富士山麓の地域が分からない方へ

2012年9月14日金曜日

山梨県或いは甲斐国にて呼称される甲州とは

山梨県において現在でも使用されていると思われる言葉に、「甲州」という言葉がある。そしてそれは「=山梨県」として理解されている。しかし本当に歴史的にみて「甲州=山梨県」であったか検討していきたい。

「遊行縁起」(遊行上人縁起絵)/甲斐国御坂・川口を描いているとされ、河口での別れの場面

『山梨県の歴史』にはこのようにある。
元文五(1740)年、古文書調査のため甲斐を訪れた青木昆陽は、『甲州略記』に「郡内(都留郡)の人は、甲州とは別の一国のように思って、三郡(国中の山梨・八代・巨摩の三郡)を指して甲州という
つまり外部からきた人間が客観的に見て、甲州は「=甲斐国」とは感じていないわけです。

また甲斐国の地誌である『甲斐国志』の記述も重要です。

博物館だよりMARUBI №24
この資料にあるように、『甲斐国志』では上記の三郡に行くことを「甲州へ行く」と称しています。そしてそれは、郡内の人たちがそう意識していたわけです。

では、もっと古い歴史的資料ではどうでしょうか。

『妙法寺記』の永正15年(1518年)の記録にこのようにあります。
此年ノ五月駿河ト甲州都留郡和睦也
これは今川氏と小山田氏との和睦を示しています。この時期駿河と甲斐国は争いを繰り広げており、それに関する和睦です。この資料では「甲州都留郡」とあり、都留郡を甲州の中のものと認識しています。ちなみにこの前年の永正14年(1517年)、『妙法寺記』に「吉田自也国一和二定也」とあります。「小山田氏と武田氏-外交を中心として-」によると、これは甲斐と駿河との和平を示しているとある。ではなぜ、その次の年に同様の和睦の記録があるのだろうか。それは永正14年のものは「今川氏と武田氏間の和睦」であり、永正15年のものは「今川氏と小山田氏との和睦」であるからである。つまり今川氏にとって小山田氏と武田氏は同列で、独自の外交権をもつ領主として認識されていたわけである。

と長くなりましたが、現在の富士河口湖町で記されたと考えられる『妙法寺記』の記録にて「甲州都留郡」とある事実は、重要である。

ちなみに、「郡内」に対して「国中」という言葉がある。これも歴史的資料にて互いを用いている例が確認できる。『妙法寺記』の永正7年(1510年)の記録にはこのようにある。
此春中国中都留郡御和睦落付
今川氏と小山田氏との和睦があった永正15年から8年前の年代であるが、この時代は武田氏と小山田氏が争っていた。この記録は、武田氏と小山田氏とで交わされた和睦の記録である。「国中都留郡御和睦」の「国中」が武田氏領で「都留郡」が小山田氏領である。つまりここでは「国中」と「都留郡」という言葉で、互いの地域を記しているのである。ここで「国中」と「都留郡」は異なる地域であるということが明確に分かる。

戦国時代の小山田氏と武田氏が争うような時代では、「甲州」といった場合都留郡を除くという意識はそれほどなかったと考えられる。しかし下って江戸時代辺りでは「甲州」といったとき、「都留郡を除く」という意味合いが明確にみられる。これは「国中=武田氏」、「郡内=小山田氏」という大きく対比された状況の中、武田氏の勢力拡大に伴い「甲州=武田氏」という認識が強まっていったことに関係があるように思える。つまり「(国中とか郡内などの言葉はあるが)甲州と言った場合やはり国中」という認識が強くなり、自然と甲州といった場合国中地域を指すようになったのではないか(逆に郡内という強い意識が生んだ可能性あり)。また国中と郡内は文化が大きく異なり、地域住民による「異にする」という意識がこれらの区別を後押ししたのかもしれない。しかし『甲斐国志』に従えば、むしろ郡内地域の住民が「甲州とは違う」と意識していたように感じられる。郡内の人は自分たちのことを「甲州人」などと決して言わなかったのではないかと思う。

  • 参考文献
  1. 『山梨県の歴史』,山川出版社,1999年
  2. 笹本正治,「小山田氏と武田氏-外交を中心として-」『富士吉田市史研究』第4号,1989年
  3. 富士吉田市民俗歴史博物館,『博物館だよりMARUBI №24』,2005年

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