江戸時代には夥しい数の版本が流布し、また庶民による旅も盛んになって、道中案内も数々刷られている。(中略)南麓を描いた富士登山案内絵図において絵図中の表題を拾うと、「駿河国富士山絵図」、「駿州吉原宿絵図」、「富士山表口真面之図」と必ずしも一定しない。何種類もの版木があったと考えられ、おそらくは江戸中期以降明治期にかけて刷られたとみられるが、本稿ではこれらを富士山南口案内絵図と称しておく。南麓の場合、登山口として村山口・大宮口の両方が称される。
「駿河国富士山絵図」や「富士山表口真面之図」の作成主体は村山修験である。また富士山南口案内絵図において、以下の特徴を挙げている。
資料数が少ないなかでの比較になるが、富士登山案内絵図のなかで、もっとも登山口に至るまでの行程を詳しく描き込んでいるのが、南口絵図ではないかと思われる。
私はこの点は非常に重要な点に思える。つまりは南麓関連の絵図は「大宮・村山口登山道」に至る過程を詳細に記しているということであり、一見してもその印象が強い。例えば田子の浦(富士市)といった登山口から遠い位置からも、登山口までの道程を記している。これは東海道を介して訪れる道者を意識した絵図となっていると言え、その特徴から吉原宿の存在は富士山禅定図を語る上では外すことはできない。
「駿州吉原宿絵図」と「駿河国富士山絵図」の場合、吉原宿から各地への里程が記されていることからみても、当初に述べたとおり、この図は富士山参詣道者のための案内図とみてよいだろう。「吉原宿絵図」には文政十年の「初夏」に開板とあり、初夏といえばこれから夏にかけての道者(富士山参詣者をさす)を対象にしていることが十分想像される。
ここで吉原宿と富士山禅定図との関係を示す史料を提示したい。
これは『東街便覧図略』(1786年)にある図柄であり、元吉原を示したものである。元吉原は「元々吉原宿が位置していた」という経緯から地名となった場所である。そして冒頭には以下のようにある。
つまり元吉原には富士山禅定図を売る「富士見屋」という店が存在していたのである。これは重要な点である。また以下のようにもある。
つまり登山口・登山道に至る地図を販売していた、と理解できる。またこの事実は、吉原周辺において北方への指向があったことを示している。そしてその背景には村山修験があった。
『東街便覧図略』より |
此所にて富士山禅定図の図并富士山略縁起を売る店あり。家名を富士見屋といふ。
つまり元吉原には富士山禅定図を売る「富士見屋」という店が存在していたのである。これは重要な点である。また以下のようにもある。
文化8年(1811)、司馬江漢があらわした随筆『春波楼筆記』には、「元市場と云ふ処は、白酒を売る処なり、爰にて富士山の図を板行に彫りて、埒もなく押してあるを、蘭人往来する時、何枚も需むる事なり」とある。元市場は東海道・吉原宿と富士川の中間にある間宿であり、米宮浅間神社をその北に抱く門前のまちともいえる。司馬の文章からして、木版刷りの富士山図がここで頒布されていたことは明らかであり、蘭人だけでなく東海道を行く旅人に求められたであろう。
つまり登山口・登山道に至る地図を販売していた、と理解できる。またこの事実は、吉原周辺において北方への指向があったことを示している。そしてその背景には村山修験があった。
なお南口絵図のうち、明らかに明治以後に刷られたものもある。三坊蔵板の「富士山表口真面之図」と同じ題名・同じような構図だが若干異なり、明治初期の修験道廃止令など神仏分離政策を受けて、村山や富士山頂からほとんど仏教色は消え去っている。この明治以降の真面之図は数点が確認されているが、それらのなかに「□(欠損)山蔵板」と刷られているものが見られ、この表記がない図でもみな同じ構成・同じ内容であることや「表口村山ヨリ諸方ヘ里程」が列記されていることから、すべて村山蔵板の絵図と考えられる。
尚、この種の案内絵図との棲み分けは重要である。また多くの富士山禅定図、または富士山案内絵図を手がけていた村山修験の意図を探ることは最も重要である。
「資料紹介 『駿府風土記』の「富士山禅定図」」(静岡県立中央図書館のコンテンツ)は以下のように説明している。
『明細記』『風土記』の富士山絵図は二次史料であり、ともに村山三坊が版行に係わった「富士山禅定図」(以下「禅定図」)を一次史料として作成したものと考えられる。(中略)『東街便覧図略』には、天明6年(1786)に元吉原で「富士山禅定図并富士山略縁起」を販売した記録があることから 18 世紀後半の東海道筋での販売を確認できる。販売の意図は「道者向けの道案内」と「村山修験の富士信仰案内」が考えられる。
おそらく村山修験は、徐々に衰退していく中で道者誘致の必要性に駆り立てられていた。そして本拠地から下り、元吉原といった場所での絵図販売に何らかの形で関与していた。そしてその一部が現在も残っているわけである。
さて、もう一方の問題は頒布場所と村山修験者との関係である。この絵図の蔵板者が主に村山修験者だとして、これら村山を離れた東海道筋の頒布場所との関係はいかなるものがあったのか。この点を明らかにすることは難しいが、『駿河国新風土記』には、村山が富士川の東岸に役所を建て、西国の道者が大宮村山を経由せずに登山することを止めていたことが記されている。
この部分については、「富士市岩本に出された制札と富士山登拝」にて取り上げている。
- 参考文献
- 荻野裕子,「富士登拝案内絵図-富士村山修験者たちの画策-」『人はなぜ富士山頂を目指すのか』,静岡県文化財団,2011年
- 静岡県立中央図書館,「資料紹介 『駿府風土記』の「富士山禅定図」」(pdf),2013
- 宮本勉,『東街便覧図略 : 伊豆・駿河・遠江の部』,羽衣出版,1994