- 『吾妻鏡』に見える富士郡の事象
西暦 | 出来事 |
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治承4年(1180)10月14日 | 鉢田の戦い(場所諸説あり) |
同20日 | 富士川の戦い(場所諸説あり) |
文治2年(1186)6月9日 | 富士領の年貢を早く納めるよう、朝廷より催促される |
同7月19日 | 源頼朝、福地社に神田を寄進 |
文治3年(1187)12月10日 | 富士郡の田所職を橘為茂(橘遠茂の子)が賜る ※橘遠茂については「曽我兄弟の仇討ち舞台の地である富士宮市の富士野について」を参照 |
文治4年(1188)6月4日 | 朝廷、富士領の扱いについて子細を調べた上で沙汰するよう命じる |
文治5年(1189)7月5日 | 源頼朝、富士御領の帝尺院に田地を寄附する |
同11月8日 | 富士郡の年貢である綿が朝廷に献上される |
建久4年(1193)5月15日-同30日 | 源頼朝、富士野にて巻狩りを行う(曽我兄弟の仇討ち) ※「曽我兄弟の仇討と富士宮市・富士市、鎌倉殿の意図考」を参照 |
建久6年(1195)12月2日 | 富士郡の年貢である綿が京都へ送られる |
建仁3年(1203)6月3日 | 源頼家、富士の狩倉に出かける。仁田忠常に人穴を検分させる |
同4日 | 忠常、人穴から戻り報告を行う |
建暦2年(1212)5月7日 | 北条朝時、富士郡に下向 |
建保4年(1216)12月20日 | 富士御領の年貢が未だ皆済されていないと報告される |
建保7年(1219)3月26日 | 北条泰時、富士浅間宮(富士山本宮浅間大社)に参拝する |
貞応2年(1223)6月20日 | 富士浅間宮(富士山本宮浅間大社)の遷宮儀式が執り行われる |
寛喜元年(1229)11月26日 | 幕府より材木の杣入(材木調達)が富士郡に命じられる |
寛元2年(1244)2月3日 | 富士姫(北条泰時の娘)、富士郡へ下向 |
- 富士御領について
つぎに仇討の舞台となった富士野はどうであろうか。『吾妻鏡』の文治2年(1186)6月9日条は富士領が関東御領であると記し、同4年6月4日条はここがかつて平家の所領だったと記し、その領主として北条義時の名をあげている。さらに富士郡については、済物は後白河院に進上されているものの、田所職の給与を北条時政が行なっているのをみれば、時政の所領であったとわかる(文治5年11月8日、3年12月10日条)。どうみても富士野一帯は北条氏の所領だったわけである。
富士郡は年貢を朝廷に納める義務があったが、土地関係の沙汰は北条氏が行っている。ちなみに当然「富士野」は富士領に含まれるが、「富士野=富士領全体」ではないので注意されたい。また『小田原市史』には以下のようにある。
まず事件そのものの政治性について見るが、敵討の場が富士野であり、そこが北条氏の所領であった点に注目したい。『吾妻鏡』文治3年(1187)12月10日条によれば、この日に富士郡の田所職が時政の計によって橘遠茂の子為茂に与えられており、このことから富士郡は時政が管轄していたことが分かる。その富士郡の富士野での巻狩りであれば、当然、接待役は時政ということになり、事実、当日に「駄餉」を献じている。またその記事では、時政の庇護した為茂の父遠茂は、平氏に属して頼朝に敵対していたとあるので、曽我兄弟と同様に、時政は頼朝に敵対して没落した武士などを広く庇護していたことも知られる。
敵方の将であった「橘遠茂」の子息にあたる「橘為茂」を保護するという時政の方針には、独自性を感じるものがある。「寛大」と取ることもできるかもしれない。また(小田原市;p.257)には「そして何よりも敵討の場である富士野の地が名越氏の所領として伝えられていたのである。それは次の『吾妻鏡』建暦2年(1212)5月7日条から知られる」とあるが、これは北条氏一族にあたる「名越流」の朝時の不祥事を指す。
北条朝時は不祥事後に富士郡に下向しており、下向しているからにはこの地が北条氏関係の所領であったと考えることができるためである。
では、実際に『吾妻鏡』の記述を確認していきたい。
後白河法皇 |
一、富士領の事
件の年貢、早く進済すべし。御領たるべきの由、先々仰せられをはんぬ。定めて存知すらんか。…(文治2年(1186)6月9日条)
源頼朝に対し年貢の進済を促す内容である。
甲午 駿河国富士領上政所福地社に神田を寄せたてまつる。江間四郎これを沙汰す(文治2年(1186)7月19日条)
この「福地社」は現在の富知神社(静岡県富士宮市朝日町)のように思われる。『延喜式』の富士郡三座の一角「富知神社」も、この社であると思われる。
北条殿の計ひとして、富士郡田所職を賜はる(文治3年(1187)12月10日条)
ここでいう「北条殿」は北条時政のことであり、五味が指摘するように時政の所領であったのであろう。
八条院領
同国富士神領(文治4年(1188)6月4日条)
「神領」とあるからには「富士山本宮浅間大社の所領」ということで良いと思う。
癸亥 駿河国富士の御領帝釈院に田地を寄附せらる。これ奥州征伐の祈祷なり。江間小四郎これを沙汰す(文治5年(1189)7月5日条)
富士郡の「帝釈院」への寄進を示す。
また綿千両を仙洞に奉らる。これ駿河国富士郡の済物なり(文治5年(1189)11月8日条)
後白河法皇に、富士郡の年貢である「綿」を献上したことを示す。綿は富士郡の特産品であったと考えられる。
駿河国富士郡の済物綿千両、京都に進ぜらる。(建久6年(1195)12月2日条)
これも同様の内容である。
廿日 戊辰 富士御領の済物京進の錦、皆済の儀なきの旨と云々。甘苔の夫は必ず今明中に進發せしむべきの由と云々(建保4年(1216)12月20日条)
富士御領の済物である綿の未納分があり、それを納めるよう促す内容である。これをみると年貢は相当の負担であったことが分かる。このような当たり前に負担を強いる体制を見ると、朝廷の衰退は成るべくしてなったように思える。
またこの「甘苔」とは「富士海苔」のことではないかと思われる。富士海苔は芝川流域で採れるカワノリのことであり、富士郡の特産品である。カワノリは歴史的にも「海苔」と記さず「苔」と記す例が認められるので、これがカワノリである可能性は高いように思われる。であるとすれば、富士海苔とするのが妥当であろう。
- まとめ
『吾妻鏡』を見ると、比較的富士郡は頻出するように思える。これは五味氏が指摘するように、富士郡が北条氏の所領であったことが関係すると思われる。北条氏関係者の富士郡への下向例が多いのもその証左である。
源頼家 |
まとめると、以下ようなことが分かる。
- 北条氏の所領があり、同関係者が度々下向する地でもあった
- 富士郡の上方(富士宮市)は巻狩・狩倉として用いられていた(源頼朝・源頼家)
- 年貢が綿であった
- 有力な社があり、重要な位置を占めていた
辛酉 駿州かの国に下著したまふ。これ富士浅間宮以下の神拝のためなり。去ぬる正月廿二日、守に任じたまふといへども、國郡忩劇連続するの間、今に延引すと云々。
とある。つまり「駿河守」に任じられたのなら富士浅間宮(富士山本宮浅間大社)に参拝するのは当然の習わしなのである。富士山本宮浅間大社は極めて社格が高く、様々な顔がある。駿河国一宮であり、浅間神社の総本宮であり、『延喜式』の富士郡三座のうちの一つでもある。
- 参考文献
- 五味文彦(2018),『増補 吾妻鏡の方法』,吉川弘文館
- 小田原市(1998),『小田原市史』通史編 原始 古代 中世
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