富士山麓の地域が分からない方へ

2020年11月30日月曜日

富士家の家中関係考、富士大宮司とその子息および浅間大社社人

まず本論に入る前に、中世において「静岡県富士宮市」の地がどのような言葉で言い表されてきたかについて考えたい。静岡県富士宮市の地を含む地理的用語は史料上多々散見され、以下のようなものがある。


  • 駿河国富士郡
  • 富士上方
  • 河東
  • 富士山南麓(西麓)


このうち「河東」は富士川の東側を指す言葉であり、富士宮市も河東に含まれる(一部は異なる)。そして天文年間には今川氏と北条氏の間で「河東の乱」が勃発した。当然ながら、河東の乱時に富士上方の地は混乱に陥ったのである。以下では河東の乱時の富士氏周辺の動向について考えていきたい。


  • 河東の乱時の富士宮若


河東一乱時の富士氏の立場を考えた時、まず富士宮若(慣例として富士家の次期当主となる人物が幼名として名乗る)が今川義元より感状を発給されていることが挙げられる。


この発給文書について大久保(2020)は


年次が天文六年と推定されることから、この合戦が小田原北条氏による駿河侵攻、すなわち河東一乱の一環であることは間違いなく、敵とは小田原北条軍を指していると考えられる。


とし、これは各論者で異論が無い。また大久保氏は「小泉上坊」に着目し、敵を撃退したことから防御施設であるとし、場所を小泉郷辺りに比定している。

同文書に「被官小見右近亮」とあることから、宮若の被官として小見右近亮なる人物が居たことが分かる。天正5年(1577)『富士大宮神事帳』に各祭礼銭を負担する人物として「小見」が記されており、同一人物と目される。またそれなりの項目数に登ることを考えると、被官であってもそれ相応の地位に居た人物であったのだろう。

そしてこの「小泉」を考える上で、大久保氏も挙げられている以下の文書が注目される。

  


つまり河東の乱で小泉久遠寺は「大破」したのである。そして関連して天文18年(1549)11月16日の「日我置文」が注目される。

同置文には「富士殿謀叛」とあり、富士殿が今川氏に対し対立した立場にあったことが記される。この記録が注目される理由として、既出の感状では富士宮若が義元より賞され今川方であったことが明らかであるのに、この記録に見える「富士殿」は全く逆の立場にあるということである。同じ河東の乱時のことであるので、一層重要なのである。

私は「河東の乱時の富士氏」の中で「この富士殿は富士氏一族ではあるが大宮司ではない何者かである」としたが、氏は


ここに「富士殿謀叛」とあるのは、河東一乱の際に富士氏が今川氏への「謀叛」すなわち北条方となったことを示している。さらに日我上人が「殿」と尊称を付していることから考えれば、富士氏一族の何者かではなく、大宮司自身が反今川となったことを意味していると考えられる


とし、富士氏が一族で今川方と北条方に分裂したとしている。具体的には今川方は富士宮若であり、北条方は富士大宮司としている。そして富士宮若が拠り所としたのが小泉上坊であり、戦闘により隣接する小泉久遠寺の施設が焼失したとしている。

富士宮若が義元より感状を受給した二ヶ月後、同じく義元より従来「渡辺三郎左衛門」と「清善次郎」分であった「田中」「羽鮒」の名職を新たに与えられている。それについて同氏は富士宮若の戦功に対する恩賞として与えられたものであるとする。またこの二名が北条氏側の勢力圏へ退去したため可能であったとし、またこれらは「富士殿謀叛」に連動したものであったとしている。この説明は説得力のあるものである。


  • 富士大宮司の不在


この戦乱の中で「富士大宮司の不在」という事態に陥ったことが知られている。これについては


このように天文初期には大宮司富士氏及び宮若は、今川氏から厚遇されていたといってよかろう。しかしながら〔史料二〕(注;「田中」「羽鮒」の名職を新たに与えられている文書)以降、永禄四年七月まで宮若もしくは富士氏への文書発給は中断する。その中断理由は、第二節で検討した「富士殿謀叛」にあったことはいうまでもない。事実天文十三年十月十六日付鈴木庄左衛門宛の義元判物に「若富士大宮司雖令還住」と、大宮司富士氏が本宮に不在であったことが理解できる。


とし、こちらも説得力がある。「富士殿謀叛」と「大宮司不在」は確かにリンクしていると考えたほうが良さそうである。この「富士大宮司不在」は、決して無視できない動向である。大高(2004)は


天文十三年(一五四四)十月十六日今川義元判物に「若富士大宮司雖令還住」とあり、この騒乱の中で大宮司富士氏が本宮を不在にする事態に陥っている。そのような中で、宮崎春長が今川氏から「乱中自余仁相替、守宮中之間、不可隼他」と賞されるように、本宮は道者坊を経営する社人衆によって支えられていたことがわかる


としている。おそらく今川氏は、河東の乱時に同氏に味方した勢力に権力を移譲させようとする目論見があったと考えられる。この時を転機として富士氏以外の神職に対する発給文書が増えている。


弘治3年(1557)11月、今川義元は風祭神事米の勧進を行うよう、富士氏ではなく浅間大社の社人である四和尚職の「春長」に命じている。しかも勧進の支障となる「不入権」を「神慮」という名分を持ち出して否定し、勧進が円滑に進むよう図っているのである。つまり春長は「不入権の否定」を行使できる立場にあったのであり、このような一見過大すぎるとも思える権限を富士氏ではなく社人が持っていたのである。

ちなみに「春長」が「不入権の否定(勧進権)」を行使できる立場にあった一方、その同時期に同族と思われる「清長」は「不入権」を行使する立場にあった。後者は有力な寺社であれば今川氏より認められている権利であり、春長の「不入権の否定」はある意味例外的な権利といって良い。

東島(2000)は以下のように説明している。

こうした観点から注目されるのは、富士大宮の社内組織にあって、大宮司と社人の中間に一して神事祭礼などの社務を職掌した2つの「和尚職」であり、この職が分割相伝される過程で、これら不入権と勧進権がそれぞれに獲得され、あたかも相補的関係にあったことである。(中略)天文14年6月、長源は一和尚職系の権利のみを子息長泉(のちの清長)に譲り、これを受けて20年2月には、この一和尚職系の権利が清長に安堵される。(中略)そして21年正月、清長には一和尚職系の権利が、春長には四和尚職系の権利がそれぞれ安堵され、ここに両職の分掌関係が確定する。


つまり他の権力に介入する際は春長が「勧進権」を行使し、他から介入を受けた際は清長が「不入権」を行使するということを「相補的関係」と言っているのである。また以下のように続けている。


右の経緯において重要なのは、両職分掌の安堵状に見るとおり、この時期、河東一乱で破損した富士大宮「御本社」の造営が進んでおり、仮殿における参銭の処務権が両和尚(清長・春長)にあったことである。この参銭領取権は、この後、永禄3年に本殿が造畢し、正遷宮した後も安堵されることとなるが、この権利を巡っては、社内において大宮司と社人の、両方からの競望に曝されていた。


とし、社人の権力の拡大が垣間見えるのである。


  • 際立つ富士信忠の立場


大久保氏が述べる通りであった場合、信忠は一環して今川氏に恭順していたと言うことができる。つまり河東の乱時に恐らく父であろう富士大宮司が北条方に靡く中でも今川氏を支持し、桶狭間の戦いで義元が敗死しても立場を変えず、武田信玄の駿河侵攻の際も今川方として戦ったということになるのである。

富士氏の系図から戦国時代の富士家について考える」にて「戦国大名の台頭が見られた16世紀は発給文書の増加からか、「信忠」「信通」の史料が豊富である。その間にあたる「信盛」に関する史料(※実名で確認できる史料)が全く無いことに違和感を感じるが、それ以外は比較的経時的に追えると言える」と記したが、系図の通りであれば信忠の父はこの「信盛」である。系図通りであり、また謀叛が富士大宮司だったと仮定した場合、謀叛を起こしたのは富士信盛ということになる。

天文6年の「富士殿謀叛」が富士大宮司だと仮定したとき、天文13年の大宮司不在のその大宮司はまだ代替わりしていなかったと考えられる。その後富士宮若は「信忠」を名乗り、富士大宮司となったと考えられる。大久保氏は冒頭で


天文六年五月十五日の文書以降永禄四(一五六一)年までの間、富士宮若のちの大宮司富士氏宛の今川氏からの発給文書は中断している。もちろん、この間本宮に関連した今川氏からの発給文書がみられないわけではなく、個別の社家・社僧等への発給文書は存在する。


とし、文書の空白期間に今川氏は富士氏と距離を置いていたとしている。個人的にはこの間も宮若の立場は保証されたものであったと考える。河東の乱時に当時の富士大宮司は北条方に就き、子息である富士宮若は今川氏に就いたというこの新説は、「富士大宮司不在」「社人の台頭」という2つの視点から考えると説得力のあるものになっていると言える。


  • まとめ

少なくともこのときの富士家中の状況は穏やかではなく、また「一和尚」や「四和尚」といった社人の台頭により富士大宮司という絶対的権力自体も脅かされうる状況であったと言うことはできそうである。

また、富士氏は富士大宮司以外もある一定の武力を保持していたと考えた方がよさそうである。例えば上述の小見右近亮は富士宮若陣営であり、富士大宮司側はやはり個別で被官等が居たのであろう。そして富士家は家中で重層的に役割が分かれていたものと思われる。

冒頭の証状では「富士九郎次郎」が富士上方の寺社に対する諸役免除を認める内容となっており(地子三十疋を納めればその他の一切の諸役は徴収しない)、この人物は富士大宮司ではないのである。そもそもこのような文書が存在するということは、富士氏はある程度の独立性をもった領主であったと考えられるのである。


  • 参考文献
  1. 大久保俊昭,「大宮司富士氏と富士郡上方地方の研究 : 富士宮若と「小泉上坊」から」『駒沢史学』94巻,2020年
  2. 東島誠,『公共圏の歴史的創造-江湖の思想へ-』79-85頁,東京大学出版会,2000年
  3. 大高康正,「富士参詣曼荼羅再考-富士山本宮浅間大社所蔵・静岡県指定本を対象に-」,『絵解き研究 18』, 2004年