富士山麓の地域が分からない方へ

2011年11月28日月曜日

歌集や説話集にみられる富士宮

「富士宮」といっても「富士の宮」…つまり現・浅間大社のことです。富士宮市はこの「富士の宮」から由来しているため、つまりは浅間大社について記述してある古記録を探せば、市名の由来である「富士の宮」が古い資料にて確認できるということになります。

これ(富士の宮と呼ばれていたこと)については、「富士浅間信仰」にて解説がなされています。この記述から、今回は「歌集」と「説話集」から引用しようと思います。

説話集は『今昔物語集』からです。みなさんも一度は「今昔物語」という言葉を聞いたことがあると思います。まさにそれのことで、正確に呼称すると『今昔物語集』となります。今回は『今昔物語集』の「駿河国富士神主帰依地蔵語第十一」を解説したいと思います。例えば『今昔物語集』に「羅城門登上層見死人盗人語第十八」というものもありますが、これを基に構成されたのが、芥川龍之介の『羅生門』です。

  • 今昔物語集(平安時代)
『今昔物語集』(「鈴鹿本」国宝)より

『今昔物語集』はすべての物語が「今は昔、…」で始まります。「駿河国富士神主帰依地蔵語第十一」の冒頭だけ話すと「今は昔、駿河国の富士の宮に神主をしているものがおった。和気光時といった。」とあります。つまり現・浅間神社の神主の話なんです。


ですから、この話の主人公である「和気光時」(神主)は富士氏の当主であるか否か…についてを述べる本などもあります。ここに「富士〇〇」という人物があった
としたら、「富士氏系図」の信ぴょう性がぐっと上がるんですけどね。

しかし、この話だけでも神仏習合を強く感じ取ることができ、そういう意味でも重要であるように思えます。「駿河国富士神主帰依地蔵語第十一」の解説は長いため省きますが、訳などの解説を見ることをお勧めします。

和歌からは『新勅撰和歌集』です。『新勅撰和歌集』における「富士の宮」は「北条泰時」の詠で確認できます。あの御成敗式目の人です。

  • 『新勅撰和歌集』(鎌倉時代)
『新勅撰和歌集』は、その名の通り和歌集です。勅撰和歌集(天皇の命により作られた和歌集)の1つで、『古今和歌集』(905年)〜『新続古今和歌集』(1439年)まで二十一の勅撰和歌集があります。それをまとめて「二十一代集」といいます。その中の『古今和歌集』から『新古今和歌集』までを「八代集」といい、『新勅撰和歌集』〜『新続古今和歌集』を「十三代集」といいます。

ここで一回「詞書(ことばがき)」について述べておこうとおもいます。和歌の前に説明のようにしてあるのが「詞書」で、詠んだ場所や動機などが書いてあります。例えば「…水面に映る月が美しいことよ」みたいな歌があったとします。でも和歌のみだと、どこから眺めたのかが分かりませんよね。そういう感じです。『新勅撰和歌集』にも詞書はあります。

『新勅撰和歌集』(伝二条為右筆本)室町時代前期写


詞書:
するがのくにに神拝し侍けるに、ふじの宮によみてたてまつりける

和歌:
ちはやぶる神世のつきのさえぬればみたらしがはもにごらざりけり

ふじの宮
神拝:神社を参拝して回ること
ちはやぶる:「神世」を導く枕詞。
神世のつき:神世の時代そのままの月。
さえぬれば:「さえ」は「冴ゆ」の連用形。「ぬれ」は完了の助動詞「ぬ」の已然形。「ば」は接続助詞。
みたらしがは:御手洗川。今もありますよね。

それを踏まえると、このようになる。

詞書:

「駿河の国に神社を参拝して回りましたときに、富士の宮に詠んで奉納した」

和歌:

「神世の月が冴え冴えと澄んだので、御手洗川も濁らないのであったよ」

御手洗川が清らかに澄んでいるということを言って、富士の宮の神威神徳を讃えている歌である、という解釈がなされています。

初詣の際などに、富士の宮で和歌を詠んでみるのも良いかもしれない。

  • 参考文献
  1. 神作光一 ・ 長谷川哲夫著,『新勅撰和歌集全釈〈3〉』P203-204,風間書房,2000年
  2. 『日本古典文学全集 (22) 今昔物語集 (2) 』P362-363,小学館
  3. 平野栄次編,『富士浅間信仰』P18,雄山閣出版,1987年

2011年11月21日月曜日

富士山と内院散銭

内院散銭は、富士山の噴火口である「内院」にお金を投げ入れる行為をいいます。道者が行う風習でありました。それを環富士山地域の有力者が得る権利を持っていました

実は「内院散銭を制する(得る権利を保持する)者は、富士山を制する」ようなものなのです。これは誇張した表現でもなく、まさにそうなのです。先ほど「環富士山地域の有力者が得る権利」といいましたが、だれかが山頂に行って自由に得られるわけではありません。しっかりと大名などに権利が与えられることで、得ることができるのです。

ここらへんの戦国大名はどのようなものがいたでしょうか?今川氏や武田氏や北条氏などですよね。そして時代は下り、戦後時代を終わらせた徳川家康です。戦国時代初期は今川氏が最も勢力があった時代ですが、例えば富士山の村山修験、すなわちそれらの主である村山三坊は今川氏の庇護を得ることで栄華を誇っていました。

この内院散銭の権利も時の権力者が与えているため、それはその権力者に庇護されるということであり、大きな権威を保持することになります。そして内院散銭は富士山自体の、そして山頂におけるものであるため、「山頂における支配」的な要素が生まれます。ですから、内院散銭の権利を与えられるということは非常に大きなことなのです。そもそも内院散銭自体が莫大なお金になりますからね。大名がお金を保証するようなものなのです。

よく「登山者が一番多かったので、この地域が一番強かった」というような表現をする例がみられます。たしかにそのように言える部分はあります。しかし「富士山における権利」と「登山者の多さ」は全く直結していません。たしかに道者が多い分、宿などは財政的に恵まれる面がありますが、それと「富士山における権利」は全く別物なのです。なぜなら権威というものは「権力者に与えられる物」であるからです。

内院散銭自体は室町時代に風習があったことが分かっています。今川氏輝の富士山興法寺村山三坊辻之坊への判物に見られます。判物には「内院諸末社参銭等之事」とあります。



これについては「中世後期富士登山信仰の一拠点-表口村山修験を中心に」にて以下のように説明されている。

「中宮・御室・内院・諸末社参銭之事」は、村山以降富士山頂までの道程に存在した中宮八幡堂、御室大日堂、内院(山頂噴火口)や諸末社で、道者が投下する参銭を徴収する権限を辻坊が握っていたものと思われ、これは「山中参銭所」とも記されている。

内院は各登山道の頂点であり、各参銭所の中でも特に多くの参銭を有していたと思われる。それを取得するという権利は軽視できない。

「富士講の信者が内院散銭を行っていた」と書くものが多いですが、間違えてはいませんが、非常に語弊のある言い方であると思います。「富士講信者も行っていたことから、この風習が続いていた」というべきです。大体、富士講信者以外も行っていました。なぜか富士講と絡ませて話すと、なんでも「富士講特有の現象」のように説明してしまうんですね。私もその先入観を取り払う作業に苦労しました。

しかしどうでしょう。栄華を誇っていた今川氏ですが、当主である今川義元が桶狭間で没し、次の当主の今川氏真もその状況を好転できずに、駿河は武田氏の手に堕ちてしまいました。戦国大名としての名門今川氏は滅びてしまったわけです。つまり今川氏に庇護されていた村山は後ろ盾を失ったわけです。そして武田氏は「須走」に内院散銭を与えています。1577年の事です。「富士山内院之参銭、六月中に一日之分所務」とあります。



内院散銭を制する者は、富士山を制する」…、須走はどんどん勢力を拡大していきました(決して内院散銭だけによるものではないが)。須走という地域は、実は登山道が開かれたのは比較的遅いと言われています。しかしながら、勢力の拡大は目を見張るものがあります。

しかしどうでしょう。武田氏も1582年に滅びてしまいます。武田氏当主の武田勝頼は「長篠の戦い」にて大敗し、逃走する中でなんとか好機を探ろうとします。そして家臣の小山田氏を頼みとすることとし(小山田信茂の強い勧めによる)、小山田氏の領地を目指して逃走を続けます。しかし、その中でなんとその小山田氏に裏切られ、ついに天目山にて死することとなります(自害とも、野党に襲われたともいう)。そしてそれと同時に支配したのは「徳川家康」ですね。つまり「内院散銭」を与えるというようなことができるのも、このときは家康であったのです。徳川家康は元は今川氏に属し、名を「松平元康」といいました。この名前の「元」は「義元」の元からもらったものなのです。しかし今川義元が討たれると独立に動きます。そして名を「家康」とします。改名したのは、決別を明確に示したことを意味します。

そして内院散銭だけでみれば、家康は1609年に浅間大社に内院散銭の取得権利を与えています。

ここで疑問が出てきます。「今川氏や武田氏は滅びているけど、権利はどうなっていたのか」ということです。ここは非常に難しい部分です。遠藤秀男氏は『富士山の謎と奇談』の中で「与えられた権利は後世にも続き、散銭を得ていた(大宮と須走で分けていた)」というように説明しています(本が手元にないためニュアンスだけ、いつかしっかり書きます)。
つまり、(村山)・大宮・須走は「それぞれ内院散銭を得ることができる立場」という複雑な状況であったわけです。しかし、やはり争いは起こります。それが「富士山の大宮・須走・吉田の争いと元禄と安永の争論」にあるようなことなのです。

「国指定文化財データベース」より引用(国指定文化財等データベース>富士山>富士山(史跡)>詳細解説で全文が見れます)
噴火口は内院(ないいん)と呼ばれ、散銭が行われ、火口壁のいくつかのピークは曼荼羅における仏の世界に擬せられ、「お鉢めぐり」と呼ばれる巡拝が行われた。山頂部の八合目以上については、安永8年(1779)、幕府の裁定により富士山本宮浅間大社の支配権が認められた。
これは国指定文化財データベースによるものなのです。言ってみれば、学術的視点による教科書のような、見本となる歴史解説なのですが、やはり内院散銭は重要な位置づけにあります。そして安永8年の幕府の裁定(安永の争論の決着)は富士山史において「大き過ぎる」と言っていいほどの出来事でしょう。

安永8年(1779)の幕府の裁定の一部
この安永8年の幕府の裁定により、富士山における権利や支配などは明確なものになりました。だれがどのような権利をもつのかがはっきりとしたのです。先ほど「内院散銭は富士山自体の、そして山頂におけるものであるため、「山頂における支配」的な要素が生まれます…」と書きましたが、例えば吉田などが山頂にて何か独自で行う場合などは、大宮の許可が必要でした。この関係は安永8年の幕府の裁定以前もそうでしたが、裁定後はより明確でした。例えば大宮が吉田に新たに許可を与えたところ、須走が反論している例などもあり、それが元禄の争論の争点の1つだったりします。

内院散銭という側面からみると、戦国時代をよく感じとれますね。そして富士山における権利構造というものがよく分かります。

  • 参考文献 
  1. 『小山町史第1巻 原始古代中世資料編』P514 
  2. 『浅間文書纂』P120
  3. 大高康正,「中世後期富士登山信仰の一拠点-表口村山修験を中心に-」『帝塚山大学大学院人文科学研究科紀要 4』, 2003

2011年11月8日火曜日

駿河大宮城

今回は大宮城についてです。大宮城は駿河国富士郡大宮に存在した城である。戦国時代の三国(駿河・甲斐・相模)の動向に深く関係しています。以下は「富士氏の富士信忠(富士兵部小輔)が今川氏真により大宮城の城代に任命された」という判物である。富士氏はこの大宮城と武力の拠点として武田氏と交戦を繰り返した。




  • 大宮城とは
築城は富士氏によるものと伝わる

『駿河記』には
「当城ハ昔時大宮司某ノ築城スル処也、今川義元朝臣ノ頃富士兵部小輔信忠城代氏真ノ時富士蔵人某。元亀三年武田信玄入道当城ヲ攻、蔵人籠城防戦シテ不落、ココ二於テ北条氏政扱ヲ以テ蔵人開城ス…」
などとある。

『駿河国志』には
「大宮神田、大宮浅間社の市町なり。…曲輪とて塁あり」
とある。

『駿河国新風土記』には
「神田町ノ北二神田塁ノ古城跡アリ。コノ城ハ大宮司和邇部氏築ク所ニテ」
とある。これら記すところをまとめると、「神田町の北に所在・富士氏が築城したと伝わる・今川氏に属して武田氏と交戦した」となる。

発掘調査に基づいて書くと、浅間大社とほぼ一体をなし、現在の城山公園当たりに主郭があったようである。しかし「曲輪」「塁」などで書き示すところ、「強固な城」とはいえないように思う。

  • 武田氏の駿河侵攻
元亀2年(1571)10月に今川氏真は富士信通(富士氏・信忠の子)に感状を与えている。

去る辰十二月九日駿甲の境錯乱の乱の処…。殊に巳の二月遡日穴山葛山方を始めとして大宮城え動き成すといえども…還って勝利を失い引き候。同じく六月廿三日信玄大軍をもって彼の城之取り懸り…種々行いに及び候といえども堅固に相拘り結局数人討捕り候。然る処氏政より罷り退くべきの書札三通参着の上双方の扱いをもって出成候。(中略)忠信の至り也。只今進退困窮についての暇の儀申すの間…東西いず方において進退相定むべし。…                                氏真(花押)

これより「永禄11年12月」・「永禄12年2月」・「永禄12年6月」と、3回にわたり武田軍が大宮城に攻撃していることがわかり、そして富士氏は善戦していることがわかる。しかし3回目の武田信玄の攻撃には耐えられなかったようである(この感状を受け取った後、穴山信君を通し降伏している)。


穴山葛山方:穴山信君と葛山氏元による大宮城への攻撃
信玄大軍をもって彼の城之取り懸り:武田信玄の本隊の攻撃


磯貝正義『定本武田信玄』には以下のようにある。

富士郡に入り、二十五日(一説に二十三日)より大宮城の攻撃を開始した。大宮城は富士浅間社の大宮司富士兵部少輔の守るところで、さきの興津対陣中、信玄は穴山信君・葛山氏元らに攻めさせたが、かえって手負死人らが続出して敗退してしまった。

とある。この「二十五日(一説に二十三日)」という部分ですが、上の氏真感状(1571年)では二十三日としているが、北条家の複数の文書には「廿五日(二十五日)」とあるためである。しかし氏真感状は時期を隔ててから出されたものであるから、二十五日と見られることが多い。

「戦国大名領の研究―甲斐武田氏領の展開」によると、このようにある。

永禄12年に入って、両者の最初の争点となったのは、甲州より駿河への入口にあたる富士の大宮城の攻防であった。ここで注目されることは、早くもこの二月朔日の大宮城攻撃軍に駿東郡領主の葛山氏一族が武田側として加わっている点である。(中略)信玄の駿河侵攻直後に葛山氏は武田側に帰属しており、駿東郡での調略をめぐっては武田方に有利な展開であったといえる。

このように、大宮の知見があったと考えられる葛山氏などが敵方にいたことは、確かに不利な情勢であったといえる。しかし武田側でも有力な存在であった穴山氏や知見のある葛山氏を相手にして富士氏は撃退に成功しているという事実は、重要な点であるように思える。以下のように続く。

信玄は帰陣後の五月、(中略)西上野の小幡氏宛にも一層忠信を励むよう督促している。そして五月二十三日には(中略)書状をだしているが、その同日に氏政はその子氏直を今川氏真の養子として、駿河の仕置を任されたと、大宮城を守っている富士氏に通知している。その後、『甲陽軍艦』によれば、信玄は六月二日に甲府を出発して、再度駿河へ侵入し、まず大宮城を囲み、韮山・山中へ出張し、十七日には三嶋を焼いている。(中略)そして伊豆よりの帰路、七月二日には懸案の大宮城を開城させ、富士氏を穴山信君に配属させている。

とある。このように信玄の本隊の攻撃により開城し、穴山信君がその後の処務を行なっている。例えば開城の交渉を司ったのも信君であった。武田氏にとって大宮攻略は鍵であったので、大きな進歩であっただろう。この穴山信君であるが、後に武田氏を裏切り徳川家康に付く。武田氏滅亡後、家康と共に京巡りを行なっていた最中に本能寺の変が起き、領国に近い安全圏まで退こうとする中、土民に襲撃されて殺されてしまったという(なぜか家康と同行せず)。

そして「忠信の至り也。只今進退困窮についての暇の儀申すの間…東西いず方において進退相定むべし」の部分から、氏真はいままで忠義を尽くしてくれたことに感謝し、暇を与える旨の意思を伝えていることがわかる。つまり「自由にしていいよ」ということであり、言ってみれば今川氏からも認められた別れであった。その後富士信忠(富士氏・信通の父)は武田氏に付くことを決意し、今川氏から離れることとなる。

北条氏政から富士信忠へ

駿河侵攻の時期、北条氏康と氏政から永禄11年から12年にかけて5通の書状が発給されている。「氏政より罷り退くべきの書札三通」は多分これらの中のものであろう。

  • おわりに
大宮城は世間一般の城と比べると知名度こそはないが、今川・武田・北条が絡む部分なので、なかなか興味深い部分であると思う。特に、時期的には駿河が落ちようとしている時であり、今川氏の動向などを考える上で重要であると思う。大宮城は構造的には守ることが苦難であると推測されるが、それでも善戦した点は富士氏の力量を感じるものである。

  • 参考文献
  1. 富士宮市教育委員会,『元富士大宮司館跡-大宮城跡にかかわる埋蔵文化財発掘調査報告書-』,2000年
  2. 柴辻俊六,『戦国大名領の研究―甲斐武田氏領の展開』P58-62,名著出版,1981年
  3. 佐野安朗,『古城 第51号』P87-92「大宮城の戦いと十四ノ城砦群」,2006年
  4. 磯貝正義,『定本武田信玄』P263-265,新人物往来社,1977年

2011年11月3日木曜日

富士山とかぐや姫伝説

富士山とかぐや姫を結びつける書物はたくさん存在しています。今回はなぜそのような考え方が成立したかについて追求しようと思います。

  • 富士山と女神
木村武山 「羽衣」

富士山とかぐや姫伝説を考える上で重要なことはまず「古来より富士山と女神を結びつける考え方が存在した」ということを把握することが非常に重要です。『富士山記』には以下のようにある。

「白衣の美女二人有り、山の戴の上に雙び舞う。」

とあり、富士山の神を「白衣の美女」とする女神像が認められる。つまり平安時代には既に富士山と女神を結びつける考え方は成立していたことになります。またこの『富士山記』には同時に「浅間大神」の記述があるため、「浅間大神=女神」と考えられます。

少し後期の『海道記』(鎌倉時代)には富士山に関する伝説を挙げて

「此山の頂に二泉あり、湯の如くわくといふ。昔は仙女が此みねに遊びて常にあり。ひがしふもとに新山と言山あり、延暦年中に天神くだりてこれをつくといへり。」

とあります。これは都良香の『富士山記』に影響されたものといわれますが、この考え方が継続されていたことが分かります。そしてこの中に

「むかし採竹翁と云ものあり。女を赫野姫といふ。おきなが家の竹林に鷹の卵子の形にかへりて巣の中にあり。」

とあります。赫野姫=かぐや姫なので、竹取物語ですね。これは富士山を意識したものとして挙げた話であるので、富士山とかぐや姫を結びつけていたと考えられます。そして併せて『竹取物語』所蔵の和歌2首をあげています。

  • 富士山縁起
ここで注目したいのは「富士山縁起(富士縁起)」である。「富士山縁起」は「富士山に関する起源・沿革や由来を示したもの」で、富士山の神についての言い伝えなどもあり、様々な種類が伝わっています。

「富士山縁起」の存在を確認できるものに、古いものとして南北朝時代に成立したという『神道集』にある「富士浅間大菩薩事」がある。この文中に「富士縁起」とある。「富士浅間大菩薩事」にはこのようなことが書かれている。

子のない翁夫妻が竹林から5・6歳の女子(赫野姫)をみつける。赫野姫は国司と夫婦となるが…

と続く。つまりは竹取物語である。他に『詞林采葉抄』に「富士縁起」があり、これも赫夜姫と結びつけるものであり、南北朝時代には富士山とかぐや姫を結びつける考え方があったことは間違いない。また『三国伝記』に「富士山事」があり似たような視点の記述がある。「富士浅間大菩薩事」で「富士浅間大菩薩事-富士縁起/赫野姫の逸話」が認められ、『詞林采葉抄』の「富士縁起」でも同様のものがあるため、これらの系統の「富士縁起」が複数存在していたことが理解できる。「竹取翁説話系富士山縁起」という感じだろう。


竹取翁説話を含む富士山縁起所伝
富士縁起『詞林采葉抄』
富士縁起(1とする)金沢文庫(全海書写)
富士大縁起(2とする)公文富士氏伝
富士山縁起(3とする)村山三坊(池西坊)
富士山縁起(4とする)村山三坊(池西坊存撰)

これら「竹取翁説話系富士山縁起」は「かぐや姫が富士山頂上の岩山にこもり、浅間大菩薩となる」という「浅間大菩薩の化身」として伝わるものである。以下、「中世の富士山-「富士縁起」」から引用する。

富士山縁起諸本に収録される竹取翁説話を集約すると次のようになる。富士山麓の「乗る馬里」に、箕作りを行業とする老夫婦がおり、翁は鷹を愛し、媼は犬を飼っていた。ある時竹の中から赫野姫を見出し、麗しく育てた。姫が16歳のみぎり、時の帝は全国に勅使を派遣して富士山に登り、姿を消した。このとき、地元の人が悲しんで涙を流した場所が「憂涙河」(潤井川)と呼ばれた。帝はこれを惜しんで勅使に(あるいは自ら)跡を追わせたが、追いつくことができず、途中で落とした冠が石に変じて「冠石」となった。姫の故地は、宣旨によって「乗馬里一斎京」とされた。やがて赫野姫は富士の神となって浅間大菩薩と名乗り、竹取翁は愛鷹山に入って愛鷹明神、媼は今山に入って犬飼明神となった

また「中世の富士山-「富士縁起」」では「末代の滝本不動尊に関する縁起は3と4の富士山縁起に含まれており、それらと同様の記述は鎌倉時代の書写とされる1の富士山縁起と同様なので、3・4の縁起の伝承は古さが証明されている」と説明している(P123)。鎌倉時代の書写とされる1の富士山縁起が古いため、それと類似する3・4は古いとしているようだ。

また大宮に関して云えば、「木花咲耶姫系富士山縁起」(後述)が主流であるが、「竹取翁説話系富士山縁起」もある。「富士大縁起」(公文富士氏所伝、2の縁起)のものである。しかし上の表からすると、はやりこれら「竹取翁説話系富士山縁起」はどちらかと言えば村山で主流であったと考えるのが自然である。

  • 富士市に伝わる伝承
富士市の比奈地区には「竹採姫」の石碑があり、そこから由来してか「竹取物語発祥の地」を自称している。無量禅寺にあったという鐘の銘文に「駿州富士郡姫名村神護宝山雲門無量寺」とあるというので、比奈という名前は「姫名村」から由来すると考えられる。富士市になぜこのような伝承があるのかということを考える上で、ある文献がでてくる。富士市の無量禅寺(廃寺)の禅師が著した書(江戸時代)に

「富士郡比奈村の神輿無量禅寺は、雲門と名づく。赫夜仙妃の誕育の聖跡なり…」

とある。しかしこの内容は「富士山縁起」と同様であり、これに沿ったものであろう。しかしこの文末に「空しく口碑あるのみ」とあり、伝説はあったが史跡などは存在していなかったことが示されている。では誰が「竹採姫」の石碑を建てたかというと、それはよくわかっていない。

つまり、ほぼ江戸時代に禅師が著したそれのみの影響で今日「かぐや姫生誕の地」という伝承が成立したことになるが(これを拡大解釈させたものが『竹取物語』由来の地という表現だろう)、それらの背景として「富士山縁起」の存在があったのは間違いない。上述のように禅師が著した書は「富士山縁起」から"引用/参考"にしたものであるからである。そしてこれは元は村山に伝わるものと推測されるため、ある意味村山の影響を強く受けたものであろう。しかし江戸時代より遥か前に「竹取翁説話」は成立しているので、伝承の域を出るものではない。といいますより「姫名村」≒「かぐや姫」と考える事に無理があるのである。

「富士山縁起」の中に「竹取翁説話」があるという事実は興味深いが、学術的に言えばそれら「富士山縁起」より早く『竹取物語』は存在すると考えるのがごく自然であり、これら石碑類だけで発祥の地などと言えるものでは到底ない。そもそも、「竹取翁説話」が含まれる富士山縁起はかなり前に存在しているのである。例えば、鎌倉時代末に遡る称名寺伝来の縁起が存在している(大高康正, 富士山縁起と「浅間御本地」」)。

もちろん、大真面目に富士市が竹取物語発祥の地であるという論調で語る論文類など、存在しません(地元の資料類のみ)。但し富士市に於いては広報等でも「竹取物語発祥の地」として盛んに宣伝され、他に自治体史である『富士市史通史編(行政)昭和六十一年~平成二十八年』P435には
『竹取物語』発祥の地と伝えられる「竹採塚」の調査報告書である。調査は、竹取物語のふるさととされる「竹採塚」をめぐり、物語の伝承を調査し…

などとあるのである。つまり自治体史の執筆者ですら疑いなく記述する程、当地では信じ込まれているのである。富士山とかぐや姫を考えたとき最も重要なことは、「富士山縁起になぜかぐや姫が取り込まれていたのか」ということである。そしてその答えとしては「古来より富士山と女神を結びつける考えが存在していた」ということであろう。

  • 木花咲耶姫系富士山縁起

女神である「木花咲耶姫(コノハナノサクヤヒメ)」を浅間神とする富士山縁起もある。「木花咲耶姫系富士山縁起」という感じだろう。しかしこれらが発生した背景としても「富士山と女神を結びつける考え」があったと言わざるを得ない。これらは『浅間御本地由来記』や『源蔵人物語』などにみられるという。しかしこれらは村山を中心に発生したものではない。「中世の富士山-「富士縁起」の古層をさぐる-」には以下のようにある。

大宮浅間社(富士宮市浅間大社)の縁起書は、『神道体系』に収録されるものをはじめとして、富士山の祭神を木花咲耶姫とする近世以降の作とみられるものが大半であり、仏教的な説明をほどこした中世縁起の体裁を備えているものは少ない

「木花咲耶姫系富士山縁起」は本宮浅間神社の縁起の傾向と言えそうである。この差異も注目されるべき部分であろう。

  • 参考文献
  1. 西岡芳文,「中世の富士山-「富士縁起」の古層をさぐる-」『日本中世史の再発見』,吉川弘文館,2003
  2. 『富士市史通史編(行政)昭和六十一年~平成二十八年』,2018