富士山麓の地域が分からない方へ

2023年1月1日日曜日

徳川家康および徳川家臣団と富士宮市・富士市

今年のNHK大河ドラマ「どうする家康」の主人公は、徳川家康である。




徳川家康は、現在の富士宮市域に何度も足を運んでいることが史料から知られる。そして、当地に関わる徳川家康文書も多く確認されている。

しかし今回は各徳川家康文書を見ていくのではなくて、大局的に①「武田征伐後」②「本能寺の変後」③「徳川家康の関東移封後」と大きく捉えていきたいと思う。これらはすべて天正期にあたる。その中で現在の富士宮市で起こった徳川家康およびその家臣団が関わる出来事について考えていきたい。

  • 武田征伐後

天正10年(1582)4月、甲斐の武田氏を滅亡させた織田信長はその帰路で中道往還を用いて富士大宮(富士宮市)へと到る。そして同盟者である家康もこのとき出向いている。その様子が『信長公記』に記されている。

織田信長

『信長公記』は天正10年4月12日の動向を

富士のねかた かみのが原 井出野にて御小姓衆 何れもみだりに御馬をせめさせられ 御くるいなされ 富士山御覧じ御ところ、高山に雪積りて白雲の如くなり。誠に希有の名山なり、同、根かたの人穴御見物。爰に御茶屋立ておき、一献進上申さるる。大宮の社人、杜僧罷り出で、道の掃除申しつけ、御礼申し上げらる。昔、頼朝かりくらの屋形立てられし、かみ井出の丸山あり、西の山に白糸の滝名所あり。此の表くはしく御尋ねなされ、うき島ヶ原にて御馬暫くめさられ、大宮に至りて御座を移され侯ひキ。今度、北条氏政御手合わせとして、出勢候て、高国寺かちやうめんに、北条馬を立て、後走の人数を出だし、中道を通り、駿河路を相働き、身方地、大宮の諸伽藍を初めとして、もとすまで悉く放火候。大宮は要害然るべきにつきて、社内に御座所、一夜の御陣宿として、金銀を鏤め、それぞれの御普請美々しく仰せつけられ、四方に諸陣の木屋木屋懸けおき、御馳走、斜ならず。爰にて、一、御脇指、作吉光。一、御長刀、作一文字。一、御馬、黒駮。以上。家康卿へ進めらる。何れも御秘蔵の御道具なり。四月十三日、大宮を払暁に立たせられ、浮島ヶ原より足高山左に御覧じ…

と記す。ここに見える行程を記すと

本栖→(ここから駿河国)→神野・井出→人穴→浮島ヶ原→大宮→浮島ヶ原→蒲原

となる。ここで人穴の後に「浮島ヶ原」が出てくるのはおかしいので、地名を誤ったのであろう(※原本要確認)。少なくとも、中道往還を上から降ってきていることは明らかである。また三条西実枝『甲信紀行の歌』の記録と併せて考えると、神野は井出より北部に位置すると思われる。なので「本栖→神野→井出」としても良いように思われる。

大宮を発った後に浮島ヶ原に向かい、その後富士川を超え庵原郡の蒲原に入ったとすれば行程に違和感はないため、実際の行程は

本栖→(ここから駿河国)→神野・井出→人穴→大宮→浮島ヶ原→富士川渡河→蒲原

というものであったのだろう。以下では『信長公記』の内容をもう少し見ていきたい。

滅亡へと追いやられた武田氏の領国である甲斐国を超え、信長一行は駿河国に入る。気の緩みからか、神野ヶ原・井出野での小姓たちの自由な行動が記される(ちなみにこの「神野」は『吾妻鏡』にて曽我兄弟の仇討ちが行われた地として記される。『曽我物語』の方は「井出」としている。両方の地名が確認できる点からも重要な記録と言える)。

一行は人穴を見物し、ここに休憩所を設ける。その後浅間大社の社人たちが信長の元を訪れている。また源頼朝が狩倉の屋形を立てた「かみ井出の丸山」があったとする。「白糸の滝名所あり」と記し、白糸の滝がこの時代も名所として知られていたことが読み取れる。(この後浮島ヶ原に行ったとある)

また後北条軍の当地でのこれまでの動向を記し、中道往還や駿州往還を進んで大宮の伽藍等を焼き払い、更に本栖方面まで放火したとある。後北条氏が織田方の甲州征伐に呼応して武田領へ進軍したことを示している。「身方地、大宮の諸伽藍を初めとして」とあるが、ここでの「大宮」は「富士大宮」全体を指していると考えられる。

その後の「大宮は要害然るべきにつきて」であるが、"富士大宮は要害の地であるため、その富士大宮に位置する浅間大社に御座所・御陣宿を設けた"という解釈ではないかと思う。浅間大社を要害といっているのではなく、富士大宮という地を要害と述べ、御座所・御陣宿を設けるにふさわしい地であるという解釈が自然であろう。

また、浅間大社にて信長は家康に秘蔵の道具類を授けたことが記されている。その後は浮島ヶ原→蒲原へと向かっている。

『家忠日記』によると

天正10年4月11日条: 大宮まで帰陣候
翌12日条: 上様大宮まで御成候

とある。「帰陣」したのは松平家忠一行で、「上様」とは織田信長を指す。つまり『信長公記』と『家忠日記』の内容は一致していると言える。従って、この一連の記述はかなり信憑性が高いと言えるだろう。

  • 本能寺の変後

『家忠日記』天正10年(1582)7月8日条に「家康は大宮金宮迄着候」とある。家康は「本能寺の変」後に不安定となっていた織田領の信濃国へ向かう過程で大宮の「金宮」を通っている。

「金宮」は富士宮市淀師金之宮のことで、永禄12年(1569)12月17日「北条氏政判物」に

一所 よとし  金宮  とかみ

とあることでも知られる。「淀師」「金宮」「外神」が「一所」として記されていることから考えても、現在の富士宮市淀師金之宮を指すと考えてよいだろう。

またここで気になることがある。「上様大宮まで御成候」とあるように、家忠は織田信長のことは敬称で記しているが、一方で主君の家康のことは「家康は大宮金宮まで着候」と呼び捨てにしていることである。松平一族(出身)から見たとき、家康の存在はまだ敬称をつけるに相応しいとは考えられていなかったのだろう。しかしその後は敬称が認められるというので、立場の変化で周辺の受け止め方も変わっていったとみられる。

この年の家康の動きは大変なもので、本能寺の変後の天正10年(1582)6月から7月にかけて大坂→伊賀越→三河→遠江→駿河→甲斐→信濃を移動している。遠江・駿河・甲斐は浜松-掛川-江尻-大宮-精進-甲府と移動しているので、家康は東海道から中道往還に入っていることが分かる。

また『家忠日記』天正17年(1589)8月28日条に「殿様昨日大宮迄御成候」とある。以下で説明する「富士山木引」の最中に家康が富士大宮を通り、甲府へと向かっている。これも、中道往還が該当する。中道往還が重要な街道であったことが分かり、このイメージが重要ではないと思う。

  • 富士山木引

徳川家康家臣団の動きとして特筆すべきものに「富士山木引」がある。以下にその過程を記す。期間が極めて長いため、"木引き→川下し→吉原"の流れが把握できる箇所までを抜粋という形で記す。すべて『家忠日記』に見える内容である。


日時内容
天正17年(1589)7月9日家忠、富士山麓へ木引へ向かうよう指示を受ける
同19日家忠、普請の人夫を大宮まで向かわせる
同年8月3日賀島(現在の静岡県富士市)の舟手が来る家忠は上井出の小屋に到着(賀島の舟手は、おそらく富士川の渡河を意味すると思われる)
同4日家忠は酒井家次の普請組に入る(※前日の情報では井伊直政の普請組に入るとの情報であった)
同5日木引をしたが成果は乏しい
同6日雨のため道作りに留まる
同7日木引きで少し木を出す
同8日木引きを130人規模で行う
同9日木引きを進める
同10日木引きを進める。家忠、松平伊昌と朝比奈十左衛門をもてなす
同11日雨天中止
同12日木引きを進めるも雨降る
同13日雨天中止
同14日雨天中止
同15日木引きを進めるも雨降る
同16日木引きを進めるも雨で中止
同17日大木の調達が必要となったため、平岩親吉と酒井家次の組を動員することとなる。大木の木引きのための道作りを行う
同19日木引きを行う
同20日大木を引く。雨天
同21日木引きを行う。雨天
同22日材木調達。雨天
同23日木引きを進めるも雨で中止
同24日木引きを行う
同25日富士山に雪積もる。105人体制で木引き。
同26日富士山に雪積もる。木を上井出の小屋場に引き出す
同27日材木調達
同28日材木調達。家康が昨日大宮に到着、家忠は甲府へ向かう道筋まで出向いた
同29平岩親吉普請組の大木を平岩親吉と酒井家次の二組で沼久保まで引き出す手筈となり、その道まで引いた
同30日木引きを行う。大木を大き(註:青木に比定)まで引き出す
同年9月1日木引きを行う
同2日木引きを行う
同3日木引きを行う
同4日木引きを行う。沼久保の川へ木を運び入れる
同5日二十町分の材木を川下しした
同6日二十町分の材木を川下しした。夜より雨。
同7日洲に引っ掛かり川下しできず
同8日昼まで雨。雨による増水で木が流れる
同9日水深が浅く川下しできず。陸地を引いて運ぶ。野田衆と信州松尾衆間で喧嘩あり。
同10日木引きを行う
同11日木引きを行う
同12日木を吉原まで引き届けた。そこから舟に届ける。
同13日夜より雨。家忠、大宮へ帰る。
同19日木引きを行う。家忠は保科正直の小屋に陣替。


これらを見ると、駿河国富士郡の各地名が確認される。富士上方が「大宮」「上井出」「沼久保」「大き(青木)」であり、富士下方が「賀島」「吉原」である

松平家忠は9月2日時点では興津に居た。同3日に「賀島の舟手」とあるのは、富士川を渡河したことを示すと思われる。渡河後に北上し、富士上方の上井出に到着したわけである。

松平家忠

8月3日条に上井出の「小屋場」とあるが、同26日条でこの小屋場に木を引き出していることが分かるので、小屋場は木を集めておく場所であることが分かる。

そしてこの木引き事業には有力家臣が参加しており、松平家忠をはじめ酒井家次・井伊直政・本多忠勝・松平伊昌・平岩親吉・保科正直・奥平信昌・菅沼定盈・西郷家員・設楽貞通といった名だたる武将の名が見える。これらは全員富士上方一帯に居たと見てよいだろう。


井伊直政

また天正18年(1590)3月23日にも別件で「天神山」の材木を引いた記録が残るが、この天神山は上井出の山のことである。


天神山

天正18年の2月から3月にかけて富士郡・駿河郡は特筆すべき動向が認められるので、『家忠日記』より内容を引用する。


日時内容
天正18年(1590)2月10日徳川家康、賀島(静岡県富士市)まで到る
同13日松平家忠、吉原(静岡県富士市)の御茶屋の材料担当となる。材木の調達を進める
同14日家忠、吉原への陣替を命じられる
同15日家忠、吉原に陣替する
同16日家忠、御茶屋の材木調達を行う    
同年3月14日家忠の元に豊臣秀吉が吉原まで御成になるとの情報が入ったため、吉原に御陣屋の設営に向かう
同16日家忠、吉原の御陣屋の設営を行う
同18日家忠、材木調達を行う
同19日家忠、吉原の御陣屋を更に拡大させる
同20日家忠、吉原の普請に人員を向かわせる
同23日天神山(富士宮市上井出)にて材木を引く
同24日引き続き材木を引く
同26日豊臣秀吉、吉原に到る
同27日秀吉、沼津に到る
同29日山中城(三島市)を豊臣秀次が攻め落とす

 

ここで何故吉原に陣が敷かれたり御茶屋が設けられたりしたのかという点について、少し考えてみたい。

この天正18年2月というのはまさに「小田原征伐」が開始された時であり、そのために秀吉は東海道を用いて東国に遠征しているのである。そして吉原に御陣屋や御茶屋が設けられたということは、ここを「滞在場所」として想定していることになる。これは吉原周辺が安全地帯の東端に近いためであると思われる。

吉原や沼津が徳川方の領地であり、それより東に至ると後北条氏の手が及んでいるわけである。そのため吉原はその「境目」に位置すると言える。

そもそも吉原は、今川氏と後北条氏との争いの時点で既に「境目」としての位置づけがあったように思われる。例えば「駿甲相三国同盟」の際、武田信玄の長女である「黄梅院」が後北条氏側に引き渡されたのは「上野原」であり、これは武田領国と北条領国の境目である。また北条氏康長女である「早川殿」は、やはり今川領国と北条領国の境目である「三島」で引き渡されたのである。

沼津・三島が境目に該当し、そこに近接する吉原も同様の性質があったと思われるのである。吉原は今川領国と北条領国の境目の地に近接する緩衝地に近い役割があったと考えられる。

また「河東の乱」時の富士下方の動向が『快元僧都記』に見出だせる。北条氏綱は今川義元との対立にあたり吉原に着陣した。天文六年四月廿日条の記録によると、富士下方には「吉原之衆」がおり、これらは北条氏側に加担し今川氏と対立していたと見られる。このように着陣地になる所以は今川領国と北条領国の境目に近接するためと考えられる。「第二次河東の乱」時も北条氏は吉原に着陣しており、同様の現象が確認できる。(池上1991)に以下のようにある。

天文14年正月、宗牧が駿府から熱海に向かうに当たり、「吉原城主狩野の介・松田弥次郎方へ」飛脚を出していること、蒲原から吉原に向う舟の上から「吉原の城もま近く見え」ていたことなど(『東国紀行』)から、北条方は吉原城に拠って河東を軍事的に支配していたと考えられる。吉原城は、北条の「駿州半国」支配の最前線に位置したのである 

しかし天文14年(1545)8月に今川義元が河東に入り、その後援軍要請を受けた武田信玄も駿河に入り大石寺(静岡県富士宮市)に着陣。今川軍と武田軍の合流を察した後北条軍は吉原城を放棄し三島へと後退した。その後、後北条氏は和睦を提案し、武田氏が両者を仲介した。『勝山記』は天文14年の様子を以下のように記す。

此年八月ヨリ駿河ノ義元吉原ヘ取懸被食候、去程二相模屋形吉原二守リ被食候、武田晴信様御馬ヲ吉原ヘ出シ被食候、去程二相模屋形モ大義思食候、三島へツホミ被食候、諏訪ノ森ヲ全二御モチ候、武田殿アツカイニテ和談被成候…


とあり、吉原が最前線であったことが分かる。ここに、吉原固有の重要な性質を感じ取ることができる。この小田原征伐の場合、沼津や吉原が「境目」に該当すると言って良い

富士山木引の話に戻るが、この富士山木引で注目されるのは材木の運搬を富士川を用いて行っている点である。洲に引っかかったり水深が浅く運搬できない日もあったようであるが、富士川水運の早例と言えるであろう。記録から、以下のような手順であったことが分かる。

まず富士山で伐採された材木は上井出の小屋に集められる。


上井出


そして大き(青木)まで引き出す。


青木

そこから富士川流域の沼久保まで引き出し、川下しする。


沼久保


そして吉原まで届けられる。川下しでどこまで材木を運搬できたのかは必ずしも明瞭ではないものの、富士川を用いて運搬を行った事実は読み取れる。と同時に、まだ技術と経験不足を示す内容となっているとも言える。


本多忠勝


このような富士川を用いた水運、すなわち「富士川水運」ないし「富士川舟運」と呼ばれるものは、近世が初例とされることも多い。しかしその解釈は誤りであると言ってよいだろう。公権力が組織的に富士川水運を行っている事例が『家忠日記』から確認できる。


  • 徳川家康関東移封後の富士宮市
天正18年(1590)8月に豊臣秀吉は徳川家康を関東へ移封する。従って、駿河国は豊臣領となった。そこで確認される特徴的な動向に「豊臣秀吉朱印状による寺社領の安堵」が挙げられる。しかも多くが同年12月28日に一斉に行われているという点でかなり特徴的である


豊臣秀吉


それを一覧化する(富士宮市内の寺社に限る、天正18年(1590)のもの)。

石高
富士大宮司・社人領412
富士浅間宮(富士山本宮浅間大社)380
別当宝幢院122
富士氏公文領77
辻之坊75
北山本門寺50
富士段所与八郎45
富士氏案主領34
先照寺16
大悟庵9
安養寺7


ちなみに富士山本宮浅間大社に関しては、天正19年(1591)に駿府城主「中村一氏」による直判で1077石が安堵されている。一社でこの石高は相当なものである。

中村一氏

これは豊臣秀吉朱印状の380石を大きく逸脱しており、また富士大宮司・社人領の412石で考えても逸脱していると言えるのであるが(松本2020;p.6)、翌年にあえて中村一氏による直判文書が発給されていることから考えると、1077石が正しいのだろう(これらを合わせたものとも考えられる)。どちらにせよ、同社の権威の大きさを感じるものである。

また富士浅間宮の「富士大宮司」「公文」「案主」「社人」「宝幢院」といった神職は分かるが、「(富士)段所」の立場はよく分からないものがある。

これら一連の寺領安堵から、徳川家康の影響力が排除され、豊臣権力が確実に流入していることが分かる。天正期の目まぐるしい変移が感じられるものである。

  • 参考文献
  1. 久保田昌希(2019),「井伊直虎・直政と戦国社会」『駒澤大学禅文化歴史博物館紀要 (3)』
  2. 松本和明(2020),「駿河国における朱印寺社領成立について」『人文論集』 71(1)
  3. 池上裕子(1991)「戦国期における相駿関係の推移と西側国境問題―相甲同盟成立まで―」 『小田原市郷土文化館研究報告』27号

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