富士山麓の地域が分からない方へ

2011年1月23日日曜日

駿甲相三国同盟

天文23年(1554年)、駿河国・甲斐国・相模国の守護大名間で結ばれた同盟を「駿甲相三国同盟」といいます。それぞれ令制国の頭文字を並べて呼ばれます。

大河ドラマ『武田信玄』の「善徳寺の会盟」のシーンより(善徳寺の会盟については後述)
その大名とは今川義元(駿河)、武田信玄(甲斐)、北条氏康(相模)の三者。実はこれには呼び方がいろいろあるんですね。つまり「駿」「甲」「相」をどの順番で並べるかということです。こういうものは普通先導していた順番(そもそも同盟を働きかけたのは今川家臣の軍師・太原雪斎とされる)で並べられることが多いので普通は『駿◯◯三国同盟』となりそうなところですが、武田信玄が人気なので「甲相駿三国同盟」と呼ばれることが多いです(多分)。

この三国は接しており、互いに緊張関係があった。三国同盟は天文23年(1554年)であるが、それ以前にも「河東の乱」といった乱もあった。これは天文6年(1537)2月に武田信虎が今川義元に息女を嫁して同盟した際、北条氏綱を牽制するため義元が須走口に出馬した結果として今川氏と北条氏が対立することとなり生じた乱である。また「河東」という語はこのとき発生した言葉であり、天文6年3月7日の「北条氏綱書状」が初見である。『公共圏の歴史的創造―江湖の思想へ』では「河東の乱以前には「河東」の語は存在しなかった」としている。また「駿東郡」という郡名が生じた(義元が創作した)のもこの乱以後であるとしている。このことから、この河東の地が特に緊張を要する地としてみられてきたことは容易に想像がつく。「駿東郡」という郡名が生じた時代が16世紀中盤であったため、例えば8代吉宗以前にはむしろ「駿河郡」が一般的であったという。

このように互いに常に懸念するところは多く、それを解消するための同盟である。お互いの嫡子に嫁ぐ婚姻同盟を行った。義元の娘は信玄の子である義信に、信玄の娘は氏康の子である氏政に、氏康の娘は義元の子である氏真に嫁ぐ形となった。

  • 今川氏としての事情
今川氏は西に勢力拡大を図っていたが、織田氏の存在が大きな弊害だった。しかし武田と北条の存在もあるので、そちらにも警戒しなければならない。その必要をなくすため同盟へと踏み切った。とにかく本格的な尾張侵攻を進めたかったのである。しかしその本格的な尾張侵攻の際、織田信長に敗れましたが。

  • 武田氏としての事情
武田氏は信濃の平定のため、または上杉氏の越後侵入に集中したいがため。村上義清などの勢力が弊害であった。

  • 北条氏としての事情
今川氏と北条氏との対立で戦功が芳しくなかった北条氏からすれば、同盟は必要な状況であった。そればかりか、急激に拡大する形であった北条の領国はまだ反北条勢力が色濃く、それを伏せる必要もあった。

この三国同盟を説明するには、「善徳寺会盟」について触れねばなりません。


  • 善徳寺会盟

今川義元・武田信玄・北条氏康が共に善徳寺(現在の静岡県富士市)に集結し、相互の政略結婚にて同盟を締結したとされるこの出来事を「善徳寺会盟」と呼ぶ。しかしこの会盟ですが、懐疑的に見る見方が圧倒的に多い。今川氏研究の重鎮や武田氏研究の重鎮なども実際は行われていないと見ており、一般には「伝説」とされている。もっと詳しく言うと、たしかに三国同盟はあったが、それがこの会盟により定められたわけではないということになる。

先程「今川氏と北条氏との対立で戦功が芳しくなかった北条氏からすれば」と書きましたが、この当時今川氏は武田氏と同盟を結んでいました。なので当然、北条氏の駿河侵入にあたって武田氏も今川氏に応戦しているわけである。つまり、「駿甲相同盟」以前に「駿甲同盟」はあったのである。したがって「互いの嫡子に嫁ぐ婚姻同盟」というのは、「駿甲同盟〜甲相同盟」を総括した見方である。


  • 駿甲同盟

ここで、天文21年(1552)の「駿甲同盟」を個別で取り上げてみます。『妙法寺記』には、盛大な輿入れの様子を記している。この婚姻は穴山氏が仲介したとされ、これは今川氏と穴山氏との関係が深かったためである。例えば輿入れの際は「興津(清水区)-内房(富士宮市)-南部(南部町)-下山(身延町)-西郡-穴山氏館-義信の新居」というルートで到着している(『高白斎記』)。これはいわゆる「河内路」である。「戦国大名の領国形成と国人領主」によると、「天文年中には河内の通行に際しては武田氏も穴山氏に許可を求めなければならなかった」とある。このように、河内は穴山氏の絶対的基盤であった(この河内路の利用に関しても同文献で考察されている)。穴山氏の解釈は複雑で、武田氏に従属しつつも、今川氏と独自の外交を保持していた。例えば穴山氏は現在の富士山本宮浅間大社へと脇差を奉納していたり、今川義元より所領を給付されていたりした。その関係故の仲介であると思われる。武田氏は天文年間後半から領主への介入が目立つようになるが、もちろん穴山氏も例外ではなく、徐々に取り込まれていったと考えられる。


  • 甲相同盟

信玄の娘が北条氏政に嫁したのは天文23年(1554)である。しかし婚約の決定自体は前年の春には成立していたとされる。『高白斎記』には婚約に至る経緯が記されているが、そこには北条方から誓約書が届き、そこで武田方が誓約書を送ったことなどが記されている。つまり、善徳寺会盟なるもので婚約が決定したわけではない。もちろんそれは、駿甲同盟でも同様である。


  • 会盟はあったか

そもそも内容に関わらず、会盟なるものはあったのかという検討は必要です。磯貝正義氏の「善徳寺の会盟」では、以下の点について指摘している。

  1. 駿甲同盟と甲相同盟も、善徳寺の会盟があったとされる年月以前に済まされている
  2. 根本的資料に善徳寺の会盟のことが見えない。あっても『相州兵乱記』といった後世の編纂物である
  3. 天文14年(1545)の今川・武田・北条の和睦と混在させている可能性がある

これらの説明は説得力があります。

例えば『妙法寺記』といった駿甲の情勢を細かく記した史料に至っても、善徳寺の会盟のことが記されていない。もしそのような出来事があったのなら、それは当然大きな変化であるし、記さないはずがない。『妙法寺記』は信玄の娘の嫁入りなどの様子も細かく取り上げているとされ、このような点に着目しているのならば当然あって良いはずの記述である。しかし、見当たらない。善徳寺の会盟なるものは無かったのだろうと、言わざるを得ない。

  • 最後に

この三国同盟は武田氏の破棄で終え、武田信玄は駿河侵攻を開始します。信玄にとって最大の脅威だった今川義元が桶狭間の戦いにて敗れ戦死し、今川氏は衰退していたので又もない好機だったのです。今川の領地は非常に魅力的だったと思います。内陸部の領土の利点は限られていますが、海に接し横滑りで領土を拡大させやすく、まとまった土地があった今川の領土は利点も多いです。しかしその領地を支配するために武田義信と対立し、それが武田氏を滅ぼす遠因となったと見方は少なくありません。武田信玄は甲斐国の領主を取り込むことには大いに成功しましたが、一方で武田家家内の状況は不安定で在り続けました。


尚、義元や信玄が「表富士・裏富士」で言い合ったという話は、大河ドラマによる影響だと思われます。当然、そのような逸話は史実ではありません。

  • 参考文献
  1. 磯貝正義,「善徳寺の会盟」,『甲斐路 山梨郷土研究会創立三十周年記念論文集』,1969
  2. 堀内亨,「戦国大名の領国形成と国人領主-武田氏と穴山氏を事例として-」『戦国大名武田氏』,名著出版,1991
  3. 東島誠,「租税公共観の前提―勧進の脱呪術化」『公共圏の歴史的創造―江湖の思想へ』,東京大学出版会,2000

2011年1月22日土曜日

富士氏 富士大宮司家

今回は、富士大宮(富士宮市)の氏族「富士氏」についてです。富士宮市の歴史といったときまず挙げられるのがこの富士氏で、代名詞といっても過言ではありません。長きにわたり影響力を保持してきたこの氏族の性格について追求していこうと思います。

当ブログの初記事として「富士大宮楽市令」をとりあげましたが、その朱印状の解説に附す形で久保田昌希氏が富士氏の説明を行なっている(『日本の都市と町-その歴史と現状』)。その説明がシンプルで伝わりやすいので以下に記す。

文書の宛所である富士氏は南北朝期からの文書を伝えており、代々富士浅間本宮の宮司をつとめ、戦国期には国人領主として周辺地域をその支配下におさめ、また今川氏の有力武将として富士大宮城に在城しつつ、今川権力の一端を構成した存在であった。なお同地域は隣国甲斐に接し、つねに武田氏との政治的緊張を有したところでもあった。

これが富士氏である。以下ではこの概要を項目にわけて説明していきたいと思います。

  • 発祥

家紋は棕櫚または「棕櫚の丸」である。浅間神社の富士大宮司職を代々継承していた。

後醍醐天皇綸旨(1333年)、宛に「富士大宮司館」とある

つまり、典型的な社家である。孝昭天皇の後裔である和邇部一族が富士郡の地にやってくる(理由不明、一説では坂上田村麻呂と共に、当地の従わない部族を従わせるために同行していた豪族が和邇部一族であったとも)。その和邇部一族の十七代目「和邇部豊麿」が朝廷より富士郡大領(郡長)に任命される。そのため富士大宮が根拠地となり、また浅間神社の神主となる。これが富士氏の始まりとされる。が、富士郡大領以外の部分を史料的に示すのは難しい。

  • 富士大宮司・公文富士氏・案主富士氏


富士氏は浅間神社の神職を司っており、例えば「富士大宮司」「公文」「案主」といった神職は富士氏が勤めた。従って「富士大宮司」といったとき、それは比較的限定的な言い方である。同時代に各富士姓の人物による活躍が確認でき、先ず「富士大宮司は富士氏の筆頭が名乗る神職名であり、富士家の中の1人である」という理解が必要となります。

がしかし序列は明確であり、富士大宮司(別格)の次に「公文」または「案主」という順である。古来は「富士宮内案主」「富士式部公文」といい、その名残だともいう。富士大宮司は社領を掌握し、公文は文書を掌り、案主は文書を立案するというように役割が明確に分かれていたと考えられている。永享6年(1434年)に比定されている、駿河国国人に今川氏への忠誠を求める旨の文書(『足利将軍御内書并奉書留』の内の細川持之書状)がある。当文書は「富士大宮司殿」「富士右馬助殿」の二者に宛てているので、富士大宮司・公文・案主の三頭体制では必ずしもなかったかもしれない。ここは注意が必要である。

  • 中央とのつながり

以下は寛正3年(1462年)の「後花園天皇口宣案」である。


これは足利義政が富士忠時を「能登守」に推挙することを提案し、後花園天皇が許可を与えたものである。それを富士忠時が受給したというものである。つまり富士氏がこのとき既に中央に知られていたということである。直々に天皇より「能登守」の任に就かれているという事実は、あまりに重要である(参考:富士忠時)。

ただこの時期富士家の中でお家騒動があり、家督相続の件を巡り大きく揺れていた時期でもある(富士家のお家騒動と足利将軍)。

  • 武家としての側面

少なくとも南北朝時代には武力を保持・行使していることが、明確に確認できる。

上杉憲将奉書(1351年)
この「上杉憲将奉書」であるが、富士大宮司が甲斐国の通路の警備を命じられる内容の文書である。これは観応の擾乱に際する直義側による要請である。国境の警備を任されている事実から、武力を保持していたことは明白である。

またその後、関東における戦国の世の幕開けともいえる「享徳の乱」においては、富士氏は幕府の要請により古河公方勢力と対峙している(享徳の乱と富士氏)。ここで富士氏が、いわゆる戦国時代以前より武力を保持していたという事実は把握しておくべきである。

その後駿河国守護の今川氏とも関係を深くしていく。今川氏と関係が蜜となることは、必然的であろう。以下は今川氏輝の判物である。

今川氏輝判物(1532年)、信忠宛
この判物に対して小和田哲男氏は以下のように説明している(『今川義元―自分の力量を以て国の法度を申付く』)。

星山代官職を安堵する代わりに馬廻としての奉行を求めている。(中略)すなわち氏輝は、有力武将の子ども世代の若者を親衛隊に組織しようとしていたことが分かる。(中略)こうした馬廻衆の創設は、今川氏当主としての氏輝の権力強化につながっていたわけで、それが氏輝のときにはじまっているという点は注目しておく必要があろう。

同じく興津氏当主の子が馬廻として登用されており、今川氏が国人領主の次期当主と考えられる人物を掌握しようとしていたことが分かる。

このように16世紀になると、今川家家臣としての色が濃い。この時代は「富士信忠」が当主の時代である(参考:富士信忠)。以下は今川義元による戦功への感状である。

今川義元感状(1537年)、信忠宛
これら文書がある中で、戦国大名(今川氏)により武家として重要な役割を託されていたことが明確に確認できるのは、以下の文書ではないかと思う。


これは「富士信忠」にて解説しているが、富士信忠が大宮城の城代に任命されている文書である。また、代官職も葛山氏に変わり任命されている。つまり富士氏は国主により城主を任命される位置づけにあった。大宮は駿府への入り口として非常に重要な位置であり、砦として重要な地と考えられていた。

また以下の文書も極めて重要である。今川氏真独自の、特色ある政策の実行が富士氏に託されている。また富士大宮の性格を分析する上で重要である(参考:富士大宮楽市令)。


また以下の文書は、永禄11年の後北条氏当主である「北条氏政」による文書である。このとき今川氏の統治能力は極度に低下しており、後北条氏が今川氏に代わって処務の対応を行なっていた。富士信忠の働き次第で、領地の安堵と恩賞の約束をする内容である。このとき富士氏と後北条氏の関係は蜜であった。

永禄11年12月19日

以下は永禄12年の後北条氏による文書であるが、北条氏康によるものである。北条氏康存命中は氏政・氏康体制であったため、氏康が文書を出すこともあったのである。緊張状態を労う内容と、敵情(武田氏)を探らせる内容である。

永禄12年2月25日
以下は氏政が富士信忠に敵の使者をからめ捕るよう命じた文書である。

永禄12年5月28日
以下は閏5月3日の文書であるが、忠節に対して必ず引き立てる約束をしたものである。

永禄12年5月3日
永禄12年12月17日には領地を安堵する約束をしている。この文書は富士上方の地名が多く見えるので、興味深い(画像は収集中)。淀師、小泉、山本、若宮、北山、星山、村山、大宮、稲子、杉田、上野、野中などが記されており、現在もある地名が戦国時代から存在することが分かる。このように後北条氏は、永禄11年から永禄12年にかけて文書を繰り返し送っている。

以下は今川氏真感状である。信忠の嫡子「富士信通」宛である(参考:富士信通)。忠義に対する感謝と富士氏が今川氏から離脱することを許容する内容である。この文書の説明は「駿河大宮城」にて行なっている。

元亀2年10月26日
この後武田氏に帰属している。

  • 系図
富士氏の系図を示すものは2例あり、①【和邇氏系図】と②【富士大宮司(和邇部臣)系図】がある。この部分については「富士氏の系図から珠流河国と和邇部について考える」にてまとめた。

上記の「後花園天皇口宣案」によると「和邇部姓」を使用している事実があるため、当時の富士氏は和邇部氏から由来すると認識していたことは間違いない。また系図中に「頼尊」の名が記されている点も興味深い。村山修験の村山三坊は頼尊という人物によって開かれたとされ、『駿河国新風土記』に「正別当頼尊といえるあり、此頼尊は村山三坊山伏、中里村八幡宮別当大門坊も此人の子孫なりと云」とある。『中世後期の富士山表口村山と修験道』には以下のようにある。

頼尊の事跡は伝説的な部分も多いが、「別本大宮司富士氏系図」に本宮の大宮司富士直時のいとこに頼尊の名を挙げ、富士正別当村山三坊の祖と記されている。直時は康永4年(1345)二月没とあるので、文保年間(1317~19)に頼尊が存在したというのは首肯できる。

この相関性は大変興味深いといえ、系図を考える上で一つの材料となるといえる。

  • 支流

富士氏系図に米津姓が見え、米津氏は富士氏の分かれとされる。「富士」の由来または変化したものとされる「福士」を冠する「福士氏」がおり、ここにも富士氏との関係性を伺わせる。また福士氏は南部氏と同じく甲斐源氏の一族とされ、福士氏は南部氏の重臣ともいう。南部氏は駿河国富士郡に隣接する地である現在の南巨摩郡南部町が本拠とされているが、この関係性は興味深い。

南部町役場(山梨県南巨摩郡南部町福士)

そして特に興味深いのは、南部町に「福士」という地名が見られることである。丁度町役場の所在地がそれであるが、この事実は富士郡から甲斐に流れ「福士氏」を名乗ったという推測を沸き立たせるものである。そして南部氏の家臣となった、という推測ができる。この部分については「史跡盛岡城跡Ⅱ 第2期保存整備事業報告書」の「盛岡南部氏と盛岡築城」が詳しい。

  • 家紋
家紋は「棕櫚の丸」である。シュロの葉を家紋にしたもので、シュロは昔から神霊の宿る葉として尊ばれたそう。『長倉追罰記』にはこのようにある。
…同六郷モ是ヲ打、シユロノ丸ハ富士ノ大宮司、キホタンハ杉カモン…
「富士曼荼羅図」に見える棕櫚
  • まとめ
非常に長い歴史を持つ上、二重体制の独自性は興味深い。今川・北条・武田と関わりがあったため(それも内容は戦関係)、到底社家だけに収まっていたとはいえない。同じく社家である諏訪氏ほど武家の色はないが、それでも本来もっと注目されるべき氏族である。武家としての富士氏と神職としての富士氏の双方に着目する必要性がある。

  • 参考文献
  1. 宮地直一、『浅間神社の歴史』、名著出版、1973年(富士氏を知る基本文献)
  2. 久保田昌希、「戦国大名今川氏の町支配をめぐって−駿河富士大宮と遠江見付附の場合−」『日本の都市と町-その歴史と現状』、雄山閣出版、1982年
  3. 大久保俊昭、『戦国期今川氏の領域と支配』P177-185、岩田書院、2008年(南北朝時代以降から触れ、富士氏像についてまとめる、お勧め)
  4. 小和田哲男、『今川義元―自分の力量を以て国の法度を申付く』P83-84、ミネルヴァ書房、2004年
  5. 丸島和洋、『戦国大名武田氏の権力構造』P250-267、思文閣出版、2011年(武田氏による富士氏への関与について触れる)
  6. 前田利久、「戦国大名武田氏の富士大宮支配」『地方史静岡』第20号、1992年(大宮城の戦い-武田氏への帰順あたりが詳しい)
  7. 浅間神社社務所編、『浅間文書纂』、名著刊行会、1973(富士氏関連の文書を掲載)
  8. 盛岡市教育委員会,「盛岡南部氏と盛岡築城」『史跡盛岡城跡Ⅱ 第2期保存整備事業報告書』,2008(富士氏と福士氏との関係性など)

2011年1月21日金曜日

富士大宮楽市

静岡県富士宮市の歴史で象徴的なものは何であろうか?そうした視点で考えたとき「富士宮市の歴史で教科書・参考書に掲載されているものは何であろうか?」と換言してみても良いだろう。その答えは

富士大宮楽市

となってくる。実際にそれを掲載してみる。




以下に表を掲載する。

大名場所形態
1549年六角定頼近江石寺城下町
1566年今川氏真駿河大宮門前町
1567年織田信長美濃加納城下町
1570年徳川家康三河小山新市建設
1577年織田信長近江安土城下町
1683年浅野長政近江坂本門前町
1585年北条氏直相模荻野宿場町
1587年豊臣秀吉筑前博多津港町

この高校の参考書にあるように駿河大宮、つまり富士宮市で楽市が行われていた。以下はその古文書である。



永禄9年(1566)4月3日、富士信忠を宛所とする今川氏真朱印状である。(安野2002)は、この古文書について以下のように説明する。  

「神田橋関」では今川氏の任命した小領主たちが徴税を請け負っていたが、市場からの小領主の排除と「諸役」の停止を命じた。(中略)。これは現地神田宿の年寄衆たちの要求を富士氏が代弁し、今川氏に譲歩を迫って交渉した結果生み出されたものと考えられる。

 また(勝俣鎮夫1979)には、以下のようにある。

富士大宮の六斎市は普通の市場として存在したが、押買や狼藉(ろうぜき)などの非法行為によって市場の機能が乱されるという富士大宮司の訴えにより、永録9年に今川氏はこの市場の諸役を停止し、楽市とすることを定めた。そしてその際に「神田橋閣之事、為新役之間、是又可令停止共役」と市場の付近の関所の通行税免除を保証している。 

このように、富士大宮楽市令は富士氏側からの要請からなるものとされることが多い。つまり「押買狼藉非分等有之""旨申"""条」の文言から「それを申した主体が居る」という理解がなされ、「富士氏側の要請によるものである」と学術的に理解されているのである。

結果富士大宮楽市令により神田橋関は廃止され、「六斎市」は楽市化された。安野氏も述べているように、六斎市とあるからには毎月6度市が開かれていたということになり、それを担うだけの市場能力が富士大宮にはあったのだろう。

楽市とされる早例は上の参考書にも見られる天文18年(1549)の六角定頼による法令、そして「十楽の津」と云われた伊勢桑名の例が知られる。

この2例と富士大宮楽市令の相違点として、(安野2002)は以下のように説明する。

今川氏の楽市令が先行する二者と著しく異なっているのは、両者が「楽市」「十楽の津」である事実を述べたものであるのに対して、今川氏の朱印状は「為楽市可申付」とあり、今川氏の意志・政策として楽市化を明言している点である。

また(網野1996;p.103-104)には、以下のようにある。

近江の保内商人と枝村商人とが、永禄元年(1558)ころ、桑名における美濃紙の取引をめぐって相論したとき…(中略)といっており、桑名が商人たちの自由な取引の行われる「十楽」の津・湊であることを強調しているのである。(中略)それとともに佐々木氏は、さきの桑名衆の書状を通して、「自由都市的な宣言」「戦国大名による上からの楽市楽座と異なった、桑名の(中略)門閥町人たちによる在地楽市楽座令の発布」が行われた、と推測する「宣言」「発布」といえるような行為があったかどうかは疑問であるとはいえ、そこに戦国大名の志向する方向とは本質的に異なる法理、現地の習慣の強い自己主張が貫かれていることは、間違いないだろう。

このように「桑名には自由都市的側面から楽市を思わせる事例がある」としつつも「楽市令としては捉えにくい」とされることも多い。

また網野は、無縁の原理を楽市にも当てはめている。「織田信長制札」を解説する中で、以下のように説明する(網野1996;p108)。

いわばこの第1条は「無縁」「公界」の原理を、集約的に規定したものであり、「楽」の原理もまたまさしくここにあるといわなくてはならない。前掲の多くの例と同じく、この市場も「無縁」の場であった。そしてこう考えてくれば「無縁」「公界」「楽」が全く同一の原理を表す一連の言葉であることを疑う余地は全くあるまい

また、以下のようにもある。

こう考えてくれば、楽市楽座令についてのこれまでの見解は、大きく修正されなくてはなるまい。(中略)ただ佐々木氏が、氏のいわゆる「在地楽市楽座令」を商業の発展、商人の成長に伴う新たな動向のなかでのみとらえようとしている点、なお問題をあとに残したといわなくてはならない。

網野が述べるような認識が実際にあったのかどうかは分からない。ここでは富士大宮の楽市令が以下のようなものであったという理解に留めておきたい。

  1. 富士大宮では「六斎市」が行われていたが、「押買狼藉非分」といった問題があった
  2. 富士氏は上の問題の解決を望み、結果今川氏真により六斎市は楽市化された
  3. それに伴い、神田橋関は廃止された

富士大宮の市場としての機能、そして領主である富士氏の考えなどが垣間見れると言える。

  • 参考文献
  1. 勝俣鎮夫(1979)『戦国法成立史論』,東京大学出版会
  2. 網野善彦(1996)『無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和(増補版)』,平凡社 
  3. 小和田哲男(2001)『武将たちと駿河・遠江』,清文堂出版
  4. 安野眞幸(2002)「富士大宮楽市令」,『弘前大学教育学部紀要(87)』