富士山本宮浅間大社→本殿が浅間造
静岡浅間神社→拝殿が浅間造
そこで両浅間社の上層平面図を眺めると、上層部分の床に下層から上層へのアプローチ空間をみることが出来た。図面の表記から浅間大社本殿では階段が設置されていることが分かるが、静岡浅間神社拝殿では取り外し可能の板が床面に確認できる。(中略)両浅間社に聞き取り調査を行った際に上層空間へのアプローチについて聞いたところ、図面の表記通り浅間大社本殿では常設の階段が、静岡浅間神社拝殿では床面を外し梯子を架けることが確認できた。また、静岡浅間神社拝殿で梯子を架ける際には狩野栄信・狩野寛信の天井絵が描かれている。(中略)狩野派によって描かれた絵がある天井絵を頻繁に取り外す事はないと考えられ、梯子を架けることはほとんどなかったのではないかと推察できる。以上より、常設の階段が設置されている浅間大社本殿は上層部分を使用する事を計画して設計されたものだと考えられる。一方で、静岡浅間神社拝殿は非常設の梯子による上層空間へのアプローチであることから、上層空間の使用は考えていなかったと考えられる。
独特の建築で知られる宇治平等院などは、左右の翼廊上層部分に似たような建築がある。この部分のみ取り出すと、浅間造と非常に類似しているのが分かる。現地で実際拝見してみたが、人間が上層部分に(余裕をもって)入れる程の隙間は無かった。ある意味では、静岡浅間神社に近いと言える。
同氏の論文で『富士山本宮浅間大社本殿の重層建築形態に関する再検討-新史料の紹介を含めて-』というものがある。
一方、大正時代の修理工事の際に作成された図面によると礎石から箱棟頂部まで四丈九尺であることがわかる。これより、江戸時代の記録と比較すると最大で九尺の違いがあることが分かる。また、明治時代に本殿から御神体が発見されるという出来事があったのだが、その時の記録によると「主典古矢之三階下ノ梁上二、筥有ルヲ見出シ」とあり、三階部分から発見されたと記されている。もちろん明治時代の本殿は現在の本殿の社殿同様に二階建てであり、三階という表現は不可解である。しかし大社の神主の間では三階という表現が用いられていた事は興味深い事である。
おそらく、外見としては「二重」であるため、『富嶽之記』(1733年)では「本殿二重閣」とあり、『駿河記』(1809年)などでは「本社二階」とある。しかし内部の人間はそこに階段があることを知っているわけなので、「三階」とする記録があるのだろう。しかし個人的には、明治時代の記録に歴史性はあまり感じないので、中世-近世で「三階」という意識があったとはあまり思わない。
本殿は社の中でも重要な箇所であり、その上層部に御神体があるのは全くおかしなことではない。御神体に多くの機会をもって関わるということは無かったため、人が上層空間を使用する意図で階段状にしたかは疑問が残る。この御神体は、富士大宮司ですら容易には見ることができなかったものなのである(建部恭宣,「浅間造の研究5」を参考)。明確な意図があったかどうかは分からない。
註:富士山本宮浅間大社と静岡浅間神社の間では毎年4月・11月に合同祭祀が行われていたことが知られ、中世後期にまで遡ることができるという(大高康正,富士山縁起と「浅間御本地」『中世の寺社縁起と参詣』,2013)。
- 参考文献
- 佐藤翔二,「浅間大社本殿と静岡浅間神社拝殿の形態的特徴について(駿河国浅間社社殿の研究その1)」学術講演梗概集2013, 387-388, 2013
- 佐藤翔二,「富士山本宮浅間大社本殿の重層建築形態に関する再検討-新史料の紹介を含めて-」,日本建築学会関東支部研究報告集 83(II), 645-648, 2013
- 建部恭宣,「浅間大社本殿上層について(浅間造の研究5)」,学術講演梗概集F-2, 25-26, 1999