「博物館構想説明会の質疑応答富士根南・南部・大富士編、富士博物館誕生に期待」の続編となります。
- はじめに
「博物館構想説明会の質疑応答に対する意見、上野会館・富士根北公民館・きらら編」にて"そして「外」の見識にも触れておく必要性に駆られました"と記しました。"強いバイアスがかかっているかもしれない"と、強い危惧を覚えたものです。富士宮市の考古学を、もう少し引いた位置から見てみる必要性を感じたわけです。
このような考え方(複数の文献にあたること)が極めて重要であるという証左が、身近な例としても挙げられます。
皆さんは地域史を調べる時、まずどのような文献にあたるでしょうか。それが『市史』という場合も多いかと思います。実際に確認してみると、同じく「自治体史」といった編纂物であり且つ同じ対象に関する論考であるのにも関わらず、全くの正反対の解釈になることもあります。
それでは富士川町(庵原郡に属していた「旧富士川町」)の『富士川町史』と、富士市の『富士市史』を見ていきましょう。対象は「雁堤」です。
まず、雁堤が位置する富士市の『富士市史』(1982年)を見ていきましょう。
この堤防の普請計画は、後述するように、古郡孫太夫の後をついだ第二子重年の手によって見事完成するのであるが、完成した堤防が今日に至るまで雁堤とか、雁音堤とか呼ばれていることは周知のところである。(中略)延宝2年、遂にその完成を見るに至ったのである。着工が寛文7年(1667)であったから、完成した延宝2年(1674)は着工から数えて、実に7年余の歳月を必要としたのであった。とにかく古郡重年のひたむきの努力が、当時としては稀に見る大規模の築堤を成功させたのであるが、とりわけ天下の急流富士川に対して施行したというところに、別格重要な意味があったのである。(中略)こして富士川の堤が完成すると、これまでにも増して加島平野の開発は急速に展開していくのであった。
このように、雁堤で富士川は平定されたと言わんばかりであり、そうでなかった場合を万が一にも想定していない書きっぷりとなっている。『市史』全体を通して、「かりがね堤の完成=平定」というスタンスは一貫されている。富士市のコンテンツも、基本的にそのようなスタンスで統一されていることが分かる。
富士市資料 |
富士市HP |
次に、『富士川町史』(1962年)を見ていきましょう。
富士川東岸に雁堤ができて流路が変わったためであろう、(中略)この時は安政2年の状態からは富士川が千間余も東によっていたというのである(中略)洪水のたびに主として川添にあった農家や道路は移転をしなければならなくなり…(中略)このように中之郷村は富士川の出水のたびに被害を蒙り、幕末には甚だしく困窮した村となり、農民も貧しい生活を営まねばならなかった。
この両者があまりにも対極であることは、誰でも気づくことかと思う。ここで「歴史的事実」を見ていきましょう。結論から言えば
「雁堤」完成後も富士川は何度も氾濫しており、しかもそれは大規模なものであった
このように言う他ないだろう。実は様々な史料が残っており、上の言い方は事実に則したものとなっている。雁堤自体は富士市(旧富士市)にあるので『富士市史』を参照するのは自然な流れであるが、実はそれだけでは実情が全く掴めないということになる。
対して"雁堤完成後も富士川の氾濫が多発し被害が生じている"という事実と向き合ったのが『富士川町史』だったわけである。雁堤ほど、実情からかけ離れた評価をされているものも珍しいと思う。
確かに加島平野(旧富士市域)は安定を得たが、そこから拡大解釈され「=富士川下流域の平定」と説明されるケースが極めて多い。しかし実際のところは、従来は被害の無かった地域(旧富士川町域)に皺寄せが来たわけである。歴史はどうしても美談に仕立て上げたくなってしまいますが、その最たるものと言えるでしょう。
このような実例から学ぶことは多いと思う。そして現在進行系で「雁堤により富士川の氾濫は治まった」と説明しているものは、端的に言えば「誤認」と言って良い。ちなみに加島平野の平定については「富士市の島地名と水害そして浅間神社」で記しているので、興味のある方は是非ご覧下さい。
更に補足しておきますが、れっきとした編者・編纂団体による刊行物であっても、適当である例は多いです。例えば図録『武田二十四将―信玄を支えた家臣たちの姿―』という、山梨県立博物館で催された特別展の図録がありますが、そこには原昌胤について「大宮城代」とあります(8頁)。しかし実際は、原昌胤が大宮城代であったことを示す史料は存在しません。
なぜこんなことになったのかというと、おそらく丸島和洋氏の論考を読んだ編者が、その論考を拡大解釈したためと思われます。管見の限り、富士信忠の大宮城開城後についての「大宮城代」の存在を示唆した論考は、丸島和洋氏のものただ1つです。
しかし丸島氏の論考を読むと、以下のようにあるのです。
このことから、神職再編の担当は基本的に市川昌房であり、原昌胤は富士大宮が関わる部分でのみ関与したものと判断される。以上のような原昌胤の立場は、富士大宮城代として位置づけられるものではないだろうか(平山・丸島2009;p.90)
おそらくこれを拡大解釈して、単に「原昌胤:大宮城代」として紹介しているものと思われます。しかしこれはあくまでも推測でしかなく、また丸島氏の思惑とも反するものでしょう。推測でしかないので、「位置づけられる」という仮定を示しているに留まっています。皆さんも伝言ゲームをやったことがあると思いますが、それが学術的な場でも起こっているというわけです。
結論としては、大宮城付近の整備を行っている事実が限界点であり、大宮城代であることを示す史料は存在していないのである。しかし上のような特別展といった図録は簡易な言葉で記されることが多く、一般にも読みやすい部類といえ、現在巷で「原昌胤→大宮城代」という言説を見かけるようになっています。
以下、意見となります。
【富丘】
富丘 |
電子データ化…それこそとんでもないお金が掛かります。いつかはしなくてはなりませんが、とんでもないコストがかかることは間違いない。「バーチャルで見れるようにする」「立体的に見えるようにする」…その費用についての部分が全く飛んでしまっている。
例えば「大宮司富士家文書」はデジタル化され「静岡県立中央図書館」のHPにて公開されていますが(静岡県立中央図書館HP)、おそらくこれも相当な費用がかかったことでしょう。これは、補修と同時にデジタル化されたものになります。
ちなみにですが、同HPにみられる「浅間大宮司富士家文書」という呼称は同HPにて初めて出現した造語であり、通常は「大宮司富士家文書」と言います。「現:富士宮浅間大社」ともありますが、正式名称は「富士山本宮浅間大社」といいます。このページを作成した人は、相当おざなりな人でしょうね。
富丘 |
税収は人口で決定されるわけではないので、人口が減っていても税収の増加は十分にあり得るのです。逆に人口が増加しても税収は下がる可能性もあります。まずこれを、回答者は答えてあげる必要性があるのです。
また展示されている古文書は「翻刻」ないし解説が付されていることが殆どで、そのまま古文書を「ほいっ」と展示しているわけではない。これくらいは「一般的な市民」でも知っていることである。
【白糸】
白糸 |
一体、何を聞きたいのでしょうか?
白糸 |
この御方は歴史を「現代」だけで捉えている。古代・中世・近世の人に我々は意見を聞くことは出来ないのである。しかし「古文書」「木簡」といった史料は、当時の様相を我々に教えてくれる。「わざわざ博物館に行って…(以下略)」ということは、我々に歴史を教えてくれる対象・材料を「近現代」、それも「人」だけに絞れと言っていることになる。暴論としか言いようがない。
また高齢者は記憶補正も多く、実際のそれとは異なることも多い。一方で方言を録音するとか、民俗学的なお話を伺うと言った場合は、質問者のようなアプローチは生きてくる。
白糸 |
「意見を言える場」としてメール等がある。ただ、質問者の相手をする身にもなって下さい。"行動力のある問題者"ほどたちが悪い人は居ませんからね。
白糸 |
「展示する物が分からないのに建物を作るというのは商売上はありえないことです」とありますが、文化財は既にそこに存在しています。全く意味が分からない。
【北山】
北山 |
これはあまりにも的が外れた意見です。富士山世界遺産センターもコンペによるものですが、公園に整備したものなので「基礎データ」があった上で作成しています。「川」もありますからね。鳥居を残すこと等、事前に取り決めがあったはずです。
もし土地の決定よりコンペが先であったら、(富士山世界遺産センターの場合で言えば)大鳥居に干渉してしまう等の問題が後から発生してしまいます。その場合、大鳥居を壊せとでも言うのでしょうか?その場合の費用はあなたが負担してくれますか?壊すことに対する住民説明をあなたが代わってする覚悟はありますか?そういう覚悟すらないのなら、黙るべきでしょう。
また、コンペに参画する人が歴史に関する知識があるとも思えない。ハード面も歴史と絡ませた方がよいというのが、私の考えです。
北山 |
安ければ安い方がよいという考えの人って、未だに居るんですね…。
【上井出】
上井出 |
まさか「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン」の話をしているとも思えないので恐らく「ユニバーサルデザイン」のことを仰っていると推察されるのですが、ユニバーサルデザインとは
「すべての人のためのデザイン」のこと。年齢や障害の有無、体格、性別、国籍などに関係ないなく、できるだけ多くの人にわかりやすく、最初からできるだけ多くの人が利用可能であるようにデザインすること
なので、「現代的なものへの憧れ」でも何でもありません。あまりに馬鹿馬鹿しい質問にも対応せざるを得ない担当者が不憫でなりません。事実誤認もあるし、恥の上塗りでしかない。富士宮市民として、恥ずかしく思う。
以上となります。
- 参考文献
- 平山優・丸島 和洋(2009)『戦国大名武田氏の権力と支配』,岩田書院