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2022年7月24日日曜日

梶原景時の変と駿河国在地武士、三澤氏と三澤寺

「梶原景時の変」の末に梶原一族は滅亡するが、実は梶原景時らが討たれたのは「曽我兄弟の仇討ち」の地である静岡県富士宮市のお隣、現在の静岡県静岡市であった。


梶原景時

『吾妻鏡』正治2年(1200)正月20日条には以下のようにある。


廿日 (中略)亥の刻、景時父子、駿河国清見関に到る。しかるにその近隣の甲乙人等、的を射んがために群集す。退散の期に及びて、景時途中に相逢ふ。かの輩これを怪しみて矢を射懸く。よって庵原小次郎・工藤八郎・三澤小次郎・飯田五郎これを追ふ。景時狐崎に返し合はせて相戦ふのところ、飯田四郎等二人討ち取られをはんぬ。(中略)また景時ならびに嫡子源太左衛門尉景季〈年丗九〉・同弟平次左衛門尉景高〈年丗六〉後の山に引きて相闘う。しかるに景時・景高・景則等、死骸を貽すといへども、その首を獲ずと云々。

非常に激しい戦闘であったことが見て取れる。またこの討伐には駿河国の在地武士が主体として参加しているため、駿河国の情勢を考える上でも参考となる。

梶原一族の討死を順番通り記すと、先ず梶原景茂が、その後兄弟四人(景国・景宗・景則・景連)が、そして景時景季景高が死している。景朝は生き残っている。このうち下線の人物は「富士の巻狩」にも参加した人物である。景時は所々で大役を努め、景季は矢口餅を陪膳した人物であり、景高は万寿(源頼家)の初鹿狩りを鎌倉へと伝えた人物である。

ほんの数年前まで幕府の実力者であったのにも関わらず、この立場の変化は驚くところである。『吾妻鏡』同21日条には以下のようにある。

廿一日 戊申 巳の刻、山中より景時ならびに子息二人の首を捜し出す。およそ伴類三十三人、頸を路頭に懸くと云々。

景時・景高・景則の頸が山中より探し出されたとある。景時は

「清見関」(清水区)→「狐崎」(清水区或いは駿河区)→「後の山」

と移動した後、討ち取られている。「後の山」は梶原山(静岡市葵区)に比定され、「梶原景時終焉の地」として現在も管理されている。

『吾妻鏡』同23日条には以下のようにある。

廿三日 庚戌 (中略)西の刻、駿河国の住人、ならびに発遣の軍士等参著す。おのおの合戦の記録を献ず、広元朝臣、御前においてこれを読み申す、その記に云はく、

正治二年正月廿日、駿河国において、景時父子、同家子郎等を追罰する事。

(中略)

一 廬原小次郎、最前にこれを追い責め、梶原六郎・同八郎を討ち取る

一 飯田五郎が手に二人を討ち取る〈景茂が郎等〉

一 吉香小次郎、三郎兵衛尉景茂を討ち取る〈手討〉

一 渋河次郎が手に、梶原三平が家子四人を討ち取る

一 矢部平次が手に、源太左衛門尉・平二左衛門尉・狩野兵衛尉、巳上三人を討ち取る

一 矢部小次郎、平三を討ち取る

三澤小次郎、平三の武者を討ち取る

一 船越三郎、家子一人を討ち取る

一 大内小次郎、郎等一人を討ち取る

一 工藤八が手に工藤六、梶原九郎を討ち取る

正月廿一日

(以下略)


とある。ここに梶原景時の武者を討ち取った人物として「三澤小次郎」が記される。この三澤氏と富士宮市との縁故を示す言い伝えがある。以下、(富士宮市;2019)より引用する。


三沢小次郎について、安永8年(1779)に編まれた日諦の『本化高祖年譜』には、「淡州ノ人移駿州 富士郡大鹿村富士十七騎之一、延慶二年五月十八日没、法号三沢院法性日弘、其居為精舎号弘法山三沢寺朗公為開祖」、つまり「淡路の出で富士郡大鹿村へ移り住み、延慶2年(1309)死去し、遁世して三沢院法性日弘を名乗り、日朗を開祖に住居を寺にした」と加筆している。延宝8年(1680)に三沢寺日相が書写した『三沢寺縁起』(『芝』)は、『吾妻鑑』に載る、奥州合戦等で軍功を挙げた三沢小次郎の孫昌弘が、日蓮から消息を受け取った人物としている(『芝』)。同内容は『駿河記』『駿河国新風土記』(文化13(1816)-天保5(1834))にも記述されるが、これらはいずれも後世の編纂物であり、三沢寺と三沢小次郎・昌弘を直接結び付ける同時代史料は今のところ確認できない。


三澤寺(富士宮市大鹿窪)が、その成立を三沢氏に求めているということが分かる。

ここで注目したいのは、三沢氏をはじめとする駿河国の武士の面々である。この一連の記述の中で、「庵原氏」「飯田氏」「吉川氏」「渋河氏」「矢部氏」「三沢氏」「船越氏」「大内氏」「工藤氏」の名が見えるのである。

中でも吉川友兼は実力者であり、曽我兄弟の仇討ちの際の「十番切」の人物でもある。『吾妻鏡』正治2年(1200)正月23日条には「駿河国内に吉香小次郎は第一の勇士なり」とあり、吉川友兼を強く称える構成となっている。

有力者の討伐ということもあり、通常では記されないであろう在地武士の名が記されたという意味で、この一連の記録は貴重である。戦国時代の史料には庵原氏や矢部氏の名が度々見られるが、『吾妻鏡』の「庵原」「矢部」といった面々はその祖先と考えて良いと思われる。ただ、戦国時代の吉原の商人「矢部氏」と『吾妻鏡』の「矢部平次」「矢部小次郎」らが同じ系譜であるのかは検討を要する。

また真名本『曽我物語』にはいわゆる「二十番の狩り」の場面で「洋津(興津)」「萱品」「神原(蒲原)」「高橋」らの名が見える。

また、以下の古文書が好例であるので示したい。




この古文書は年未詳で時代比定もやや分かれるところであるが、永享6年(1434年)辺りであるとされる。駿河国守護である今川家のお家騒動に関連して室町幕府により発給された文書である。今川家当主であった今川範政は、後継者に嫡子である「彦五郎」ではなくまだ幼い「千代秋丸」を推し、これがきっかけとなりお家騒動は生じた。駿河国の国衆間では、「彦五郎支持派」と「千代秋丸支持派」とで分かれた。

幕府は彦五郎(今川範忠)の擁立を決定し、反対勢力(千代秋丸派)を鎮圧した。その後今川貞秋が駿河国へ入国することとなったが、当文書は当時千代秋丸派に回った駿河国の国人ら(室町幕府に従わない勢力)に忠節を命じる文書である。

画像では各人の名が順に記されているが、実際は同文のものが各人にそれぞれ発給されている。「富士大宮司」と「富士右馬助」の両人にそれぞれ発給されているのは驚くべきことであり、室町幕府より別個の武力単位として把握されていたことを意味する。これは「富士家の家中関係考、富士大宮司とその子息および浅間大社社人」の大久保氏の仮説を支持する材料と言えるのかもしれない。

この文書には、上で挙げた「興津氏」「庵原氏」が記される。時代を越えて継承されていったと捉えて問題ないと考える。富士氏の場合『吾妻鏡』の「富士四郎」「富士員時」が当てはまるだろう(「富士氏家祖の謎と吾妻鏡に記される和田合戦の富士四郎および富士員時」)。

『吾妻鏡』や『曽我物語』に記されない一族も居たと思われるが、様々な「変」や「乱」で淘汰されていってしまったのだろう。

  • 参考文献
  1. 富士宮市教育委員会(2019)「史跡大鹿窪遺跡保存整備基本計画」
  2. 杉山一弥(2014)『室町幕府の東国政策』178-179頁,思文閣出版
  3. 裾野市教育委員会(1995),『裾野市史 第二巻 資料編 古代中世』319-321頁

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