富士山麓の地域が分からない方へ

2026年5月20日水曜日

『渓嵐拾葉集』と『富士の人穴草子』との関係を考える

『渓嵐拾葉集』巻三十七「弁財天縁起」には、人穴にて人ならざるものと対峙し、また最終的には怒りを買うといった内容が記されている。

葛飾北斎「仁田の四郎忠常 富士の巌窟に入る」(『絵本和漢誉』)

該当箇所は以下の部分である。


一。武烈天皇御宇ニ泰澄大師彼島ニ籠テ行ル之。二臂天女ニテ二天具シテ我常ニ寂光土ニアリト(云云)。次役行者伊豆大島ニ流サレテ御座時ニ。彼島上ニ五色ノ雲靉靆ス。具二童子籠テ被行之。六臂ノ天女乘龜具童子。我常ニ靈山ニ有也(云云)。次道智法師彼島ニ籠テ奉誦法花經ヲ。其時ハ備飾饍。日本國女形テ薄衣ヲ著テ毎日ニ影向ス。道智龍女行方ヲ爲ニ知カ。藤ヲ衣ノスソニツク。遙尋行之程ニ。新田四郎ノ人穴ト云所ヘトメ行ク。其時ニ龍女嗔テ。此島雖至于劫燒ノ時藤ヲオホサント誓也(云云)。


『渓嵐拾葉集』の作者である光宗は、『元応寺列祖帳』によると健治2年(1276)生まれで、観応元年(1350)没であるという(田中2003;p.7)。『渓嵐拾葉集』の執筆開始は延慶2年(1311)からである(田中2003;p.9)。

多くの諸本があり(田中2003;p.43-50)、転写本を原本として近世に編纂されたものも多い(田中2003;p,53)。しかしテキストとしては、光宗によるものと考えることが出来る。この年代の人穴の記録であることを考えると、十分に注意が払われる必要性があるが、これまであまり指摘されてはいない。

「武烈天皇御宇ニ泰澄大師彼島ニ籠テ行ル之。二臂天女ニテ二天具シテ我常ニ寂光土ニアリト(云云)」の箇所に関しては、(田中2022;p.74)によると弁才天の本地が釈迦如来であることを示すという。

また「次役行者伊豆大島ニ流サレテ御座時ニ。彼島上ニ五色ノ雲靉靆ス。具二童子籠テ被行之。六臂ノ天女乘龜具童子。我常ニ靈山ニ有也(云云)」の箇所も、本地が釈迦如来であることを示すものという(田中2022;p.73)。

人穴に関する部分の意訳は、以下のようなものである。


道智法師が「かの島」に籠っていた際、法華経を読誦していた。その際は飾饍を備えていた。すると薄衣を着た女形の者が毎日姿を現すようになる。道智は龍女の行方を知るため、藤を衣の裾につけ追った。長い間にわたり龍女を追い、やがて新田四郎の人穴という所へと着いた。その時龍女は怒り、「この島が劫焼に襲われるようなことがあっても、藤で覆われる程までに戻すだろう」と誓いを述べるのであった。


道智法師が籠っていた「かの島」および龍女が言う「此島」とは、江島のことである。つまり江島が人穴に通じているという伝承は、14世紀前半にまで遡ることができるのであるそしてこの「龍女」は、弁才天と同一視できるものであろう。

そしてこの内容を見るに、『富士の人穴草子』との近似性は感じずには居られない。順序等は異なるとはいえ、人穴にて人ならざるものと対峙し、また最終的には怒りを買うという点で共通している。また歴史的に「龍」や「大蛇」は弁才天の化身と見なされていたが、『渓嵐拾葉集』では龍で、『富士の人穴草子』では大蛇という化身像の共通性もある。人穴に至った所で様相が一変していることから、人穴という場所に意味があるのである。

作者の光宗は「記家」とよばれる学僧であり、記家は中世の天台宗に生まれた独自の職掌であったという(田中2003;p.22)。『富士の人穴草子』の成立に、天台宗の影響を想定しても良いだろう。天台宗との関係を想定したものに(富士宮市2026;p.194)があり、以下のようにある。


加えて注目されるのが、室町時代初期の仏教説話集『三国伝記』最終話の「富士山事」との関わりである。『三国伝記』において、黒駒に乗って富士山に飛翔した聖徳太子が山頂の霊窟の穴に入り、大蛇と出会う光景は、新田が富士の人穴に入り浅間大菩薩の化身である大蛇と出会う場面と酷似し、『三国伝記』からの影響がうかがえる(小林2001)。これにより、近江を中心とした天台談義所のネットワークのなかで成立し、東国の伝承を広く取り込んだ『三国伝記』を原型として、『富士の人穴草子』が成立した道筋を想定できる


このようにあるが、そうだろうか。『三国伝記』を原型とするという想定であるが、『三国伝記』の成立は『渓嵐拾葉集』より時代を後にするものである。内容を見ても近似性は『渓嵐拾葉集』の方にある。

また、確かに天台宗の影響を汲むものとの想定は可能であるが、それが近江を中心とした天台談義所のネットワークとは思えない。あくまでも『三国伝記』成立の背景としてに留まるものであろう。

更に考えていきたいのは、『吾妻鏡』との交渉の有無である。『吾妻鏡』は例えば建仁3年(1203)6月4日条に「新田四郎忠常、出人穴帰参(中略)今次第尤可恐乎云々」とあるように、源頼家のその後を予見する記述になっている。つまり年代記とは言い難く、編集されたものである。また、編纂に用いた史料群が存在したとも言われている。

(田中2003;p.152)によると、『渓嵐拾葉集』は『沙石集』・『徒然草』とほぼ同時期の成立であるが、直接の交渉はないという。だからというわけではないが、私は今のところ『渓嵐拾葉集』は『吾妻鏡』に見える人穴探索譚の影響を受けたものではないと考えている。

「彼島」が江島を指すことから、人穴は早い段階で『江島縁起』の中にあったと言える。『照高院興意様関東御下向略記』(誠仁親王の第五子である興意法親王の動向を記したもの)の慶長14年(1609)4月23日条には以下のようにある(首藤2006;p.28-29)。


卯の廿三日  天晴 御門主、御看経遊ばさる。(中略)次に江島に御参詣あるべきなれば。本海道より脇道へかかる。(中略)まず一段高き所に弁才天御立ちある。(中略)山の上に昔頼家の時、仁田四郎、富士の人穴をくぐりて、この江島へ出でしあなあり。それより岩のがけ道をはうはうくだれば、昆深在より生え出でたる山あり。

このような江島と人穴が繋がっているとの認識は相当に遡ると考えられ、『渓嵐拾葉集』はその影響を受けたものの1つと見て良いのではないだろうか。

  • 参考文献
  1. 田中貴子(2003)『『渓嵐拾葉集』の世界』、名古屋大学出版会
  2. 首藤善樹(2006)「『照高院興意様関東御下向略記』(中)」 『本山修験』第171号
  3. 田中亜美(2022)「文献と造像にみる弁才天と仏・菩薩・神との習合 -江島縁起を起点に-」、『多元文化 11』、早稲田大学多元文化学会、67-93
  4. 市史編さん委員会(2026)『富士宮の歴史 通史編Ⅰ』、富士宮市

2026年5月18日月曜日

曽我兄弟の仇討ちの地として記される神野の比定地考

「曽我兄弟の仇討ち」の地は、『吾妻鏡』によると富士野の神野とある。


 曽我十郎祐成・同五郎時致、富士野の神野の御旅館に推參致し工藤左衛門尉祐経を殺戮す(建久4年(1193)5月28日条)


曽我十郎祐成(「伏木曽我」の場面)


ではこの「神野」について、富士宮市はどこを比定地としているのであろうか。新『市史』である(富士宮市2026;p.79)には、以下のようにある。


江戸時代の村には名前は見えないが、中世の史料にみえる地名もたくさんある。(中略)「神野」は内野の字上野一帯、


このように「神野」=「上野」という解釈が示されているのであるが、そうだろうか。各史料を見るに、とてもそうは思えないのである。例えば『信長公記』には以下のようにある。


四月十二日、本栖を未明に出でさせられ、寒じたる事、冬の最中の如くなり。富士のねかた かみのが原 井出野にて御小姓衆 何れもみだりに御馬をせめさせられ 御くるいなされ 富士山御覧じ御ところ、高山に雪積りて白雲の如くなり。誠に希有の名山なり


天正10年(1582)4月12日、織田信長一行は本栖を出て「かみのが原」「井出野」に至った。中道往還を南下してきた形である。つまりこの両地は隣接しているのである。本栖を過ぎた地点として記されていることから、国境付近と考えたほうが良い。

また当該地の地理の見通しをより良くしてくれる史料として『甲信紀行の歌』がある。『甲信紀行の歌』は天文15年(1546)ないし同16年(1547)、三条西実枝が甲斐国を訪れた際の歌を、供をした相玉長伝が書き留めた史料である。うち該当箇所を見ていきたい(山梨県2002;p.878-881)。


同廿一日、本栖の御宿を御立の朝、各御短冊進上、返事共、(中略)

本栖を御立ありての道にて、撫子の花をおりて奉るとて、(中略)

かみの原にて御落馬有し時、(中略)

本栖御宿にて、紅葉の枝を顔にあてゝ奉るとて、別路を思ふ涙のしくれにや かおのもみちをちらす秋風(以下略)


三条西実枝は天文16年(1547)8月21日に本栖を発つ際に歌を読み、その返歌を受けている。そしてその道中(本栖を御立ありての道)でも実枝は返歌するなどしている。その返歌の次に「かみの原にて御落馬有し時」の歌が記されている。

これはかみの原、つまり「神野原」が本栖に隣接するからこそ、ここに見えていると考えるべきではないだろうか。ここで急に「上野」が登場するのは極めて妙であるし、あまりにも距離が離れすぎている。


富士宮市内野

むしろ「神野」は上井出より更に北部に位置すると考える方が自然ではないだろうか。つまり「神野」=「上野」ではないのである。


  • 参考文献

  1. 山梨県(2002)『山梨県史 資料編6 中世3下 県外記録』
  2. 市史編さん委員会(2026)『富士宮の歴史 通史編Ⅰ』、富士宮市

2026年5月10日日曜日

富士市の生贄伝承一大群とTRICK感を考える、シティープロモーション化の可能性

富士市は令和8年(2026年)11月1日に市制施行60周年を迎える。そこで富士市について考えてみた所、富士市に内在する"TRICK感"が頭をよぎった。この機会にこれをしっかりと言語化しておこうと思った次第である。そして最終的にはシティープロモーションの可能性にまで話を繋げたいと考えている。

皆さんは「TRICK」(※ビジュアルではKは左右反転)という作品をご存知だろうか。この作品の世界観は何とも独特で言語化し難いものがあるが、YouTubeなどで「予告編」などが未だに残されているので、空気感を把握して頂ければと思う。

さてこの作品と富士市がどう関係してくるのかということであるが、何となく富士市にTRICK感が有りはしないだろうか、という話しなのである。この作品は、物語の舞台の地に辿り着くと決まって現地住民が不思議なことを口走ったり、奇妙な行動を取るというようなくだりがある。

ネットを調べると、富士市でそれに近しい報告がいくつも見られる。ここでは、都市伝説とかそういう野暮ったいものは挙げず、「地域伝承」に係るものに限局してその実例を紹介してみたい。

まず「磔八幡」(正式名称は「八幡宮神社」、通称「青嶋八幡宮」とも)である。報告は「磔八幡訪問時の報告」を見て頂きたい。「磔八幡宮は、ちょっと事情があって表から行かないほうがいい」という現地住民の発言であるが、これは次に登場する看板の文言と関係するのではないだろうか。

報告によると、境内の告知板の文言として「我が家の伝承と異なる点も多々あり迷惑致します」とあったという。これはここでいう"我が家"が、先の現地住民が述べる「表側」に位置しているという可能性を想定させるものである。

では「我が家の伝承と異なる」とはどういうことだろうか。それを探るために、緊張しながらも現地に赴いてみた。残念ながら、上の告知板はもう存在していなかった。そしてその当時は存在していなかった石碑が確認された。


石碑の内容はこのように大変な美談となっているのであるが、磔八幡に関する初見を見るに、伝承はそんなに美しい面ばかりではないようである。そのような事実を鑑みるに、「我が家の伝承と異なる」というのは、以下の2パターンのどちらかであろう。


  1. 美談ばかりが誇張されているが、実際はそんなものではないという抵抗感
  2. 川口市郎兵衛の末裔による粗相話は、あまり表に出さないで欲しいという抵抗感


石碑の文言を読むと「合議がなされ」「氏子組織を整え」「中興」とある。このような否が応でもリセットを感じずには居られない表現と石碑は美談で整えられているという事実を見たときに、上の告知文は「1」のスタンスであったのではないか?というようにも思えてくる。詳しくは分からないが、なんらかの対立があったことは明らかであろう。

次に「三股淵の生贄伝承」である。報告は「生贄伝説を語る古老」を見て頂きたい。もうTRICKの世界そのものといった雰囲気であるが、血走った目で生贄伝承を語る古老の心境を考えるに、"この伝承話が地元民の記憶から無くなって欲しくない"というような心情もあったのかもしれない。

一方私はこれまで一体何人の富士市民と会話してきたのか分からないくらいには接してきているが、生贄のエピソードがその口から出てきたという経験はない。しかも歴史の話においてでも同様である。しかしこの伝承を、特に上の世代が全く知り得ていないとするのは難しいと思われるので、触れてはいけないものとして扱われている可能性もある。

仮にそうであるとすれば、上の「磔八幡」の例と近しいものがあると言える。


  1. 伝承をそのまま伝えていきたいと考える側
  2. むしろ伝承を伝えたくないと考える側

この2つがあり、磔八幡も「1」と「2」の対立があったのではないかとの推測が浮上する。三股淵の伝承を語る古老は「1」であり、「2」の風潮を快く思っていないのではないだろうか。

富士市の伝承・伝説を一通りみていくと、根底は同じ性質のものであるということに気づく。つまり"生贄"である。磔八幡も、見方を変えれば"川口市郎兵衛一人が犠牲となった物語"ではないのか。「お菊田の伝承」も、お菊が無理難題の犠牲になったのである。富士市は歩けば生贄にぶつかるわけであるが、これはやはり偶然では片付けられない。これは「生贄郷」と呼ばれた地の宿命と言うべきだろう。この多さを考えると、生贄が付加されてしまうという性質を持ち合わせていたとしか考えられない。

そして富士市には「1」と「2」をミックスさせた現象も認められる。それがどういうことなのかを見ていこう。人柱伝説で有名な「雁堤」についての説明板が、同地には設置されている(雁堤の人柱伝承)。


こちらも大変な美談となっているのであるが、この伝承は平たく言えばこういうものである。


難工事であった堤を完成させるため、神に人柱を捧げることとなった。しかしそれは現地の人間からは選ばれず、東海道の通行人から無作為に選ばれ、実際にそれが行使された。


つまり、普通の感性から言えば「守護神」という表現にはならない。「人柱」「人身御供」「生贄」などが正しいだろう。この文を作成した人は、守護神の意味が分かっていない(おそらく故意であろう)。また説明板を読む限り、もうここ(問答無用で人柱にされている)に対する違和感は全く感知しないと言わんばかりである。

富士市はこのような"美談化"が大好きで、これは「1」と「2」をミックスさせたものである。つまり「伝承を取り上げるが、美談化しておこう」というものが「3」である。

この「3」は三股淵の伝承でも例に漏れずであった。以下は六王子神社にある御札である。


この御札の文言に対する違和感は「富士市の吉原一帯は何故生贄郷と呼ばれたのか、人身御供の風習と富士市の地理を考える」にて記している。これもそもそも土民が生贄を行っていることには触れず、「埋めた」ということ1つをもって「聖」の部分を喧伝しようという意図が見える。また私は「3」が郷土史家によって推し進められていたという仮説を立てており、「富士市において歴史学は何故敗北したのか、お菊田伝承や富士市刊行物から紐解く」にてそれを解説している。これは巧妙に、そして着実に進められた。

つまり、何となく感じるTRICK感の正体は、「3」から由来する歪みなのではないだろうか。なんだか訳ありで含みを持たせている告知文の存在や、血走った目で解説する古老の方を「異」として捉えてしまいそうであるが、実はそちらの側がいたって普通であったということは有りはしないだろうか。

以前"比定地とされていないのに山部赤人の万葉歌碑が建立されたのはおかしいし、異を唱える人が居なかったわけがない"ということを述べたことがある。さすがにそこまで人材が居ないということもないだろうし、そういう人は実際に居ただろう。しかし富士市のプロトコル的にはそれは異分子として処理されるだろう。

富士市は民俗学的にはとても興味深い地域である。従来富士市では、煙突群(工場群)は忌避されていた。しかし最近ではこれを「工場夜景」としてシティープロモーション化する試みが進められている

この生贄伝承の一大群も、シティープロモーション化してみたらどうだろうか。つまり「3」のようなことはせず、ありのままで、普通にプロモーション化すれば良いのではないだろうか。雁堤の説明板も、普通に「人柱」「人身御供」と書けば良いではないか。このような行動は、むしろシティープロモーション化の潜在性を失うことになるだろう。

今現在も「雁堤」「磔八幡」「阿字神社」「六王子神社」「保寿寺」「お菊田」等は残っているので、皆様に是非訪れて頂きたいと思っている。

2026年5月3日日曜日

曽我物語図扇面考、古画類聚との関係と松屋棟梁集の解釈

本稿では「富士野の絵画化例考、18世紀までの富士巻狩図と夜討図」でも取り上げた「曽我物語図扇面」について考えていきたい。(井澤1999;p.431)には以下のようにある。


一対の曽我物語図の遺例を紹介する。

一、「曽我物語図扇面」

扇の一面に富士巻狩図が描かれ、画風から室町時代末期から桃山時代にかけての大和絵系の町絵師の制作と見られる。兄弟は落馬する前の祐経を追いかける姿であり、また人物の頭上には「すけつね」「すけ成」「より朝」「ときむね」「五郎丸」「志げただ」「よし盛」「うつの宮」「につ田ただつね」と名が記され多くの登場人物が特定されているが、基本的なモチーフや構成は「月次風俗図屏風」中の「富士巻狩図」と共通する。この扇面画には対になる図が存在していた。松平定信編纂の『古画類聚』(序文の年記、寛政七年〈一七九五〉)に一対の「扇面古画」の模写が収載されているが(図 4)、そのうちの一面がこの現存している「富士巻狩図扇面」の写しである。その裏面であったとおもわれるもう一面は、三七軒の屋形が連なる様を俯瞰でとらえた図様である。これは巻狩の際の仮屋で、兄の十郎が仇祐経の仮屋をさがして歩く「仮屋廻り」に取材して歩く「仮屋廻り」に取材している。屋形に巡らされた幕には巻狩に参加した武将の紋が描かれ、いくつかの屋形には墨書で武将の名も記されている。


この紙本著色の扇は(和泉市久保惣記念美術館1990;p.68)に白黒で掲載されている。完成度が高く、絵師が制作したことが伺われる。井澤氏が述べるように、本来は一対からなるものであり、もう一方の図柄が『古画類聚』に認められる(東京国立博物館1990a;p.16-17)。

井澤氏は「裏面であったとおもわれる」という言葉を用いているが、現存例の扇面が一面しかないため(サントリー美術館他2018;p.253)、順番としては「富士巻狩図」が頭であるという意味で述べていると解釈しておく。つまり一面ずつ一対の扇があり、一方のみが残ったと考えるべきである。

「曽我物語図扇面」と『古画類聚』を見比べたところ、図柄はぴったりと一致しており、『古画類聚』が実物の扇を模写したものであることが分かる。そして井澤氏の論稿の脚注には以下のようにもある。


註2の鈴木廣之氏の論文中で、高田与清『松屋棟梁集』(文化13年〈1816〉頃執筆)にも本扇面画二面が収載されていることが紹介されている。それぞれに「古き扇の画に畫たる鎌倉の頼朝大将軍富士野狩の圖」「其二富士野假屋の圖幸若舞の草子夜討曽我の段を考合すべし」と添え書きがある。

私は以前より『松屋棟梁集』は知り得ており、その中の絵図は既知のものであった(日本随筆大成編輯部編1975;p.178-181)。しかしうち一方が現存することも知らず、また『古画類聚』に書写したものが収められていることは知り得ていなかった。

富士野假屋の圖(『松屋棟梁集』


そこで『松屋棟梁集』のものと見比べてみた所、やはり図柄は一致している。ただ『松屋棟梁集』のものは所々略式化している。というより、『古画類聚』が異様に綺麗に模写できていると言った方が良いだろうか。この様々行き来していたと思しき扇について、もう少し深く考えてみようと思う。

まず時代背景を考える。『古画類聚』の成立は諸説あるが、文化13年 (1816)『松屋棟梁集』と同じ頃とも言われ、どちらが先行するのかは定かではない。『古画類聚』の方には扇絵の横に説明書きとして墨書で「扇面古画」とあるのみで(東京国立博物館1990b;p.102)、他に文字はない。

『松屋棟梁集』には一方の扇絵の傍に「古き扇の画に畫たる。鎌倉の頼朝大将軍富士野狩の圖。」と、もう一方には「其二 富士野假屋の圖。幸若舞の草子夜討曽我の段を考合すべし。」とあるが、これは『松屋棟梁集』にて新たに説明として加えられたものである。扇という形態から考えても、これらの文字は元々存在したものではない。つまり『松屋棟梁集』にて扇絵に対して名付けされたわけである。

ここで注目したいのは、その図柄の意味が違わず理解できているということである。巻狩りの地が「富士野」であること、建物群が仮屋を指し、それらは幸若舞の幕紋づくしから由来するであろうことが推察されている。これはかなり高度な理解である。源頼朝の巻狩り=富士野で催されたものという理解が通っており、『曽我物語』を理解し、その上で幸若舞を知り得ていないと成立しない。

曽我物語図扇面を見てみると、各所指摘されているように「月次風俗図屏風」第7扇「富士巻狩図」と場面がよく似ている。しかし明確な差異もある。例えば「月次風俗図屏風」では頼朝の従者が傘を指す猫写などはないが、本扇絵ではそれが認められる。

(林2020;p.21)は挿絵入り『曽我物語』の図柄を指す形で「頼朝が多くの勢子を連れて狩りを催している様子が描かれる。ここでは、傘を差し、馬に乗った烏帽子姿の頼朝が確認できる。この姿は組合せ絵本から共通する姿であり、後に続く富士の巻狩り図の挿絵とも通ずる」と説明する。本扇絵は室町時代後期と推定されているため(和泉市久保惣記念美術館1990;p.161)、その早例とも言えるものであり、注目される

(林2020;p.31)で同じく挿絵入り『曽我物語』における頼朝の図柄の特徴が説明され、"どの版においても挿絵の中の頼朝は、尻鞘の太刀を持つように描かれていることが多い"とし、また各曽我物語図屏風について"挿絵と同様の狩場における頼朝の姿が確認され、描かれる位置も画面の右上となる"とする。本扇絵も右上に頼朝が位置するが、頼朝の装いなどについては、刊行物の写真では限界がありはっきりとは分からなかった。

  • 参考文献
  1. 日本随筆大成編輯部編(1975)『日本随筆大成 第1期 3』、吉川弘文館
  2. 和泉市久保惣記念美術館編(1990)『扇絵 : 日本・中国・朝鮮半島』、和泉市久保惣記念美術館
  3. 東京国立博物館(1990a)『松平定信 古画類聚 図版篇』、毎日新聞社
  4. 東京国立博物館(1990b)『松平定信 古画類聚 本文篇』、毎日新聞社
  5. 井澤英理子(1999) 「曽我物語図考 -双屏風の成立について-」『日本美術襍稿 佐々木剛三先生古希記念論文集』、明徳出版社
  6. サントリー美術館・山口県立美術館編(2018)『扇の国、日本』、サントリー美術館
  7. 林茉奈(2020)「絵入り版本『曽我物語』考 : 挿絵に描かれる頼朝と曽我兄弟を中心に」、『語文論叢35号』、千葉大学文学部日本文化学会

2026年5月1日金曜日

源頼家の富士狩倉の絵画化例と仁田抜穴を考える

今回は源頼家の「富士の狩倉」の絵画化例を考えていきたい。本稿では頼家が敢行した巻狩りそれ自体を指して「富士狩倉」と記すこととする。

源頼家

『吾妻鏡』建仁3年(1203)6月3日条に以下のようにある。

三日 己亥 晴 将軍家、渡御于駿河国富士狩倉。彼山麓又有大谷〈号之人穴〉。為令究見其所、被入仁田四郎忠常主従六人。忠常賜御剱〈重宝〉入人穴。今日不帰出、幕下畢。


建仁3年(1203)6月3日に源頼家は駿河国の富士の狩倉に出かけた(=簡易版「富士の巻狩」のようなもの)。その山麓には大谷があり、「人穴」と呼ばれていた。頼家は人穴を調べるため仁田忠常と主従6人を向かわせた。忠常は頼家より剣を賜り人穴に向かったが、今日は帰ってこなかった。翌日については、以下のように記される。

四日 庚子 陰 巳尅 新田四郎忠常、出人穴帰参。往還経一日一夜也。此洞狭兮不能廻踵。不意進行、又暗兮令痛心神。主従各取松明。路次始中終、水流浸足、蝙蝠遮飛于顔不知幾千萬。其先途大河也。逆浪漲流、失拠于欲渡、只迷惑之外無他。爰当火光、河向見奇特之間、郎従四人忽死亡。而忠常、依彼霊之訓投入恩賜御剱於件河、全命帰參云云。古老云、是浅間大菩薩御在所、往昔以降敢不得見其所云々。今次第尤可恐乎云々。

意訳:4日になると忠常が人穴より帰ってきた。往復に一夜かかったという。忠常は人穴について述べる。「穴は狭く戻ることも出来なかったため前に進むことにしました。また暗く、精神的にも辛く、松明を持って進みました。水が流れ足を浸し、蝙蝠が飛んできて顔に当たり、それは幾千万とも知れず。その先に大河があり、激しく流れており、渡ることができませんでした。困り果てていたところ、火光が当たり大河の先に奇妙なものが見えた途端、郎党4人が突然死亡しました。忠常はその霊に従うことにし、賜った剣を投げ入れました。こうして命を全うして帰ってきました」と。古老が言うところによると、ここは浅間大菩薩の御在所であり、昔より誰もこの場所をみることができなかったという。今後はまことに恐ろしいことです。(意訳終)

また文保2年(1318)の自序を持つ『渓嵐拾葉集』には、以下の一節がある。


新田四郎ノ人穴ト云所ヘトメ行ク。其時ニ龍女嗔テ。


『渓嵐拾葉集』の成立を文保2年(1318)とした時、『吾妻鏡』との関係性は気になる所である。というのも『吾妻鏡』の成立も遠からずの頃とされるので(担当者が分かれていた)、やや年代が近すぎるように感じられるためである。従って、『渓嵐拾葉集』が必ずしも『吾妻鏡』から採ったとは限らない。この辺りは興味深い。もっと言えば、『渓嵐拾葉集』の前後の内容から考えるに人穴は早い段階で江島縁起の中にあったと見るべきだろう

そして富士狩倉の絵画化例は、主に以下の2つが挙げられるのではないかと思う。

  1. 奈良絵本/草双紙の挿絵(『富士の人穴草子』等)
  2. 浮世絵/武者絵

まずこれらを体系的に検討した研究は無い。富士野の絵画化例(源頼朝敢行)の研究は限られつつも見られるが、こちらは更に少ない。

ただ明確な差異は注目されるべきところであり、富士狩倉に関しては屏風図化はなされていない。また源頼家が狩場に居る猫写などは管見の限り無いと思われる

これは「富士野の絵画化例考、18世紀までの富士巻狩図と夜討図」で記したような、武家政権の象徴的な意味合いが富士狩倉では薄まっていることが挙げられる。後世の武将らは、富士狩倉に象徴性は見いだせなかったのである。同じ巻狩でも、頼朝と頼家のそれはその後の扱い方を見るにあまりにも対照的である。以下では絵画化例を具体的に見ていきたい。

  • 奈良絵本/草双紙の挿絵(『富士の人穴草子』)

奈良絵本は絵入り彩色写本が該当し、草双紙は絵入り小説本といえるものであるが、こと仁田忠常の人穴探索を題材にした群は『富士の人穴草子』として包括して扱われている節がある。その是非はともかくとして、とりあえず本稿では包括して扱う。

(中野1988;p.7)に「写本・版本ともに極めて多い」とあるように、多く現存する。しかし奈良絵本としては作例が限られるという(本井2003;p.471)。物語の構成は以下のようなものである。

源頼家に人穴探検を命じられた和田胤長が人穴の中を進むと、そこには富士浅間大菩薩がおり侵入を拒まれた。結果胤長は引き返したが頼家は諦めることができず、今度は仁田忠常を人穴探検に向かわせた。忠常は主君から拝領した剣を富士浅間大菩薩に献じた。忠常は人穴を進むことを許され、中では六道の一部と極楽浄土を目にする。しかし中の様子の口外は禁じられ、もし口外した場合は命を奪うと告げられる。戻った忠常は頼家に内情を伝えるよう強く迫られ、やむなく口外した忠常はただちに命を奪われてしまうのであった。

概ねこの流れを有するとされるが、人穴から戻った仁田忠常の扱いについては諸本で差異がある。また六道の場面では罪人が苛責を受ける場面があるが、その人物の具体的な国名が記されており、これらの事実から元々は語り物であったという推論もある。

『言継卿記』大永7年(1527)正月廿六日条に「ふしの人あなの物語」とあり、少なくとも16世紀前半には流布されていた。最古のものに室町時代後期写本(慶應義塾図書館蔵)が伝わっている。

(本井2003;p.478-480)に古活字版の挿絵を表化し説明したものがあったため、引用する。

場面
頼家の命を受ける平太(註:和田胤長のこと
和田義盛の宿所
平太の出立(註:狩倉の風景も描かれる)
人穴で多くの蛇に遭遇する平太たち
頼家に報告する平太
人穴探検に名乗りを上げる仁田四郎
仁田の出立(註:狩倉の風景も描かれる)
人穴の中で堂や御所を見る仁田
大蛇の出現
賽の河原を案内する大菩薩
三途の川の姥御前
罪人を釜で煮る獄卒
女房を来迎する天人、迦陵頻伽、阿弥陀三尊
火の車と業の秤
獄卒と罪人・十王の裁き
頼家に報告する仁田

やはり源頼家が狩場に居る猫写などはなく、武家政権の長としての権威を示す姿勢は感じられない。焦点は完全に人穴に向かっている。

物語の大筋の説明として「忠常は人穴を進むことを許され」と記したが、この点を(米井1983;p.37)は「主人公は、人穴の奥の世界を統轄する神に追い返されるのではなく、逆にその神の案内で人穴の奥にひそむ地獄極楽の世界を巡歴するのである。この逃鼠譚から冥界巡歴譚への転位を支えているものが『富士の人穴草子』の独自の手法といえるのだが…」とする。

このように『吾妻鏡』と『人穴草子』の大きな相違点は、(米井1983;p.38)にあるように『吾妻鏡』においては剣を投げ入れて逃げ帰るのに対し、『人穴草子』では奥へ案内されている点にある。


  • 『文武二道万石通』(天明8年(1788)刊)



『文武二道万石通』に見る江戸時代の富士の人穴のイメージ」で詳細を記したのでここでは省く。仁田忠常の人穴探索をオマージュした作品である。人穴の奥にそのまま進んでいくという点から言えば、『富士の人穴草子』の影響を受けていると見ても良い。

  • 各浮世絵/武者絵

以下に、確認できたもののみ挙げてみることとする。他にも作例は存在すると思われる(月岡芳年以降のものは取り上げない)。


歌川国芳「仁田四郎 冨士の人穴に入る」

作者年代作品名
歌川国芳天保12年(1841)頃「武勇見立十二支 仁田四郎」(『武勇見立十二支』)
歌川国芳江戸時代後期「仁田四郎 冨士の人穴に入る」
葛飾北斎嘉永3年(1850)「仁田の四郎忠常 富士の巌窟に入る」(『絵本和漢誉』)
歌川芳員嘉永6年(1853)「建仁三年源頼朝卿富士之御狩の時仁田ノ四郎忠常を依て人穴入ル図」
月岡芳年 「仁田四郎忠常」(『芳年武者无類』)
月岡芳年明治22(1889)から同25年にかけて制作「仁田忠常洞中に奇異を見る図」(『新形三十六怪撰』)

代表として葛飾北斎のものを解説していく。『絵本和漢誉』は序文に「嘉永ミとセ卯月日」とあり、嘉永3年(1850)刊行の武者絵集である。

うち「仁田の四郎忠常 富士の巌窟に入る」であるが、右側に人穴内で松明に火を灯した仁田忠常が描かれ、左側には大河があり、そちらから光が射し込む構図となっている。『吾妻鏡』の世界観を反映した図となっている。

これら浮世絵も"『富士の人穴草子』に影響を受け"といった文面で紹介されることがあるが、純粋に『吾妻鏡』の世界観を表現したに過ぎないという可能性は否定できない。


【人穴と江島/芝生浅間神社】

人穴は別の洞窟に繋がっていると流布されていた。これは『吾妻鏡』には見られない内容である。『照高院興意様関東御下向略記』(誠仁親王の第五子である興意法親王の動向を記したもの)の慶長14年(1609)4月23日条には以下のようにある(首藤2006;p.28-29)。

卯の廿三日  天晴 御門主、御看経遊ばさる。(中略)次に江島に御参詣あるべきなれば。本海道より脇道へかかる。(中略)まず一段高き所に弁才天御立ちある。(中略)山の上に昔頼家の時、仁田四郎、富士の人穴をくぐりて、この江島へ出でしあなあり。それより岩のがけ道をはうはうくだれば、昆深在より生え出でたる山あり。

既に近世初期には認められるため、中世には流布されていたと考えられる。どこまで遡れるのかは分からないが、一応これが初見と見ている。貞享2年(1685)『新編鎌倉志』巻之六には以下のようにある。

仁田四郎抜穴 
龍池の東にあり。穴二つあり。俗に二つやぐらとも云。仁田四郎忠常、富士の人穴より此へ抜出たりと云傳ふ。【東鑑】に、建仁三年六月三日、頼家将軍、仁田四郎忠常を、富士山人穴に遣し、其所を究め見せしめ給。一日一夜を経て帰るとあり。此所へ抜出たりとはなし。

この伝承を絵画化したものが認められ、それらは人穴を直接描いたとは言い難いが、以下で取り上げていく。またそれらを見てみると、繋がる先の洞窟がそれぞれ異なる場所を指しているものが存在していることが判明する。その差異についても言及する。


  • 『江島大艸紙』(宝暦9年(1759))

宝暦9年(1759)の沙門因静『江島大艸紙』には以下のようにある。

仁田抜穴 山二ツヨリ南ノ石壁二昔ハ穴ノ形チ有シトナリ、今ハナシ伝フ、仁田忠常富士ノ人穴ヨリ入テ此山ノ半腹ヘ抜ケ出タリト云。東鑑ニ建仁三年仁田忠常富士ノ人穴ヘ入シ事ヲ載タリ。然レモ此趣ト異ナリ。

そしてこの「仁田抜穴」は『江島大艸紙』中の「相州江島画図」内にて図示されている。これらについて(藤澤1932;p.165)は「仁田抜穴は人口に喧しいが、全くは、例の甲賀三郎怪異傳の生み出した徳川時代の捏造である」とする。しかし甲賀三郎譚と仁田抜穴は両者それほど近似性は無く、甲賀三郎譚から由来するとは言えないように思う。また徳川時代とも言えないだろう。

寛政9年(1797)刊行『東海道名所図会』には、仁田抜穴について以下のようにある(粕2001;p.173)。

仁田抜穴
竜窟の東という。今さだかならず。俗諺にいわく、仁田四郎忠常、富士の人穴より入って、この山の半腹へ抜け出でたりという。富士の人穴のこと前巻に見えたり。然れども江の島へぬけ出でたりということ、旧記に見えず。

『江島大艸紙』でいう「山二つより南の石壁」と『東海道名所図会』でいう「竜窟の東」が完全に一致するのかは分からない。


  • 落合芳幾『東海道中栗毛彌次馬    神奈川』(万延元年(1860))

みゆネットふじさわ」に説明がある。同HPによると"神奈川宿と保土ヶ谷宿の中間に位置する浅間神社にある「富士の人穴」と呼ばれる横穴は、富士山に繋がっていると考えられており、東海道中の名所となっていました。画中では人穴をのぞこうとした喜多さんが、地面に転がり落ちてしまいました。"とある。

この浅間神社とは何処を指すのだろうか。(神奈川県立歴史博物館2013;p.33)には以下のようにある。

富士の人穴
 宿場を超えた芝生の浅間神社(横浜市西区浅間町)にあった横穴のこと。『江戸名所図会』(1-11)中の「浅間社」や「東海道五十三次之内 神奈川宿」(2-11)「見立役者五十三対ノ内 神奈川」(2-12)では、人々が浅間神社の鳥居をくぐり、しめ縄を張った穴に向かって登っていく様子が描かれている
 また、道中記には、「民家のかたわらに穴二つ有。冨士のふもとの人穴に通じたると云。是を仁田の四郎が入りたる人穴なりと云ハあやまり也。」(『諸国道中袖鏡』1-20)とあり、これが『吾妻鏡』建仁3年(1203)6月の項に見える、源頼家の富士の巻狩りの時に仁田四郎主従六人が入った人穴が芝生の横穴であるとして、一時認識されていたことがわかる。
 昭和56(1981)には、浅間神社下の崖面から古墳時代の横穴墓九基が発掘された。道中記や浮世絵では「穴は二つ」とされており、数は合わないものの、仮名垣魯文作、落合芳幾画の「東海道中栗毛彌次馬    神奈川」(2-13)では、北(喜多)八が穴の中を覗いているうちに「赤土」で滑って転ぶ情景が描かれ、人穴が横穴墓であったことを想起させる。

つまり『照高院興意様関東御下向略記』・『新編鎌倉志』・『江島大艸紙』は同場所を指していると考えられ、一方『東海道中栗毛彌次馬    神奈川』『江戸名所図会』『東海道五十三次之内 神奈川宿』『見立役者五十三対ノ内 神奈川』は芝生の浅間神社(横浜市西区浅間町1-19-10)を描いているものと考えられる。また同地が「浅間町」である点にも注意が払われる必要性がある。

『諸国道中袖鏡』に

民家のかたわらに穴二つ有。富士のふもとの人穴に通じたると云。是を仁田の四郎が入たる人穴なりと云ハあやまり也

とあるが、これは江島の方を"正"とする意図と取ってよいかもしれない。

  • おわりに

以下に万治3年(1660)『驢鞍橋』(鈴木正三の弟子「恵中」の著)の現代語訳を記す。

小田原の沖に大蛇が出るということがあった。私はそれを聞く小舟に乗って行き、造作なく角を引きもいでやろうと思ったものである。又、富士の人穴などもわけなく通れると思っていた。若い時からこのように強く用いて来たけれども、何の用にも立たなかった(加藤2015;p.36)。

これは富士の人穴が恐ろしい場所であると一般に認知されていた故の言い回しである。そして「わけなく通れると思っていた」という表現からするに、やはり人穴の奥に得体の知れぬものが潜んでいるというイメージが強く存在していた。

江戸時代も『吾妻鏡』は多く読まれていたようであるから、必ずしもすべてが六道を表現したものではなく、純粋に『吾妻鏡』の世界観の域を出ないものもあると考える。しかしこの絵画化例の多さは人穴の知名度の高さを裏付けるものである。

源頼朝の巻狩りと頼家の富士狩倉を合わせただけでも、絵画化例は相当数になる。この事実は、富士宮市の歴史的立ち位置を自ずから示すものと言える。各画集などを見た時、「倶利伽羅峠の戦い」や「那須与一と扇の的」といったものは多く目にする。しかしながら同じ地で複数の題材で多数絵画化されてきた地域は、それほど多くはないのではないだろうか。特にその絶対量は圧巻と言える。

  • 参考文献
  1. 藤沢衛彦(1932)『日本伝説研究 第6巻』、六文館
  2. 米井力也(1983)「大蛇の変身-「富士の人穴草子」と「小夜姫の草子」の接点-」『国語国文』第52巻第4号(584号)、35-39頁
  3. 中野幸一(1998)『奈良絵本絵巻集4 伊勢物語・富士の人穴』、早稲田大学出版部
  4. 粕谷宏紀監修(2001)『新訂 東海道名所図会 下』、ぺりかん社 
  5. 本井牧子(2003)「『富士草紙』解題」『京都大学蔵 むろまちものがたり1 しづか(三種)・緑弥生・富士草紙』、 臨川書店
  6. 首藤善樹(2006)「『照高院興意様関東御下向略記』(中)」 『本山修験』第171号
  7. 奈川県立歴史博物館編(2013)『江戸時代かながわの旅 「道中記」の世界 : 特別展
  8. 加藤みち子(2015)『鈴木正三著作集Ⅱ』、中央公論新社