富士山麓の地域が分からない方へ

2022年9月16日金曜日

博物館構想説明会の質疑応答に対する意見、上野会館・富士根北公民館・きらら編

「郷土史博物館構想地域説明会の質疑応答に対する意見、西・柚野公民館編」の続編になります。


  • はじめに
私は子供の頃、「考古学」が好きでした。富士宮市の無料の冊子(遺跡)を繰り返し読んだり、自由研究はのテーマは「エジプトのピラミッド」を選んでいたくらいです。

小学生の時に「戦国武将チョコ」みたいな名前の食玩を書いました。開けてみると徳川家康のフィギュアと共に年表がありました。そこには「駿河国の大名今川義元、桶狭間の戦いにて敗死」というようなことが書かれていました。自分が住む地域が「駿河国」に属していたということくらいは小学生でも知っていたので、「今川義元」に興味が湧きました。しかし今川義元については静岡県に居ながらも聞いたことがありませんでした。まず、これを不思議に思いました。

学生でも義務教育は過ぎたくらいの頃、歴史の授業中は参考書を片っ端から読んでいました。まだ考古学に関心があったと思います。それから遠くない頃、市外の図書館をほっつき歩いていた時、『浅間文書纂』という本を見かけました。開くとまず古文書が掲載されていました。そこに「富士氏」を宛所とする文書が掲載されており、少し読んで富士氏をほんの少しばかり理解しました。私はその時「今川氏真」という存在を知りました。ここで義元と氏真が繋がりました。ここで私が抱いた感情は

富士宮市って何にも教えてくれなかったな

ということでした。昨今ですら、HPで「富士氏」と完全一致検索をかけても本当に少数なのですから、この言い方はそれ程間違ってはいないと思います。なので私からすると担当者が多用する「子供たちが…」という言い分はやや説得力に欠けるのです。と同時に、静岡県が今川氏についてあまり取り上げないことも奇妙であると思うようになりました。これが、10代の記憶です。

ちなみに、富士宮市が富士氏について取り上げる機会が「ゼロ」だったというわけではありません(近年富士山世界遺産センターの企画展「富士山表口の歴史と信仰」にて試みがあった、未読)。2000年に「大宮城と富士氏展」というものが催されています。その展示会資料を一部見ていきましょう。

今回の発掘調査では鎌倉時代の様子がわかる建物群が確認され、「富士の巻狩り」当時、大宮小学校あたりに有力な領主がいたことがわかりました。(中略)ただ、その人が今回の展示のもうひとつの視点である「富士氏」という人物と同一なのかどうかについては、まだよくわかっていません。(中略)その富士氏が治めていたこの居館は、戦国時代の動乱の中「大宮城」の名で呼ばれることを頻繁に見受けるようになります。しかし、それは長い富士大宮司館の歴史の中でも最後のほんの10年ほどのことです。つまり、この遺跡については、「大宮城跡」の名で呼ぶよりも、当時の政治・経済の中枢であった国人領主の居館としての「元富士大宮司館跡」の名を使うほうが適切であるといえるわけです

これについて私は、かなり奇妙な説明だと思いました。皆さんも一緒に考えてみましょう。それほど難しい話ではありませんから。

上にある「富士氏が治めていたこの居館」とは、以下の文書で確認される「富士大宮司館」「大宮司館」のことを指しています。では、その年と内容を確認してみましょう。

宛所内容
元弘3年(1333)9月3日富士大宮司館後醍醐天皇綸旨。駿河国下嶋郷の地頭職を富士浅間宮に寄進
建武元年(1334)9月8日大宮司館後醍醐天皇綸旨。駿河国富士郡富士上方を富士浅間宮に寄進

実は「大宮司館」という文言は、「1333年」・「1334年」という「たった2年」にのみ確認される用例なのです。つまり有史以来、このほんの僅かな期間の2例のみなのです。

そして何世紀も時代は過ぎて永禄4年(1561)7月20日、先にも出てきました今川氏真により富士信忠が大宮城の城代に任命されます。その後「大宮城」の存在が文書上で確認されるようになります。そこで

この「大宮司館」と「大宮城」はおそらく一緒の場所だろう…いや、一緒でしょ!

としたのが富士宮市教育委員会です。あまりにも大胆な推察に驚かされるところですが、なんと発掘調査の報告書にも『元富士大宮司館跡』という名称を用いてしまいます。ちょっと異常とも思える行動です。この両者を直接的に結びつけるものは、実は全く無いのですから。例えば今川氏が「大宮司館を改修せよ」と命じた古文書があるわけでもない。

大宮城跡からは祭祀・儀式に用いられたと推察される遺物が発掘されており、富士浅間宮に関係すると考えられます。特にその最高権力者である富士大宮司は何らかの形で関係していると考えられますが、「=後醍醐天皇綸旨に見える館」という帰結にはなり得ません。

そもそも同地かどうかも分からず、また綸旨のみでしか確認されない用語なので何を指しているのかも分からない。普通に富士浅間宮の中の一施設を指しているとも考えられる。後醍醐天皇綸旨は全国に渡ってかなりの量が発給されたことから、必ずしも当地に通じているとも思えず、富士大宮司が宛所であるということを伝えるための造語とも考えられる。

そして私は、実際に『元富士大宮司館跡』を手に取り読んでみました。そこには、執筆者の1人から以下のような意見も示されていました。

富士氏の居館であったのでは無いかという大前提のもとに考察をすすめているのであるが、このことに対して若干の疑問を提起するところである(若林淳之氏執筆箇所)

このように述べながらも、富士氏の居館であったという説を一応は採っています。そしてこの綸旨が発給された当時居住していた富士氏の人物の比定作業を行っています。しかし「発掘担当者の皆さんと若干見解の相違するところがあるのであるが」とも述べ、富士氏の系図に習った説を取る発掘担当者とは意見を異にする立場を取っています。

実は世の論考では、これ(大宮城の前身は大宮司館であるという説)を素直に受け入れているものはほぼ「皆無」といって良い状況です。ここで私は

富士宮市はちょっと変わっている

と思うようになりました。そして幼少の頃読んでいた富士宮市の無料の冊子(遺跡)ですら疑わしい存在のように感じてしまいました。確証はないですが、同一人物によると思しき状況であったからです(若林氏ではなく「元富士大宮司館」という呼称を提唱した人物ということ)。

ここから考古学に対してひどく距離を置くようになりました。そして「外」の見識に触れておく必要性に駆られました。ちなみに「大宮城と富士氏展」が催された2000年といえば、「旧石器捏造事件」の発覚年でもあります。何となく、悪い慣例が中世にも当てはめられてしまった…そんな感覚を覚えてしまうものです。

そして時は過ぎ2014年のこと、新たな発掘調査の報告書でも『元富士大宮司館跡Ⅱ』という名が採用されました。私はこの時、腰が抜けてしまいました。またこれは、富士宮市民が「大宮城」を知らない理由の1つであるとも言えるでしょう。明確に関係していると思います。

そもそもですが、少なくとも最新の状態は「大宮城」であったわけなので、「富士大宮司館跡」ではないわけです整合性を求めるために「元」をつけたわけですが、あまりにも常識から外れた呼称であることは言うまでもありません。結局、報告書のタイトルだけでは"何の跡地"かが分からないのですから。

これがどれくらいおかしなことか、考えてみましょう。例えば「サークルK」は親会社の統合で「ファミリーマート」になりましたが、その後閉店した例もあると思います。とあるファミリーマート跡地をいわば

元サークルK跡

と言い、しかも「実際にサークルKだったのかは不明」というのと同じです。「ファミリーマートであったという確実性」を無視する必要性が無いというわけですね。

このテーマは子供たちも一緒に考えてみると良いかもしれません。少なくとも「大宮司館」と「大宮城」は直接結び付けられる材料がないため、断定できる性質のものではないです。博物館はこの大胆な推察に対して協調することを、子どもたちに「強要」しないで欲しい。あくまでも、考え方の1つとして存在すると。博物館は洗脳装置ではないのですからね。

以下、意見になります。

【上野】



デジャブといいますか…「郷土史博物館構想地域説明会の質疑応答に対する意見、西・柚野公民館編」の「柚野公民館」の例と同じですね。これ、結構恐ろしいことを言っているんですよね。つまり文化課は

「博物館」の他に大鹿窪遺跡には「ガイダンス施設」の建設を検討し、千居遺跡を使ってもう1つ「博物館」を作ることを考えている

ということになるわけですから。つまりこんなことをやっていたら、22億どころじゃないということになる訳です。富士宮市の悪いところがすべて出た…そんな感じです。「富士宮市立郷土史博物館基本構想を独自に模索してみる」で述べているように"考古学への偏り"があまりにも分かりやすい形で出ているんですよね。

勘の鋭い人なら分かると思います。上で若林氏(故人)が「発掘担当者の皆さんと若干見解の相違するところがあるのであるが」とある「発掘担当者」は、おそらく考古学が専攻でしょう(若林氏は中世史です)。そして大鹿窪遺跡と千居遺跡に施設を建設することを発案したのも、おそらく考古学が専攻の人でしょう。そして『元富士大宮司館跡』という呼称を推し進めたのも、やはり考古学が専攻の人でしょう。富士宮市はなんだかオモチャにされているような気がしてなりません。

大鹿窪遺跡は世界文化遺産「富士山」の「構成資産」入りを最後まで検討された史跡である。その価値は誰しもが感じるところである。しかしその犠牲として「中世・近世の軽視」とも言うべき状況下で数十年と放置され、富士宮市は多くの機会を失った。本当に悲しいことである。計り知れない損失の上で同じ轍を踏む…重ね重ね悲しいことです。




私が危惧しているのは、学芸員の中で上のような議論にならないことです。なっているのかもしれませんが。




もっと回答を頑張らないと。この方は財政面からの回答も期待しているわけで。回答者はもっと説得力のある回答をしなければなりません。



上野



ここに「富士宮市には高すぎる」とありますが、それが本当に正しい感覚なのかを考えてみる必要性があると思います。自身の方に感覚のズレがあるという可能性を "万が一にも疑わない"という方でなければ、再考の余地があるとは思いませんか。


【きらら】

きらら


大鹿窪自体が、交通の便が悪いです。大鹿窪を「交通の便が良い」と捉える人はあまり居ないと思います。


  • 参考文献
  1. 富士宮市教育委員会(2000), 『元富士大宮司館跡』
  2. 富士宮市教育委員会(2014),『元富士大宮司館跡Ⅱ』

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