富士宮市からの富士山 |
世界文化遺産、構成資産、富士山本宮浅間大社、富士上方、富士大宮司、富士氏、大宮城(富士城)、富士川舟運、中道往還、大宮(富士宮市の中心部の従来の地名、登山口)、村山(登山口、富士山修験道の中心地)
最低標高:35m 最高標高3,776m、標高差日本一 |
富士宮市は静岡県東部の市。富士山を主体として考えた際の静岡県側の中心自治体である。「富士宮」(=富士ノ宮)という富士山本宮浅間大社を指す古来の言葉が市名の由来である。中世より「富士上方」と称され、その範囲は現在の富士宮市域と概ね一致している。富士宮口新五合目が位置する、富士山への玄関口である。
- 富士氏:富士宮市を根拠地とした氏族
- 富士大宮司:上の氏族の当主が名乗る「神社の神職名」
- 富士山本宮浅間大社:上の神社のこと
これは先ず押さえておく必要があるだろう。富士氏は戦国時代には大宮城(富士城)の城主でもあった。
紫の箇所は護摩堂跡とされ、また周辺には三重塔もあった。大宮城は大社の東側に位置した |
ここからは市域の下→上に移動しながら説明しておこうと思う。市域の下には富士川が流れており、この地域の人々は富士川舟運を糧としていた。「森家」や「沼久保の問屋跡」が知られる。
現在は両者は1つの市である |
森家は市域でも「旧芝川町域」を根拠地としていたが、この芝川には「佐野氏」や「篠原氏」もおり、特に佐野姓は現在多く存在している。
また中道往還の存在がこの地域の文明を支えていたとも言え、中道往還沿いに富士山本宮浅間大社は位置している。
その一帯は古来より「大宮」と言い、登山道の起点である。大宮は戦国時代楽市が行われたことでも知られている。
以下はその朱印状である。
発給者:今川氏真 宛:富士信忠 |
また大宮より東北に「村山」という地があり、ここも登山口である。それをまとめた呼称が「大宮・村山口登山道」であり、以下のような地理的関係にある。
つまり「大宮」「村山」という富士山関係の主要な歴史地区が複数含まれているのが富士宮市なのである。そのため「富士宮市と富士山」という枠組みで歴史を説明するのは、あまりに大きすぎると言える。村山には富士山興法寺があり(以下の各施設群を総称した呼称であるが、主に中世の呼称)、それを管理する村山三坊が知られる。
大鏡坊・辻之坊・地西坊を合わせて「村山三坊」という。
世界文化遺産富士山の構成資産として当市に関わるものを以下にまとめた(富士山域を除く)。
富士上方でもより上方に至ると富士五山の各寺が見えてくるし、構成資産のうち「人穴富士講遺跡」や「白糸ノ滝」も姿を見せてくる。
人穴富士講遺跡には富士講信者による多くの建立物が残り、また白糸ノ滝にも関連する石碑がある。環境省により公開された「富士山がある風景100選」の、本市に関わる展望地一覧を以下に示す。
また富士宮市は「特別天然記念物」を複数保持する市でもあり、1つは「湧玉池」ともう1つは「狩宿の下馬桜」である。狩宿の下馬桜は日本五大桜にも数えられる著名な一本桜である。市の最北部に行くと毛無山が位置するが、毛無山は鉱山でもあり、それは富士金山と呼ばれた。このように自然関係の文化財に恵まれた市と言えるだろう。
以上が、「富士宮市と富士山との関係」についての簡潔な説明である。
大鏡坊・辻之坊・地西坊を合わせて「村山三坊」という。
世界文化遺産富士山の構成資産として当市に関わるものを以下にまとめた(富士山域を除く)。
構成資産 |
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大宮・村山口登山道 |
富士山本宮浅間大社 |
山宮浅間神社 |
村山浅間神社 |
人穴富士講遺跡 |
白糸ノ滝 |
富士上方でもより上方に至ると富士五山の各寺が見えてくるし、構成資産のうち「人穴富士講遺跡」や「白糸ノ滝」も姿を見せてくる。
様々な「講」による建立物が現在も残る |
No. | 「富士山がある風景100選」展望地 |
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61 | 道の駅朝霧高原 |
62 | 朝霧さわやかパーキング |
63 | 朝霧自然公園(朝霧アリーナ) |
64 | 田貫湖 |
65 | 長者ヶ岳 |
66 | 白糸の滝付近 |
67 | 白糸自然公園 |
68 | 狩宿下馬桜 |
69 | 西臼塚駐車場 |
70 | 天母山自然公園 |
71 | 山宮浅間神社 |
72 | 柚野の里 |
73 | 興徳寺 |
74 | 潤井川桜並木 |
75 | 神田川御手洗橋 |
76 | 富士山本宮浅間大社 |
77 | 稲瀬川 |
また富士宮市は「特別天然記念物」を複数保持する市でもあり、1つは「湧玉池」ともう1つは「狩宿の下馬桜」である。狩宿の下馬桜は日本五大桜にも数えられる著名な一本桜である。市の最北部に行くと毛無山が位置するが、毛無山は鉱山でもあり、それは富士金山と呼ばれた。このように自然関係の文化財に恵まれた市と言えるだろう。
千居遺跡 |
- 富士宮市における「富士〇〇」
富士宮市には「富士」を冠する歴史的名称が多い。これは周辺の静岡県の地域と比較しても圧倒的である。概ね、以下のようなものが該当する。
- 富士山
- 富士川
- 富士野(富士の巻狩の地)
- 富士氏
- 富士城(大宮城)
- 富士海苔
- 富士金山
- 富士五山(ここは含めたり含めなかったり。比較的最近の名称です)
実は「富士山の歴史」というのは、このうちの1つに過ぎないのである。このうち「3」と「6」と「8」は当ブログではまだ未着手である。
何より恐ろしいのは、富士宮市の刊行物を見ると「3」と「6」は出てきているのかさえ疑わしいことである。例えば、『富士野往来』も言及しているケースが殆ど無いように思われる。多くの時代に関して、同じようなことが言える。
「富士川と富士宮市」というテーマで論じるものも思いの外少ない。富士市が同テーマで企画展を、しかも複数回行っている点から考えても不可解である。「森家」や「富士山木引」といったことも、富士宮市の刊行物で見かけたことがない。そもそも「富士氏」自体も"取り上げている"とはとても言えない状態なのである。「等閑視の常態化」が垣間見えるのである。
実はこれらには共通項があり、「中世期」というワードが挙げられる。例えば富士宮市教育委員会による歴代の「調査報告書」を見ても、中世期を取り上げたものは殆どないのである。対して「古代」は多く見いだせる。このような両極端な状況は深く危惧するところであり、改善を求めたいところである。かなり可能性を狭める行為であると言わざるを得ない。