富士山麓の地域が分からない方へ

2022年2月23日水曜日

曽我兄弟の仇討ち舞台の地である富士宮市の富士野について

「富士野」は「曽我兄弟の仇討ち」を語る上での最重要ワードの1つである。何故なら何を隠そう、この事件は富士野における出来事だからである。論考類を読むと、「富士野」を「富士の裾野」と表現し直している例も多い。ややもすれば"何処で仇討ち事件は発生したのか"という点が非常に曖昧になってしまうのであるが、紛れもなく富士野である。

曽我兄弟の仇討ちを記す史料は主に『吾妻鏡』と『曽我物語』に限られる。しかしこの双方に共通して出現する地名はごくごく限られており、その1つが「富士野」なのである。以下では「富士野」という文言が出現する箇所に焦点を置いて取り上げていきたい。


  • 吾妻鏡

曽我兄弟の仇討と富士宮市・富士市、鎌倉殿の意図考」でも一部取り上げたが、源平合戦の際に「富士野」が登場する。


十三日壬辰(中略)また甲斐国の源氏、ならびに北条殿父子、駿河国に赴く。今日暮れて、大石駅に止宿すと云々。戌の刻、駿河の目代、長田入道が計をもつて、富士野を廻りて襲ひ来るの由、その告あり。よつて途中に相逢ひて、合戦を遂ぐべきの旨群議す。

武田太郎信義・次郎忠頼・三郎兼頼・兵衛尉有義・安田三郎義定・逸見冠者光長・河内五郎義長・伊澤五郎信光等は、富士の北麓若彦路を越ゆ。ここに加藤太光員・同藤次景廉は、石橋合戦以後、甲斐国の方に逃れ去る。しかるに今この人々に相具して、駿州に到ると云々(治承4年(1180)10月13日条)

また以下に続く。

十四日癸巳午の尅、武田・安田の人々、神野ならびに春田の路を経て、鉢田の辺に到る。駿河の目代、多勢を率して甲州に赴くのところ、意ならずこの所に相逢ふ。

境は山峯に連なり、道は磐石を峙つるの間、前に進むことを得ず、後に退く事を得ず。しかれども信光主は景廉等を相具し、先登に進みて、兵法力を励まして攻め戦ふ。遠茂、暫時防禦の構へを廻らすといへども、つひに長田入道が子息二人を梟首し、遠茂を囚人となす。従軍寿を舍て、疵を被る者その員を知らず。後に列なるの輩は、矢を發つに能はず、ことごとくもつて逃亡す。酉の尅、かの頸を富士野の傍、伊堤の辺に梟すと云々。(治承4年(1180)10月14日条)


やや長くなってしまったが、引用した。この富士野が富士山麓であることはこの文で分かるのであるが、「富士野藍沢の夏狩を覧んがために、駿河国に赴かしめたまふ」(建久4年(1193)5月8日条)とあるように、この富士野が富士山麓でも駿河国側であることが分かる。

さて、この駿河国富士野がどの辺りを指すのかという点はやや難しい話となる。それを一覧化してみる。

『吾妻鏡』解釈
富士野の傍、伊堤の辺に梟すと云々(治承4年(1180)10月14日条)伊堤(いで)→静岡県富士宮市上井出
富士野藍沢の夏狩を覧んがために駿河国に赴かしめたまふ(建久4年(1193)5月8日条)富士山麓の「藍沢」ではない箇所
富士野の神野の御旅館に推参致し工藤左衛門尉祐経を殺戮す(建久4年(1193)5月28日条)神野(曽我兄弟の仇討ちの場所として記される

つまり「井出」・「神野」は「富士野」に該当するのである。『信長公記』を見ると「本栖→神野・井出→人穴→(浮島ヶ原)→大宮」と記述されていること、『甲信紀行の歌』では本栖(甲斐国)を過ぎた地点として「神野」が記されることから、おそらく神野は上井出より更に上の地点(甲斐国方面)を指すものと思われる。したがってこの神野と井出は必然的に「現在の富士宮市上井出周辺」に比定される

曽我兄弟の仇討ちは富士野で発生したが、『吾妻鏡』は富士野の「神野」とし、『曽我物語』は富士野の「伊出の屋形」とし「=井出」であるとしている。どちらにせよ、現在の富士宮市上井出周辺である。なので論文や各媒体で仇討ちの地が「富士宮市上井出」と記されているのである。


展示資料リスト・ゆかりの地マップ(山梨県立博物館)


富士市HP


  • 鉢田の合戦の過程考

先の『吾妻鏡』に記される経緯を考えていきたい。

「甲斐国の源氏、ならびに北条殿父子、駿河国に赴く。今日暮れて、大石駅に止宿す」とあるように、甲斐源氏と北条時政・義時は10月13日に「大石駅」に到着した。

そして「駿河の目代、長田入道が計をもつて、富士野を廻りて襲ひ来るの由、その告あり」とあることから、同日には駿河目代の長田入道が富士野(駿河国)を廻って攻めてくるとの知らせが届いている。それを聞いた甲斐源氏は「富士の北麓若彦路を越ゆ」とあるように富士北麓(甲斐国)の若彦路を越えた。

14日になると甲斐源氏は「神野ならびに春田の路」を経て「鉢田」に到着する。そしてこの鉢田の地で長田入道の軍と交戦となる。そして平家方は敗北し、橘遠茂は捉えられ、長田入道親子は梟首された。梟首された地は「伊堤(いで)」であった。…という具合である。

この部分の解釈は諸家により多く考察がなされてきたが、詰まるところ「鉢田は何処なのか」という点が議論されてきた。解釈を複雑にしているのは①「大石」という地名が富士北麓(山梨県南都留郡富士河口湖町)にも南麓(静岡県富士宮市、大石ヶ原=上条)にも存在し決め手を欠くことと、②「若彦路とは何か」ということの他に③「神野ならびに春田の路」とは何か?という3点がある。

①については「富士野」がそもそも駿河国であるので、「廻りて襲ひ来る」という表現を見るに、このとき甲斐源氏は甲斐国に居たとしか考えられない。もし仮にこのとき甲斐源氏が既に駿河国に居たとした場合、既に自身らが富士野周辺(しかも大石ヶ原は上井出より下である)に居るのに「敵が富士野を廻って襲ってくる」と言っていることになってしまうので相当な矛盾である。なので甲斐国になるだろうし、(海老沼2011)が言うように"甲斐源氏が甲府盆地から駿河に発向したその日の宿所とするには、富士宮市上条では距離が遠すぎる"という点もある。

②について考えたい。13日条の下線を引いた箇所については「同じことを繰り返している」という解釈が諸家により出されているが、海老名氏はそれを否定している。この点について氏は若彦路の解釈を巡り齟齬があり、落ちどころとして発生した解釈であるというような見解を示している。個人的には若彦路は"甲府から河口湖西岸の「大石」を指す"という認識を支持しており、やはりこれは同じことを分けて書いていると考えたい。その後の「駿州に到ると云々」の部分を見ても、この部分はすべて駿州に行く過程の詳細を記していると考えられる。

③については、氏が指摘するように「神野と春田を結ぶひとつの街道」を指すと考えられる。そして神野は駿河国で、春田は甲斐国であると考えたい。つまり若彦路を越えたその先に「春田」の地があり、その春田を通る道は駿河国の「神野」に繋がっていると思われるのである。

「鉢田」については史料も乏しく断定しようがないのでここでは結論は控えたい。ただ長田入道らが"実際に富士野を廻って来た"場合、富士野は上井出辺りで国境付近に該当するので、そこを廻った(過ぎた)場合のその地点はもう甲斐国ではないかと思うのである。甲斐源氏は「神野と春田を結ぶひとつの街道」を進む中で神野までには至らないエリアで長田入道らの軍勢と交戦になったと考えたい。


  • 神野へ通じる道

歴史の中で次第に街道が整備されてゆき、歴史的に「〇〇道(路)」と呼称されたものがある。これらは、目的地を冠している例が多い。例えば富士宮市にも確認される「身延道」は、身延山久遠寺が目的地なのである。他に市内であれば「村山道」もそうである。村山道は富士宮市村山の、特に「村山浅間神社」を目的にする道である。現在の富士市域から富士宮市を目的地とする道というわけである。

そして山梨県で「神野路」と呼称された道がある。もちろん上述したように「神野」は富士宮市であるので、富士宮市の神野を目的地とする道ということになる。上の「神野ならびに春田の路」は、まさにこの「神野路」であると考えられる

ガイドマップ『富士参詣の道を往く』(鎌倉街道・神野路版(神野路面))

『信長公記』や『甲信紀行の歌』では「かみの」とあるので、一見すると「かみのじ」が正しいように思われるが、「こんのうじ」が誤りというわけではない。『甲斐国志』に中ノ金王路(なかのこんのうじ)とあるので、「こんのう」読みがされていた形跡がある。「かみの」が転じて「こんの(こんのう)」となったと考えられる。

これがさらに転じて山梨県南都留郡では「根野(こんの)」と命名・呼称されていた形跡も認められる(末木健「富士山西麓「駿河往還」の成立」『甲斐』第121号,山梨郷土研究会,2009を参照)。おそらく駿河国側では神野路という呼称は使われておらず、専ら甲斐国で用いられていたと考えられ、また「神野」を「こんの/こんのう」と呼んでいた可能性が高いと思われる。

そもそもこれらが注目されるようになった背景として、富士山の世界文化遺産登録の際に「ユネスコ世界遺産委員会」による勧告が出されたことが挙げられる。勧告には

  • 神社・御師住宅及びそれらと上方の登山道との関係に関して、山麓の巡礼路の経路を描き出す(特 定)し、(それらの経路が)どのように認識、理解されるかを検討する
  • 来訪者施設(ビジターセンター)の整備及び個々の資産における説明の指針として、情報提供を行うために、構成資産のひとつひとつが資産全体の一部として、山の上方及び下方(山麓)における巡礼路全体の一部として、認知・理解され得るかについて知らせるための情報提供戦略を策定すること  

が含まれ、簡単に言えば「巡礼路の特定」が求められたのである。そして「神野路」はその巡礼路の1つとしても捉えられる。それが富士宮市に所在しているのである。つまり富士宮市は、富士宮市の地名を冠するこの「神野路」の、巡礼路としての性質を認知・理解し、そして情報提供戦略を練る義務があるということになる。とりあえずここでは「身延道」「村山道」のような性質の道(路)があったということを認識しておきたい。

  • 曽我物語

曽我物語では「富士野」はあまりにも頻出するため一覧化は難しい。しかし以下の一節が有名であろう。

東国には狩場多しといへども、富士野に過ぎたる名所はなし


この場面から兄弟の意識は一直線に「富士野」へと向かうのである。富士野は「兄弟の決意」の台詞に付随する形で現れることが多い。富士野へ行く道中で工藤祐経を討ち逃してしまい「富士野では必ず成功させなければ!」といったものや、「我々は何のために富士野へ来たのだろう、それは敵を討つためである!」というような旨の台詞の中で登場する。以下では、曽我物語でも「仮名本」を典拠とすると考えられている幸若舞曲の曽我物について考えていきたい。


  • 幸若舞の曽我物


幸若舞の曽我物は「一満箱王」「元服曽我」「和田酒盛」「小袖曽我」「剣讃嘆」「夜討曽我」「十番切」がある。仮名本曽我物語を典拠とし、ふんだんに物語的展開を織り込んだものとなっている。結果、原型とはかけ離れているものになっている。以下では富士野(井出の屋形)が登場する箇所を一部抜粋する。

<一満箱王>


此世をいでの屋形まで、三十八度ねらひ、ついに本望とげつつ、後名を家に残しけり(毛利家本)


兄弟の斬首命令を聞いた畠山重忠による助命嘆願が叶い、兄弟と母は無事再開を果たした。そして締め括りとして「最終的に兄弟は本懐を遂げた」という説明がその経緯をもって語られる。その部分において「井出の屋形」等が出てくる形である。

仮名本の「巻三」が主な典拠であるが、事の顛末を示しているという点において、仮名本全体を典拠としていると言うこともできるだろう。巻三の段階では富士野や井出の屋形は登場しない。そう考えると、幸若舞曲はそれぞれ単独での公演を前提としていると考えられるものである。「三十八度」の部分はよく分からない。

<小袖曽我>


富士野への暇乞いの其のために、母上に参らるる。(藤井一本より)


曽我兄弟が母の元を訪れ、仇討ちの許可を得ようという場面。仮名本の「巻七」および「巻八冒頭」が典拠である。冒頭より「富士野」が頻出し、哀愁を誘う内容となっている。小袖は真名本・仮名本共に重要な役割を担う。この真名本と仮名本の共通性は興味深い。ちなみに「能」にも「小袖曽我」があるが、小袖が全く登場しないという。この差異もまた興味深い。


<剣讃嘆>


富士野へ出でさせ給ふこそ、心許なき次第なれ。箱王殿は、7歳にて此寺へ上りつつ、16歳までは些かもおり上る事もなく、跡懐に育てを置き(大頭左兵衛本より)…


五郎が幼少の頃を過ごした箱根権現に赴き、回顧する場面である。ここから別当が兄弟に刀を伝授する。源氏伝来の太刀を授けられたことで、兄弟が"それを用いるのにふさわしい者"と認められたことを暗示する。仮名本の「巻八」が典拠である。


<夜討曽我>


たとひ千騎万騎味方に有りと申すとも、此の富士野のては思ひもよらす。(中略)いといと泪の多かるに、何と蛙のなきそひて、いての屋形を別るらん(毛利家本より)。


兄弟が遺書を認め、改めて決意を示す場面。仮名本の「巻八」および「巻九」が典拠である。「おうとうない」は「王藤内」で表記される。同曲には曽我物語には無い「(幕)紋尽くし」が取り入れられていることでも知られる。以下の「富士野 假屋の図」は、その場面を示したものである。「夜討曽我」の世界観を絵画化したものと言える。


富士野 假屋の図


福田晃は『幸若舞曲研究』第2巻(72頁)の中で


曽我物語においては、十郎の屋形めぐりのさまを「思ひ思ひの幕の紋、心々の屋形の次第、なかなかことばもおよばず」と述べるのみで、具体的にそれを叙することはない。勿論、それは後段で十郎が五郎に向って、屋形のそれぞれを語って聞かせることの重複をさけたことでもあろう。ところが幸若においては、屋形のさまというよりも、それぞれの家の紋をあげ立てる「紋づくし」の趣向を添え、観客を視覚のみならず視界の世界に誘ってみせるのである。ちなみに、この「紋づくし」の視覚的方法は、奈良絵本に受けつがれて、それぞれが家紋の絵画によって示される。


と説明している。この「紋づくし」は特別に興味の対象になったようであり、絵画化例が多い。


<幸若舞曲の曽我物全体として>


今回は「富士野」や「井出の屋形」の出現箇所に絞って考えてみた。「小袖曽我」「剣讃嘆」「夜討曽我」に見られた理由は、各曲がそれぞれ仮名本の巻7-9を典拠とし、これらが富士野へ向かう道中または富士野到着後を扱った箇所に該当するためである。このように、幸若舞曲の曽我物が仮名本に拠っているのは明らかである。

一方で福田が『幸若舞曲研究』第4巻(37頁)の中で指摘するように、幸若舞曲の曽我物は仮名本でも「巻二」「巻五」「巻十一」「巻十二」は素材にしていない。この点も重要である。

仮名本自体が真名本に比して劇的展開を志向したものとなっていると指摘される中、芸能の性質も加わってか更に物語化していると言える。特に「十番切」が異質である。これは他の曽我物とはまた異なる由来があるように思える。


  • 仮名本について


幸若舞曲の曽我物の典拠と言える仮名本は、最も流布された曽我物語であると言って良い。この点について少し考えてみたい。曽我物語を解説する上での「最善本」として真名本が取り上げられ、工藤祐経を討った後の"十人切りの描写"は今日当たり前に「十番切」と呼称される。しかし一旦立ち止まって考えると、実は真名本に「十番切」という言葉は無いことに気づく。「十番切」という言葉は仮名本が初出で、その言葉の定着度から、真名本における「十人切りの描写」も後天的に「十番切」と称されているのである。この現象ひとつとって見ても、仮名本の影響を示すに十分であろう。

坂井孝一氏(NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の時代考証を務める)の著作『曽我物語の史的研究』がおそらく目指したであろう"史実への追求"という意味では、真名本を見ていくことが重要であるし欠かせない。しかし後世への影響度という意味では、仮名本のそれはより大である。とりあえず事件の「史実性」に迫る上では、真名本に寄り添うべきであると思うが、上の点も一応の考慮が必要であるとも感じる。

  • 参考文献
  1. 海老沼真治(2011)「「富士北麓若彦路」再考ー『吾妻鏡』関係地名の検討を中心としてー」『山梨県立博物館研究紀要』第5集,山梨県立博物館
  2. 吾郷寅之進編(1981),『幸若舞曲研究』第2巻,三弥井書店
  3. 吾郷寅之進・福田晃編(1986)『幸若舞曲研究』第4巻,三弥井書店
  4. 末木健「富士山西麓「駿河往還」の成立」(2009)『甲斐』第121号,山梨郷土研究会
  5. 『日本随筆大成』<第1期>3(1975),149-197頁,吉川弘文館
  6. 山梨県富士山世界文化遺産保存活用推進協議会(2002),ガイドマップ『富士参詣の道を往く』
  7. 文化庁・環境省・林野庁・山梨県・静岡県他(2016),『世界文化遺産富士山包括的保存管理計画(本冊)』