富士山麓の地域が分からない方へ

2020年4月27日月曜日

富士氏の系図から近世の富士家庶流について考える

この記事は「富士氏の系図から戦国時代の富士家について考える」の続編である。今回は「近世の富士家庶流」について考えていきたい。まず前回述べたように富士家は戦国時代に系統が大きく2つに分かれているので、まずこれらを区別して捉えなければならない。つまりは


  1. 富士大宮を本拠とした「本流」の富士氏
  2. 関東に拠点を持った「庶流」の富士氏


という区別である。当記事では「2」について考えていきたい。

『寛政重修諸家譜』

『寛政重修諸家譜』

近世における庶流の富士家についてであるが、まず『寛政重修諸家譜』(以下、寛政譜)には信重の子として「信友」「信久」「信吉」「信成」が記され、このうち信成が継いでいるとみられ、その後は


信成-信宗-信良-信久-信清


と継承されており、すべて嫡男が継いでいる形である。信清には子として「信成」「信乾」が居たものの、信清の代で絶えているようである。「和邇氏系図」と「富士大宮司(和邇部臣)系図」については、信重は当主でないので子息等は記されていない。なので以下では基本的に寛政譜と『寛永諸家系図伝』(以下、図伝)等が検討の材料になってくる。

  • 富士信成

まず、近世初頭に活躍したと思われる富士信成について考えていきたい。信成に関して興味深いのは、『干城録』に「正保三年、遺跡をつく」とあることである。寛政譜にも信成の説明にて「正保三年遺跡を継」とある。本来家を継ぐべき位置にあった長男信友は17歳で死しており、二男・三男は「別に家を起し」とある。そのため信成が継ぐ形となったのであろう。



以前解説したように、天正19年(1591)に富士信重は「長尾台」と「飯嶋」の両地、合わせて百石を知行地として得ている。そして寛政譜における信成の説明に「采地鎌倉郡長尾台村の長谷寺に葬る」とあるところを見ると、家督を相続し没するまで同地に居続けたようである。

このように寛政譜には信成の墓が長谷寺にあることが記されているが、この墓は現在も残っている。墓碑銘は以下である(※要確認)。

    元禄二年 
冨士   為歡(異字体)光院殿  喜誉蓮西信士霊  
    巳己九月念一日

とある。これが長尾台の地に残っているという事実そのものが重要であろう。

  • 信成以後の動向

これは仮説であるが、信成より二代後辺りには相模国から拠点を移しているきらいがあるのである。

『下総国各村級分』によると、江戸時代は元禄末期に千葉郡神窪村を「富士市十郎」が知行地としている。また『旧高旧領取調帳』によると、幕末期に千葉郡神久保村(神窪村)の地を「富士弥一郎」が知行地としている。また同じく『下総国各村級分』の元禄末期の記録で、下総国印旛郡鎌刈村を「富士市十郎」が知行地としている。

そこで元禄年間の「富士市十郎」について考えていきたいが、寛政譜を見ると「信良」が「市十郎」を通称としていたことが分かる。寛政譜の信吉の項には以下のようにある。

延宝6年12月6日遺跡を継。時に十歳元禄4年5月28日班をすすめられて桐門番となり、12月2日御次番に轉じ、廩米百俵を加えられ、5年2月7日ゆへありて務をゆるされ出仕をはばかり、5月9日ゆるされて小普請となる。7年閏5月9日小十人に列し、14年11月下総国の采地を同国千葉郡及び武蔵国橘樹郡のうちにうつさる(以下略)

『下総国各村級分』といった史料でも裏付けられるように、富士信良は下総国に采地(知行地)を持っていた。寛政譜の「14年11月下総国の采地を同国千葉郡及び武蔵国橘樹郡のうちにうつさる」という記述は、下総国印旛郡の采地分が千葉郡及び武蔵国橘樹郡に分けて知行されたことを指すようである。

そして『旧高旧領取調帳』に幕末に富士弥一郎が采地としていたところを見ると、これらの知行地は富士家で代々引き継がれていたようである。富士信重の子孫は、場所を変えつつも知行地を得続け、武家として存続し続けたのである。

  • 「富士信久」流の富士家

『干城録』に「二男市左衛門信久・三男七郎左衛門信吉ハ別に家を起し」とありとあるが、この富士信重二男である信久流の「富士家」の系譜が寛政譜には別で記されている

信久-信尚-信貞-信定-時則

と継承されている。これを見るとこのとき富士家は「三ないし四系統あった」と見ることもできなくはない。


富士氏系統
富士大宮の富士家本流
相模国の富士家(信成)富士信重の子、図伝では三男、寛政譜・干城録では四男。寛政譜に系図あり(信重の直系として)。
富士信久(別に家を興すとあり)富士信重の子、図伝では長男、寛政譜・干城録では二男。寛政譜に系図あり。
富士信吉(別に家を興すとあり)富士信重の子、図伝では二男、寛政譜・干城録では三男。独自の系図なし

こうしてみたときに、やはり「信重-信成」の血脈が本流に次いで名門であると考えられる。

『寛永諸家系図伝』

図伝の方がより古くこちらに信友の名が見えても良いはずであるのに、より後世の寛政譜で信友の名が見えるのはおかしな印象を受ける。これには信友の存在を隠そうとした意図もあったであろうか。

  • 現在の「富士姓」

関東にお墓参りに行くとごくたまに「富士姓」が確認できるが、これらの大部分は元を辿れば富士信重からの分かれであると考えられるのである。そもそも「富士」という名字は普遍的な名字では決して無いのである。最後の富士大宮司である「富士重本」は富士大宮(富士宮)から東京に転出しているが、明らかに現在のこの分布は富士重本の流れでは説明できないし、そうではないだろう。

もちろん本拠である静岡県富士宮市でも富士姓が確認できるが、こちらは「公文」「案主」系の富士氏の子孫が主であると考えるのが普通である。つまり「在地し続けた富士家」である。

武家としての立場を貫いた信重の奮闘の結果、現在関東に富士姓が分布していると考えて間違いないと思うのである。当たり前ではあるが、富士氏としては富士大宮司を継承し、富士山本宮浅間大社の神職として存続していくことがまず第一である。その重責は嫡子が全うし、第二子であった信重は富士家の意向かは不明であるが武家としての道を模索したのであろう。

今回はこれで終え、いつか「近世の富士家本流」をまとめる機会を伺いたいと思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿