比較的最近発見された「富士曼荼羅図」に「松栄寺本紙本着色富士曼荼羅図」(以下、当図または当曼荼羅図)がある。参考文献として「富士山の参詣曼荼羅を絵解く 重要文化財指定本と新出松栄寺本」を参考に、解説していきたいと思います。まず、以下がその図である。
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「松栄寺本紙本着色富士曼荼羅図」 (※両端少々切れています) |
まず著名な「絹本著色富士曼荼羅図」(重文)は「
絹本著色富士曼荼羅図を考える」にあるように、”富士山信仰を広める目的があり、富士山信仰を絵画という形で説いたもの”であり、それは当曼荼羅図でも同様である。文献によると、この作品を伝来していた松栄寺(愛知県常滑市)の周辺で富士先達を勤めていた歴史があり、ここに伝来していたことには相関性がある。絹本著色富士曼荼羅図では全体で237人の人物が描かれているが、当曼荼羅図では75人が描かれている。また以下のような説明がなされている。
白装束に身を包んだ富士山への参詣者である道者を画中に45人配置することで、道者が富士参詣する賑わった様子を表現している。またこの道者を導くかたちで頭襟を額に付けた山伏の人物図像が各所に配置されている点は、道者を案内する先達を意識した図像であっただろう。
とし、中世後期に作成された富士曼荼羅図の特徴を持つものであるとしている。
構成は絹本著色富士曼荼羅図と同様で
清見ヶ関周辺が道者のスタート地点として設定されている。つまり当図は駿河国側を描いたものであり、もっと言えば「大宮-村山」(
大宮:浅間大社のあるところ 村山:富士山興法寺等があるところ)を中心として描かれたものである。
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清見ヶ関周辺(当図) |
ルートは「
富士本道」であり、「
駿河国富士郡大宮と吉原の関係と富士山登山ルート」にある「
岩本-高原/山本-黒田/田中-
大宮」(黒字は確実)のルートである。例えば文政6年(1823)の紀行文に「
東海道蒲原吉原の間、富士川東より左へ入、参詣道なり。大宮に凡二里斗、大宮に社人寺院も有」とあるのも、このルートである。
浅間大社が現在のような「浅間造」となったのは、江戸時代以降とされている。絹本著色富士曼荼羅図では浅間造が確認できず、一方「
紙本彩色富士曼荼羅図」(静岡県立美術館蔵)では描かれており、前者は中世作で後者は近世作であるというように推定がなされてきた。
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浅間造(「紙本彩色富士曼荼羅図」、静岡県立美術館蔵) |
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浅間造でない(絹本著色富士曼荼羅図) |
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富士浅間曼荼羅図(県指定)、浅間造でない |
当図は
浅間造が確認できず、上の法則に従うと中世期のものと推察される。
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富士山本宮浅間大社(当図) |
絹本著色富士曼荼羅図では全体で237人の人物が描かれているが、3名の女性が図示されている位置より上では女性が描かれず、女性が登拝できる限界点が示されていた。つまり「女人禁制」であるが、当図でも八幡堂前の3名より上では描かれず女人禁制が示されている。
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3名の女性(絹本著色富士曼荼羅図) |
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3名の女性(当図) |
当図上方に目を移すと
柵の横で焚き火をしている様子が描かれ、その少し上でも小屋内にて火を燃やしている様子がある。絹本著色富士曼荼羅図では上方で松明に火を灯して登拝する様子が描かれており、夜間登山を示す構図となっている。
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松明に火を灯し登拝する様子(絹本著色富士曼荼羅図) |
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焚き火や小屋の様子(当図) |
また文献では復路として潤井川と凡夫川が合流する「龍巌淵」付近を描いているといい、龍巌淵での禊を描くために復路が描かれるに至ったと推察している。
また「富士山決」(『神道門前法則・三種紙祇之事』所収)という史料がある。ここには"山体から下山し凡夫川の水を浴びる事は神道灌頂の「長生不老初湯」である"とする記述が見えるという。六所家所蔵『富士山大縁起』でも類似性がある記述があり、大変注目される(大東敬明,「「富士山決」覚書」『「富士山−その景観と信仰・芸術−」特別展図録』,2014)。
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富士山興法寺(当図) |
村山から国へ戻る際、往路として通った浅間大社(大宮)ではなく直接この龍巌淵へ至ったとしている。
- 大高康正「富士山の参詣曼荼羅を絵解く 重要文化財指定本と新出松栄寺本」『聚美18号 富士山 ─信仰と美の象徴』,2016
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