これを基に浅間大社は山頂部の管理・支配を行うようになり、1779年、幕府による裁許によりこの八合目以上の支配権が認められた。このように、1779年より浅間大社支配の土地として管理されてきました。
衆議は三奉行によって行われました。そもそもこの裁許というのは、「安永の争論」の決着なのです。争論自体は1972年に起こり、1799年に最終的な決断が幕府によりなされました。
しかしこの「大宮持たるへし」(大宮とは現在の富士山本宮浅間大社のこと)の「持つ」が土地そのものを指すのか否か、という議論がなされることがあります。これら懐疑的な見解として、古くでは「富士山頂問題と山の信仰」などで指摘されている。しかしこの内容に関しては学術的調査の欠如から由来する指摘であり、あまり参考にはならない。一方『富岳旅百景』の中で触れられていることなどは、傾聴すべきであるように思える。
しかしながら少なくとも浅間大社の神職らが管理に関わってきたのは間違いありません。ですから、はやり明治政府の判断はおかしかったと思えます(国有化のこと。仮に「管理」に留まっていたとしても譲渡されるべきに思える)。個人的には、冷静に考えていくと支配の可能性も除去できないように思える。疑問点はこのような感じです。
- そもそも以前より富士大宮司らが管理してきた事実は揺るがない
- 徳川忠長時代にも「大宮司支配の所」という文書が残る
- 7年の歳月をかけて「管理」のみを結論とするとは考えにくい
- 「支配」という点の議論も争論の中でなされている
古文書をみれは、浅間大社の神職らが管理していたという事実は揺るがない。幕府、または領主により「大宮司支配」として認識されてきた歴史もある。それらの状況の中で生じた争論において、単にまた同じ事実だけを言い渡すとは非常に考えにくい。また裁許状にはこのようにある。
裁許状の構成は、争論の過程から入り、最後に「今般衆議の上定趣ハ、…」と結論を言い渡している構成である。上の部分は裁許状の前半部分なので経緯の部分にあたるが、その中で「富士山八合目より支配と申証拠ハ無」とある。これは「富士山の八合目以上は浅間大社の支配であるという証拠はない」という趣旨であろうが、このような主張が争論の中であったことが分かる。そしてそれに対し、浅間大社の大宮司は反論している事実がある。
ここからもわかるように、「支配か否か」という争点も間違いなくあった。そのような中で、最終的にそれに触れずに裁許が終わるという流れは考えられにくい。争点としてあったのに、うやむやにして終えるというのは、7年という歳月をかけ、また三奉行が関わった裁許としては不自然である。
しかし「持つ」という表現が曖昧というのも頷ける。
- 参考文献
- 青柳周一,『富岳旅百景―観光地域史の試み』, 角川書店,2002年
- 大森義憲,「富士山頂問題と山の信仰(一)」,甲斐路第一号,1961年
- 大森義憲,「富士山頂問題と山の信仰(二)」,甲斐路第二号,1961年
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