛名ナシ)
2状副文状 平景時より左近大夫将監へ 卯月十二日附(蔵人大夫朝輔より右近大夫将監へ)
3状着到状 五月十三日附
4状配分状 五月日附
5状巻狩りの規模・実況を報ずる状 藤原正行より梶原景時へ 五月日附(藤原正行より平景時へ)
6状小次郎・禅師房召捕りの執達令状 五月晦日附 平景時より曽我太郎へ
7状小次郎等逮捕不能の陳情状 五月晦日附 曽我太郎より平景時へ
8状曽我兄弟の狼藉についての問い合わせ状 五月廿八日附 平景時より安達盛長へ
9状曽我兄弟仇討ちの状況並びにその成敗を報ずる状 五月廿八日附 安達盛長より(平景時へ)

形態としては写本や版本、また頭書絵抄(注釈書)が現存しているが、版本は1つの板木から作成・出版されており、同年の『富士野往来』が何本も存在するということが生じる。であるから、必然的に版本の現存例が多い(とは言っても、(遠藤1986;p.410)によると版本の異本もあるという)。

  • 天明4年版『富士野往来』の構成
(遠藤1986;pp.404-405)にあるように天明4年版は「富士山登山絵図」「源頼朝公家譜および挿絵」「本文」「跋文・奥付」で構成される。しかしこれは『富士野往来』の従来の構成ではない。むしろ天明4年版は突然変異と言って良いような様相で、従来のものには「富士山登山絵図」「源頼朝公家譜」などは確認されない。

版元であるが、私蔵のものには以下のようにある。

    御江戸地本九軒問屋 

東都 元祖 西村屋傳兵衛

書肆 馬喰町二丁目角 同 與八開版

これは書肆を「同 与八開版」、つまり西村屋与八開版としている。上述のように西村屋与八は『富士野往来』を出版しているのである。

天明4年版『富士野往来』

しかし中には追加の文言を確認できるものもある。例えば(遠藤1986;p.406)に

筆者蔵の一本には、みぎのあとに

今川橋新革屋町
 
 亀屋文蔵版

といふ一行がくははつてゐる。

とあるように、書肆に追加が確認できる本もある。この部分については「西村屋からもとめた板木に入木してすりたてたものとおもはれる」という見解を示している。また追加部分が「亀屋文蔵版」ではなく「出雲寺萬次郎版」(三次市立図書館蔵)とするものもあり、遠藤の見解に従えば、板木の貸し出し先は複数であったと思われる。

このように天明4年版に関しては書肆の末尾を「與八開版」「亀屋文蔵版」「出雲寺萬次郎版」とするものを今のところ確認できているが、広く確認作業をしているわけではないので、他に存在するかもしれない。しかし多く流布されたということであり、富士野の名がそれだけ認識されたことを意味しよう。(遠藤1986;p.419)の「版本の展開」の解説は、現存例だけで考えすぎているきらいがある。

また『富士野往来』は「須原屋茂兵衛版」を所蔵している機関も複数以上確認され、文政7年(1824)のものなどが確認される。但しここでいう須原屋茂兵衛は「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」の主人公である「蔦屋重三郎」や、上でいう「西村屋与八」と同時代の須原屋茂兵衛ではない。

  • 富士山登山絵図

天明4年版『富士野往来』には富士山登山絵図」(以下、登山絵図・当登山絵図)が含まれていることが注目に値する。天明4年(1784)というと、(中西2015)の報告を見ても、登山絵図の中では比較的早例である。であるから、富士山研究そのものにおいても極めて重要な史料と言えるだろう。

しかしその絵図を見てみると、川口口を描いたものとなっている。『富士野往来』は駿河国で催された源頼朝の富士の巻狩りを題材にしたものであるから、甲斐国の川口口の絵図を掲載するのは本来であればそぐわない。

その理由を考えてみたときに、版元が富士山に関する歴史を理解していなかったということが考えられるし、江戸からすれば甲斐国の方が心理的にも地理的にも距離が近かったということも関係するだろう。

他の登山絵図と比較してみると、「富士山神宮并麓八海略絵図」(江戸時代末期)にかなり近しいものがある。「富士山神宮麓八海北口正面略絵図」も近いが、より前者の方が近しい。ただ詳細に各登山絵図を見ていくと、地名や富士山中の地点の取り方や道程だけで見れば、「北口本宮御師宿坊図」(1860年)も近いように思える。同図は川口御師により作成・流布されたものであるから、当登山絵図も同様の背景が考えられる。それがどういう経緯で『富士野往来』に組み込まれたのかは全くもって不明としか言いようがない。しかし川口御師の関与は想定される。

また当登山絵図には説明文も見受けられ、(遠藤1986;p.405)でも記されているが、やはり中世以来の『富士野往来』の系譜というよりは、江戸時代当時の価値観が反映されたものとなっている。

では天明4年版『富士野往来』にみられる登山絵図の地点(富士山中)を見ていこう。途中分岐しているが、分岐以前で見た場合

遊境→馬返し→鈴が原→鈴原大日→小室浅間宮→行者→金剛杖→御座石→中宮

とあり、その上から分岐点が見られる。他には「経がたけ」「うばかふところ」「こまが岳」「えぼし岩」「不浄ヶ岳」「八合目」「大行合」「はしり」「砂ふるい」などの地点が見える。そしてこの正確さから考えるに、作成主体は北口の人間に違いない。これが江戸の人間によるものとは到底思えない。

また「向ヤクシ」(「富士参詣須走口図」等にも確認される文言)から続く山頂部分には鳥居が描かれている。これらには後世も作成され続ける登山絵図の基本構成が備わっており、既に18世紀後半にはそれが認められることを意味する

絵図西側には「須走口」とあり、左上部の説明文には

流水ハ源頼朝公当山御狩のとき御弓をもってさぐり祈ねんし給ふときにわき出し名水也

とある。これは裾野市の「頼朝の井戸の森」のことか、それに類するものかと思われる。何の脈略もなく唐突に富士の巻狩りに関する伝承を記す形となっているが、やはり『富士野往来』を意識したことによって生じた現象・エラーだろう。そして上述した「富士山神宮并麓八海略絵図」(江戸時代末期)にも近似する記述が見られる。それは「富士山神宮并麓八海略絵図」が当登山絵図の系譜上にあるためだろう。

つまり北口の登山絵図で富士の巻狩りの伝承を記しているものは、『富士野往来』の影響を引き継いでいるという見方ができるのである

富士山研究という意味では詳細に見ていった方がよい史料であるけれども、本稿ではここまでとしておきたい。

  • 本文の検討
私は「曽我兄弟の敵討ちの史実性、曽我物語と吾妻鏡から考える」でいうところの①幕府の実録的記録②「原初的な「曽我」の物語」 ③「曽我記」 および後世に成立した史料を「イデ」の表記から考えるということをしているが、この『富士野往来』はどうだろうか。

イデ
『吾妻鏡』伊堤(富士の巻狩の場面で「イデ」は登場せず)
真名本『曽我物語』(妙本寺本)伊出
仮名本『曽我物語』(太山寺本でない)井出
仮名本『曽我物語』(流布本、12巻本)井手
『富士野往来』藺手
『保暦間記』井出
『運歩色葉集』藺手
『北条九代記』なし
幸若舞曲の曽我物基本的に仮名
能〈伏木曽我〉〈禅師曽我〉井手


実は『富士野往来』は珍しい「藺手」である。例えば九状では「駿河国富士山南の東宮原藺手の屋形」といった箇所が認められる。「イデ」は本当に多くの表記が認められるが、管見の限り「藺手」は『運歩色葉集』と『富士野往来』のみである。

ここから両者の特別な関係を感じるところであるが、(遠藤1986;pp472-478)では『運歩色葉集』の典拠の多くは『富士野往来』であるとしている(富士の巻狩りに関する内容)

また(村上2006;p.119)には以下のようにある。

『富士野往来』は、『曽我物語』或いは、曽我伝説の抄録されたものの1つと考えてよいのではないか

私もこの考えに大いに賛同するところである。

九状の該当箇所

『富士野往来』は断続的に制作されてきたが、天明4年版より前にまとまって版行されたのは延宝7年(1679)である(遠藤1986;p.392)(村上2006;p.109)。

(遠藤1986;pp.430-437)によると、延宝7年版と天明4年版を比較した時、本来の意図が削がれてしまっている部分があるという。

  • エラーの連鎖

上記のように、川口口と富士の巻狩りの伝承が1つの登山絵図に収まってしまったのは知見のなさ故の「エラー」と言える。史料としてのまとまりは無いといえるわけであるが、このエラーは連鎖した。その連鎖の結果として「富士山神宮并麓八海略絵図」(江戸時代末期)のような登山絵図が成立したと考えたい。

筆者が調べる環境の問題もあり、各富士山登山絵図を詳細に分析できたわけではない。しかし状況からはそのように考えられ、そのエラーの発端自体も天明4年に求めたい。やはりこの両者をセットとする必要性は特段ないため、そこには『富士野往来』という前提があったから生まれたものと思われる。

つまり『富士野往来』には川口口はそぐわないと理解できずに構成に含めてしまい、更にそこに富士の巻狩りの要素を無理やりねじ込んでしまったという背景が考えられる。

私は当登山絵図は川口御師が主体となって制作されたものであり、御師らの売り込みか版元の要求かは不明であるが版元に伝わり、それが『富士野往来』という形で流布されたと考える。そしてそれが二次的にも利用されたと想定される。

  • おわりに
『富士野往来』には富士の巻狩りに関連した挿絵がいくつか確認される。例えば文化元年版(望月文庫(東京学芸大学附属図書館)蔵他)には烏帽子姿で乗馬する源頼朝に傘を指す描写がみられる。

これは(林2020;pp.20-21)にあるように、多くで共通して確認される図柄である。この図柄は、既に富士野入りした箇所である。(遠藤1986;p.407)によると、文化元年版は最も広く流布された『富士野往来』であるという。

曽我兄弟の仇討と富士宮市・富士市、鎌倉殿の意図考」で指摘したように、富士野は曽我兄弟の仇討ちを語る上での最重要ワードの1つであるのにも関わらず、名が忘れ去られようとしている。この由々しき事態を富士宮市自らが変えようとしなければならない

また(村上2006;p.119)が述べるように、『富士野往来』自体の純粋な文学性も注目に値するだろう。本稿を記すにあたり、富士宮市の地名を冠する史料が世に出続けたという事実を再認識できた。そして改めて、富士宮市の事象が歴史の中にもたらした影響は計り知れないものがあるのだと感じた。


  • 参考文献
  1. 遠藤和夫(1986)「『富士野往來』小考」『国語史学の為に 第1部 往来物』、笠間書院、389-481
  2. 村上美登志(2006)『中世文学の諸相とその時代Ⅱ』、和泉書院
  3. 中西僚太郎(2015)「絵画に表現された富士山」『地学雑誌 124巻』、東京地学協会、917-936
  4. 林茉奈(2020)「絵入り版本『曽我物語』考 挿絵に描かれる頼朝と曽我兄弟を中心に」『語文論叢35号』、千葉大学文学部日本文化学会、13-32

2024年12月3日火曜日

富士市の吉原一帯は何故生贄郷と呼ばれたのか、人身御供の風習と富士市の地理を考える

まず以下に地図を掲載する(要拡大)。



この3つの地点は(三股淵・阿字神社・六王子神社)、生贄伝承の地として広く知られている。特に「三股淵」という言葉は、多くの刊行物で幾度となく取り上げられてきたことであろう。

この3地点はすべて富士市であるが、富士市の歴史を俯瞰して見てみると、キーワードとして必然的に「生贄」が出てくる。故に民俗学の刊行物でも富士市は頻出するに至っている。また駿河国の地誌を読んでみると、富士市の箇所で頻繁にその用語を目にする。富士市の項目で「生贄」という用語に出会わずに読み進めるという状況は、まず考えられない。富士市の歴史の中で常にこの言葉は踊り続けたのである。


伝法 「ふる里」コース(富士市教育委員会)


またそれは国内だけに留まらず、早い段階で海外にも紹介された。その嚆矢となったのは1921年のアーサー・ウェイリーによる”The Nō Plays of Japan”の刊行であった。「Nō」とは「能」のことであり、ここには富士市が舞台の能〈生贄〉が所収されている。100年以上も昔に、富士市が舞台の作品が海外に紹介されているわけである。

このように、生贄伝承は富士市における最も重要なテーマの1つと言えるだろう。富士市の歴史のファーストタッチが生贄伝承という例も少なくはないだろう。当記事ではそれらについて取り上げていきたい。


【はじめに】

駿河国の地誌である『駿河志料』には、以下の文言がある。


稚贄屯倉此地より吉原驛に至り、里俗生贄郷と称す、古への稚贄屯倉の地なるべし(中略)近世吉原驛此地など生贄郷と称し、池贄と書けり

ここから、吉原宿一帯が「生贄郷(いけにえごう)」と称されていたことが分かる。そしてこの箇所を稚贄屯倉の比定地としているのであるが、学説的にも支持する向きが多い。例えば(夏目1977;p.307-309)には以下のようにある。やや長くなるが、引用する。

『駿河志料』は駿河国富士郡元吉原の三股淵に注して、
三股淵一に賛淵とも云、川幅二十間許此淵は沼川、和田川の流れ、落合ふ処して三股と云(中略)。古へは川上は岩本より久沢字川窪を今泉へ流れ、川下は依田橋、依田原の地をへて、田嶋、中川原に至り、小須港に入しなれば、 富士河の枝流も此処に落あひ、数尋の渕なりしと云
と述べ、さらに沼川の下、三股渕にある阿字神社の条で、昔、この三股渕に毒蛇が住み、毎年往来の女子を捕えて生贄に供する風習があったと生贄伝説の内容を伝え
こは猿楽の生贄の謡物を謬伝して、贄渕と云ならん、今耕地の字にも此名存す、古へ大きなる淵ありしに、附会せしものなるべし。
と説く。和田川(古原川)は古来「生贄川」とも呼ばれ、その流過する青島・吉原・依田原辺を「生贄郷」とも称したと地誌類に見える
(中略)とイケニヘをワカニヘの訛と解し、稚贄屯倉を生贄の地に比定しつつも、この地がいわゆる美田富村でないことを不審としている。(中略)吉原町は後の吉原市、現在の富士市吉原である。富士市は富士・吉原両市の合併による称である。思うに、地名辞書説のごとく、イケニへをワカニへの訛とするのは、単に音の近似によるのみならず、「生贄」を連想させやすい「贄」の語感と、現実にみる三股淵に対する一種の神秘感・畏怖感が、舌になじまぬワカニへからイケニへと転化を容易ならしめたものと考えられる。生贄を稚贄の訛とすれば、いわゆる生贄郷は稚贄郷の故地とみることができる。とすれば、和田川下流の旧吉原宿を中心とする一帯の平野がこれに当たるであろう。旧吉原宿(元吉原とも云う)は現在の鈴川の今井附近に在ったが、寛永十六年(一六三九)の津波に襲われて依田橋の西方に移転、さらに延宝八年(一六八〇)の大津波のために宿場は壊滅し、翌天和元年に現在の吉原の市街地に退転した。津波とともにこの地を襲ったのは富士川の乱流氾濫である。


ここにあるように、吉原周辺の地というのは生活を営む上では極めて苛烈な地であった。その上で「ワカニエ」という言葉との親和性が「生贄」という呼称を生んだとする。またそれに付随し「生贄郷」という呼称が発生したという解釈が示されている。

「駿河国富士山絵図」に見える「生贄」(村山興法寺三坊蔵板、カラー)


また(原2002;p.195-196)は以下のような異なる見解を示している。


また荒堅魚がこの稚贄屯倉の贄を代表するものであったから生贄という言葉も生まれ、川の名や淵の名として後世まで残ったのであろう

 

上記の説明文に登場する「阿字神社」であるが、これは「六王子神社」と絡めて説明した方が分かりやすい。「六王子神社」に記念御札があったので、掲載する。

【阿字神社と六王子神社】





この記念お札を読むと「不憫に思った心優しい柏原の人々が巫女らを祀った」という印象を持つことだろう。しかしここは特に注意すべきところである。

そもそもこの三股淵の説話は、史料により大きく二系統がある。それは「①阿字が巫女(神子)である」パターンと「②阿字が巫女の下女である」パターンであり、このお札の冒頭に記されるものは①の方である。ちなみに①がバッドエンドで、②がハッピーエンドである。つまりお札はバッドエンドの方で記しているということになる。そして①のうち阿字以外の巫女が死する筋書きで記す史料は『田子乃古道』である。

『田子乃古道』は享保18年(1733)に成立した「地誌」に属するもので、現在原本は失われ、現存する最も古い写本は天保15年(1844)の「野口本」とされる。では『田子乃古道』(野口本)の流れを確認してみたい。


鬮により神子の1人である「阿字」が生贄となることが決定
残る6人は「柏原」まで引き返すが、生きて帰ることを恥じて浮島沼に身を投げる。6人は絶命(「所の者取り揚げ一つ土中へ埋める(野口本)」)
阿字は富士浅間の神力により生贄を回避するも、6人の死を知り投身


つまり6人は(阿字の死に対する)後追い自殺のような心境であったのであるが、実際のところは阿字は生贄を回避しており、この6人の死を知って阿字も死するのである。この微妙なすれ違いがもどかしい伝承と言えるのであるが、この「所の者」は柏原周辺の人間であろうから、埋葬したのは柏原の人ということになろう。

一方後半になると、この6人を祀る話が出てくる。「埋める」と「祭る」は明確に性質が異なる。その箇所を見てみると「その時見付(の)老人この事を聞きてその神子故に毒蛇しずまり今よりして所の氏神と祭る。柏原新田、六の神子という(は)これなり」とある。これを読むと、6人を祀る部分は柏原の里人によるものであるのかは不明瞭である。むしろ見附宿(鈴川)の人による計らいと解せるものであり、お札にあるような「哀れに思った柏原の人々が、六人を神としてお祀りした」と言えるものであるのかは甚だ疑問である。

更に書写時代が下る別の写本(森家所蔵)によると「其時見附宿の者共此事を聞其神子故に所の毒蛇静り今よりして氏神を阿字神と名附是を祭らんと宮居を立類今の阿字神是なり残る六人の所の者神に祝ひて柏原の氏神の神といふ」とある。これは柏原の民が氏神として祭ったと読み取れるものとなっている。しかし書写時代が野口本より更に下ったものであり、原本は「野口本」のように焦点が見附宿の者にのみに当てられたものであった可能性がある。

またお札は他に『駿河記』という具体的な出典を提示しているのであるが、その記述も見ておきたい。それは「柏原新田」の項にある

巫女六人、官職の為に上京せむと道此所に至る。里人これを捕え生贄に備むとす。(中略)これより後永く生贄を取ることを止みぬ。依て里人其得を貴び功を追て、六人の巫女を神に斎祭る。

これは上でいうところの②のパターンである。これを見ると、以下のような経過を見て取れる。


柏原の里人が巫女を捕らえる
巫女の下女であった阿字は京へ上り教えを請う
教えの通りにしたところ鎮まり、生贄は止む
この功に対して柏原の里人は斎祭する


つまり、生贄として捕らえているのは何を隠そう「柏原の里人」なのである。『田子の古道』諸本のうち書写時代が最も古い「野口本」には柏原の人が巫女を祭ったと取れる文言はなく、『駿河記』によるとその柏原の人々が巫女らを捕らえていると記されているのである。これらの伝承を見ると、お札の文言はかなり違和感のあるものであることが分かる。むしろ柏原の人間は、生贄をせしめんとする側の人間として記されている。

実際に人身御供(ひとみごくう)があったのかは不明であるが、「阿字」という具体名が出てきていることを考えると、実際に「阿字」という女性が居て何らかの悲劇的な出来事があったと考えるのが自然であろう。

【能〈生贄〉】

ここまで「阿字」が登場する伝承について述べてきたが、阿字が登場しない三股淵に関する伝承もある。しかもこれは富士市に伝わっている伝承では無い。それは冒頭でも言及した能〈生贄〉であり、富士の御池(ふじのみいけ)として登場する。「無辺光」というサイトに〈生贄〉の詞章が確認できるので、一読をお勧めしたい(外部サイト)。以下における〈生贄〉とは能の「生贄」を指す。

私個人の考えであるが、〈生贄〉の方が古い伝承ではないかと考える。そもそも阿字が登場する伝承で最も古い記録は宝永4年(1707)の『駅路の鈴』であるとされている。つまり18世紀なのである。一方〈生贄〉は室町時代に書写された謡本が伝わっており、古い伝承を反映したものと言える。またこれはあくまでも書写された年代であって、実際は更に遡ることになる。

富士市は富士山の歴史にあまり深く関わらないと思われる節があると思う。私もそのように感じてきた。しかしこの能〈生贄〉を知り得た時、その考えは吹き飛んでしまった。それは、完全に富士市のみが舞台のこの作品において明確に富士山との関わりが見えてくるためである。詞章を読むと「富士権現」「日の御子の神」「内院」「富士の嶽」といった用語が見えてくる。これが富士市の地との結びつきで語られているところに、重要性が見いだせるだろう。富士市が富士山との接点を見出そうとするとき、率先して引き合いに出されるべきものであろう

〈生贄〉の謡本で古例は「観世元頼本」「観世元忠本」とされる。しかしこれは書写されたものであって、原本は別で存在した。それらの成立は相当遡るのではないだろうか。今後の謡本の発見に期待したい。

仮説であるが時代が経つにつれて「富士の御池→三股淵」と呼称が変化していった可能性がある。阿仏尼『十六夜日記』に「ふし河わたる、朝川いとさむし、かそふれは十五瀬をそわたりぬる」とあるように、富士川は幾瀬も川筋があったようである。古い時代は川筋が幾多もあり富士の御池においても合流する河川は限定されていなかったものが、時代を経て統合され「三股」と言えるような状況になったのかもしれない。


「駿河国富士山絵図」(村山興法寺三坊蔵板)

上の絵図は「駿河国富士山絵図」であるが、「アジ神社」「字 生贄」「三ツ又」等とある。富士山かぐや姫ミュージアムによると、19世紀初めに作成されたと推定されている。このような地理的状況は、かなり時代が下るものと考えられる。

〈生贄〉は自家伝抄』においては宮増作、他の各『作者註文』においては世阿弥作と記される。(能勢1938;p.1430)に

曲柄詞章より考へて到底世阿弥作とは思はれない故、自家伝抄に従つて宮増作とするが良いと思ふ

とあり、(北川1974;p.160-162)に

宮増作と伝える作品には地方伝説を扱ったものが甚だ多く、彼の作品とされる曲約三十番のうち、地方に取材したものといえば…(中略)生贄 駿河国吉原宿

とある。同論考でも記されているように、多くの曽我物は宮増作とされており、これも地方での出来事であって、北川の述べるところは説得力のあるものとなっている。

(小田1986;p.29)は自家伝抄』および『作者註文』の伝承を挙げつつも「作者は明らかではない」と慎重である。私個人としては、可能性があるとすれば「宮増」作ではないかと考えており、以下では宮増説に従って話を進めていきたいと思う。

宮増は生贄の題材を以てランダムに舞台の地を選んだのではない。この地にたしかに生贄の伝承ないし風習があり、それが宮増の興味を引いたのである。作成主体が誰にせよ、何の下敷きもなく地方が舞台の能を作能したとするのは、あまりにも無理があるだろう。

また(小田1979;p.36)によると、現存する諸本(謡本)で特に大きな異同はないという。(北川1974;p.161-162)は以下のようにも記す。

この宮増に〈生贄〉という能がある。現在は廃曲となっているが、天文年間には2度勧進能で上演されていて、かなり昔は人気曲であったのではないかと思われる。(中略)これは単にこの伝説そのものを考えるにとどまらず、当時の地方における他郷人疎外という流れを背景においてみるべきである。(中略)〈生贄〉はまさにその流れの上に立つものである。

現代はもう少し能研究が進んでおり、その出現頻度を考えると、〈生贄〉は人気曲であったと考えて良いだろう。北川と視点は異なるが、この一連の三股淵の伝承を考えると、以下の疑問点は出てくるだろう。

何故、生贄の対象が現地の人間ではなく旅人なのだろうか

実は〈生贄〉はその部分をかなり強調したものとなっている。詞章のうちそれなりの割合を占めることから、〈生贄〉の意図的な演出と言って良い。この能の特徴の1つは「恐怖演出」であると考えられるのである。該当するのは以下の部分である。


委細承り候。たとへば其の所の神事などをば、其の郷にすみなれ、又は其の生まれ氏人などこそ御神事に、あふ事にて候へ。行方も知らぬ旅人が、在所に泊りたればとて、御神事にあふべき事更に心得難う候。 
(中略)委細承り候。以前も申し候如く、其の所の神事などと申す事は、其の生まれか郷内の人などこそ執り行ふべけれ。何所ともなき旅の者の、此の生贄の御神事にあふべき事、心得難く候。 
(中略)平に通して給はり候へ(以下略)

これを意訳すると、以下のようになる。

詳細は承りました。しかしこの場所の神事であるならば、この場所に住み慣れた者またはここで生まれた者などが御神事に関わるべきでしょう。行方も知らないような旅人がその場所に宿泊したからといって御神事を強制されるのは心外である 
(中略)詳細は承りました。以前も述べましたが、この場所の神事であればここの生まれかこの地域に住む人で執り行うべきであり、旅の者が生贄の御神事に遭うようなことは受け入れられません。 
(中略)どうかお通しください(以下略)

つまり同じ詞章が繰り返されているのである。詞章でこの容量となると、なかなかのものであろう。このように全く無関係の人間であるという主張をもろともせず、「昔よりの習慣である」の一点張りでその主張を除ける恐ろしさが強調されている。北川の言うところの「他郷人疎外」とは異なるが、内々の人間には絶対に被害が及ばない構造は不思議で恐ろしいと言えるだろう。

これが京の人間の関心を引いたことは、容易に想像させられる。(山中1998;.p149-150)には以下のようにある。

〈生贄〉という作品を考えるとき、どうしても、東国の恐ろしい神事に対する都人の興味という面を無視することはできない。(中略)しかし、〈生贄〉は右のどれとも違い、都からの旅人が巻き込まれるという設定にしている。(中略)神事への参加を強要する神主と断る旅人との問答は、〈舞車〉とそっくりである。(中略)東の果ての「富士の御池の神事」などは、都の人々から見れば、何が起こってもおかしくはない場ではなかったのではないだろうか。

やはりこの恐怖演出は、〈生贄〉のキーとなるものであっただろう。このような詞章があるということは"もし仮に生贄の御神事を行うにしても、通常対象は郷の者であろう"という考えが普遍的にあったからに他ならない。だからこそ、この詞章が組み込まれているのである。

既に宮増の時代には富士下方(現在の静岡県富士市)の地で生贄伝承が根強くあり、それを宮増が題材としたのだろう。その土壌があった上で後世に「阿字」という女性に関わる何らかの悲劇があり、〈生贄〉では「富士の御池の神事」というシンプルなものであったものが「三股淵(富士の御池)の阿字の悲劇」と具体性を増したエピソードも成立したという可能性がある。そして元のシンプルな伝承は、芸能の中で生き続けたのだろう。

もちろん、これは想像であって証明できるものではない。元々「三股淵(富士の御池)の阿字の悲劇」であったものを、京の人間の関心を引き寄せるために宮増が設定を「都人」にしたという可能性もある。これらをすべて「稚贄屯倉」で説明するのは簡単であるが、そう単純ではないだろう。


【仮説】

「歩いたりジョグしたりして楽しく旅ラン(誰でも参加OK)…四ッ谷 走Run会!!(はしらんかい!!)」というブログにこの伝承に関する考察がある(記事リンク)。一見ポップに解説されているように思えるが、傾聴すべきものがある。

まず「渡り巫女」という言葉が登場しているが、御指摘の通り上記の伝承の巫女は「歩き巫女」と考えて良いように思う。そもそも巫女というのは、柳田國男が言うように託宣を担った神聖なる立場の人間であり、その認識は中世も例外なく有していたと思われる。しかしその論理が通じない何らかの事象がこの東国の一地域で発生したとすれば、伝承として成立し得るには十分である。

また「阿字がまず犧牲となり他の6人は逃げようとしたところを(六王子神社の所在地である柏原にて)捕縛されて亡き者とされた」という考察であるが、中々に興味深いものである。しかも柏原というと富士下方の東端であり、ここを超えるともう富士下方ではない。「柏原」を超えてしまえば、富士下方の民は手を出せないのである。それを知っていて、巫女らは懸命に柏原を越えようとしたという仮説も成り立つ。

逆に言えば、東国(東方)からやってきた旅人がまず富士下方の地で足を踏み入れるのは東端の「柏原」である。そう考えると、『駿河記』の柏原新田の項に「官職の為に上京せむと道此所に至る。里人これを捕え生贄に備むとす」とあるのは、妙に納得できるものがある。

つまり地理的状況から考えると、これらの記述は肯定できるものにはなっている。


富士市埋蔵文化財分布地図


これは「柏原遺跡」の範囲図であるが、その東側は沼津市となっており、富士下方ではなくなるのである。〈生贄〉の詞章から抜粋する。

シテ(娘の父):あら嬉しや候。さらば急いで罷り立ち候べし
ワキ(神主):いかに誰か有ある
トモ(神主の従者):御前に候
ワキ(神主):今夜此の宿に旅人の三人泊りて候が、夜の内に立ちたる由申し候。急いで留め候へ

つまり旅人が「急いでここを立とう」と吉原宿から逃げようとするも「逃げ出そうとしているから捕まえろ」というやりとりが確かにあるのである。そういう実例が伝承を形成し、能楽に昇華されたという背景も考えられる。そして後世にやはり同じ事象が発生し、阿字の伝承も成立したのではないだろうか。そして両者共「聖職」「貴人」に位置づけられるような者であったのではないだろうか。

「〈生贄〉」と「阿字の伝承」の共通点は、この地域から逃げようとしているという点にある

人身御供であるのかは不明であるが、本来であれば郷の者で執り行われるべきことが、郷でない者に強いられるような事象・風習があった。そしてそれを退けようとした場合、何らかの罰が下された。

これくらいの推測は十分に許される範囲だろう。この伝承は「稚贄屯倉」だけで片付けて良いものではないように思える。そもそも「稚贄屯倉」のみで猿楽の成立まで説明しようとすること自体が強引と言えるのではないだろうか。

【おわりに】

全国の人柱伝説を解説した論考に(田中1961)がある。富士市は生贄伝承の豊富さが全国でも随一なので、当然富士市は登場する。しかし同論考においてはむしろ「三股淵」は登場せず、「備前道丁」(雁堤)と「おきく田」の伝承について言及されている。この「お菊田」の伝承も極めて有名であり、広い意味では生贄と言えるものであるが、この伝承に関しては一・二点思うところがあるので解説の場を設けたいと考えている。

  • 参考文献
  1. 能勢朝次(1938)『能楽源流考』、岩波書店
  2. 田中清(1961)「長柄橋(人柱伝説雑考)」『土木学会誌 46号』、土木学会、27-33
  3. 北川忠彦(1974)「謡曲狂言と説話文学」『日本の説話 第4巻』、東京美術、152-176
  4. 夏目隆文(1977)『萬葉集の歴史地理的研究』、法蔵館
  5. 小田幸子(1979)「「生贄」と「熊野参」 -その源流-」『能 研究と評論第8号』、月曜会、35-50
  6. 小田幸子(1986)「「生贄」について-演出を中心に-」『梅若 第272号』、29-32
  7. 山中玲子(1998)『能の演出 その形成と変容』、若草書房
  8. 原秀三郎(2002)『地域と王権の古代史学』、塙書房

2024年11月10日日曜日

大宮・村山口登山道を巡る問題行為およびガイド問題について考える

昨今、富士山を巡る様々な問題がニュースとなっている。最近も以下のようなものがあった。

誰が?なぜ? 富士山登山道に無数の矢印 富士宮口6~8合目の岩などに塗料で 登山ガイド「許せない」(静岡新聞DIGITAL  2024年11月9日)

富士山の富士宮ルートの6~8合目にかけ、登山道沿いの岩などにペンキのような塗料で無数の矢印が描かれていることが8日、地元の登山ガイドへの取材で分かった。一部は山小屋の石積みにも描かれていた。同日までに静岡県などに報告したという。富士山は国立公園に指定されていて、自然公園法などに抵触する可能性がある。(中略)男性は、6合目以上が通行止めになった9月10日以降から10月下旬にかけ、何者かが複数回にわたって矢印を付けたと推察。「しつこく描かれていてひどい状況。何が目的かは不明だが、富士山の景観を汚す行為で気分が悪い。許せない」と憤った。  富士山では2017年にも須走ルートで無数の矢印が見つかり、国や県などが除去作業に追われた。

そして「有識者」および一般のコメントでは、この行為に対して否定的見解および非難するコメントが寄せられた。




実は富士山におけるこの種の迷惑行為であるが、従来から問題となってきたという事実がある。

幻の「富士山・村山古道」が人気 5年前、ガイド本が出版され話題に(中日新聞 2011年1月13日)
 行政困り顔「本物確証なく危険」
幻の富士山大宮・村山口登山道(通称・村山古道)とされるルートが、登山者の間でひそかな人気を呼んでいる。明治末に廃絶した古道を再発見した、と主張するガイド本が5年前に出版されたのを契機に登山熱に火が付いた。しかし、国や富士宮市教育委員会は、同書が紹介するルートが本物の古道である確証はなく、登山者の安全も確保できていないと懸念している。
昨年10月24日未明、富士宮市の村山浅間神社を出発。富士山富士宮口新6合目までの標高差約2000メートルを12時間半かけて踏破した。たどったのはガイド本「富士山村山古道を歩く」(風濤社)が村山古道だと主張するルート。富士山信仰を研究する登山家で、同書の著者畠堀操八さん(67)=神奈川県藤沢市=が率いる登山者グループに同行した。畠堀さんは、約8年前から同市村山の住民有志と協力して古道を調査。古老の記憶などを頼りにルートを特定し、倒木や雑草を切り払って整備した。2006年に、「幻の古道の在りかを突き止めた」としてガイド本を出版、インターネット上などで話題になった。地元では、古道を活用した“村おこし”への期待も高い。
一方で、行政側は登山者の増加に頭を痛めている。市教委はガイド本のルートについて「学術的な調査に基づいていない。本物だとの誤解が広がっては困る」と懐疑的。県埋蔵文化財調査研究所が08年度に実施した調査も、札打ち場など古道沿いにあった施設の遺構16カ所を確認したが、施設同士を結ぶ登山道までは確定しなかった。地元住民の有志はガイド本のルート沿い約20カ所に案内板を設置したが、数年前に静岡森林管理署に撤去を求められ、やむなく応じた。有志からは「登山者の遭難を防ぐための案内板をなぜ」と不満が渦巻く。管理署は「ガイド本のルートは獣道との違いも不明確な道もあり危険。利用を促すわけにはいかない」と説明する。(抜粋)

このような迷惑行為が行われてきたという過去がある(「記事B」とする)。無論、これが昨今のニュースであったのであれば、コメントも非難するものが多くを占めたことであろう。そもそも村山口登山道の学術的調査の嚆矢は、『富士山村山口登山道調査報告書』(1993年)である。



この時代には既に、村山口登山道における施設跡の平坦地は調査されている。したがって

明治末に廃絶した古道を再発見した

という言い分そのものが、まずあり得ない。各媒体でもそのように流布しているようであり、この浅ましい程の執念は理解しがたい。1993年の調査において施設跡の平坦地はほぼすべて把握されており、追加で発見されたものは『富士山巡礼路調査報告書 大宮・村山口登山道』(静岡県富士山世界遺産センター)において「SX8」と呼称される地点のみである。現在は更に詳細な分析がなされ、学術的な研究で立証されたルートが公開されている。

記事Bは「倒木や雑草を切り払って整備した」と美化した表現となっているが、「無許可での荒らし行為」と大きくは違わないものである。富士山は国有林の箇所だけではない。財産区もあり、これらは公有林である。これらの承諾を受け行われた行為ではないのは明白であり、独善的な行為であったことは当人たちも否定できないだろう。

こういう無神経な人々は底がない。例えば富士山麓の財産区では以下のような事象もあった。

勝手に山菜採取 男女23人検挙 静岡 (静岡新聞デジタル 2010年6月2日)
地元住民が管理する財産区から山菜を無断で採取したとして、富士宮署は5月13〜31日までに、窃盗の疑いで28〜75歳の山梨県などに住む男女23人を検挙した。同署の調べでは、男女らの多くは高齢者で、富士宮市根原の立ち入りが禁止された山中に侵入し、ワラビやウド、フキといった山菜を採取したとされる。同署によると、この場所は有刺鉄線で囲まれた数万平方メートルの土地。男女ら は鉄線を乗り越えて侵入したとみられる。近くの大学が行う生態系調査への協力と不法投棄防止のため、「山菜採り禁止」「立ち入り禁止」と 書いた看板を立て、注意を促していた。この場所は「不審者が勝手に入って山菜を採っていく」との苦情が毎年寄せられていたため、同署が警戒を強めていた。

大学側はデータを取り、論文などを書くこともある。例えば植物の発育調査を経時的に行ったり、場合によっては数カ年必要なものもあるだろう。もっと長いものもあるかもしれない。しかし"意図せぬ人工的な介入"があったということから、そのデータはもうそのまま使えない。つまり数年の研究も無神経な人々によって一瞬にして台無しになってしまったりするのである。

実は村山口登山道でもそのような危機があった。上の「有志」を名乗るような組織の行動を見てみると、シャベルなどで土を深く掘り起こすなどしていることが確認できる。しかしこれを登山道で無作為にやっていたら、埋蔵物を散逸してしまう危険性がある。

例えば中宮八幡堂の跡地からは「17C」や「17~18C」、つまり17世紀に遡ることができる埋蔵物が発掘調査により発掘されている。これらは施設跡であることを示す重要な要素となる。しかし有志を名乗る組織が勝手に掘り起こしてしまったら、建物跡の基礎跡等も分からなくなってしまうのである。そうすれば村山口登山道の形跡は失われることになる。

であるから、有志らの行動はむしろ村山口登山道の発見を阻害する行動であったと言うこともできる。「数年の研究」どころか「歴史そのもの」を失うところだったのである。

御室大日堂跡

村山口登山道の保存を唱えていた著名な人物に故・小島鳥水氏が居る。氏は聡明な人物であり、とても見識が深かった。(小島1927)「不盡の高根」には以下のようにある。

私は、前に大宮口はもっとも低いところから、日本で一番高いところに登る興味だと述べた。しかし、も一つある。それは大宮口こそ、富士のあらゆる登山道で、もっとも古くから開けた旧道むしろ古道であることだ。だが、それは今私たちの取った道ではない。大宮浅間神社の裏から粟倉、村山を経て、札打、天照教まで大裾野を通り、八幡堂近くから、深山景象の大森林帯を通過し、約二千メートルの一合目直下から灌木帯を過ぎて今の四合目まで出る道がそれだ(中略)今川家御朱印(天文二十四年)にも、村山室中で魚を商なってはならぬとか、不浄の者の出入を止めろとか禁制があって、それには、この村山なる事を明示している。富士の表口というのは、大宮口であるが、つまるところ村山口であったのだ。私がこの道を取って登山したのは約十七、八年前であったが、その当時、既に衰微して、荒村行を賦ふするに恰好かっこうな題目であったが、まだしも白衣の道者も来れば、御師おしも数軒は残っていたが、今度来て聞くと哀かなしいかな、村山では御師の家も退転してしまい、古道は木こりや炭焼きが通うばかりで、道路も見分かぬまでに荒廃に任せているという。私が知ってからでも、その当時新道なるものが出来て、仏坂を経てカケス畑に出で、馬返しから四合半で古道に合したものだが、これも長くは続かず、私たちの今度取った路は最新のもので、二合目で前の新道なるものを併せ、四合目で村山からの古道を合せている。富士のようなむきだしの石山で、しかも懐ふところの深くない山ですら、道路の変遷と盛衰はこのように烈しい。(中略)
 氷河のない富士山は破壊力においてすら微温的であるから、時に雪なだれで森林を決壊し、薙なぎを作ることはあっても、現に今度の大宮口でも、三合目の茗荷岳を左に見て登るころ、森林のある丸山二座の間を中断して、「なだれ」の押しだした痕跡を、明白に認められることは出来ても、人間がこわす道路の変遷の甚だしいのにはおよばない。後の富士登山史を研究する者が、恐らく万葉以来、一般登山者の使用した最古道、村山口の所在地を、捜索に苦しむ時代が来ないとも限らないから、私は大宮口の人たちに、栄える新道はますます守り育てて盛んにすべきであるが、古道の村山を史蹟としても、天然記念物としても、純美なる森林風景としても、保存の方法を講ぜられんことを望む。
 我祖先が、始めて神秘な山へ印した足跡を、大切に保存しないということは、永久に続く登山者をも、やがて忘却してしまうことだ。それではあまりに冷たく、さびしくはないか。私はなお思う、古くして滅びゆくもの、皆美し。(以下略)

このように述べられ、後の時代に村山口登山道の道程が失われることを危惧されていた。そして研究者らが研究する段階では事跡等も不明になってしまっているとも限らない、と警鐘を鳴らしていた。

今現在、小島氏に伝えられることがあるとしたら、「(上のような)危機もありましたが、研究者により大宮・村山口登山道の全容は明らかとなり、保存の観点にも注意が払われている」ということだろうか。このように学術的な観点から大宮・村山口登山道の全容は明らかとなっているが、記事Bの面々らはそれをあえて伏せているきらいもある。そして20世紀の調査についても触れようとしない。あくまでも"自分たちが発見したのだ"ということにしたいがためである。また独自の見解もあるようであるが、そこに学術性がなければ、それは想像でしかないのではないだろうか。

小島氏は村山口登山道に対する強い思いがあったようであり、後の(小島1936)"すたれ行く富士の古道」(村山口のために)"でも再び村山口に言及している。氏は論考の冒頭で、私が最も好きな聖護院門跡道興の短歌を載せ、そこから本論に入る。そして若山牧水の和歌から上の論考(不盡の高根)を回顧され

村山古道の跡に、假に歌碑として建てても、少しも不似合ひなことは無いと思はれる

と振り返り、ここで「村山古道」という表現を用いている。以下に続きを一部掲載する。

それが可なりに古い時代(後述)から、明治末期までは、村山口といふ名でも知られてゐた。然るに大宮口の新道(現今のは新々道)が開けて、村山口は全く廃滅に帰し、今では富士登山者の中でも、村山といふ名を口にする人も無い、或は全く知らない人すらある。(中略)

村山口は、私蔵の古い一枚摺(年代不明)の地図に依ると「表宗本寺京都聖護院宮内村山興法寺富士別当三ヶ坊あり」と見えてゐるし、又「富士山表口真面之図」と題する大判一枚摺に依ると、富士山別当村山興法寺三坊蔵板とある。(中略)

この地形図式錦絵で見ると(中略)ここに上述の三坊が控えてゐる。それから発心門を潜り、安生山を左に見て、靏芝、亀芝(草を使った跡が、靏亀の形を成してゐる)を右に、中宮八幡社にかかり、女人堂に至る。これから上は、女人禁制である。(中略)そして村山口の頂上は、銀明水と東賽ノ河原の間に「村山拝所」としてしるされてある。一合目から九合目には、今日のように何合何という小さい区切れがなくて、合が単位になってゐる。

(中略)序でを以て言ふ、「馬返し」なる名は、富士にも日光にもあって、昔の登山者には、懐かしい名詞だが、これからは、そういう地名も廃たれ、辞書でも引かないと意味が解らなくなるだろう。(中略)武田久吉博士が、未だ一介の学生たりし青年時代に、私のところへ寄せられた富士便りのハガキをたまたま見つけ出したから、左に援用する。村山口経由の登山である。日付けは明治三十八年八月五日で、日本山岳会成立以前のことである。

ここで「これからは、そういう地名も廃たれ、辞書でも引かないと意味が解らなくなるだろう」とあるのは、氏の先見の明であると言える。また武田久吉氏の村山口を経た登山も記され、貴重な記録となっている(ここでは略す)。また以下のようにある。

(中略)大體の路筋を言へば、大宮浅間神社から大宮新田を通過し、賽の河原から粟倉に到り、村山に達するので、村山の標高は須走より低く、御殿場より聊か高いぐらゐのところ…

ここも極めて正確で、かつ細かい記述である。恐らく昔の富士宮市の人々は「賽の河原」(舞々木町)が何処かは知っていたことであろう。しかし現在は知るものも少ないし、ここを経由したことも忘れられている。

(中略)村山から札打、天照教、細紺野を経て、八幡堂下に至るまで、所謂裾野帯であるが、八幡堂下より、草木はおのずと深山的のものになり、一合目までには、蘚苔地衣類多く「オオクボシダ」など、樅の大樹に密生している。(中略)然るに、この千年の歴史ある村山口が、明治末期から俄かに衰微し、大正昭和となって全く廢滅したのは、他の登山口の勃興したためでなく、大宮口自らが、もつと距離の短かい、比較的安楽な道を、新たに開拓しためであった。

(中略)数多い富士登山道の中で、捨てられて顧みられない村山の古道を拾い上げた所以は、第一にそういった、古くて美くしく、故にまた懐かしい憶い出話を、語ることを、私が好むからである。第二に、私あたりの旧に属する登山者が、今のうちに書き残して置かなければ、古道は、その物語までも失はなければならなくなると気遣はれるからである。第三に、村山は、古道と言っても、明治末期までは、ともかくも伝統と生命を保ってゐた。衰亡史の第一頁を切ってからは、至って新しい。それだけに、資料も猶ほ豊富に残されてゐる筈だから、私の、継ぎ合せて拵へたやうな貧しい本文が捨石となって、富士の研究家、又は大宮附近の古老の口からなりと、村山興亡史の發表を促すことになれば幸ひである。第四に富士の新道として、山中口、精進口、上井出口、人穴口などが、続々開拓されて、中には実際、未だ幾何も利用されてないものもあるらしい。富士登山に対するそれだけの熱が山麓の人々にあるならば、歴史あり、伝説あり、自然美に富める村山口を、回復、保存、維持して行くべきではなからうか。村山口の道路が、或は長く、或は幾分か峻しく、時間もかかるといふのは、此際、むしろ不幸なる幸福であらねばならぬ。(以下略)

大宮新道に注力していったのは、やはり自然の成り行きであろう。そして村山口登山道が廃れていったのも、やむを得ないことであると思われる。しかしそこにそのままの状態で残ってさえすれば、後の時代に辿ることもできよう。

しかし学術的な保証なく人工的な手が加われば、そうはいかない。その危険性があったのである。また小島氏の述べるような「後の富士登山史を研究する者」「富士の研究家」によって村山口登山道のルートが明らかとなった昨今、これが村山口の登山者にも十分に認識されていないのは唯一危惧される点である。

その上でこれが作為的なものであったのなら(記事Bの面々)、小島氏の思惑とも異なるものであろう。また「ガイド問題」については「富士宮市の博物館構想を通史的性格から考える、文化・芸術の拠り所としての表現」にて言及しているので御参照頂きたく思う。

追記(2025/04/24)。以下ではもう少し踏み込んで山の諸問題について考えていきたい。

Mt.FUJI 100というトレイルランニングのレースがある。そのプロデューサーの方の投稿が以下のものである。



内容は、私設で無許可に看板等を設けることに対する注意喚起である。改めて私は、これが普通の感覚ではないかと思う。

そしてこの種のレースに明らかに賛同していないと取れる意見も散見される。



ハッシュタグを付けて投稿しているところから見ても、"物申す"というスタンスであることが分かる。ハッシュタグは、その対象に関心がある人に見つけてもらうための工夫なのだから。私がこの投稿を見つけられたのも、この工夫があったためである。これをあえて本番数日前に投稿するところに、意図が感じられる。そして、自らを「登山ガイド」と名乗っている。

ここで考えていきたいのは、そもそも登山文化を考える時、それそのものが自然的ではないということである。私も登山をするので分かるのであるが、登山道を整備するということは"自然的ではない状態にする"ということなのである。

土を掘り起こし、時には木の板などを打ち込み、時には金属を打ち込み、時には鎖場といって岩に金属を打ち込んだりもする。自然的ではないから、そこを歩けるのである。登山道の箇所だけ一段低くなるため大雨の際は登山道に水が流れ込み、どんどんえぐれていく。これも、登山道にしていなければ本来生じ得なかった現象といえる。

登山ガイドは、その登山道の恩恵を特に受けている。言い換えれば、自然的でなくしたものの恩恵を受けているので、ガイドとして活動できているのである。特にビジネスになっている場合は、フリーライドした上で更に金銭を得ているという見方もできる(入山料がある山も存在する)。ガイドがガイド利用者に"ここにはトイレがありますから使ってください"と言っても、そのトイレはあなたが整備したものではないのだから。

私は登山道で無い所を歩くのも好きである。これは推奨されてはいない。というのも遭難のリスクもあるし、別の踏み跡を形成することに繋がりうるし、落石が生じる可能性がある。整備された登山道でも落石が生じることがあり、その際は「ラック!」と叫んで下に居る人に警鐘するのが習わしである。勿論私は、そういう性質ではない箇所で外れて登山しているに過ぎないが。実は登山道ではない所を踏破する考えの方が、よっぽど自然的なのである。

私が違和感に感じるのは、一部の登山者が"自らは自然に全く手を加えておらず、そこに変化をもたらす存在ではない"という誤解を抱いていることである。別に登山をしてはいけないと言っているわけではない。登山道を用いる人であればそれは皆同じサイドに居る人間であるという自覚は必要ではないだろうか、ということなのである。日本で整備された登山道の総延長は計り知れない。これらは草木・花を根こそぎ取り除いで形成したものである。特にチェーンスパイクなどは、地面その他を傷める道具でもある。つまり登山者であろうとトレイルランニングであろうと、基本は同じサイドなのである。

ちなみに私は、トレイルランニングをやったことが無い。

追記(2025/05/03)。以下ではトレイルランニング運営側と野鳥団体側とで確認される意見や認識の齟齬について見ていきたい。「ウルトラトレイル・マウントフジ2023 全体説明会議事録」という資料にそれが示されている。冒頭で所感を述べ、後半で具体的な言説を見ていきたい。

議事録を一通り見てまず驚かされるのが、ひたすらに"机上の空論"をしているということである。すべてにおいて何の根拠もないのである。驚くべきは、それが野鳥団体側においてみられるということである。このパターンは初めて見たので驚いた。

まずトレイルランニングの運営側というのは野鳥の専門家ではないから、運営側が調査をしてもあまり意味はない。手法も分からないのだから。だから世の中には"委嘱"というシステムがある。つまり専門的な調査ができる機関に研究を依頼するのである。まずはそれをすればいい話なのである。

そして野鳥団体側の出席者を見たときに、学術的なこと、つまりアカデミックな要素が一定レベルに達していない人が居る可能性がある。上述したように"運営側というのは野鳥の専門家ではないから、運営側が調査をしてもあまり意味はない"ということは専門家であれば分かると思うのであるが、それを等閑視している所を見ると、その蓋然性が高い。

学位等を保持しているのか、研究報告をしたことがあるのか、その研究は査読ありなのか否かといったことを1人1人確認する必要性があると思う。専門家だからこそ代替案が出せるのだから。もちろんすべてが学位等を保持している必要性はないと思うが、その場合は専門性が担保されていないということになる。例えば日本野鳥の会南富士支部の方が調査に対して「有意に見られる結果が出ています」という文言を用いているけれども、調査・研究でいう「有意」というのは簡単に用いることができる言葉ではなくて、しっかりとしたモデル化が必要である。それがあるのか否かというレベルも見る必要性がある。

そもそも野鳥団体側に緊張感が見られない。緊張感が必要なのはむしろ野鳥団体側なのだから。何故なら、調査・研究を行って"野鳥に対し有意な影響は見られなかった"という結果が出たとしたら、大局が動くからである。なので普通に考えればむしろ野鳥団体側が材料を用意しなければならない。そして「全体説明会」なのであるから本来他の事柄についても議論しなければならないのにも関わらず、明らかに「野鳥」に偏りすぎている。つまり自分の畑分野についての準備が説明会の時点でできていないので、議論が進んでいないのである。

そもそも天子ヶ岳は野鳥団体のものではない。であるからそもそも両陣営は全くの対等であって、どちらか一方が優位という性質のものではない。にも関わらず、野鳥団体側は何か勘違いしているように見受けられる。それが終始不思議で仕方がない。

現時点では"トレイルランニング大会が行われることによって野鳥に良好な影響を与えるということはなさそうだ"くらいのことしか分からないように思う。例えば人が沢山通ることで繁殖行動が増えたりとか、もしかしてそういうこともあり得るわけであるが、一応それは否定できるというくらいの材料しか存在していない。

以下では具体的な発言を見ていこう。


環境省国内希少野生動植物種保存推進員:全然違う時にやって調査になるのですか

公益財団法人日本鳥類保護連盟:小鳥の調査は連盟の職員が個人的に大会に参加し、大会当日にランナーと一緒に走って取ったデータです

環境省国内希少野生動植物種保存推進員:それはわかりました。全コース見ないままで調査しないで予算がないから強行してしまう、ということですね。そう理解していいですか。


興味深いのは、同じ野鳥団体側でも意見の乖離があるということである。つまり推進員は、日本鳥類保護連盟も関わった調査方法に疑義があるわけである。しかし"全然違う時期に調査をやると何が問題であるのか"ということを言語化して伝えないと、説得力が無いし意味もない。全然違う時期に調査するメリットだってあるはずだ。


環境省国内希少野生動植物種保存推進員:私が理解するのではなく、寒さや飢えで死んでしまう鳥たちのために言っているのであって、私に理解しろと言われたってそういうものではない。時期を外すことができないと言うが、Facebookなどを見ると随分大会をやっているようですね。


トレイルランニングが開催されたことによって飢えてしまうというエビデンスを提示して下さい。実際に何度か行われているので、飢えの有無自体は調べることができるわけである。私はとりあえずは研究機関に委嘱して、大会後に飢えの有無を調べるところから始めてもよいと考える。これは定点カメラを多数設置して、鳥たちの様子を観察することで可能となる。勿論各所許可は必要かもしれない。飢えていなかったら、推進員の推測は誤っていたことになる。その場合、推進員はその誤りを認める必要性がある。これがアカデミズムの世界である。

一般論以外の言説において、終始エビデンスが不足しているんですよね。運営側がエビデンスを求めようとして調査をしようとしている一方、専門家側がエビデンスを提示せずに既成事実のようにして話を進めるのはあまりお利口ではない。

そもそも専門家ではない人が野鳥調査などできないのだから、単に無茶振りをしているようにしか映らないのである。これは専門家側も普段からそのレベルの調査くらいしかしていませんよ、と言っているに等しい。この業界のアカデミズムはこの程度のレベルですよ、と言ってしまっているのだ


環境省国内希少野生動植物種保存推進員:だからやめればいいじゃないですか。


この発言が出せたのは見方を変えれば凄く良いことではないだろうか。一例を出せば野鳥観察にしても、野鳥からすれば観察などして欲しくはないのである。常に警戒せねばならないし、それもストレスだろう。

野鳥観察の会などが、山に分け入り、集団で行ったりしている事例もよく聞く。もちろん静かに分け入っているわけであるが、そこは野生に生きるものなので感知できていないとするのは失礼だろう。それは日本野鳥の会富士山麓支部が述べる所の「突然の非日常」ではないのか。であればストレスがかかるから野鳥観察は駄目だと言うことも出来るし、推進員の言葉を借りて言えば「ストレスを感じる鳥たちのために言っているのであって、私に理解しろと言われたってそういうものではない」とも言えてしまう。そして帰結として「だからやめればいいじゃないですか」とも言えてしまうわけである。

野鳥にとっては人間の介入がゼロの方が良いに決まっている。一方で動画サイト等によると、人間が野鳥と仲良くしているものがあったりする。それを見てほくそ笑むのは良いが、それを見た他の鳥はその鳥を警戒するかもしれない。人間が気づいていないだけで、野鳥と触れ合わんとする行為そのものが、鳥にとって何らかの支障をきたしていることもあり得ると思う。こういうものもすべて駄目とするくらいの気概を持たないと成立しないような要求をしているように映ってしまっている。

そもそも四桁にも上る野鳥調査費を払わせておいてその上で「開催中止」を求めているということは、あわよくば野鳥調査費だけひったくろうとしていることになる。この調査は学術的にも活用できるし、ジャーナルに掲載したっていいわけである。むしろ感謝しなければならないはずなのである。天子山地は別に野鳥団体の所有物ではないのだから。

まず調査に対して感謝する。その上で調査から出来うる限りの対応策を導き出すという姿勢が必要なのではないだろうか。その対応策にこそ専門家としての叡智が生かされるべきであって、その土台を模索しようとしないのであれば、存在意義などないだろう。


日本野鳥の会 南富士支部:先ほど秋の開催と台風のお話がありましたけども、具体的な数値を出して欲しいです。10月はそんなにはたくさん来てなかったです。前に一度秋に開催した時があって、たまたまその時に台風だったかどうか知らないけれど、たった1回の経験でダメだという結論を出した。そのこと自体が問題だと思う。もう少し何回か経験して、ちゃんとしたデータを重ねて、そういうのを出してもらわないと説得力がないです。


そもそも過去の台風というのはデータベース化されそれを元に多くで報道されており、9月10月に多いというのは一般論としても知られている(「9月17日は台風の特異日本格的な台風時期に突入」)。

単に「実際秋に台風は多いのですか?」と質問すれば済むだけの話なのを「たった1回の経験でダメだという結論を出した。そのこと自体が問題だと思う。もう少し何回か経験して、ちゃんとしたデータを重ねて、そういうのを出してもらわないと説得力がないです」となってしまうのはただただ不思議である。

むしろ「10月はそんなにはたくさん来てなかったです」と客観的に分かるデータを、質問者側こそが提示すべきではないだろうか。自分はデータを出さないのに、相手にだけ求めるのは良くない。とても良くないことである。

まずは自分から調べてみる、そういう姿勢が必要だと思います。会議に出るのなら尚更ですよ。


環境省国内希少野生動植物種保存推進員:君たちが調査をすると言うが、何のための調査かわからないのですよ。予算を10分の1か100分の1しか出さないで、日にちも変えずどんな検討をしているのかわからないまま強行するだけ。富士山クラブさんが飼っている可愛い小鳥が飢えて死んでしまうんです。それが目に見えているのでやめてくれと言っている。それと行政がどうのと言われても、私達は行政のためにやっているのではない。


先ほど「別にやめろと言っているわけではなく(原文ママ)」と言っていたのに、もう変わっている。そもそも「君たち」というのは失礼ではないだろうか。繰り返しになるが「飢える」のエビデンスを提示すべきである。日本野鳥の会 南富士支部の方の言葉を借りて言えば「目に見えている」とかではなくてデータを重ねて、そういうのを出してもらわないと説得力がないですという話になる。


環境省国内希少野生動植物種保存推進員:自然公園で特別な鳥が見られるのは幸せなことですが、普通な鳥はスズメでもシジュウカラでもヤマガラでも見られたらとても山を歩いていて幸せになれる。普段目にする奴らが道脇でやっている。そっちが大事だと思っている。その調査はやろうと思えばできるが、今回ランナーとして走ってくれた時は、前のランナーが通ったらいない。その状態で調査と言っても無理だと思います。私は1日2回犬と一緒に山を歩いているがそのイメージと、走って1種類でした2種類でしたとそんなわけがない。毎日見ているし、夜も歩いている。飛び立ったりすると迷惑をかけたとコースを変えたりもしている。


言語化が上手く出来ていないから何を言いたいのかはよくわからないが、"1日2回犬と一緒に山を歩いている"ことが全く問題ないのであれば、いよいよ説得力がなくなってくる。

ここまでの論調を見ると「犬が鳥を襲う心配はないのか」「そもそも鳥は犬に対して脅威を感じないのか」というような揚げ足取りを可能にしてしまっている。実際"犬が鳥を食べてしまった"という事例はそれなりに認められる。

この説明会からでは分からないが、少なくともトレイルランニングにゼロリスクを求めることはお門違いである。それをしてしまったら"犬が鳥に危害を加える可能性はゼロではないから、山での犬の散歩は禁止"ということにもなりかねない。すべての人がすべからく常識の範囲内で折り合いどころを見つけ、公共の場で活動しているのが世の中なのである


NPO法人富士トレイルランナーズ倶楽部事務局長:今回吉田さんにやっていただいた調査はこれまでにない貴重な調査だったと思いますが、これはあくまでボランティアベースでやっていただいたことなので、本来であれば総合的知識を持った方にお願いする以上は仕事として発注しないといけないと思っているが、そこは今のNPOの財政事情ではすぐに着手はできない。次回大会の寄付エントリーがどの程度集まるかによって、その次からは拡大していければと考えている。


そうなんですよね。


公益財団法人日本鳥類保護連盟:先ほどはご意見いただきありがとうございます。ここで何回か参加させていただいて、ほぼ意見が平行線なのでどうしたものかと思いますが、いくつかできることがあると思います。先ほど水越さんがおっしゃっていたように非日常的なものがよくないという話もありました。私たちは何千人の人が何時間もかけて通過するイメージしかない。163kmもあればスタート地点とゴール地点でばらつき方も全然違う。実際に各チェックポイントを作ってどれくらいの時間をかけてどれくらいの人が通過していくのか視覚的に見せていくだけでも落とし所を作る手がかりになるのではと思います。私は日本鳥類保護連盟側の人間なので、渡邉さんと半場さんのおっしゃることもわかる。でも少なくともこれが国交省のアセスメントに基づいた調査ということであれば、我々はもっとちゃんと調査にお金をかけてやりなさいと言えますが、実際には調査義務がないトレイルランの方のほうが歩み寄って来ている段階で、完全に喧嘩腰でキレてしまったらもう皆さんを呼ばないで勝手にやりますとなりかねない。何かしら落とし所を作っていかないと、色々な立場の人がいて色々な考えがあるわけで完全に1つになるというのはなかなか難しい。ここで1番リーダーシップを取れるのは環境省だと思う。環境省さんがワーキンググループを作ったり、調査方法をどうするかということを渡邊さんや半場さんや水越さんや地元の方を集めて聞いたほうがいいと思います。その中で実際にこれだけのお金を出せるという現実があるわけで、それに対してこちらから何千万もお金がかかるような調査をやりなさいと言っても無理だと思います。あるお金でどうするのか。手弁当で一部をやらなくてはいけないかもしれない、地元野鳥の会に頼らなくてはならないかもしれない。ここ2〜3年日本鳥類保護連盟と富士トレイルランナーズ倶楽部とで調査方法を決めてきましたけど、地元の人も含めてどうしていくか話すほうがいい。そうしないとこうしましょうと決めて1年後に発表したとしてもまた同じように、そんなことやっても意味がないと言われると思います。私は少なくとも大事なお金をドブに捨てるような調査をやったつもりはありませんが、そういう風に思われてしまう。地元の人が一緒になって調査方法をどうしましょうかと考えていく場を環境省さんに作っていただきたいと思うのですが、そういうことは環境省さんの仕事としてはどうなのかお聞きしたいと思っております。


そうですよね。"実際には調査義務がないトレイルランの方のほうが歩み寄って来ている段階で、完全に喧嘩腰でキレてしまったらもう皆さんを呼ばないで勝手にやりますとなりかねない"…これがすべてでしょう。そもそも両陣営は対等な立場なのだから。

平たくいうと、鳥好きのおじさんがただ暴れているだけの場になってしまっていて、物事の本質に迫ることが出来ていないわけです。


  • 参考文献
  1. 小島烏水(1927)「不盡の高根」『名家の旅』、朝日新聞社、185-249
  2. 小島烏水(1936)「すたれ行く富士の古道」『山』、梓書房、4-13
  3. 静岡県富士山世界遺産センター(2021)『富士山巡礼路調査報告書 大宮・村山口登山道』

2024年11月3日日曜日

富士宮市の博物館構想を通史的性格から考える、文化・芸術の拠り所としての表現

博物館構想を考える上で「富士宮市の通史的性格」からも考えていく必要性があると感じ、また「(仮称)富士宮市立郷土史博物館基本構想検討委員会」の資料については未だ言及していなかったため、これらも併せて「富士宮市の通史的性格と博物館構想」をテーマに解説していきたいと思う。

富士宮市の歴史を俯瞰して見てみると、非常に歴史トピックに恵まれた地域であるということが分かる。例えば「日本三大仇討ち」にも数えられる「曽我兄弟の敵討ち」は富士宮市で起こったことであるし、それに付随して富士宮市を舞台とする「能」「幸若舞」「浄瑠璃」作品も成立した。また富士宮市の地名を冠する史料『富士野往来』は江戸時代の教科書としても用いられた。あらゆる「表現」の中に組み込まれたのである。

(小井土2022;p.480)は『曽我物語』を説明する中で「霊峰富士を背景に、物語が大団円を迎えているということこそが、この物語が持つ何よりのポテンシャルと言えるのではないだろうか」と述べているが、やはり富士山麓という土壌は大きく関係するように思う。

単一の事象で言えば「富士大宮楽市令」は全国で用いられる高校日本史の参考書にも記されており、古文書学では法制史学の分野で特に用いられる。ちなみに高校日本史の参考書には富士宮市の事柄として他に「富士金山」が記される。

また絵画化例も極めて多く、『曽我物語図屏風』を始め「武者絵」も富士宮市を描いたものが多い。特に前者が作成され続けた背景については(小口2020)に詳しい。富士の巻狩を描いた図が地方にも伝搬していた事実等から(中澤2022;p.105-107)は「富士の巻狩のイメージが、地方の武士たちにも共有されていたことをよく伝えている(中略)戦国期に曾我物が百姓にまで広く流布し、富士の巻狩が東国の王の壮挙として語り継がれていたことを如実に示している」と説明する。また(中澤2020;p.121)にもあるように、外国人(フロイス)ですら富士の巻狩は知り得ていたことであったし、ジョアン・ロドリゲスも知っていた(『日本教会史』)。他、「富士参詣曼荼羅図」もある。あらゆる分野において輝いたものがある。

富士宮市という地域は時代を問わず、常に人々に意識されてきた地域なのである。ここまでの規模感を有する地域は、日本でも指折りかと思う。例えば曽我物を演じる時、その担い手は富士野の地を強く意識したことだろう。それは観る側も同様である。人穴探索を題材とした武者絵も多いが、この場合は奇怪な事が起こる地として描かれていたので、人々はそれらを見て恐ろしいイメージを膨らませていたに違いない。実際『驢鞍橋』や『文武二道万石通』にはそれが反映されている。『富士野往来』で学習する子どもたちは、強く富士野の地を想像したことだろう。

従って「富士宮市の事象が歴史の中にもたらした影響」を人々に説くことが極めて重要なのである。ところで「第3回(仮称)富士宮市立郷土史博物館基本構想検討委員会」にて以下のような意見があった。



この指摘は極めて重要であると思う。そしてその答えは上で記したように

"富士宮市の事象が歴史の中にもたらした影響"を人々に説く

としておきたい。私は展示の方法は「①外(影響を長く及ぼしたもの)と②内(内政)」の2つがあると考えており、そのうちの①が上である。

しかしこの恵まれた環境下において、それらが富士宮市民の中で殆ど浸透していないとすれば、それは穏やかではない。その場合その要因の一端、いや多くは行政側にあるのではないだろうか。行政側は世の中の様々な事象に対する感度も低いと思われる。

例えば文化庁選定「歴史の道百選」の「みのぶ道(93番)」に富士宮市が含まれていないのはおかしいと気付かなければならない。何故なら、身延道は富士宮市を通っているのだから。駿州往還は富士宮市内房を通過しており、これは紛れもなく「みのぶ道」である。また富士吉田口登山道(37番)は選定されているのに富士宮市の登山道が含まれていない理由も考えなければならない。要は、ロビー活動が全くないからである(これまで)。普通に考えて、そんなところが人を呼び込める博物館など作れないだろう。博物館や企画を認知させる手法は、結局のところロビー活動に類するものなのだから。

富士宮市の歴史のフラッグシップ的存在として「富士氏」が挙げられる。(前田1992;p.83)に「従来、史料の量に比べて研究成果が乏しかった武田氏と大宮との関係を自分なりに探ってみた」とあるように、富士氏の動向を示す史料は新出史料を含めそれなりにある。前田氏のそれは、研究を大きく進展させたと言えるだろう。

史料の残存量もそうであるが、富士氏の歴史上での存在感を考慮すると、あまりにも知名度が不足しているのではないだろうか。富士氏は室町幕府の在国御家人で、富士城の城主であったのだから。正直「富士宮市はこれまで何をしていたのだろうか?」と言われても仕方がない。

「国立歴史民俗博物館」の2018年の企画展「日本の中世文書―機能と形と国際比較―」にて「沙弥道朝書状」という古文書が展示された。その文書は富士忠時が受給者であるが、不思議なことに解説では富士氏には全く触れられていない。また『浅間大社遺跡 山宮浅間神社遺跡』(2009)という、静岡県埋蔵文化財センターによる報告書がある。報告書内に「浅間大社年表」というものがあるが、「富士大宮司氏」や「富士大宮司内分裂」といった意味がよくわからない用語・文章が連なっている。

しかし富士大宮司というのはその時ただ1人だけであって、しかも富士氏の当主が名乗る神職名であるので、「富士大宮司内分裂」とか「富士大宮司氏」などという概念は存在し得ない。富士大宮司は富士氏の一側面にしか過ぎないのである。『富士大宮神事帳』という史料があるが、この史料1つだけ見ても、「富士兵部少輔」(富士大宮司)「富士常陸守」「富士又七郎」「富士左衛門」の人物が見え、多層的である。

これらを見ると富士氏に関連する論及は、単一レベルでは優れたものがあったとしても、全体としては恵まれたものではなかったことが分かる。県内の組織の報告書であっても、そのような状況であったのだから。そしてその期間は永きに渡るものであった。その背景は一体何だろうか。富士宮市のHPや刊行物を見ると、やはり「富士氏=富士大宮司」という捉え方をしてきた節がある。"〇〇は富士大宮司に関わるものと考えられる"といった文脈も度々見られるが、では何故他の富士氏の人物ではなく富士大宮司であると考えるのかといったことについては、全く触れられていない。本当に近年まで、富士宮市の歴史研究の成熟度は相当低いところにあったと言う他ない。

逆に近年(ここ10年)は富士宮市からの目を見張る成果・展開があり、従来と対比すると一層際立ってくるように思う。それは内部構造が変化したからに他ならない。今すべきことは、学芸員の方々が研究活動等に集中できる環境を整えることではないだろうか。

また今年は富士宮市の歴史に関する報告が多く世に放たれた年であり、注視していた人であれば確実に感知できたことであろう。これほどまでに重なるのは珍しいことである。『戦国武将列伝 6』(6月)には富士信忠の解説が収められ、『室町幕府と東海の守護』(8月)にも富士氏に関する論考が認められ、特筆すべきは9月発刊の『領主層の共生と競合』(2019年のセミナーを原型とする、『静岡県地域史研究』にも一部所収)であり、この一冊は極めて重要な意味を持つ。説明会に出席した一般の人々の中でこういう動向を感知できた人がどれくらい居るのか、興味深いところである。博物館構想の説明会であるのに全員が感知できない層であったのなら、それはただ単に富士宮市の人材不足と言えるのであり、それは富士宮市にとっての不幸と言えるのではないだろうか

これまでの研究の蓄積不足は否めないところであり、これは博物館構想にとって致命的な枷となるだろう。それを一気に飛び越えるエネルギーは、相当なものとなる。それを現在就いている学芸員の方々に一直線に強いるのは不憫な話と言えるのではないだろうか。したがって、以下の意見を支持したいと考える(第2回会議録・第3回会議録より)。





また博物館建設には一般市民側の意欲も必要である。換言すれば「富士宮市民のアイデンティティが必須」と言える。その形成のための取り組みが、全くなされて来なかった。

「富士宮市の領主は"富士さん"でした」とか「富士宮市はあの「楽市」が行われた場所です」といったことを何故言ってこなかったのだろうか?他の地方自治体はもっとアピールしているではないですか。楽市が「富士宮市の歴史年表」の類に従来まで記載されていなかったのは、その証左であろう。また以前例を挙げたが、TV等で頻繁に「近年村山口登山道が発見された!」と明確に誤った情報が流布されている。その度、私はこう思う。

本来こういう時に富士宮市民から「20世紀には調査も実施され、以前より認識されてきたものであり、TVは間違っている」というような声が聞かれるべきなのではないか

悲しいかな、村山の人々ですら分かっていないようである。また「富士宮市の自然(第五次富士宮市域自然調査研究報告書)」に以下のような箇所がある。


多くは言いませんが、富士宮市の公式資料でこれとは、なんと情けないことか。実は何故か歴史史料で多く確認される「村山口」の文言をどうしても用いたくないという勢力が居る。また学術用語としても「大宮・村山口登山道」があり、その点からも不可解である。

そして村山口登山道のガイドも数多く居るようであるが、根本的なことを理解していない。おそらく多くの人は「古の登山道を登ってみたい、でも地理的な知見がなく難しい」という純粋な思いから登山のガイド依頼をするのであろう。そしてその登山道とは「大宮・村山口登山道」のことなのである。しかしその気持ちを全く汲み取らず、何故か「村山道」を案内するガイドも居るようである。もっと酷い場合は、更に下から誘導しているようである。そもそもガイドは「大宮・村山口登山道」と「村山道」の違いも分かっていないように見受けられる。ちなみに「村山道」に関しては史料上用いられた記録は殆ど無く、成立も近世である。

するとどうであろう。一念発起し、おそらく人生一度切りという思いから登拝したのにも関わらず、後で全く異なる道を歩かされていたことに気づくということになる。これは依頼主への裏切り行為ではないだろうか。また「村山道」を望んでいたのに「大宮・村山口登山道」を案内してしまっていたら、それはそれで危険である。難易度が桁違いであるからだ。つまりこの用語を理解していない人というのは、依頼人を危険に晒す可能性を十二分に持ち合わせているのである。ガイドとして失格であることは言うまでもない。これらの事例を見ても、一般の歴史認識は相当に弱い。

しかし学術的な視点で真っ当に動いている組織は、この点をしっかりと把握して動いてくれていることを私は知っている。そして私は、それを本当に誇らしく思う。1993年には村山口登山道に関するまとまった報告書を出していることも知っている。もっと自分たちから成果を目に見える形で表してもよいのではないだろうか

勿論基本的にはガイドの不勉強が問題ではあるのだが、やはり行政側からも「これが①大宮・村山口登山道、これが②村山道、①と②は違います!」とハッキリとした分かりやすい提示をするべきなのかもしれない。そしてまとまった形の学術的な調査は1993年のものを嚆矢として、その後も重ねて調査が行われ、概ね全容が明らかとなったという文言を付け加えておくべきだろう。そしてこれは静岡県・富士宮市・富士市の共同で行うべきだろう。TVおよびガイドの不勉強の尻拭いでしかないのは分かるが、考えなければならない。歴史学は、こういう啓蒙活動もセットであるべきなのかもしれない。

つまるところ、単純に認知が絶望的に足りないのである。それは市HPのコンテンツからも見て取れる。富士宮市HPの歴史コンテンツを確認してみたところ、以下のページのみであった。あとは企画展の紹介ページのみである。



正直、これらのページはあまり意味を持つものではない。専門性の高いコンテンツは、市HPには不必要なのである。それは学術の場でなされていれば良い。そうではなくて、富士宮市の代表的な歴史トピック・名称を題したページを10程作成するだけで良いのである。本当に簡単な話なのであるが、それが出来ていない。なので検索に一切引っかからないのである。

「富士宮市の領主富士氏について」「井出正次について」「富士郡の要害大宮城について」等と題したページを作って、簡単な解説を加えれば良いだけの話なのである。それが何十年と出来ない。何処でもやっていることなので、本当に不思議である。ところで、以下のような意見があった(第3回会議録)。


これはタブレットに富士宮市HP(歴史のページ)へリンクするタブ等を設ければいいだけの話なのです。従って、そのページをまず作成する必要性がある。それを氏は述べるべきなのである。

基本的に今求められるのは「富士宮市の代表的トピックのページ作成+それを流布する力(ロビー活動)」である。これまでの蓄積不足は甚だしい。仮にしっかりと取り組みがあれば、富士宮市に現在「楽市通り」(道の通称)があったと思うし、富士宮市の「市の木」はシュロであったに違いない。普通に考えれば、これらを制定すべきなのである。

また「富士山女子駅伝」でもその道を用いているのに、何故「楽市通り」と喧伝しないのか。富士市はもっとやっているではないですか。


上の画像は富士山女子駅伝のコース紹介であるが、「富士山しらす街道」と記されている。そして放送でも呼称されている。この種のものこそが「ロビー活動」であろう。

また認知度さえあれば「富士海苔」も保護のための機運が高まって「特定農林水産物等の名称の保護に関する法律」(地理的表示法)に登録される段階にまで漕ぎ着けていたかもしれない。そして何よりも、博物館建設の機運は今よりは高いものとなっていただろう。つまり博物館を建設できない要因の1つは、何を隠そう「(策定している)内側の姿勢」にあったのである。

10年とか20年といった年月をかけてゆっくりと浸透させていくべきアプローチが殆ど確認されない。体感的には少なく見積もっても20年、厳しい言い方をすれば30年くらい遅れている感じがする。もちろん市民側の閾値の問題もあるだろうが、何でもかんでも市民のせいにしてはいけない。

ただ富士宮市民のせいである部分も過分にある。「富士宮市郷土史博物館構想に賛成・反対か、本当の問題点を考える」等でつらつらと富士宮市民の気質等について言及しているのであるが、要はこの中の登場人物は世間知らずなのである。説明会というのは、実質"行動力のある世間知らず"が場を乱しているだけの場になっているのである。そこにファクトは無い。

そもそも大人たちこそ子供を見習うべきではないだろうか。子供たちの方がよっぽど生産性がある活動をしている。例えば「全国高校生歴史フォーラム」では富岳館高校の学生が「富士氏による富士宮地域の支配とその性質の変化~富士山本宮浅間大社大宮司・富士氏の盛衰に着目して~」という研究を発表している。

これを成立させるためには「①調査→②理解→③形にする→④発表」という過程が必要である。多くの大人は出来ないことである。まず①の段階で殆どの大人が出来ないであろう。



また「静岡学園高等学校歴史研究部」も富士氏に多く言及した論考を出している。


富士宮市民なのに永きにわたり領主であり続けた富士氏すら知らないのは、この際良いとする。しかし大人として、この種の活動に支障がない体制をなるべく整えてあげようという気概くらいもったらどうだろうか?

むしろこの種の活動を促進させたいとは思わないのだろうか?説明会に行って「廃校!廃校!」と理由のわからないことを述べるエネルギーを、もっと違う形で活用した方がよっぽど生産性があるだろう。

そもそもこれまで文化課等で費やした費用なんぞとっくにペイできているのである。「富士宮市郷土史博物館構想に賛成・反対か、本当の問題点を考える」で記したように世界文化遺産「富士山」の構成資産は研究の有無によって左右されている。研究によって普遍的価値が認められ、それによって選定された構成資産に観光客が訪れているのである。普遍的価値はイメージで決定されるのではない。

そして構成資産であるという付加価値が、観光客を更に呼び込んでいるのである。その経済効果は計り知れない。むしろ博物館がありもう少し研究が深化していたら、もう1つくらい市内に構成資産はあったかもしれない。私がみる所、富士宮市内はあと1つは望めたところだろう。

そもそも「お金」という視点でこの種の話をすることがナンセンスなように思えるのであるが、説明会の質問では「お金」というワードが頻出しているのも事実である。その上で貴方がたが好きな土俵で論じたとしても、正直全くお話にならないというのが実情であろう。

ここで少し角度を変えてみよう。大発見とされる「銅造 虚空蔵菩薩像 懸仏(1482年)」は富士山頂の三島ヶ岳で発見され、現在富士山本宮浅間大社に奉納されているが、発見の経緯が面白い。遠藤秀男『富士宮歴史散歩』には以下のようにある。

横浜の人が突然私のところを尋ねて来て「山頂でこんな物を拾ったが見て欲しい」という。見ると円盤型の青さびた掛仏である。(中略)そして左右に文字が刻まれていて、「文明十四年六月」「総州菅生庄木佐良津郷」とあり、(中略)千葉の人によって富士山頂に奉納されたものであることが判明した。(中略)発見のきっかけは、次のようだという。拙著『富士山の謎』で富士山中から古銭が多く発見されている話を読み、登山の折りに注意して歩き、(中略)砂中に埋まっているのが見つかったという。そこで私の所へ持ち込んだという次第であるが…

つまり「書物」の存在が無ければ見つかっていなかった可能性もある。このように世の中のものに感化され、実際に行動を起こし、何らかの成果物が生まれるという過程がある。博物館の企画展なども大きく人々に影響を与えるだろう。もっと大きく言えば、有史以来の偉大な発明も、全くの土台無しで成されたものは無い。こういう個々の情熱の積み重ねが世の中を動かしてきた。こういうものが最終的には次の活動に繋がっているのは間違いない。博物館はここで言うところの「土台」だろう。

しかし個々の経歴など事細かく追跡できようもないから、定量化はできない。例えば10億の経済効果があったとして、「〇〇さんの活動が〇〇円寄与した」などと言うことは物理的に不可能なのである。つまり説明会の質問者というのは、定量化ができないことを良いことに、好き放題言っているだけでしか無いのである


上は富士宮駅伝競走大会のチラシである。こういう大会は、何の資金もなく開催できるわけではない。スポンサーが居るからなし得るのである。

それと同じように、構成資産があるから観光という「産業」が成り立っている部分もある。それを成立させたのは「研究量」であり、その立役者は研究者である。既にあるものに付加価値を付けたということもできる。でも研究者らは"私達が付加価値を付けました"なんて言わない。なぜならあくまでも"研究者"だからである。しかし外野は少しくらい感知できなければならないし、それすら感知できないのであれば問題である。

私は博物館構想を考えていく中で、多角的に思考を巡らせてみた。例えば富士市立博物館建設時の過程も調べてみたし、上にあるように富士宮市民の気質にまで考えを及ばせてみた。やりすぎなくらい多角的に考えたように思う。

これまで様々な思考を巡らせ、そして途方もなく多くの史料・資料にあったように思う。そして導き出した博物館の姿が、以下である。

項目
名称「富士博物館」が基本と考えるが、少なくとも「郷土史博物館」でなければ良いという印象もある。名称の競合を防ぐため「Mt.FUJI ミュージアム」も良いと考える。
外観・内装『築山庭造伝』に図示される富士大宮司邸(茶庭・大書院)を模したものが望ましい。空間からデザインする必要性がある。建物自体が展示物であってほしい。博物館の「緑」を担う場所にもなる。
展示内容【外】(影響を及ぼしたもの)
富士宮市を舞台とする芸能を紹介する(「曽我物(能・幸若舞等)」)
富士宮市を舞台に含める物語・教科書を紹介する(『曽我物語』『富士野往来』『富士の人穴草子』等)
富士宮市を舞台とした絵画化例を紹介する(「曽我物語図屏風」「武者絵」「富士山登山絵図、特にかぐや姫との関連について("外"ではなく"内"であるがここに含めた)」)
関東の富士家(江戸幕府旗本)や井出家(江戸幕府旗本)を紹介する
【内】(内政)
富士宮市の領主「富士氏」を通史で紹介する
富士宮市の在地勢力「井出氏」を紹介する
大宮城について解説する
富士野を巡る事象について解説する
富士海苔について解説する
富士川との関わりについて説明する(「富士山木引」等)

上を成立させるには、まだまだ研究が足りない。例えば人穴は恐ろしい地であると広く認識され、それは『驢鞍橋』や『文武ニ道万石通』等からも垣間見える。そして仁田忠常の人穴探索を題材とした武者絵も多い。これらの系譜を追った論考も未だにない。勿論発端は『吾妻鏡』であるが、経時的に整理していく必要性がある。人穴は相当に知名度が高かったと考えられる。

そもそも「曽我物」を富士宮市の視点から論じたものがほぼ皆無であるように思う。何故だろうか。例えば能〈伏木曽我〉は完全な富士宮市が舞台の能作品である。そしてこの作品を復曲する活動があり、先日無事に上演された。こういう活動を富士宮市民が全く感知していないというのは、なんとなく寂しいものがある。こういうものを感知できる人間が、博物館についてどう考えるのかということに私は関心がある。



〈伏木曽我〉は(竹本2021;p.36)が「作風が他の曽我物と全く異なり、表現も洗練されている」と評しているように、完成度が高い。典型的な修羅能であるのにも関わらず、そこには「怨」がない。

『曽我物語』を一から解説するのは難しいが、〈伏木曽我〉に対応する『曽我物語』の箇所を引き合いに出して互いに解説することは十分に可能であり、そして分かりやすい。曽我の伝承は事細かに説明するのは難しいが、富士宮市を主体として表現する場合は『曽我物語』(特に真名本)〈伏木曽我〉『富士野往来』の三点を引用し、対応する箇所を比較して時系列で説明するのが一番良いように思える。博物館は表現方法に一番拘るべきである。

そもそも博物館法によると、博物館は以下のように定義されている。

この法律において「博物館」とは、歴史、芸術、民俗、産業、自然科学等に関する資料を収集し、保管(育成を含む。以下同じ。)し、展示して教育的配慮の下に一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーション等に資するために必要な事業を行い、あわせてこれらの資料に関する調査研究をすることを目的とする機関(社会教育法による公民館及び図書館法(昭和二十五年法律第百十八号)による図書館を除く。)のうち、地方公共団体、一般社団法人若しくは一般財団法人、宗教法人又は政令で定めるその他の法人(独立行政法人(独立行政法人通則法(平成十一年法律第百三号)第二条第一項に規定する独立行政法人をいう。第二十九条において同じ。)を除く。)が設置するもので次章の規定による登録を受けたものをいう。

私はここにある文言で言えば「芸術」にも関心を寄せる必要性があると思うし、その故に絵画化例を引き合いに出している。また富士海苔や富士山木引は「自然科学」の方面からも迫ることができよう。材料は常にそこにあるのである。

富士宮市の地域内の事象だけに囚われるのではなく、富士宮市を舞台とした芸能・作品にまで考えが及んだ博物館であれば、より人を巻き込むことができるのではないだろうかと考える。まずはロビー活動の徹底的な強化が求められる。

  • 参考文献
  1. 前田利久(1992)「戦国大名武田氏の富士大宮支配」『地方史静岡』第20号、地方史静岡刊行会
  2. 小口康仁(2020)「「曾我物語図屏風」の展開―富士巻狩・夜討図から富士巻狩図へ―」『國華 第1496号 第125編 第11冊』
  3. 竹本幹夫(2021)「『曽我物語』と曽我物の能」『能と狂言 19』、能楽学会
  4. 小井土守敏(2022)『曽我物語 流布本』、武蔵野書院
  5. 中澤克昭(2022)『狩猟と権力―日本中世における野生の価値―』、名古屋大学出版会

2024年2月24日土曜日

関東の富士氏のルーツ、徳川家康朱印状の継承と旗本としての過程を見る

駿河国富士大宮(現在の静岡県富士宮市)を本拠とする富士氏は、戦国時代以降に系統が大きく2つに分かれているので、まずこれらを区別して捉えなければならない。つまりは


  1. 富士大宮を本拠とした「本流」の富士氏
  2. 関東に拠点を持った「庶流」の富士氏

という区別である。本稿はこのうち「2」について考えていくものである。しかしこの「2」についてであるが、『寛政重修諸家譜』(以下、『寛政譜』)は富士家を二家に分けて記している。それは『寛政譜』の富士信久について"別に家を興し"とあることから分かるように、信久が分家を創設したためである。

そのため、本稿でも区別して説明していきたいと思う。そしてそれぞれ便宜上「関東本流」と「信久系」という呼称を用いることとする。

氏族系譜
富士(関東本流)信忠 — 信重 — 信成 — 信宗 — 信良 — 信久 — 信清 — 信成(信清子) — 
富士(信久系)信久(信重子) — 信尚 — 信貞 — 信 — 時則(断絶)

二家の当主がそれぞれ継承された家禄を得て活動していたことが端的に分かる史料がある。例えば(小川2006;pp.63-64)でも貴重な史料であると言及されている『御家人分限帳』である。この分限帳には富士家の人物が2名確認できる。

人物采地家禄役職
富士市十郎(富士信良)相模国・下総国・武蔵国300石(内、100表(俵)御蔵米)小十人組
富士市左衛門(富士時則)下総国250石(内、50表(俵)御蔵米)新番

この場合信良が関東本流で、時則は信久系である。(鈴木1984;p.62)ではこの富士市左衛門を「富士信貞」としているが、これは誤りで、富士時則であると考えられる。従って表および以下の記述では「時則」として扱った。分家創設後も両家の関係は続いており、例えば関東本流の「信宗」は信久の三男である。

しかし同時代にそれぞれ継承された家禄を有している事実と『寛政譜』の扱いから、やはり両家は分けて考えられるべきだろう。


【関東本流】

まず『寛政譜』の説明に、「富士」という姓氏の由来として「兵部信忠駿河国富士郡を領せしより稱號とすといふ」とある。「富士」という姓の始まりは「富士信忠」からであるとするものであるが、無論史実ではない

古文書に多く残るように「富士」の名乗りは圧倒的に遡れるのであって、冒頭いきなり惑わされる説明となっている。また信忠について「永禄年中死す」とあるが、古文書より元亀・天正も生存していたことが知られるので、これも誤りである。従って『寛政譜』に「年五十七」(享年)とあるのも、真とは受け入れられない。

『寛政譜』の信憑性に関わる部分でありその意図も考えなければならないところではあるが、本稿では取り上げない。その信忠の子として「信通」と「信重」を記し、信重以後の家譜を記しているのが『寛政譜』である。

『寛政譜』からも分かることであるが、信重以後の関東本流の富士氏は暫く苦難の時期を迎えたと言ってよいだろう。というのも、信重の子らに不祥事が重なり、家運を著しく毀損しているのである。以下ではまず、富士信重について解説したい。

<富士信重>

『寛政譜』には冒頭「天正十二年小牧御陣のとき大久保相模守忠隣本多佐渡守正信を奏者として東照宮に拝謁し、御供に列し、駿河国下方吉原の内にをいて采地を賜り大番をつとむ」とある。




徳川家康に拝することは、本来は簡単に出来ることではないだろう。これも、信重の父が大宮城主であったという所以もあると思われる。また番入りしていることが知られる(後に天守番となる)。

その後は「あらためて相模国鎌倉郡のうちにをいて采地百石を賜り」とある。「あらためて」とあることから、ここで一旦吉原の采地は解消され、正式な采地として鎌倉郡が充てがわれたのだろう。実はその朱印状が残っている(写)。



この古文書は国立公文書館内閣文庫に伝来するもので、旧幕府引継書の1つである。江戸幕府の要請に応じ、富士家に伝来していた文書を信重から五代後の富士信清が書上げたことによって残ったものである。つまり富士家の中で代々伝承されたものである。タイトルにある「徳川家康朱印状の継承」とは、このことである。

『記録御用所本 古文書』の解説には以下のようにある(神崎・下山2000;p,137)。

富士氏は駿河国の出身で、富士大宮神社の大宮司職を務めた。富士信通が今川義元・今川氏真に仕える。嫡男信重は天正12年(1584)に徳川家康に仕えて大番に列した。100石。関ヶ原の戦いののち200石。御天守番を務め正保3年(1646)1月に没、86歳。嫡男信友が跡を継ぐ。


ただ、この解説は妙である。確かに「嫡男」というのは必ずしも第一子ではなく、正式な後継となればその人物が嫡男となる。また一旦養子となることで嫡子認定され、家督継承がなされたりすることも多々ある。そうすればその人物は「嫡男」となるのである。

しかしこの場合、明らかに嫡男は第一子かつ富士大宮司を継承した信通であるのだから、"嫡男信重"ではないはずである。『寛政譜』にのみ拠った解釈をしてしまうと、そもそもの富士氏の歴史解釈がかなり逸脱したものとなってしまう恐れがある。

とりあえず、「富士」の名乗りは信忠からではなく、また嫡子は富士信通であるということは大前提として把握しておきたい。多くの刊行物においてこの説明で通ってしまっているのは、問題であると考える。


<信重の後裔たち>

信重の経歴から考えると、順当に活躍すれば家禄の増加も考えられたであろう。しかし孫子たちは暫くその道を辿ることはできなかった。それが何故なのかを、考えていきたい。

まず『寛政譜』から富士信友の内容を見ていこう。信友は信重の子である。

元和元年(中略)上総介忠輝朝臣の前を乗うちせしかば、其無禮を咎められ、彼家臣等に討る(抜粋)

つまり、松平忠輝(のち改易)の前を乗馬にて通過した咎で富士信友が処刑させられたということである。元和元年(1615)のことである。江戸時代の社会通念は現代からすれば異常であるが、この一件でやはり富士家は家運を毀損したと言えるだろう。

信友は十代にして400石を采地としており、これは信重の威光から由来するに他ならない。400石からのスタートはかなり恵まれている方であろう。このことから、本来家督相続が予定されていたのは信友であったと思われる。

予定されていなかった家督相続であることを伺わせるのが『寛永諸家系図伝』(以下『図伝』)である。富士信成の家督相続年は正保3年(1646)である。これは『図伝』の成立年以後のことであり、そのため『図伝』では信成の家督相続を反映していない。

不思議であるのは、『図伝』が信久の流れで記していることである。これはまだ信久が分家を創設していなかったことを示すことになるのではないだろうか。信友の死にあたり、信重の第二子である信久の流れを『図伝』はとりあえず記すことになったと思われる。

仮にこのとき分家が創設されていたとすると、分家が創設されているのに本家の家督継承が未定ということになってしまう。そんなことはないだろう。『図伝』成立時は信久はまだ分家を創設しておらず、信久による関東本家の継承が視野に入れられていた時期が存在するか、信成の家督継承の方針は定まっていたがそれが遅れたという可能性の2つが考えられる。

次は『徳川実紀』から富士信吉(信重の子)の子息に関する問題の箇所を抜粋してみる。

御実記日時内容
厳有院殿御実紀(徳川家綱)寛文5年(1665)8月9日小十人富士又左衛門某(註:富士信光)切腹せしめられ
常憲院殿御実紀(徳川綱吉)天和2年(1682)3月21日けふ大番跡部九郎右衛門某。小普請富士勘右衛門某(註:富士信政)争論し、相互に討果すといふ

富士信政は内容からして果し合いであるが、当時の社会通念から考えると異例のことでは無かったのかもしれない。しかし家運を考えれば望まれないことである。

問題は富士信光の方である。この切腹に至る過程を『寛政譜』から見ると、他の武士と野遊していたところ争論となり、結果討ち果たし、そして逐電したとある。つまり信重の孫子のうち「信友」「信光」「信政」の三人が望まれない事態を引き起こしており、家運を著しく毀損しているのである。

時系列を以下の表でまとめてみる。

出来事
元和元年(1615)富士信友死す(咎)
正保3年(1646)信重死去に伴い、信成家督相続
寛文5年(1665)8月9日富士信光死す(咎)
天和元年(1681)正月21日富士信吉死す
天和2年(1682)3月21日富士信政死す(果し合い)

信友の死から家督相続が決定しておらず、また信久の分家創設の時期も定かではない。この辺りの解釈は、広く考えを見てみたいと思う次第である。


<富士信良>

富士家に漂った負の流れを断ち切ったのが、この信良である。信良の功績は何と言っても

家格が御目見以上となった

ここにあると言って相違ない。御目見以上ということは「旗本」へ昇格したということである。富士家が御目見以上になったということは、『寛政譜』から分かる。しかも「一代御目見」(一代旗本)ではない。

しかし信良も連なるこの関東本流の富士家はそもそも旗本扱いであった可能性が高い。何故なら信重も信吉も信光も将軍へ拝謁しており、役職も旗本に該当するためである。例えば(小川2006;p.39)では信重の役職であった「天守番」について"『寛永系図』に御目見以上の扱いもあり、寛政字にも天守番士・宝蔵番士は「半御目見」と遇されている"とし、また信重は「大番」にも列している。信吉も同じく番入りしており、これは旗本身分故であると思われる。

つまり上の不祥事により一旦旗本としての扱いが解消され、信良の代になって再び旗本となったという可能性がある。この部分も、広く考えを聞いてみたいと思う次第である。

また『新編武蔵風土記稿』に「寛文六・七年の頃遠山忠兵衛が知行にたまへり、富士市十郎に賜ひしもその頃なりや伝えず」とあり、この富士市十郎は富士信良のことを指していると思われるが、これは信良の生まれがその頃ということが「=知行」と誤って伝えられたものだろうか。よく分からない。

(鈴木1984;p.204)から信良は、300石(相模国・下総国・武蔵国、内100御蔵米)を知行地としていたことが分かる。知行地は一国内である場合の方が多いので、三国であることは特徴であると思われる。

しかし注記として「内、百表御蔵米」とある。この「百表」は「=百俵」であると思われるが、同史料では意図的に分けて表記しているように見受けられ、この差異の意味はよく分からない。また「内」とあるため、百俵を石単位に換算し、そこに含めているものと思われる。

しかしここまでの持ち直しは信良の器量を感じさせるものである。信良の祖父は分家を創立した信久であり、信久も富士家のお家安泰に貢献したと言える。

<富士信清>

信良の代で旗本となり(または復帰)、それが順当に信清の代でも継続され、信清は徳川家斉に拝謁している。幕末期は市十郎の諱が史料上多く確認されるため、信清の後の家督は子の信成(富士市十郎)が継いでいると考えられる。

信清は少なくとも文政6年(1823)には家督を子の信成に譲っていたと考えられる。そして隠居して「峯雪亭 隠翁」を名乗っていたとも考えられる。というのも、信清の歌および印・署名が残っており、手がかりになっているためである。

時は文政5年(1822)のこと、池田定常の娘「松平露」(露姫)が天然痘により亡くなった。生前露姫は死は避けられないものと悟り、父母や周りの者に対する遺書を認めていた。露姫の死後、それを発見した定常は悲しみ、その遺書を広く世間に公表した。幼女の幼気な遺書を見て心を打たれた多くの諸氏から追悼句や画等が集まった。信清も、それを送った1人である。

信清の作品には「印」が多用されておりそれらも検証の必要性を感じるが、名がいくつか記されており、それが「雅号」ないし「法号」なのか、はたまたそれらを両方記したものであるのかはよく分からない。この部分も、広く考えを聞いてみたいと思う次第である。

ただ横に見える短歌を(玉露童女追悼集刊行会1991;p.120)は「大津源兵衛」としているが、これは信清の子である「信乾」のものであろう(『寛政譜』)。同書は白黒ではあるものの、写真を見る限りでは信清の紙と明らかに同質のものを用いていると見受けられる。その上で「信清」「信乾」とあれば、疑う余地はないだろう。

一応『寛政譜』と『図伝』の大津家を確認してみたが「信乾」を名乗る人物は確認できなかった。

【信久系】

富士信久を祖とする富士家を便宜上「信久系」と呼称することとする。『寛政譜』より古い家譜集である『図伝』にも富士氏の系図が認められるが、『図伝』の系図は実は信久の流れを示したものである

『寛政譜』と同様富士信忠から始まるが、『図伝』では信忠の子は信重のみが記される。また『図伝』は信重の子として「信久」「信吉」「信成」のみを記し、第一子である信友の名が見られない。『断家譜』は4人全員を載せる(信友・信久・信成・信吉)。

『図伝』は寛永20年(1643)に成立したものであるから、時代的にはまだ信成が家督相続はしていない。信吉の子息らの名がないのは『図伝』の簡素的性格によるものであろうが、信重の子である信友の名が無いのは明らかに作為的なものがある。咎で没した人物を系図に含めていないということである。

<富士信久(初代)>

信久は最終的に采地四百石を手にしている。そしてその6年後には死去し、信久系は信尚が継いでいる。信重の跡を信成が継ぐことは、一応事前に決定していたようである。

出来事
慶長8年(1603)信重采地200石とす
元和元年(1615)采地400石の信友、咎により死す
寛永10年(1633)信久采地400石とす
寛永16年(1639)信久死去、信尚が継ぐ
正保3年(1646)信重死去。それに伴い富士信成家督相続

これを見ても信久の分家創設年はよくわからないが、信重の考えもあったであろうか。富士信尚(二代)・富士信貞(三代)・富士信定(四代)の三者は、すべて富士信久の子である。

<富士信尚(二代)>

信尚は初め「信直」であったが、改称している。『寛政譜』には「寛永19年はじめて大猷院殿に拝謁し」とある。

『江戸幕府日記』寛永13年12月6日に「初て御目見右何も惣領子也」の人物として「藤右衛門」の名が見えるが、これが=「富士右衛門」=「信尚」であるとすると、『寛政譜』とは一致しない(藤井2003;p.459)。同一人物であるかどうかは不明である。

<富士信定(四代)>

(四谷區史1934;p.250-252)から引用する。

大番町武家地

御府内場末沿革図書に據れば(中略)南部表大番町通東側に北から瀬名十右衛門屋鋪、富士弥右衛門屋鋪、以上二屋鋪の東隣に小林七郎兵衛屋鋪、富士氏小林氏両屋鋪の南に秩父彦兵衛屋鋪が在り

『御府内場末往還其外沿革図書』に見えるこの富士弥右衛門とは、富士信定のことである。


<富士時則(五代)>

時則は富士信定の養嗣子となり、信久系を継いだ人物である。『寛政譜』には父について「某氏が男」とあり、実父が誰かすら不明である。実は関東本家と信久系の家督相続者のうち、富士家の血脈を受け継いでいない人物はこの「時則」ただ一人である

つまり『寛政譜』で確認できる家督相続者11人のうち(信重以降、関東本流および信久系合わせて)、時則のみが他家から来たことになる。そして『寛政譜』に「市左衛門時則がとき、罪ありて家たゆ」とあるように、時則の代で絶家となっている。これで関東の富士家は、本稿でいうところの関東本流のみとなったのである。

『断家譜』に「享保二年丁酉十月二十二日大坂金奉行」とあるように、富士時則は大阪城の金奉行であった。しかし続いて「同年戊戌正月十五日御暇、同十六年辛亥十二月二十七日追放」とあるように、暇の後に追放されている。

これは(橋本2004;p.135)にあるように、大阪城内の官金である「金」が紛失した責任から、金奉行であった富士時則らが処罰されたことによる。『徳川実紀』には「かの奉行富士市左衛門某。蜂屋多宮某追放たる」とある。

再び『御府内場末往還其外沿革図書』を考えていきたい。(国立科学博物館2021;p.45)の報告から富士時則屋敷の変遷が分かる。同報告には以下のようにある。

1710年(宝永7年)松平讃岐守が小石川の屋敷地を相対替により獲得したいとの願いを出し、下屋敷続きの東の抱屋敷の南端の一部と西側の抱屋敷の南西部の一部(元上大崎村分)を下屋敷のうちとを振替えた。 下屋敷の内、振替えて抱屋敷になった場所は不詳である。さらに同年、下屋敷のうち東側の一画を富士市左衛門へ切坪相対替でわたした。

つまり小石川に富士時則の屋敷があったが、相対替で松平讃岐守の下屋敷東側の一画へと移ったのだろう。そして次が注目である(国立科学博物館2021;p.47)。

1740年(元文5年) 東の富士市左衛門屋敷が上地となり、西丸御書院与力同心大縄地となる。

上地、つまり幕府により接収されたことを意味するのであって、これは富士時則の処分による結果と考えられるものである。享保16年(1731)に富士時則は追放処分となっているので、それから数年後に時則屋敷分は上地となっていることになる。

また『寛政譜』には時則の子に男子が記されてはいないが、『断家譜』には「弥四郎」が記される。やはり『断家譜』は『寛政譜』を補う史料として有効であろう。

  • まとめ

富士大宮の地から離れた信重の系譜が確かに続き、関東の地で脈々と受け継がれていたのは感慨深いものがある。そしてしっかり系図を見てみると信忠以来の血脈が確実に受け継がれていることが分かるのである。これは富士大宮の本家でも、なし得ていないことである。

「信重  信成  信宗(信成養子)  信良  信久  信清  信成」と家督相続がなされていることが分かるが、信宗は養子とは言っても信重の子である富士信久の三男であるのだから、これは紛れもなく血脈が維持されていることになる。それ以後男子を養子に取っている例は見られない。

つまり分家を興した信久自身の家は金紛失事件の末に絶家という憂き目に遭うこととなったのだが、何を隠そうその信久の血が関東の本家で受け継がれていたのである。

私は縁あってか神奈川県の墓地に伺う機会があるが、実は富士姓は多い。そのルーツは富士信重その人にあるのである。そしてその末裔らが現在の東京都・神奈川県に采地を得ていたためである。その転機は「徳川家康朱印状」であり、すべてはそこから始まったのである。

  • 参考文献
  1. 四谷區役所(1934)『四谷區史』,臨川書店
  2. 『新編武蔵風土記稿』第3巻(1963),雄山閣
  3. 続群書類従完成会(1968)『断家譜2』,八木書店
  4. 鈴木寿(1984)『御家人分限帳』,近藤出版社
  5. 玉露童女追悼集刊行会編(1991)『玉露童女追悼集 2』,吉川弘文館
  6. 神崎彰利 ・下山治久編(2000)『記録御用所本 上巻』 ,東京堂出版
  7. 藤井譲治(2003)『江戸幕府日記 姫路酒井家本第5巻』,ゆまに書房
  8. 橋本久(2004)「大阪城代の履歴 中」,『大阪経済法科大学 法学論集』60
  9. 小川恭一(2006)『徳川幕府の昇進制度-寛政十年末 旗本昇進表-』,岩田書院
  10. 国立科学博物館(2021)「国立科学博物館附属自然教育園飛び地にかかる 調査報告書【資料編】」