「境内絵図」寛文10年(1670年) |
「境内絵図写」宝永5年(1708年) |
棕櫚の木の存在は、非常に重要な点である。境内図だけでなく、富士曼荼羅図にも棕櫚の木は描かれているのである(参考:県指定富士浅間曼荼羅図を考える)。
つまり追加された絵柄が棕櫚であることには、意味があるのである。今回「境内絵図写」を詳細に見る機会を得たので、ここで簡単に説明をしていきたいと思う。
「本殿」および「三之宮浅間神社」「七之宮浅間神社」などが描かれる。
入り口には狛犬が位置する。扉絵は松と梅(か)。二階構造であり、複雑な斗栱をなしている。その独特な建築と、家紋が詳細に描かれている点が、当境内図の最大の特徴である。また神仏習合を明確に示す点も特徴と言える。
この独特な建築の呼称についてであるが、現代の呼称である「浅間造」と記すものは、歴史的史料では見いだせない。明治期の史料において初見とされる(浅間造の研究3)。ちょうど境内図写が記されたとされる宝永5年(1708年)と同年の記録に、「大宮司別当公文案主連署造営見聞願写」がある。その記録では「寶殿造」「三軒社」と見える。その他「二重造」「二階造」「樓閣造」といった呼称が古記録では確認されている。
「富士曼荼羅図」(県指定)に見られる棕櫚の木 |
つまり追加された絵柄が棕櫚であることには、意味があるのである。今回「境内絵図写」を詳細に見る機会を得たので、ここで簡単に説明をしていきたいと思う。
「本殿」および「三之宮浅間神社」「七之宮浅間神社」などが描かれる。
入り口には狛犬が位置する。扉絵は松と梅(か)。二階構造であり、複雑な斗栱をなしている。その独特な建築と、家紋が詳細に描かれている点が、当境内図の最大の特徴である。また神仏習合を明確に示す点も特徴と言える。
この独特な建築の呼称についてであるが、現代の呼称である「浅間造」と記すものは、歴史的史料では見いだせない。明治期の史料において初見とされる(浅間造の研究3)。ちょうど境内図写が記されたとされる宝永5年(1708年)と同年の記録に、「大宮司別当公文案主連署造営見聞願写」がある。その記録では「寶殿造」「三軒社」と見える。その他「二重造」「二階造」「樓閣造」といった呼称が古記録では確認されている。
「◯◯◯◯◯」→「葵・棕櫚・葵・棕櫚・葵」ということで良いと思う。
浅間大社社殿の家紋については、『富嶽之記』の「彩色彫物等美盡し、菊葵の紋あり」という記述が知られる。そして現在も、蟇股に菊葵の紋に該当する部分は現存している。この記録は享保18年(1733年)のものであるので、境内絵図を寺社奉行に提出した寛文10年(1670年)とはかなり時を隔てている。
寛文10年(1670年)時点で既に「菊の御紋」の装飾はあったのか、それとも存在したが境内絵図では描かれなかったのかは分からない(もしくはどこかに描かれているのかもしれない)。そもそも家紋は現在蟇股に存在するのであって、境内絵図では逆に蟇股ではない部分に見える。それらの差異もあるので、完全なる一致はないのかもしれない。デフォルトされている可能性も考える必要性がある。
また「リアルタイムの状況を本当に記しているのか」という点もある。「浅間造の研究6」には以下のようにある。
とあり、仮に寛文9年に描かれた場合、それは復原的に描いたものであるという可能性を指摘している。つまり描いた当時、それは無かった可能性はあるのである。しかし少なくとも、境内絵図や当時の記録にて葵紋が登場することに間違いなく、いかに富士山本宮浅間大社が徳川将軍家に庇護されて来たのかが端的に分かる。
安永8年(1779年)の「幕府裁許状」には以下のようにある。
寛文10年(1670年)時点で既に「菊の御紋」の装飾はあったのか、それとも存在したが境内絵図では描かれなかったのかは分からない(もしくはどこかに描かれているのかもしれない)。そもそも家紋は現在蟇股に存在するのであって、境内絵図では逆に蟇股ではない部分に見える。それらの差異もあるので、完全なる一致はないのかもしれない。デフォルトされている可能性も考える必要性がある。
また「リアルタイムの状況を本当に記しているのか」という点もある。「浅間造の研究6」には以下のようにある。
宝永5年の年紀を有する「大宮司別当公文案主連署造営見分願写」によると…続けて「廻廊三ヶ所 護摩堂 宝蔵 経蔵 三味堂 神馬厩」等29箇所について「右者四十年以前潰レ申候所堂社二而御座候御事」と記されている。したがって、14棟あった仏教建築のうち「鐘楼堂」を除く13棟は、寛文9年(1669)以前に何らかの理由によって「潰レ」ていたことが判明する。
とあり、仮に寛文9年に描かれた場合、それは復原的に描いたものであるという可能性を指摘している。つまり描いた当時、それは無かった可能性はあるのである。しかし少なくとも、境内絵図や当時の記録にて葵紋が登場することに間違いなく、いかに富士山本宮浅間大社が徳川将軍家に庇護されて来たのかが端的に分かる。
安永8年(1779年)の「幕府裁許状」には以下のようにある。
慶長5年関ヶ原御合戦の節、御願望御成就本社末社不残らず御再建成せられ、其後散銭等は修理に致すべき旨、…
つまり境内絵図では、「葵紋」と「棕櫚紋」が交互に装飾される特徴が見られるのである。「棕櫚紋」は言わずと知れた富士氏の家紋であり、また浅間神社の神紋である。
棕櫚が浅間神社の神紋であることは間違いなく、静岡浅間神社(新宮)の宝物にも棕櫚を模した宝物が多く残っている。天正15年(1587)に徳川家康から寄進されたと伝わる「蓬莱山鏡」および「鏡台」には棕櫚紋が見える。また「御檜扇」(扇子)の模様も棕櫚が描かれており、それらが浅間神社の宝物である点を考えても相違ないと思われる。
三重塔と棕櫚の木 |
三重塔と棕櫚の木である。
以下の画像の囲っている箇所にあるものは「護摩堂」である。
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参考文献
- 建部恭宣,「浅間造の研究」(1-10)『東海支部研究報集』,1(1998)-10(2004)
- 静岡市教育委員会編,『静岡市文化財資料館収蔵品 図録』,2001年
- 青柳周一,『富岳旅百景―観光地域史の試み』P174-182, 角川書店,2002