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2023年3月12日日曜日

遠州忩劇時の駿河国富士郡勢の動き、富士氏・吉野氏・森彦左衛門尉の活躍

「遠州忩劇」(「遠州錯乱)とは、永禄6年 (1563) に勃発した"遠江国国衆たちの今川氏に対する反乱"である。発端は遠江の引馬城主「飯尾連龍」の逆心であり、連龍死後の永禄9年(1566)まで続いた。そのため、今川氏の文書では「引馬一変」と呼称されることもある。

実はこの乱の鎮圧に富士郡勢もかなり関与しており、しかもそれは早期から確認できる。この辺りは富士郡の性質も良く見えてくるので、今回取り上げていきたい。


今川氏真

家康にとって「遠州忩劇」は救いであったと思われる。(久保田2000;p.50)が指摘するように、永禄6年は三河一揆が勃発しており、今川氏は家康に打撃を与える好機であった。しかし今川氏真はそれが出来なかった。その原因こそ遠州忩劇であり、今川氏は三河一揆に加勢できる状況ではなかったのである。


  • 飯田口合戦の富士又八郎


「飯田(口)合戦」は、遠州忩劇勃発以後の「反乱勢」と「今川方」との初めての合戦であると思われ、富士氏からは「富士又八郎」が参加している。

(平山2022;p.48)には以下のようにある。


飯尾方と今川方は、永禄6年12月20日以前に、引馬飯田口で激突した(飯田口合戦)。かなりの激戦であったらしく、氏真は朝比奈右兵衛大夫、富士郡の富士又八郎、馬伏塚の小笠原与左衛門尉らに感状を与えている。


富士郡は遠州から見て遠方であるものの参加しており、総動員に近い状況であったと推察される。富士郡の勢力を動員しなければならない程、今川氏にとって危機的状況であったのだろう。


  • 牛飼原の陣の吉野氏


遠州忩劇時に「吉野日向守」が今川方として牛飼原(遠江国豊田郡森町)に在陣していたことが知られる。これは永禄8年(1565)11月1日の葛山氏元の発給文書から知られ、「去年従三州牛飼原野陣江茂早速来之条」とある。この軍役奉公に対する判物であるが、この事実から明らかなように、吉野氏は葛山氏の家臣である。今川氏発給文書でない点から、葛山氏の独立性を感じるところである。

吉野氏が何時から葛山氏の家臣であったのかを考える際、年未詳の「吉野九郎左衛門尉」を宛所とする葛山氏広の発給文書が知られる。氏広の発給文書はこの感状を含めた2点に限られもう1点は神社宛のものであるといい、(有光2013p.125)は天文初期に比定している。

このように氏広の代には既に家臣であったことは明らかであるが、文書の残り方から見ても、吉野氏が葛山氏の重臣であったという推測は許される範囲であろう。この従属関係は次代の氏元期にも引き継がれ、「吉野郷三郎」が河東の乱時の軍役奉公に対する感状を受給している。一方で同内容の今川義元の感状も存在したようである(『駿河記』に認められるが真偽不明、書状自体は現存せず)。(有光2013pp.178-191)はこの時の葛山氏の立場を「今川氏方か北条氏方かはわからない」としているが、やはりここは今川方であったと考えてよいように思う。

特に注目されるのは、天文15年(1546)4月22日に氏元が吉野郷三郎に久日・山本・小泉の所領を安堵していることであり、しかも以前より吉野氏の所領であったことが確認できる点である。また永禄元年(1558)8月12日に吉野氏は富士高原の関の支配を認められている。



つまり葛山氏は富士郡各地を支配下に置いていたことが分かるのである。遠州忩劇後の永禄11年(1568)2月2日には、淀士(淀師)の新四郎名を市川権右衛門に給付することを葛山氏は命じている。

また富士上方の大宮司領の代官職は「葛山甚左衛門尉」のもとにあった。永禄4年(1561)7月20日に富士信忠が大宮城代に任ぜられたと同時に解任されてはいるが、従来任じられていた事実からも影響力を強く感じるところである。もっとも文書には「如前々相計之」とあり、(大石2020;p.193)が指摘するように以前より城主としての立場は信忠の元にあったと捉えられるものである。

また先の富士高原関の支配を認める文書に「於富士高原仁村上被取候定之事」とあるが、この「高原」という言葉は大字・小字でないのにも関わらず現在も用いられており、感慨深いものがある。専ら「上の山本」という意味で用いられる。関所の存在や「富士本道」としての位置づけが、「高原」という言葉を現代にまで残したのだろう。つまり交通の要衝であり、そこを葛山氏が押さえ、給人である吉野氏が所領としていたわけである。

そのような立場の中で吉野氏は、今川方として遠州忩劇時に対応に追われたのだった。


  • 森彦左衛門尉の河舟労功


森彦左衛門尉が遠州忩劇舞台の地である遠州で「河舟労功」という形で奉公していたことが知られる。森彦左衛門尉は富士川沿岸の地である内房郷橋上(富士宮市内房橋上)の船方衆を束ねる存在である。この彦左衛門尉は戦地で渡船を担っていたわけである。

このような渡船の奉公は義元の頃にも確認され、天文20年(1551)4月17日の今川義元判物に「先年乱中走廻云、殊昼夜河舟労功」とある。


また永禄13年に比定される橋上の船役所に宛てた葛山氏元朱印状が残り、瀬名氏の縁者が富士川を渡る際に必要となる手形を役所側が与えるよう命じた内容となっている。これが「森家文書」として伝わっている背景を考えるに、やはり中心として主導したのは森彦左衛門尉だろう。

その後は穴山信君の発給文書で名が見え、武田方として活動していたことが分かる。これらはすべて同一人物である。『駿河記』の内房「綱橋」の項に「里民彦右衛門森氏家に今川義元氏真又は葛山備中守等の文書を蔵す。共に富士川越舟の事を載すと云」とある。

渡船に携わる者が戦時に河舟労功として動員され、見返りとして諸役免除を認められていたことが分かる。戦国大名は武士だけでなく渡船の要員にまで神経を張り巡らせていたわけである。大名支配の重要な側面を示すものである。


  • 武田氏の動き

武田信玄

(久保田2000;p.58)にあるように、遠州忩劇勃発後に甲斐の武田晴信はこの事態を早くも察知していた。それは永禄6年閏12月6日の晴信の佐野主税助宛の文書から知られるが、その内容が興味深い(この文書に見える佐野氏は甲斐の佐野一族であって富士郡の佐野一族ではない)。


(平山2022;p.59-62)には以下のようにある。


この追伸に書かれている事実は、信玄の意思と動きを如実に知らせてくれる貴重な情報と言える。信玄は、今川氏真が遠江の反今川方に敗退するようならば、ただちに軍勢を率いて駿河に侵攻する意思を示したのだ。(中略)書状に見える「彼国之本意」については、「駿河の回復を目指す今川氏真の本意を支援するためにも」とも、「駿河を奪いとることは信玄の本意である」とも解釈する余地があるからである。私は、後者の解釈に魅力を感じている。


何れにせよ富士軍勢を含めた今川方の活躍もあって、遠州忩劇は一応の終息を見た。しかしながらこの遠州忩劇は、今川氏の衰退に一層拍車をかけたことは言うまでもない。


  • 参考文献

  1. 久保田昌希(2000)『遠州忩劇考−今川領国崩壊への途」『戦国大名から将軍権力へ−転換期を歩く−』、吉川弘文館
  2. 有光友學(2013)『戦国大名今川氏と葛山氏』、吉川弘文館
  3. 大石泰史(2020)『城の政治戦略』、KADOKAWA 
  4. 平山優 (2022)『徳川家康と武田信玄』KADOKAWA

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