以下は富士河口湖町と「富士山域」の関係である。
富士山体 |
ただ山体から離れているが故に、例えば「富士箱根伊豆国立公園」の最重要地区である「特別保護地区」の面積は大変限られたものであった。
たったの6haであり、これが山体からの距離感に由来することは言うまでもない。しかし後に西八代郡上九一色村を編入したことにより、この状況は一変する。富士河口湖町は突如として広大な特別保護地区を手にするのである。つまり1,133haのうちの大部分或いはすべてが、今現在富士河口湖町に属しているのである。
富士河口湖町は富士五湖(富士山麓鉄道、後の富士急行の社長による造語)のうち「河口湖」「西湖」「精進湖」「本栖湖」を有する。「西湖」と「精進湖」は元は「剗の海」という1つの湖であったが、貞観大噴火による富士山の溶岩で分断され生じた。
富士河口湖町が位置するこの地は、古くは「川口」とも表記され富士登山道の「舟津口」(川口口)を有した地である。ただ研究が少なく、その実像が判明しているとは到底言い難い。多くでは、『勝山記』や『甲斐国志』が「舟津口」について殆ど触れていないことが指摘され、主要道で無かったという見方が多い。ただ古道でありその起源はかなり遡ることができると考えられる。
この地も吉田同様に御師が勢力を保持した地域である。この地の御師としては先ず「小佐野越後守」が挙げられる。小佐野越後守は御室浅間神社の別当を務める役職にあり、代々「越後守」を名乗ってきた。それ故にこの町は現在「小佐野姓」だらけなのである。
また御師の家柄として「渡辺家」も挙げられるだろう。「富士城開城後の富士と武田の動向」にて挙げた九一色衆の渡辺氏がまさにそれである。ちなみにこの地は「渡辺姓」もかなり多い。この町で10人に姓を尋ねれば、おそらくその半分は「小佐野」か「渡辺」であろう。それくらい多いのである。他川口には「中村氏」「田辺氏」といった御師の家系が存在していた。
以上が、「富士河口湖町と富士山との関係」についての簡潔な説明である。
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