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2014年6月25日水曜日

永享の乱時の富士氏

永享の乱(1438年)とは、室町幕府将軍である足利義教が鎌倉公方の足利持氏討伐を決定し生じた一連の戦乱を指す。

まずこの時の駿河国は、大変に混乱した状況にあった。というのも、駿河国守護である今川家のお家騒動があったためである。当時の今川家当主である今川範政は、後継者に嫡子である彦五郎ではなくまだ幼い千代秋丸を推し、これがきっかけとなりお家騒動は生じた。そこで駿河国の国人間では、彦五郎支持派と千代秋丸支持派とで分かれることとなった。

室町幕府としては、幕府側の戦力であり鎌倉公方と交戦すると想定される今川氏のお家騒動は、当然望ましくない状況であった。また千代秋丸の母が扇谷上杉氏出身(鎌倉公方と関係が深い)であることから、千代秋丸の家督継承は望ましいものではなかった。そのため室町幕府は彦五郎の家督継承を望み、その関係から千代秋丸支持派の討伐が必要な状況であった。

そこで駿河国の国人である富士氏を当てはめて考えると、富士氏は千代秋丸支持派であった。つまり室町幕府からみれば、討伐対象であったのである。そしてその後室町幕府の支援を受けた彦五郎勢は、千代秋丸支持派を鎮圧した。こうして「彦五郎=今川範忠」は今川氏五代目当主となった。

しかし室町幕府としては、これら千代秋丸支持派を排他的に扱う程の余裕はなかった。むしろこれら一連の動向を罷免し、鎌倉公方への交戦戦力として期待する方針の方がずっと効率的であったのである。その過程で発給されたものが、以下の文書である。


これは今川貞秋の駿河国への入国を、当時千代秋丸支持派に回った駿河国の国人らに伝える文書であり、忠節を求める文書である。内容から永享6年(1434年)に比定されている。室町幕府管領である細川持之の奉書であるため、室町幕府の意向として出されたものである。以下からは、当文書について考えていきたい。
参考1

「細川持之書状写」には「富士大宮司」「富士右馬助」の名が見える。これは各々にそれぞれ同内容のものが発給されたものであり、1つの文書にすべての人物名が書いてあるわけではない。
双方とも富士氏の一族であるが、一方が富士大宮司であるため「富士右馬助」は当然富士大宮司ではない。富士大宮司と成りうる一族のみが「富士姓」を名乗っていたわけではないということは知られているが、まずそれを理解できる文書である。また「富士大宮司」と「富士右馬助」双方が戦力と考えられていることから、当時富士大宮司のみが武力を有していたわけではないと理解できる。また富士大宮司だけでなく「富士右馬助」にも発給されたことは、富士大宮司に並ぶような権威を富士右馬助が保持していたと言える。なので当地の政治を語る時、富士大宮司だけに焦点を当てるのはおかしいのである。領主「富士氏」として考えなければならない。

次に「富士大宮司」と「富士右馬助」とは誰なのか、という疑問が出てくる。まず富士右馬助についてであるが、やや時代が下って「享徳の乱」の頃の複数の文書にて確認できる。

この双方の富士右馬助について、「十五世紀後半の大宮司富士家」では以下のように説明している。

道朝書状写の宛名に見える右馬助が、持之書状の右馬助と合致するかは不明ながらも、同人もしくは彼の先代とも考えられる。すると持之書状の宛名に大宮司の名も見えることから、右馬助系の富士氏は嫡流ではないが、富士氏の嫡流に比肩するほどの有力一族であったと推測することができる。

とし、「参考2」より道朝書状写の右馬助を富士忠時であるとしている。これは文書の内容からほぼ確実であると言える富士忠時は文明10年(1478)の仏像に「大宮司前能登守忠時、同子親時」とあるように富士大宮司となっているため、「富士右馬助」系の富士氏も富士大宮司に成りうるということになる。
参考2

富士忠時と能登守の経歴は以下のようにまとめられる。


年号内容
寛正3年(1462)「後花園天皇口宣案」(戦今川・2665)より、富士忠時の能登守への昇官が打診される
天正元年(1466)「足利義政御内書写」(戦今川・28)より富士忠時が能登守となっていることが確認できる
※1462-1466年の間に富士忠時が能登守となっているということが確認できる
文明10年(1478)の時点木造大日如来坐像(戦今川・2668)に「大宮司前能登守忠時、同子親時」とあるため、このとき能登守を辞している可能性高い
※「戦今川」とは戦国遺文今川氏編を指す

富士大宮司については、系図から単純に考えれば富士直氏または富士政時と考えられるが、検討が必要である。

つまり永享の乱時の富士氏は、「駿河国内での今川氏家督相続問題」と「東国西国間を舞台にした戦乱」という2つの状況に挟まれる状況にあった。またある意味富士氏にとって、富士家の進退に直接影響する時期であったのかもしれない。このときの富士氏は、今川氏の家臣としての性格は全く伺えない(勝てば官軍なのでそう言い切れないが)。一方これらの文書類から、15世紀時点で既に武家的側面を有することは確実である。領主富士氏の内部構造と性格は、内部構造的には「富士大宮司」と「富士右馬助」の二頭構造にあった。そして富士忠時や富士親時は仏像の造立に関わることから、富士氏の性格として、社家としての側面も間違いなく有していた。ただこの棲み分けは不明である。印象的には、富士大宮司・公文・案主としての三頭体制はやや時代が下るようにも感じる。

  • 参考文献
  1. 大石泰史,「十五世紀後半の大宮司富士家」,『戦国史研究』第60号,2010年