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2017年12月31日日曜日

室町幕府と富士氏

「室町幕府と富士氏」というテーマで考えた際、「永享の乱」直前の動向は外せない。まず永享の乱(1438年)とは、室町幕府将軍である足利義教が鎌倉公方の足利持氏討伐を決定し生じた、一連の戦乱を指す。

室町幕府と鎌倉公方の緊張の高まりは永享4年(1432年)の「富士遊覧」でも読み取れる。これは義教による牽制と今川範政の自己陣営への保持を意図したものであり、明らかに鎌倉公方を意識しての行動である。そこでこの時代の富士氏を考える上で重要な記録として先ず挙げられるのが、『満済准后日記』である。

足利義教

この時代の駿河国は大変に混乱した状況であった。以下、『満済准后日記』から駿河国の様子を見ていくこととする。

  • 『満済准后日記』 永享5年(1433)4月14日条
狩野・富士大宮司両人ヘ、今度国次第、具被尋聞食、可有御成敗条、尤可然由申入也

富士大宮司に「駿河国の内情を知らせよ」という申し付けを幕府が行っている。このときの富士氏が既に幕府とつながりを保持していたことは、注目に値する。今川範政(今川氏当主)の次男である弥五郎が次期家督相続を狙って不穏な動きを見せており、これに満済は不信感を示し、また将軍は駿河国衆に内情を探らせているという流れである。今川範政は家督を三男の千代秋丸に譲る意向を示しているため、それに対抗する動きである。

  • 『満済准后日記』 永享5年(1433)4月27日条

駿河国ヨリ富士大宮司注進状幷葛山状等一見了、国今度不慮物忿事申入了、随而富士進退等事可任上意旨、載罰状申入也

富士氏(および葛山氏)は幕府に注進状を出し、駿河国の混乱を幕府に報告している。

『満済准后日記』
この動向について「室町幕府の東国政策」では以下のように記している。

事態がひとまず小康状態に入った永享3年以後、なお緊迫した政情のなか葛山氏に求められた役割は、各種の情報を室町幕府にもたらすことであった。そしてそれは、懸案の鎌倉府に関する情報に限定されていた訳ではない。たとえば『満済』永享5年(1433)4月27日条には「駿河国ヨリ富士大宮司注進状幷葛山状等一見了、国今度不慮物忿事申入了」とある。これは葛山氏が、永享5年4月、駿河守護今川範政の後継家督問題によって駿河国内が混乱している様子を室町幕府に伝えたことを示している。(中略)しかし、この問題で葛山氏が『満済』に登場することは皆無である。つまり葛山氏は、駿河守護今川氏の家督問題について室町幕府の意向と異なる家督を擁立しようと積極的にうごいた形跡が全くないのである。

としている。対して富士氏は「室町幕府の意向と異なる家督を擁立しようと積極的に動く」側となっていくのである。そして今川家当主今川範政は、5月27日に死去した。

  • 『満済准后日記』 永享5年(1433)5月30日条

国人狩野・富士・興津以下三人ハ、及両三度起請文、可被仰付彦五郎畏入之由申上了、

同日記の5月28日条に「今河遠江入道参洛」とあり、今川貞秋は上洛した。そして30日には京の諸大名に情勢を伝えた。今川貞秋は、狩野氏・富士氏・興津氏が起請文をもって彦五郎(後の範忠)の家督相続を了承したと報告した。

「駿河国中の中世史」には以下のようにある。

5月30日満済は幕府に赴き、去る4月28日駿河国から上洛した今川貞秋の家督相続についての上申書を閲すると共に、奉行らが管領細川持之・畠山満家・斯波義淳・山名時熙・赤松満祐の5人の大名から聴取した意見を聞いた。今川貞秋の上申書によれば駿河国では国人の狩野・富士・興津らおよび内者(家中)である矢部・朝比奈らも範忠の家督相続を概ね了承したといい、管領以下も弥五郎(注:今川範忠弟)に一旦は家督相続了承の御判が渡されたことは問題であるが、将軍の裁定であれば已むを得ないと範忠の相続を納得した。

とある。が、以下の動向を見て分かるようにその後狩野氏・富士氏・興津氏は反乱を起こしており、彦五郎の家督相続には同意していなかったようである。「駿河今川一族」では「その後の狩野・富士・興津氏らの動きをみると、この時、そのような誓書を提出したことは考えられず、むしろ、内紛を憂慮する一族の長老今川貞秋の苦肉の策ともみられるのである」と解釈している。

  • 『満済准后日記』 永享5年(1433)6月23日条

此外就三浦・進藤等事、以管領奉書狩野介富士大宮司幷三浦進藤等二、於国私弓矢不可取出之由、固被仰附也

足利義教は狩野氏・富士氏・三浦氏・進藤氏に争いを禁じるよう命じている。しかしこれでも争いは収まる所を知らなかった。

  • 『満済准后日記』 永享5年(1433)7月19日・20日条

自今河右衛門佐注進在之、民部大輔去十一日入国無為、就其三浦・進藤・狩野・興津・富士以下同心及合戦、雖然民部大輔手者打勝云々(19日)

今河民部大輔方注進到来、十一日入国儀先無為祝着云々、就三浦・進藤等、狩野・富士・興津令同心寄懸間、(20日)

彦五郎(範忠)の家督相続に納得しない駿河国衆が彦五郎の入国に伴い反乱を起こした。「今川一族の家系」では報告を行った今川右衛門佐について「貞秋の弟氏秋と推定する」としている(今川仲秋の嫡子が貞秋、その弟が氏秋)。「駿河国中の中世史」には以下のようにある。

7月19日の今川右衛門佐氏秋、および20日の範忠から幕府の注進によれば、入国したその日、三浦・進藤・狩野・富士らの国人たちが攻め寄せて来て、範忠方の岡部・朝比奈・矢部らと合戦になったが、これを打ち負かして退散させ、再び攻撃してきた狩野には氏秋が対処しこれも追い払った

とある。ここで岡部・朝比奈・矢部氏らが彦五郎派であったことが分かる。

  • 『満済准后日記』 永享5年(1433)7月27日条

自将軍御書、如夜前伝賜了、仰題目、甲斐国跡部・伊豆狩野等・令合力富士大宮司ヲ、可発向守護在所聞在之

甲斐の跡部氏、伊豆の狩野氏、そして富士氏が力を合わせ府中に攻め入るのではないかという伝聞があることを記している。駿河国・伊豆国だけでなく甲斐国の勢力も加担する、大規模な反乱を予感させていた記録である。


  • 『満済准后日記』 永享5年(1433)閏7月5日条

駿河国々人狩野介・富士大宮司・興津、已上三人可召上旨可仰管領、此事等内々自駿河守護申子細在之、依之如此被仰出也

管領「細川持之」が狩野氏・富士氏・興津氏を京に召喚することを望み、今川範忠がそれを伝えている。


  • 『満済准后日記』 永享5年(1433)閏7月28日・閏7月30条

狩野・富士以下三浦・進藤等罷出、国中所々放火、剰近日可指寄府中云々(閏28日)

狩野・富士・興津等、可被召上之由被仰出間(閏30日)

狩野氏・富士氏・進藤氏等が府中に迫ってきていることを記している。そして同三氏の京への召喚を検討している。「駿河国中の中世史」では以下のように記している。

そしてその後も狩野らの抵抗は続き、閏7月28日幕府に届いた駿河からの注進によれば、狩野・富士・三浦・進藤らが国中所々を放火し府中に攻め込んできそうな状況である。(中略)範忠の入国に狩野以下の国人たちが抵抗したのもその後ろで持氏が糸をひいていたからであろう。範政が跡継ぎとして申請した千代秋丸のちの新五郎範頼の母は扇谷上杉氏定の女であり、持氏は上杉氏との関係は良好であったためこれを支持していた。

富士氏は足利持氏側についていたのであり、このような反乱に出たと考えられる。


  • 『満済准后日記』 永享5年(1433)12月8日条

富士大宮司御免事、不可有子細由被仰出間…

足利義教が富士大宮司を赦免するという内容である。また狩野・興津氏両氏も罷免された。

管領「細川持之」
「駿河国中の中世史」では以下のようにある。

永享6年10月29日、満済は管領細川持之と駿河の狩野・興津両氏の赦免について談合している。それは範忠からの注進で持氏の野心が現わになったため、範忠に敵対した彼らを許して味方に付け関東に備えようということである

そしてなんとか駿河を平定することに成功した。これにより室町幕府は、足利持氏討伐に本腰を入れることが可能になったのである。そして「永享の乱」へと繋がっていくのである。


  • 参考文献
  1. 大塚勲,『駿河国中の中世史』,2013
  2. 杉山一弥,『室町幕府の東国政策』,2014
  3. 家永遵嗣,『室町幕府将軍権力の研究』,東京大学大学院人文科学研究科国史学研究室,1995年
  4. 小和田哲男,『駿河今川一族』,1983
  5. 大塚勲,『今川一族の家系』,2017
  6. 大塚勲,『今川氏と遠江・駿河の中世』,2008