今回は『万葉集』に集録されている、以下の著名な和歌について取り上げていきたい。
- 山部赤人の歌
山部宿祢赤人望不尽山歌一首 并短歌
天地之 分時従 神左備手 高貴寸 駿河有 布士能高嶺乎
天原 振放見者 度日之 陰毛隠比 照月乃 光毛不見 白雲母 伊去波伐加利
時自久曽 雪者落家留 語告 言継将往 不尽能高嶺者
田兒之浦従 打出而見者真白衣 不尽能高嶺尓 雪波零家留
上は万葉仮名であり、それを読み下したものが以下である。
この「望不尽山歌」であるが、「富士山を望(のぞ)む歌」と訓読されることが多いが、「富士山を望(まつ)る歌」と訓読するのが良いとする論者も居る(櫻井満『櫻井満著作集第4巻』107-108頁,おうふう,2000年)。
「富士の山を望む歌」一首の内容 | 意味 |
---|---|
天地の分かれし時ゆ | 天地の分かれた太古の昔から神々しくて高く貴い |
渡る日の影も | 空行く日も光も山に隠れ照る月の光もみえない |
時じくそ雪は降りける | 季節に関わらず雪は降っている |
以下にその反歌とその訳を示す。
反歌 |
---|
田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 不二の高嶺に 雪は降りける |
訳:田子の浦越しに打ち出てみると真っ白に富士の高嶺に雪がふっていることだ |
「時じくそ雪は降りける」は「≒季節外れの雪」という解釈もでき、冬の歌ではないと考えられる。この反歌のみ取り上げられることも多いが、本来この「一首」と「反歌」はセットであるため、並べて考えられるべきである。
- 『新古今和歌集』・『百人一首』バージョン
また時代は大きく下り、『新古今和歌集』には以下の形で集録されている。
田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ
注意しなければならないのは、一般に上の歌を紹介する際「…雪は降りつつ/山部赤人」と山部赤人の名をクレジットさせているが、山部赤人自身はそのようには詠んでいないという事実である。
『万葉集』 | 『新古今和歌集』 |
---|---|
田子の浦ゆ | 田子の浦に |
真白にそ | 白妙の |
雪は降りける | 雪は降りつつ |
この点について『新 日本古典文学大系1 萬葉集一』は以下のように説明している。
新古今集に「田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」(冬・山部赤人)。(中略)これは選者の改作ではなく、平安時代の万葉集の訓読の1つであろう。
平安時代には万葉集の原歌では意味が通らず、その時代の言葉に合わせたという解釈である。しかし我々がこの歌を捉える時、まず「『新古今集』のものは赤人の言葉ではない」ということはとりあえず把握しておくべきであろう。
『万葉集』がオリジナルであるため、この二例を紹介する際に『新古今集』のものを『万葉集』より先に挙げる傾向には強い違和感を感じるものである。また二例のうち『百人一首』は後世の『新古今集』の方から採って集録している。つまり『百人一首』が初出ということは決してなく、この部分も多くで誤認されている部分である。
この和歌にある「田子浦」は、現在の静岡県富士市の田子の浦とは異なるとするものが定説である。有力な説は静岡県清水区を比定地とする説であり、その中でも「由比」「蒲原」が良く挙げられている(どちらも清水区である)。そもそも~9世紀の記録で、現在の清水区を指して「たごのうら」とする史料は複数以上見いだせても、現在の富士市を指す形の史料は現存すらしていないのである。例えば「廬原郡多胡浦」(いはらぐんたごのうら)という記録は『続日本紀』に見いだせるが、「富士郡田子浦」といった記録も無い。
- 田子浦の所在地について
この和歌にある「田子浦」は、現在の静岡県富士市の田子の浦とは異なるとするものが定説である。有力な説は静岡県清水区を比定地とする説であり、その中でも「由比」「蒲原」が良く挙げられている(どちらも清水区である)。そもそも~9世紀の記録で、現在の清水区を指して「たごのうら」とする史料は複数以上見いだせても、現在の富士市を指す形の史料は現存すらしていないのである。例えば「廬原郡多胡浦」(いはらぐんたごのうら)という記録は『続日本紀』に見いだせるが、「富士郡田子浦」といった記録も無い。
(※この部分については「田子浦と吉原湊その地理と歴史」にて取り上げたので御参照下さい)。
中谷顧山『富嶽之記』(江戸時代)には以下のようにある。
「鞠子宿」は現在の静岡県駿河区丸子に存在した東海道五十三次の宿である。そこから駿府の浅間神社に至るのだが、記録ではその後田子の浦へ出たとある。そして以下のように記している。
そしてその後に蒲原に至っていることを考えると、蒲原の手前のエリアを指して「田子の浦」と言っているということになる。実はこのように現在の清水区を「田子の浦」としている史料は古代に限らず近世においても多々見いだせる。一方、中世において富士川の東側を「田子の浦」とする例がみられることも事実である。つまり現在の富士市域を田子の浦とする記録が中世には存在しているということである。例えば13世紀成立という『東関紀行』は東海道西からの旅路を示すが
7月2日、鞠子の宿を出て、駿府浅間の社に参る。(中略)蒲原を過て、富士川の急流を越、東堤より本街道を離れ、北の方十五町、岩本村に至り、…
「鞠子宿」は現在の静岡県駿河区丸子に存在した東海道五十三次の宿である。そこから駿府の浅間神社に至るのだが、記録ではその後田子の浦へ出たとある。そして以下のように記している。
富士の雪峯に残るを見れば、赤人の歌おもひ出て風景かぎりなし
そしてその後に蒲原に至っていることを考えると、蒲原の手前のエリアを指して「田子の浦」と言っているということになる。実はこのように現在の清水区を「田子の浦」としている史料は古代に限らず近世においても多々見いだせる。一方、中世において富士川の東側を「田子の浦」とする例がみられることも事実である。つまり現在の富士市域を田子の浦とする記録が中世には存在しているということである。例えば13世紀成立という『東関紀行』は東海道西からの旅路を示すが
清見関→蒲原→田子浦→浮島が原
と移動しており、蒲原より東側を田子の浦としている。また同じく13世紀成立という『十六夜日記』は
清見関→清見潟→富士川→田子の浦
としている。特にこの『十六夜日記』は富士川の東を田子の浦としており、これは現在の富士市域といって相違ない。また江戸時代作成の『駿府風土記』を見る。
『駿府風土記』より |
「田子ノウラ」とあるのがそれである。この位置は現在の富士市域である。
山部赤人の歌には重要なポイントがあり、それは「田子の浦ゆ」とある点である。この「ゆ」は「通って」という意味であり、そのため訳は「田子の浦越しに」とか「田子の浦を通って」といった表現となるのである。
詳細は上記で挙げた別稿で記しているが、多くで指摘されてきたように古来は由比・蒲原一帯の海沿いを指して「田子の浦」と称していたのではないだろうか。山部赤人の歌は、上の浮世絵のような情景を思い浮かばせる。
詳細は上記で挙げた別稿で記しているが、多くで指摘されてきたように古来は由比・蒲原一帯の海沿いを指して「田子の浦」と称していたのではないだろうか。山部赤人の歌は、上の浮世絵のような情景を思い浮かばせる。
私個人としては、『万葉集』が編纂されたような時代は"庵原郡域のみ"を田子の浦と呼称していたのではないかと考える。庵原郡は現在の静岡市清水区・富士宮市・富士市が該当しますが、このうち海に面する地域に該当するのは清水区のみであるので、清水区こそがこの時代の田子の浦ではないかと思うところである。
- まとめ
大きく以下の点がポイントとなる。
- 『万葉集』成立の時代(8世紀とする)、田子の浦の所在地を現在の清水区としている史料は存在するが(『万葉集』・『続日本紀』)、現在の富士市としている史料はそもそも存在しない
- その上で、現在の富士市を指すと解釈し得る史料の早例は13世紀の『十六夜日記』等であり、時代は下る
- 中世に関わらず近世にかけても、田子の浦の所在地は史料によって清水区を指すものと富士市を指すものとで混在している
これらの事実を考えると「山部赤人の歌にある「田子の浦」とは何処であるのか?」というテーマで議論する際、まず諸説として「富士市説」を先頭として挙げていること自体が妙であるということが分かるのである。諸説ある中で、富士市説は筆頭にはならないだろう。
また「3」については膨大な史料を検討する必要があり、今後の研究に期待するところである。
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