富士山麓の地域が分からない方へ

2017年6月22日木曜日

富士上方と葛山氏その支配領域と被官吉野氏

富士上方は「≒現在の富士宮市域」である。この領域の領主は富士氏が知られているが、葛山氏の支配領域も存在していた。

沼津から小山町にかけては歴史的には「駿河郡」と呼称される

まず挙げなければならないのは、以下の葛山氏元判物である。


孫九郎(吉野氏、後述)の所領である「久日」「山本」「小泉」を吉野郷三郎に安堵するという内容である。これらの土地が従来通り吉野氏のものであるという認識を示す文書である。つまりこれらの地を葛山氏が支配していたのであり、葛山氏の支配領域の広さを示す一端であると言える。


また飛んで淀士(現在の富士宮市淀師)にも支配領域があることは興味深い。この文書が発給された永禄11年(1568)という時代は、葛山氏元が今川方から離反し武田方に寝返る間近の時期(または離反していた時期)である。葛山氏元は「新四郎名」を市川権右衛門に給付することを命じており、これはやはり葛山氏が淀師の地を支配していたためなのである。

ただ富士上方地域だけで見れば、富士氏の方が影響力を保持していた。例えば富士氏が寺社に対し諸役免除を行う古文書も存在するが、葛山氏が同時代富士上方地域に同様の性質を持つ文書を発給している様子はないのである(「駿河国富士郡領主としての富士氏」を参照)。他にもこの地域での多様性は富士氏で認められるように思えるのである。


しかし葛山氏は自前で朱印を用い文書を発給するような独立性の高い国衆であり、その支配力については疑いの余地はない。「駿河国駿東郡と葛山氏」(有光)でも朱印状を使えていたのは武田陣営では武田氏・穴山氏・小山田氏等、今川陣営でも今川氏・朝比奈氏等と限られた国主・国人のみであったことが指摘されている。富士上方の地は、富士氏の勢力と葛山氏の勢力がせめぎ合っていた地域なのである。

  • 富士大宮における富士氏と葛山氏

富士大宮は富士氏の本拠であるが、そこにも葛山氏の影響が認められることには葛山氏の力量を感じざるを得ない。富士大宮は交通の要所であり、交通路掌握に長けていた葛山氏が狙わないはずがないのである。「戦国大名今川氏と葛山氏」には以下のようにある。

西隣の富士郡には、富士信仰の道者坊として著名な村山三坊の一つ辻坊の所職を継承する葛山氏や「富士大宮司代官職」を有した葛山氏など、葛山姓のものが史料上散見する

村山にも葛山一族の勢力があったことは分かっているが、研究が大変少なくよく分かっていない。今回はこの大宮の「富士大宮司分代官職」の方を考えてみたい。「楽市論―初期信長の流通政策」には以下のようにある。

駿東郡の国人領主葛山氏は、富士郡にまで勢力を伸ばし、富士大宮の南「山本・久日・小泉」を領する吉野氏を自己の配下に収めた。おそらくこのことと関連してだろう、葛山氏は大宮城の城代に任ぜられ、神田川以東は葛山氏の支配下に置かれた。つまり富士大宮は、「社人町」を含む西側が浅間神社の支配地域だったのに対して、東側の「雑色町」は葛山氏の支配下となったのである。(中略)永禄4年7月、大宮城代葛山甚左衛門頼秀は改易され、「大宮城」城主は葛山氏から国人領主富士氏に替えられた

史料上からは「神田川以西=富士氏、神田川以東=葛山氏」とあるわけではなくこれは推測に過ぎないが、富士大宮に境界は確かにあったのかもしれない。橋を境にその精神性・地理的性格が変わることは多々ある。真に問題となってくるのは「富士大宮司分代官職」についてである。ここの部分は、読み手により文書の解釈に大きな差異が認められる部分である。

永禄4年7月「今川氏真判物」


「改易」の部分が少なくとも「富士大宮司分代官職之事」にかかるとして、「城代」(≒城主)にもかかるのか、という問題である。


「富士大宮司分」は富士大宮司領のことを指し、領するのは富士大宮司(富士氏)であったが、その土地の代官職は葛山氏にあったのだろう。葛山氏はそれ(代官職)をまず改易されたのである。その上で大宮城代を富士氏としたと考えられる。つまり、葛山氏が大宮城代であったわけではないと思われるのである。この判物で氏真は、この土地における葛山氏の介入を完全に退く形としたかったのである。

「戦国期における富士大宮浅間神社の地域的ネットワーク-「富士大宮神事帳」の史料的分析から-」では『富士大宮神事帳』に祭礼役の負担者として記される「御代官」が「富士大宮司分代官」に相当すると仮説を立てており、興味深い。また『元富士大宮司館跡』には以下のようにある。

市立大宮小学校屋内運動場建設予定より、12世紀前半から16世紀前半まで連綿と営まれた居館跡が発見され、これが芙蓉館以前の元富士大宮司館跡であり終末期には史料に言う大宮城とも充分な関わりを持っていたことが判断されたのである。  ※執筆を一部担当している若林氏は「富士氏の居館であったのでは無いかという大前提のもとに考察をすすめているのであるが、このことに対して若干の疑問を提起するところである」とも述べている

つまり市としては「大宮城の前身は富士大宮司館である」と言っているのである。そもそも「富士大宮司館」という文言は元弘3年(1333)と建武元年(1334)「後醍醐天皇綸旨」にしか見られない。

元弘3年(1333)「後醍醐天皇綸旨」

この2点の文書しかないという事実もそうであるが(その後「大宮司館」の文言は見当たらない)、個人的には14世紀中盤に「大宮司館」とあるだけで後の「大宮城」(15世紀後半から見られる)と同場所であるという論は普通成り立たないと考える。また発掘物を祭祀へ直接的に結びつけてよいものだろうか、とも思う。また「富士大宮司分代官職」が葛山氏にあったという事実も無視できない。振り出しに戻ってしまうが、「代官職」を保持している人間が「大宮城」と呼ばれる場所に関与していたと考えることはおかしなことではない。

また発掘調査時に「元富士大宮司館跡」として刊行したことには違和感を覚える。それ以前に「大宮司館」が浅間大社そのもの、または境内を指している可能性も充分にある。例えば『絹本著色富士曼荼羅図』には浅間大社境内の館に神官が居る様子が描かれている。
『絹本著色富士曼荼羅図』より

このようなものを指して「富士大宮司館」と呼称していた可能性も十分あるのである。その特異的な用例から2点、もっと言えばごく短い期間のみしか確認できないと考えた方が良さそうである。そもそも土地の寄進であるのに宛を「居館」とするのは何故だろうか。大変違和感を感じる部分である。「大宮司館」はごく短期間しか確認されていない用例であるが、「大宮城」はもっと長きに渡り用いられていたのであり、それが最後の姿である。なので通常であれば「大宮城跡」と名付く形で刊行されるべきであっただろう(遺跡地名表では「大宮城跡」に包括)。

ただここでは、富士大宮にて葛山氏の影響力があったという事実は示しておきたい。

  • 吉野氏
まず吉野氏は葛山氏の被官である。富士宮市山本に勢力を持ち、同地には吉野屋敷が存在していた。ただ「中世城郭史の研究」によるとその規模は30mから40mといい、小規模である。吉野氏と葛山氏との関係は、葛山氏広の時には確認できる。「戦国大名今川氏と葛山氏」にて「氏広については、発給文書は天文初年時期の二通しか存在しない」とあるうちの一通である。つまりかなり早期から関係性が確認できるのである。


年欠であるが、天文4年(1535)に比定されている。このように、葛山氏広は「吉野郷九郎左衛門尉」に下遠島での戦功を賞して感状を与えた。そして以下は、氏広の次代の葛山氏元による天文14年(1545)の感状である。



この感状から、吉野氏が長久保城の戦いに参加していたことが分かる。これは「河東の乱」の一幕である。「戦国時代の吉原の歴史と吉原宿の成立」にて

天文14年(1545)八月に今川義元が河東に入り、その後援軍要請を受けた武田信玄も駿河に入り大石寺に着陣。今川軍と武田軍の合流が明確であることが分かると、北条軍は吉原城を放棄し三島へと後退した。その後北条氏は和睦を提案し、武田氏が両者を仲介した。

と説明した。このとき北条方が今川方に明け渡した城こそが長久保城である。ただ問題はこのとき吉野氏が「今川・北条どちら方として戦っていたのか」ということである。また「777号・778号」であるが、文面・日時が同様であるのにも関わらず発給者が異なるのは違和感がある。「戦国大名今川氏と葛山氏」では上の感状(777号)だけでは今川・北条方のどちらかは分からないとしている。また脚注内にて「『駿河記』には、この氏元感状とほぼ同文の今川義元発給の感状が載せられている。

これに対して『静岡県史料』の下註にて「(現品なし)今採らず」と記されている。本章でも、この『県史料』の判断に従っている」としている。氏は他史料を考察の上で「氏元は北条氏方の一員として、その後の長久保城攻防戦に参戦したというのが歴史的経緯であろう」としている(ここは諸説あり)。『駿河記』の記述は検討を要する。

そして以下の天文15年(1546)の文書は特に知られている。


上述のように、葛山氏が富士上方地域を一定規模以上支配していたことが分かるのである。弘治3年(1557)の文書に「吉野采女」なる人物の名が見える。


「富士郡山本村吉野采女殿」とあるのでやはり山本の吉野氏なのであるが、この人物についてははっきりしていない。「本文書は検討の余地がある」とあるのは、この文書のみ唐突に後北条氏との接点が見出だせるためである。この文書の存在を考えると、上の「氏元は北条氏方の一員として、その後の長久保城攻防戦に参戦したというのが歴史的経緯であろう」という解釈は是であるかもしれない。


また同文書も大変重要な示唆をしており、永禄元年(1558)葛山氏元が吉野郷三郎に「高原関」の管理と関銭の上納を命じているものである。つまり吉野氏は関所を管理していたのであり、また葛山氏は富士郡の交通を一部掌握していたのである。まず現在の富士宮市では「高原」という住所自体は存在しないものの、山本でも高台にあたる一帯は現在でも「高原」と呼称され、根強く呼称が残っている。高原は岩本に隣接する地で、富士下方地域と大宮を繋ぐ主要路の1つであった(「富士市岩本に出された制札と富士山登拝」を参照)。関所があるのもその理由からなる。



遠州忩劇時に吉野氏は今川軍として参加しており、葛山氏元の指示を受けている。


「戦国大名今川氏と領国支配」では以下のように説明している。

また月日は不明ながら駿河富士郡より東三河に出陣していた吉野日向守は、葛山氏元の指示により遠江牛飼原(豊田郡森町)に転戦し、周智郡西楽寺(袋井市)には群生乱入があった。

永禄8年(1566)11月のことである。その後永禄9年(1567)に吉野日向守の名が見える。葛山氏元が富士浅間社の正月三ヶ日の祭礼に必要な負担分を吉野日向守領から受け取るよう命じたものである。


ここでいう富士浅間社は、駿河郡における浅間社(佐野郷か)を指すと考えられる。そして葛山氏元は後に謀反を起こすのであるが、やはり吉野氏は葛山氏に同調したであろう。その後の吉野氏の動向は少ないものの確認できる部分があるが、葛山氏と吉野氏の関係は不明である。葛山氏元は武田氏に帰順後の永禄12年(1569)、富士氏が守る大宮城(富士城)を攻撃している。この時、吉野氏も同様に大宮城を攻撃していた可能性が高い。


永禄13年(1570)、氏元が駿河国内房橋上・船役所に宛てた文書が残る。内容は橋上の船役所に対して「瀬名信輝」およびその同朋を通すよう伝達した文書である。瀬名信輝も葛山氏元と共に武田氏に帰順した人物である(「戦国時代の富士川流域の役割と船方衆」を参照)。天正元年(1573)に葛山氏元は武田氏より謀反の疑いをかけられ、処刑されている。その後吉野氏がどのような過程を経たのかはよく分かっていない。

  • 参考文献
  1. 久保田昌希,『戦国大名今川氏と領国支配』,吉川弘文館,2005
  2. 『沼津市史 通史編 原始・古代・中世』
  3. 『裾野市史 第八巻 通史編Ⅰ』
  4. 有光友學,「駿河国駿東郡と葛山氏」『武田氏研究 第22』,2000
  5. 有光友學,『戦国大名今川氏と葛山氏』,吉川弘文館,2013
  6. 安野眞幸,『楽市論―初期信長の流通政策』,2009
  7. 小和田哲男,『中世城郭史の研究』,清文堂出版,2002
  8. 大石泰史,「今川領国の宿と流通 : 宿と流通を語る「上」と「下」」『馬の博物館研究紀要 第18号』,2012
  9. 池上裕子,講演「今川・武田・北条氏と駿東」『小山町の歴史 第8号』,1994
  10.  合田尚樹,「戦国期における富士大宮浅間神社の地域的ネットワーク-「富士大宮神事帳」の史料的分析から-」『武田氏研究 第30号』,2004
  11. 富士宮市教育委員会編,『元富士大宮司館跡』,2000
  12. 富士宮市教育委員会編,『元富士大宮司館跡2』,2014

2017年6月5日月曜日

戦国時代の吉原の歴史と吉原宿の成立

当ブログではこれまで「吉原」については何度か取り上げ、以下のエントリ等で言及した。

  1. 富士市の吉原地区に残る富士山信仰跡
  2. 富士山禅定図と村山修験と元吉原
  3. 駿河国吉原の吉原湊と道者問屋
  4. 駿河国富士郡大宮と吉原の関係と富士山登山ルート

しかし「吉原」といったとき、やはり「吉原宿」を中心として論じられることが多い。同宿は基本的に近世からのものなので、つまりは近世以降のみが着目されている。しかし吉原そのものの地理的背景、中世における動向をもう少し考えても良いかと思い今回改めて取り上げることとした。そこから吉原宿の成立について考えていきたい。

  • 吉原の位置と地理的背景
まず現在の富士市域というのは、山に囲まれた地である。北方には富士山が位置するが、それよりも目を見張るのは「愛鷹山」の存在である。


この図をみても分かるように、宿場町を置く位置はそもそも限られてくる。この一帯から大宮(現在の富士宮市)方面へ拓けるので、やはり中道往還は吉原-大宮を通っていた。次に富士川氾濫原(富士川の氾濫が繰り返された水害地)を見ていくこととする。


これを見ると分かるように、富士川氾濫原はかなりの東側まで及んでいるのが分かる(例えば現在の身延線の位置は旧富士川氾濫原に覆われていた)。つまり町を形成できるのは富士川氾濫原より東側、そして愛鷹山麓より西側という領域となる。まずこれらの地理的要因から、元吉原宿・中吉原宿・新吉原宿一帯に宿場町を構成する合理性を見出すことができる。

その上で高潮影響域を見ていきたい。元吉原宿と推定される箇所の隣接地には「柏原遺跡」が存在する。当該遺跡からは津波または高潮による堆積物が確認されている。この堆積層は3層に分けることができ、数回にわたり大規模な津波・高潮の被害を受けたことが示されている。弥生時代後期から古墳時代前期の堆積層を有しており、古来より津波・高潮に晒されてきたことが判明している。近世の延宝8年(1680)にも高潮が生じ、ついに宿場自体の移転を強いられたというわけである。富士市教育委員会の調査によると、中吉原宿では17世紀中までの遺跡は出土しているがそれ以降の遺物はほとんどないという。これは宿場自体が移転したことを示すとされ、重要な事実である。吉原宿(新)の必然性は①山岳地回避②富士川氾濫原回避③津波・高潮影響域回避から説明でき、まずそれを理解することが重要である。吉原の集約性は、地理的要因が圧倒的に大きかったのである。
※吉原宿に関しては下記を参照

  • 吉原と水害

富士市の島地名と水害そして浅間神社」と「上記」にて水害の説明は既に行っているが、1つ印象的な出来事を挙げたい。上記のように吉原湊周辺は高潮の影響を受けており、各記録から小規模なものを含めると比較的恒常的に発生していたと推測される。その水害の矛先は、その地域の名主でも容赦がなかった。


この文書について「戦国期商人の一形態 駿河矢部氏に関する覚書」では以下のように説明している。

今川義元から矢部孫三郎に宛てた朱印状には「今度之大風洪水二矢部将監令死去跡職事、依無実子、為親類之間、可令相続之」とあり、先頃の風水害によって矢部将監が死亡し、実子がいなかったためにその跡職が親類である矢部孫三郎に譲られたという経緯がわかる

ここで着目したいのは「大風洪水」の事実であり、これは吉原湊における災害と考えられる(※田子浦湊という表記は歴史的には無い、ここでもまた田子浦の用例について考える必要性がある)。

  • 富士下方

吉原を含む一帯を「富士下方」という。文書から吉原・伝法・青島・高島・厚原・石坂は確実視されている。「富士下方」といった時、大変著名な出来事が想起される。時の今川家当主に今川義忠という人物が居た。しかし今川義忠は突如戦死してしまう。これにより文明8年(1476)に家督争いが発生、龍王丸擁立派(後の氏親)と小鹿範満擁立派とで分かれ、お家騒動に発展した。その際伊勢宗瑞(北条早雲)は甥である龍王丸を助け調停に乗り出し、一旦は範満が龍王丸の後見人という形で家督を代行することとなった。しかし小鹿範満は龍王丸が成人しても家督を譲ろうとしなかったため、やはりお家騒動となった。その結果小鹿範満は追い詰められ自害、紆余曲折ありながらも龍王丸が今川家の家督を継ぐこととなった(→今川氏親)。この背景には伊勢宗瑞の働きがあったため、功績として伊勢宗瑞(北条早雲)は富士下方十二郷および興国寺城を与えられた。この富士下方十二郷に吉原の地(または吉原の郷)は含まれるのであるが、この記録は些か違和感を覚える。実際、この内容は懐疑的に見られることも多い。池上裕子「戦国期における相駿関係の推移と西側国境問題―相甲同盟成立まで―」には以下のようにある。

その功により早雲は富士郡下方十二郷(あるいは下方荘)を宛行われ、高国寺城に入ったというが(『今川記』)、それに関わる文書は全くない。
脚注:興国寺城(沼津市)をさすとみられるが、同城は天文18年に今川義元によって築城されたことを示す史料があるので、早雲の拠った城をどこに比定するかが問題となっている。一般には早雲のいた城を義元が拡大したと考えられているが、小和田哲男「二つあった興国寺城」(『戦国史研究』3号、1982年)は、同城の遺構の西隣になる方形館の可能性を指摘している。ただ、興国寺城は下方十二郷からかなり離れており、善徳(得)寺城の誤りではないかとする説(貝崎鬨雄「善得寺城について」『駿河の今川氏』十集)も魅力的である

とあり、池上氏は下方十二郷が与えられたことを懐疑的に見ている。「戦国北条氏五代」(黒田)によると、富士下方十二郷および興国寺城を与えられたという記録は、『異本小田原記』等によるという。また同文献は以下のように説明する。

この初伝は、宗瑞の今川家中における華々しい台頭を伝えるものであるが、先述の京都における活動と整合性が見られない(注:宗瑞は文明15年(1483)に将軍足利義尚の申次衆となり、後に奉公衆となっている)。さらにその年齢の若さとも相まって多分に伝説性が感じられ、史実としては大いに疑問が残る。(中略)先の所伝に関しては、文明8年の今川氏の内乱について記す「鎌倉大草紙」には、宗瑞の名は登場していない。またそれらの軍記には、長享元年の事件についてはまったく記述されていないので、先の所伝は、この二回にわたる今川氏の内乱を混交して作成されたものと考えられる。ちなみに先の下方荘(注:上でいうところの富士下方十二郷)・興国寺城拝領についても伝承の域は出ず、史料によって確認することはできない。(中略)下方荘の支配拠点としてふさわしいのは、善徳寺城であるから、同荘拝領が事実とすれば、その支配拠点として拝領したのは善徳寺城と考えられる(大塚勲「今川義元-史料による年譜的考察」)。

黒田氏自身はこの伝承自体を懐疑的にみており、仮に事実なら善徳寺城である可能性を考えている。ただこの流れからも分かるように史実として見るには難しい面が多分にあると言える。このように北条氏と今川氏は良好関係にあったのであるが、義元の代からこれは大きく変貌する。


  • 今川領国と北条領国の境目に近接する吉原

まず戦国時代の「吉原」は、今川領国と北条領国の境目に近接する位置にある。この境目を探る上で駿甲相三国同盟の動向は重要である。駿甲相三国同盟の際、輿入れは大変華やかで盛大に行われたことが知られている。武田信玄の長女である「黄梅院」が北条氏側に引き渡されたのは「上野原」であり、これは武田領国と北条領国の境目である。また北条氏康長女である「早川殿」は、やはり今川領国と北条領国の境目である「三島」で引き渡されたのである。吉原は今川領国と北条領国の境目の地に近接する緩衝地(というよりは中立的な立場)に近い役割があったと考えられる。例えば矢部氏について「戦国期商人の一形態 駿河矢部氏に関する覚書」では以下のようにも説明している。

(同族の矢部左近将監について)彼は今川氏の給人に準じ、軍役を負担するものではあるが、厳密には給人ではないことが指摘できるであろう。(中略)矢部氏は今川氏や葛山氏から職能給としての給恩を受けてはいるが、被官までとはいえず、民間人であったとみなされる。(中略)武田氏の支配下に置かれる以前、矢部氏は武田氏とは敵対関係にあった今川・葛山氏から吉原湊での問屋や渡船などに関する諸権限を安堵され、あるいは後北条氏のもとで軍事活動を左右する船橋の保守・管理や物資調達を求められることを介してそれらの領主と密接な関わりをもっていたにも拘ららず、従来から保証されてきた権限を武田氏の支配下においても保持し、活動を続けていたことが確認できる。(中略)それが可能であった背景には、同氏による商いが領主密着型でなく、渡船をはじめ問屋の経営を基盤にしたいわば地域密着型の商いであったことが指摘できるように思う。

これは今川領国と北条領国の境目に近接するが故に「領主密着型」になれなかったのではないか、とも考えられるのである。


戦関係の史料として、「河東の乱」時の富士下方の動向が『快元僧都記』に見出だせる。北条氏綱は今川義元との対立にあたり吉原に着陣した。天文六年四月廿日条の記録によると、富士下方には「吉原之衆」がおり、これらは北条氏側に加担し今川氏と対立していたと見られる。このように着陣地になる所以は今川領国と北条領国の境目に近接するためと考えられる。第二次河東の乱時も北条氏は吉原に着陣しており、同様の現象が確認できる。池上裕子「戦国期における相駿関係の推移と西側国境問題―相甲同盟成立まで―」 には以下のようにある。

天文14年正月、宗牧が駿府から熱海に向かうに当たり、「吉原城主狩野の介・松田弥次郎方へ」飛脚を出していること、蒲原から吉原に向う舟の上から「吉原の城もま近く見え」ていたことなど(『東国紀行』)から、北条方は吉原城に拠って河東を軍事的に支配していたと考えられる。吉原城は、北条の「駿州半国」支配の最前線に位置したのである 

とある。しかし天文14年(1545)8月に今川義元が河東に入り、その後援軍要請を受けた武田信玄も駿河に入り大石寺に着陣。今川軍と武田軍の合流が明確であることが分かると、北条軍は吉原城を放棄し三島へと後退した。その後北条氏は和睦を提案し、武田氏が両者を仲介した。『勝山記』(天文14年)には

此年八月ヨリ駿河ノ義元吉原ヘ取懸被食候、去程二相模屋形吉原二守リ被食候、武田晴信様御馬ヲ吉原ヘ出シ被食候、去程二相模屋形モ大義思食候、三島へツホミ被食候、諏訪ノ森ヲ全二御モチ候、武田殿アツカイニテ和談被成候…

とあり、吉原が最前線であったことが分かる。ここに、吉原固有の重要な性質を感じ取ることができる


  • 吉原城

吉原には「吉原城」があったことが史料から判明している。しかし戦国期でも早期に拠点性を失っていたと見られる。「戦国期東国の大名と国衆」(黒田)には以下のようにある。

永禄11年12月6日に武田信玄は駿河侵攻のために甲斐府中を出陣したが、これを聞いた北条氏は直ちに今川氏支援のための援軍を派遣し、12日には当主氏政自身が小田原を出陣して伊豆三島に陣を張った。(中略)これらのことから、北条氏は同月中にほぼ駿東郡と富士郡の河東地域をその軍事的勢力下に収めることに成功していたととらえられる。翌12年正月に、北条氏が駿河において確保している軍事拠点として蒲原・興国寺・長久保・吉原の諸城が挙げられているが、おそらくこれらの諸城は、北条氏の援軍派遣の過程で北条氏に確保されていたとみて間違いないであろう。(中略)このように、北条氏は援軍の派遣過程で葛山要害・長久保城・興国寺城・吉原城・蒲原城をその管轄下に収めたとみられるが、この点に関して、例えば『北条五代記』巻六には、この時期に北条氏が武田氏との抗争にあたって軍事的拠点として取り立てていたものとして「蒲原・高国寺(興国寺)三枚橋(沼津)・戸倉(徳倉)・志師浜(獅子浜)・泉頭・長久保七つの城」を挙げている。(中略)これに対して他の葛山要害・長久保城・吉原城のうち、葛山要害・吉原城については以後における抗争過程においてもその名はほとんど初見されない。このことは、両所がかなりはやい段階から既に重要な軍事拠点としての機能を与えられなかったことを示すものであろう

としている。史料上吉原城の動向が確認できるものは大変少なく、吉原が軍事拠点として存在していなかったことが分かる。これは上記のような不安定な地理的要因によるものではないだろうか。この近辺において水害に関する話題は枚挙に暇がない。吉原城の位置は明確ではないが、天香久山砦や富士塚周辺とされる。やはり沿岸の地であり、当時は砂州・砂丘の影響も過大であったため、やはり恒常的な拠点にはなり得なかったと考えられる。そのためにより北部に善徳寺城があったが、善徳寺城も史料的制約がある。善徳寺は東泉院に隣接していた(『六所家総合調査だより 第11号』を参照)。善徳寺が武田氏の侵攻により永禄12年(1569)11月に焼失していると伝わるので、これは同城の消失と同義である。

今度は視野を「富士郡全体」まで広げてみたい。富士郡各地における諸城の関係性を考える上で、今川氏発給文書上の呼称から探ってみても良いかと思う。富士上方には富士大宮に大宮城(城主:富士信忠)があった。戦国大名が用いた大宮城の別称に「富士城」という呼称がある。この呼称については「戦国大名武田氏の富士大宮支配」に詳しい。

城郭についても、武田氏、後北条氏の文書によく見られる「大宮城」の他に「富士城」「富士屋敷」「富士之要害」などの呼称が用いられている。この場合武田氏は「大宮城」を一貫して用いている。後北条氏の場合籠城時の富士信忠に対して「大宮城」を用いているが、その他は遠方に送った書状が中心であるためか「大宮」を「富士」に変えて使用している。また今川氏真の場合は、使用例がわずか三例と少ないが、両方を用いている。

つまり"富士の城"といった際は普通「大宮城」を指すという認識が当時あった、ということになる。今川氏等がこの呼称を複数以上の例で用いていることから、このような普遍的理解があったと言わなければならない。善徳寺城の位置は富士下方にあるが、その善徳寺城は富士城とは呼称されないのである(善徳寺城焼失と伝わる永禄12年11月以前から富士城の表記は確認できる)。他の富士上下方の諸城についてもそうである。このことを考えると、この時吉原城は廃城しており、善徳寺城も戦力上用いられていなかったと考えてもよいかもしれない。富士氏が大宮城の城主であったような時代、富士郡下で要害と言えたものは大宮城くらいであったのだろう。これは吉原に国衆がおらず(吉原の領主は明確には存在していない)、上記のような緩衝地帯的役割から起因すると考えられる。

  • 吉原宿の成立
上記のように商業面や水運での役割が重視されていた吉原において、後に伝馬制で宿場が整えられることは必然であった。まず大前提として、吉原宿が置かれる場所は上記のように消去法で限られてくる。それが「この場所であった」理由である。慶長6年(1601)に徳川家康は東海道に伝馬制を導入、吉原宿の朱印状が以下のものである。



基本的にはこれが(広義の意味での)吉原宿の成立である。これが矢部氏に伝わっていたこと、また同氏が近世に問屋役・年寄役を勤めるなどしている背景には中世から続く名主的立場があったからに違いない。

先程「広義の意味での」といいましたが、「宿」というのは中世からも存在していたのである。隣接する富士大宮にも「大宮宿」があった。しかし伝馬制にて宿場駅に指定された意義は大きい。吉原宿は中道往還の起点でもある。吉原宿の意義というのは「街道の起点・終点でもあった」という事実からも見出だせるし、むしろこちらこそ無視できない部分である。中世から存在していた「その宿」も前身含め偏移があったと言われている。


宿成立年
見附吉原宿の前身
元吉原宿元祖吉原宿、上の伝馬朱印状はこの箇所に対するもの
中吉原宿寛永年間に高潮被害により移転 ※年度は諸説あるが寛永16年(1630)-寛永19年(1633)の間
新吉原宿延宝8年(1680)の水害により天和2年(1682)に移転

元吉原宿の前身である「見附」に関しては一次史料では確認できず、後世の『田子乃古道』に記述が確認できる程度である。その後本来「吉原」でない地域に「吉原宿」が移転され続けた。なので「元吉原」という語が新たに生まれ、史料上確認できるのである。

貝原益軒『壬申紀行』に

廿四日 吉原をいづ。此町はちかき世三たびたちはかる故に、もと吉原中吉原とてあり。十年あまり前、津波のたかくあふれあがりて民家をひたせる事あり

とあるので、「元吉原」「中吉原」という言葉は当時存在していたようである。ここでいう「吉原をいづ」の「吉原」が、上の表でいうところの「新吉原」ということになる。


中世吉原の歴史的な性質(ここでは中世に「吉原」と呼称されていたと推察される地域に限る)として①吉原湊を主とした水運・渡船等による商業活動②今川領国と北条領国の境に近接するという事情③水害による各施設の消失(→吉原宿等)が挙げられる。吉原が国衆・領主の空白地帯であった理由として②③は直接的に関わるであろう。葛山氏の支配領域が駿東郡から飛んで富士下方ではなく富士上方に多い理由(久日・山本・小泉・高原・(柚野)等)も、ここにあると思われる。

  • 参考文献
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