春長坊(宮崎氏)付近の石碑 「社人町中」とある |
- 社人の居住地について
黒の通り |
これらの資料から、この通りが社人町の通りとして注目される。この通りに位置した社人として代表的な存在に「宮崎氏」がいる。
- 宮崎氏
御影(牛玉札の類),「富士の信仰」P322より、江戸期のものと推察される |
『戦国遺文今川氏編第二巻』一三六四号文書 |
これは春長宛てで、弘治三年(1557)のものである。朱印状中の「宇流井河」は今も存在する「潤井川」のことですね。
『戦国遺文今川氏編第二巻』一五六七号文書、「今川氏真判物」春長宛、≈以後省略 |
こちらも春長宛ての文書であり、永禄三年(1560年)のものである。文言から「春長坊」の存在が確認できる。つまり少なくとも16世紀中盤には春長坊は存在していることになる。「四和尚」は神職のことである。このことから「四和尚」=「春長坊」ということになる(坊の担当神職という感覚)。
『戦国遺文今川氏編』一五七一号文書 |
こちらは神職「一和尚」の「清長」宛ての文書であり、永禄三年(1560年)のものである。文中に「春長清長両人」とあることや、「一和尚」という神職である事実、人名などから同族のように思える。同じ時代に「春長」「清長」がおり、それぞれ「四和尚」「一和尚」であった。同族で異なる神職であったと考えられる。
時代が下り江戸期の神職の区別においては、「一和尚」・「四和尚」は「総社家」の中の1つとなっている。またそれぞれ「一宮仕」「四宮仕」という名称となっている。「戦国時代-江戸時代」の記録を鑑みると、やはり春長坊の宮崎氏が最も大きいように思える。春長坊の宮崎氏は、伝承では本来「井出氏」であったという。その井出氏の井出長閑が宮崎氏を名乗ったとされる(伝承の域を出ない)。ちなみに春長坊の宮崎氏は、現在の「宮崎ふとん店」(富士宮市宮町)である。
米之宮浅間神社 |
幕末期の春長坊の当主は「宮崎隆三」といい、「駿州赤心隊」に参加したという。その駿州赤心隊の隊長が富士氏の「富士重本」である。富士重本は浅間大社の大宮司である。その後の宮崎家の当主は富士市に転出し、米之宮浅間神社の神職を務めているという。ここでも、富士宮市からの流れが確認できる(一五七一号文書の「富士市本市場」とはそういうこと)。富士市の富士信仰関連は、大変にそういうものが多い。神職を務めている人物に着目することも重要で、例えば「北口本宮冨士浅間神社」(山梨県富士吉田市)の現在の宮司は吉田御師の家系だったりします。また雲見浅間神社の宮司は高橋家の世襲であるという(羽衣出版 『山と森のフォークロア』P96-97)。このように現在の浅間神社の神職が、比較的由緒がある家系の色が強いことを考えると、富士氏が浅間大社の大宮司に復帰しても良いように思える(富士氏は続いているので)。
他も社人は多くいるが、ここでは表記しない。
- 鈴木氏
他も社人は多くいるが、ここでは表記しない。
- 参考文献
- 堀内眞,「富士山麓の近代-宿泊施設を中心に-」,『甲斐』No113,2007年
- 久保田 昌希 ・ 大石 泰史編,『戰國遺文 今川氏編第二巻』,東京堂出版,2011年
- 浅間神社編,井野辺茂雄「富士の信仰」(富士の研究第3巻),古今書院,1928年
- 前田利久,「戦国大名武田氏の富士大宮支配」『地方史静岡第20号』,地方史静岡刊行会編